後編
それが一転して、冷や水を浴びせられたかのように血の気が引いたのは、相部屋に戻ってすぐのこと。
「な、い……?」
入浴セットをしまおうと鞄の中を検めて、財布が消えていることに気付いた。
慌てて鞄の中をひっくり返し、店を広げる。
「イスト、どうした?」
「ない、財布がない!」
悲鳴のようなイストの言葉に、なんだなんだと遠巻きに見ていた他の宿泊客も仰天した。
「ええ?」
「失くしたのか?」
「どんなやつだ?」
わらわらと人が集まってくるが、その全員がイストと一定の距離を置いている。不用意に近付いて鞄に触れ、そこから犯人だといちゃもんをつけられるのを恐れている。
「革のやつです。これくらいの大きさで、トカゲの印が付いた」
イストが財布の特徴を上げるが、誰もが顔を見合わせて首をひねる。
「見たか?」
「いんや?」
「どっかに落としたとか?」
誰かの問いにイストは首を振る。
「そんなことありません。風呂に入る直前まで持っていたんですから」
「だとすると、その間に盗まれたってことか……」
だが、クラースが荷物番をしてくれている以上、誰かが盗んだというのは考えられない。
「おーい、ガンダンさん呼んできたぞ!」
そこへ派手な音を立ててドアが開かれる。引っ張られてきたらしいガンダンが面倒くさそうに部屋を見回した。
「……状況は?」
「あの子の財布が盗まれたんだって!」
「……ふむ」
ガンダンはずかずかとイストの前にやってくると、目の前にどっかと腰を下ろした。
「財布を最後に見たのは?」
「ふ、風呂に入る前」
「どこにしまった?」
「鞄の中」
「誰かが見てくれていた?」
「はい。クラースさんが」
イストが答えると、ガンダンはじろりとクラースを見やる。
「待て待て待て! 誓って俺じゃねえ!」
睨まれたクラースが弁明する。
「荷物はちゃんと見ていたさ! 誓って手を出してねえ! なんなら俺の荷物を検めるか!?」
「……そうさせてもらおう。混ざると困るから、あんたの荷物をいったんしまってくれ」
「は、はい」
イストが広げていた荷物をしまい、代わりにクラースの荷物が広げられる。
だが、あの財布はどこにもなかった。
「上げ底でもないか……」
「だから言ったろ!?」
「でも、じゃあどうやって財布を無くしたってんだ?」
誰かが言い、周囲も頷く。
人の目がある中、財布をスれるのは盗人にとって朝飯前。しかし見張りがいる中で手を出すにはリスクが大きすぎる。
今ならわかる。財布を肌身離さず持っていろ、は言葉通りの意味だったと。
あの中にはイストの全財産が入っている。このままではトモロレに着くこともできない。
「あー、その、なんだ」
クラースが気まずそうにイストの肩を叩く。
「すまない。俺のミスだ。こんなことになるとは思わなかった」
「いえ……」
ぱんぱん、とガンダンが手を叩く。
「念のため、全員の荷物を検める。それでも見つからなかったら、さすがに諦めることだな」
「はい」
「そう気を落とすなよ」
スニフリがイストの肩に腕を回す。
「なんならウチで働いてこいつに返すってのも手だからよ」
「ん? なんだ、知り合いだったのか?」
「いや、あの財布を作った人なんです、スニフリさん」
「はぁー、そうだったのか」
クラースが納得する横で、スニフリが続ける。
「しばらくタダ働きでアンタに送金して、それが終わったら資金を稼いで独立……ってのも悪くないと思うぜ?」
それもいいかもしれない。文無しの状態で一から住み込みの仕事を探すなんてハードルが高すぎる。ある程度の生活補助制度はあるだろうけど、それも一時的だ。
だが。
「スニフリさんを頼るのは、最終手段にさせてください」
このまま黙って諦められるほど、あの財布は安いものじゃない。
あれはイストが初めて「欲しい」と思えたもの。そして手放したくないと思ったものだ。あれほどまでに強い執着を抱いたものを諦めて、ほいほい雑用係に戻りたくなかった。
「そう固いこと言うなって!」
スニフリの回した腕に力がこもり、イストの首が締まる。
「財布に関しては残念だけど、俺がまた作ってやるからさ。な?」
「そのことだが」
ガンダンが割って入った。
「失くした財布を作ったっていうのはあんたか?」
「おう」
頷いたスニフリを上から下まで見つめたガンダンは、「ふむ」と唸った。
「そうか。あのヒトはうちの常連なんだが」
「「え」」
スニフリとイストの声が被った。
首を軽く絞められたまま、イストはスニフリと名乗ったハイイロトカゲの男を見上げる。
「とてもシャイで、静かな場所を好む。気を許しているのはうちのジャネットくらいだ。彼女がこんな大男だったなんて、俺は知らないな」
じろりと。
身長差で自然と睨み上げる形になったが、それを差し引いてもガンダンの視線は氷よりも冷たかった。
首に腕を回されたまま、イストの思考は回転する。
スニフリという財布の作り手。その人物とガンダンは顔見知りだった。
彼曰く、とてもシャイな女性。
素性を偽ったこのハイイロトカゲの男は何者だ?
