第20話 「ただいま、エニ」
本日もよろしくお願いします。
どれくらい経ったんだろう。
リーナとミレイが魔物の鱗を剥ぎ終え、その死体を燃やし終えたころには空がオレンジ色に染まっていた。
焚き火の明かりが、ちらちらと揺れる。魔物の焦げる匂いが漂うけれど、そんなこと、どうでもよかった。
あたしはずっと、とーこの手を握りしめていた。
「……まだ、起きないわね~」
ぽつりとリーナが呟く。
あたしはうなずくこともできず、ただとーこの寝顔を見つめた。
彼女の呼吸は穏やかで、さっきよりも 少しだけ顔色が良くなっている。
それでも――目を開けてくれない。
(大丈夫、だよね……?)
ミレイは「魔力欠乏症」だって言ってた。時間が経てば回復すると。
頭では分かってる。でも――もし、このまま目を覚まさなかったら?
もし、魔力だけじゃなくて別の何かが……?
不安が、喉の奥をじわりと締めつける。
気づけば、心臓がどくん、どくんと早鐘を打っていた。
「……エニ」
ミレイがそっと声をかけてきた。
「ずっと手を握ってたのね」
言われて、あたしはとーこの手を見下ろした。
気づけば、自分の指がぎゅっと強く絡んでいた。
「うん……」
とーこが目を覚まさないのが怖かった。
ひとりに戻るのが怖かった。
だから、こうして繋ぎ続けていた。
「少し、休んだら?」
「……いや」
あたしは首を横に振る。
離したくなかった。
とーこが戻ってきたとき、最初に目に映るのが自分じゃなかったら――そんなの、嫌だ。
「そう……」
ミレイは小さく微笑んだ。
「じゃあ、そばにいてあげて」
リーナは何も言わず、焚き火に木をくべる。
ぱち、ぱち、と静かに火の弾ける音が、夕暮れの空気に溶けた。
「……とーこ」
いつものように、撫でてくれていいんだよ。
甘い声で「大丈夫だって」って笑ってくれたら、すぐにでも安心できるのに。
でも、彼女は何も言わない。
まるで、遠いどこかに行っちゃったみたいに。
その不安に押しつぶされそうで、あたしはそっと耳を伏せた。
震える指先で、とーこの頬に触れる。
冷たくて、でもほんの少しだけ温かさが戻ってきている気がした。
「……とーこ、起きて」
震えそうになる声を必死で押し殺しながら、彼女の髪をそっと撫でた。
耳の奥で血の音が鳴る。
心臓がぎゅっと締め付けられるみたいに痛い。
――早く、目を覚まして。
森は静まり返っていた。
□□□
草の匂いが、風に乗って流れていく。
どこまでも続く草原。空は青く、雲ひとつない。
風が吹くたびに、草がさわさわと揺れ、柔らかな波のように広がっていく。
ここは……どこだろう。
見覚えがあるような、ないような。
知っているはずなのに、どうしても思い出せない場所。
足元の草をそっと踏みしめる。
柔らかく、心地よい感触。
視線を上げると、銀色の髪が風にたなびいていた。
エニだ。
彼女は草原の中で膝を抱え、どこか遠くを見つめている。
静かに風を感じながら、瞳を細めている。
「……エニ?」
呼びかけると、彼女がゆっくりとこちらを向いた。
「とーこ……」
彼女の声はどこか遠く、掠れるような響きを持っていた。
何かを言いたそうに口を開くけれど、その言葉は風にかき消される。
違和感が、胸の奥をかすめる。
どうしてだろう。
この景色は穏やかで、温かくて、心が安らぐはずなのに――何かが違う。
何かが、おかしい。
――何か、大事なことを、忘れている。
ざわ……
足元の草が揺れ、視界がわずかに歪んだ。
次の瞬間、空がぐにゃりと波打ち、色を失い始める。
まるで、水面に映った景色が乱れるように、世界が崩れていく。
「……とーこ」
エニの声が、今度ははっきりと聞こえた。
私はその声に引かれるように、もう一度彼女を見つめた。
エニの瞳が、不安そうに揺れている。
――ああ、そうだ。
私は、エニのそばにいなきゃいけない。
彼女が私を呼んでいる。
現実に、戻らなくちゃ。
眩しい光が、視界を覆う。
「……ん」
目を開けると、エニの顔がすぐそばにあった。涙を浮かべ、心配そうに私を見つめている。
「とーこ!」
「うぎゃっ」
彼女が泣きそうな声で叫びながら私に抱きついてくる。その体温と、千切れそうなくらいに揺れている尻尾の柔らかさが、これが夢ではないことを教えてくれた。
「……ごめん、エニ。心配かけたね」
私は力を振り絞って彼女の背中を軽く叩く。
自分の体が思ったより重く感じるのは、魔力を使い切ったせいか、いや、エニが私に乗っかってるからだわ。
「ばか……!」
エニの声が震えていた。
ふわりと、温かな耳が私の頬を掠める。ふにふにした感触が、私の顔に押し付けられていた。
――あ、エニの耳だ。
私の胸元に顔を擦り付けながら、彼女は小さく鼻を啜っている。
「エニ〜、服に鼻水ついちゃう~」
その姿が、あまりに可愛くて、あまりに愛しくて。
私は思わず、彼女の頭をそっと撫でた。
耳をペタンと倒して、頭を撫でられるのを待ってるエニ。そのしぐさに、私は心の底から安堵した。
――ああ、よかった。
ちゃんと、私は帰ってこれたんだ。エニの隣に。
胸元で震えるエニの背中をそっと撫でながら、私はふっと笑う。
エニが顔を上げた。涙の跡が残る瞳がまっすぐ私を見つめる。
「……おかえり」
小さな声だった。でも、その一言に、どれだけの想いが詰まっているのか、すぐに分かった。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ただいま、エニ」
そう言って、私はもう一度、彼女の頭を優しく撫でた。
読んでくださりありがとうございます。
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とーこの夢静かで穏やかだけど、どこか不安を感じるような演出にしてみた。
私個人的に雲ひとつ無い空ってちょっと不安になるから。