あの名刺は盗んだものなのか? だから「妻が作った」と嘘をついた?
もしも妻が作り手なら、そもそも嘘をつく必要がない。
嘘をつく必要。盗まれるはずのない環境。
――協力者がいる。
「クラースさん!?」
「全員そこを――!」
イストが名を呼ぶのと、クラースがナイフを手に叫ぶのと、ガンダンが動いたのは同時だった。
「っふ!」
鋭い蹴りがクラースの手首を打ち、衝撃に痺れた手からナイフが落ちる。クラースは痛みに顔をしかめながらも距離を取ろうとする。が、それよりも速くガンダンの掌底がクラースの腹にめり込んだ。
「がっ……!」
受け身も取れないまま吹っ飛ばされ、クラースは壁に叩きつけられる。そのまま気を失ってしまったのか、ピクリとも動かなくなってしまった。
「くそっ!」
舌打ちを一つしたハイイロトカゲの男が、イストを抱えたまま飛び出す。後ろから鋭い笛の音が三つ響いた。
首を絞められるような形で引きずられるイストは、明日の仕込みをしていたらしいジャネットが目を見開いて固まっているのを見た。
乱暴にドアを開けて外へ飛び出す。すっかり日の沈んだ外は真っ暗闇で、厚い雲に覆われて星も月も見えなかった。
「ったく、しくじりやがって……!」
大通りに向けて走りながら、男がひとりごちる。計画が破綻したらしいことはイストにもわかった。
だが、このままどこへ連れていかれるのかわからなかった。相手の素性がわからず、きな臭い雰囲気を感じ取った今、理解できるのはロクな目に遭わないことだけだった。
抵抗しようにも、相手はトカゲ。人間と違って滑らかな皮膚と鋭い爪を持っている。丸腰のイストには抗う手段がなかった。
このまま死ぬまでどこかで働かされるのか。それとも臓器を摘出され、畑の肥料や魚の餌にされるのか。
――ああ、けど。役立たずだった自分がそんな最期を迎えられるなら、悪くないのかもしれない。
体から力が抜け、もう何も考えないようにと目を閉じて――
「ふげっ!?」
男の奇妙な悲鳴と、地面に叩きつけられる衝撃を受けた。
「……え?」
おそるおそる目を開けると、視界に映ったのはふわふわした何か。
その下から覗くのは、灰色の趾。イストの腕よりも太く、前後に大きく開いたそれが、イストと男をまとめて地面に縫い付けている。
「おぉーぅい、ガンダン。捕まえたぞぉー」
地鳴りかと思うほど低く、背筋が伸びるような威圧感のある声が降ってくる。
「助かった、オブホフ!」
どやどやと足音が響いてきて、ガンダンの声が聞こえてきた。
ふわふわした何かが、細い足と一緒に横へ退く。すぐさまガンダンが男を代わりに取り押さえ、他の客たちがイストを助け起こした。
「自警団を呼んできてくれ」
「おう!」
ガンダンの要請に客の一人が応じ、大通りに向けて駆けていく。
呆然と見上げれば、木の皮色をしたコノハズクが隣に立っていた。
コノハズクは神経質そうに嘴で羽を繕うと、紫がかった黒目を細めた。
「久しぶりに警笛が鳴ったと思ったら……。人攫いかぁー?」
「そんなところだろう」
男を縛り上げたガンダンが息をつく。
「新人狩りがまだ横行しているとは聞いていたが……。こいつらは末端だろう。明日の朝一でハヤブサ便を出す必要があるな」
「あ~っそ」
興味なさそうに呟いて、コノハズク――オブホフは体を震わせた。
「じゃ、あとはよろしく」
「ああ」
オブホフがはばたくと、風圧でイストを含めた何人かが倒れた。起き上がって見た後には、生い茂る葉の中へ吸い込まれていくような後ろ姿しか映っていなかった。
「あ、あの」
イストがおずおずと声を上げる。
「クラース、さんは?」
「客間で転がしてる」
客の何人かが見張りを買って出てくれたおかげで、こうして追いかけることが出来たのだそうだ。
イストを助け起こしてくれた客が、災難だったな、と背中をさする。
クラースとハイイロトカゲの男がグルだったこともショックだし、新人狩りと呼ばれる誘拐に巻き込まれるところだったのもショックだ。だがそれ以上に、財布が結局行方知れずというのが一番のショックだった。
一文無しのままだが、それは稼げばどうにかなる。だが、財布だけは、同じものと出会えるかわからない。
自分でもびっくりするくらい落ち込んでいる横で、ガンダンが男の荷物を検める。
「おい」
ガンダンに呼びかけられ、イストは伏せていた顔をのろのろと上げる。
「財布ってこれか?」
その言葉と共に差し出されたのは、手の平よりも少し大きめの革財布。明るいところできちんと確認しないといけないが、丹色の石の飾り紐は見間違えようがなかった。
「……たぶん」
財布を受け取り、中身を確認する。ガンダンの下でハイイロトカゲの男が喚いていたが、口に手拭いをねじ込まれていた。
財布を開けると、空っぽになっていた。
予想はしていた。けれど、やはりショックは隠せなかった。
「ガンダンさーん!!」
大通りの方から声がする。松明を持った一団がこちらへやってくる。
自警団が到着した。
◆ ◆ ◆
暗い中を行き来させるのは忍びないから、というジャネットの提案で、“雨の鳩バス亭”は臨時の取調室になった。
幸いにも最上階の相部屋が二つとも空いている。いささか緊張感は欠けるものの、そこに犯人二人をそれぞれ押し込めた。
自警団が手分けして事情聴取を行った結果、被害者のイストと目撃者たちの証言は一致した。衆人環視の中での犯行はリスクが大きいものの、数を味方にできれば潔白のまま本拠地に戻れる。
実際、ガンダンがスニフリの素性を知らなければ、全員がクラースたちに騙されていたのだ。
「スニフリさんを騙るなんて、なんて命知らずな……!」
事の顛末を聞いたジャネットが苛立たし気に包丁を振るう。明日の食事の下ごしらえらしいが、ニンジンを千切りにしてどうするつもりなのだろうか。
「ジャネット、明日の献立はニンジンの千切りか?」
同じことを思っていたガンダンが横から口を挟む。
「…………」
ぴたりと動きを止めたジャネットは、糸のように細くなったニンジンたちをざるに移すと、今度はキャベツを千切りにし始めた。
「ジャネット?」
「ピカタに混ぜれば美味しいわ!」
かぶせ気味にそう返されると、ガンダンも何も言えなくなる。キッチンはジャネットの独壇場だ。そういうことにしておこう。
「あの」
イストはおそるおそる訊ねた。
「スニフリさん……本物のスニフリさんを、ご存じなんですか?」
「ええ」
キャベツの千切りを量産しながらジャネットが答えた。
「常連よ。彼女、一所に留まらないの」
「へえ」
「各地に拠点があってね、いい素材とアイデアが見つかったら、そこで作品を作るんですって。ちなみにここもそうよ」
「へえ……」
なるほど、クラースたちはそうと知らずにスニフリの名を利用したのか。だとすれば、あの名刺もどこかで拾ったか盗んで手に入れたのだろう。
「……知らないの?」
と、千切りする手を止めたジャネットが訝しげに振り返る。
「なにが、ですか?」
「流浪の剥ぎ師、って言ったら有名なんだけど」
「ブッ!!」
横で聞いていた別の客が、飲んでいた水を盛大に噴き出した。
「わっ、大丈夫ですか?」
「はっ、るろっ……はああっ!?」
心配するジャネットとイストを尻目に、客は目を剥いた。というか、よく見ると他の客も目を大きく見開いている。
「えっ!? あの神出鬼没の剥ぎ師ってそんな名前だったの!?」
「……し、知ってるんですか?」
「むしろ知らないの!?」
ぐわっと身を乗り出され、危うくイストは椅子から転げ落ちそうになった。
「種族を問わず、良さそうな素材を見つけたら地の果てまで追いかけるサイコパスってことで有名なんだよ! 死体どころか生きている奴からも皮を剥ぐっていうから気を付けろって言われなかった!?」
「ぜ、全然……」
そんな話、初耳だ。故郷の人らも知らなかったか、あえて教えなかったのか。
とにかく、そんなヤバい人が作った財布と知っていたら買わなかった。というか、持ち歩くことにも抵抗が出てきている。
「あのー」
この財布どうしよう、と真っ青になっているイストに、新しく水を注いだコップを差し出しながらジャネットが言う。
「その話、半分嘘よ?」
「え?」
客の目がジャネットに集中する。
「死体の皮を剥ぐっていうのは間違ってないわよ。でも生きている人から剥ぐなんて出来ないって、本人が言ってたの」
「マジで……?」
客の問いかけにジャネットが頷く。
「良さげな素材っていうのも、主に木の皮のことを言うのよ。たまに動物のが混ざるらしいけど、自分が扱えるかどうかを見極めるために行くらしいから」
つまり、フットワークの軽さに尾ひれがついて広まったということか。
「嘘だと思うなら、尋ねてみれば? スーニャっていうトモロレの近くの街に、メイン事務所
があるから」
住所も嘘ではなかったらしい。鞄の中に残っていた名刺を見る。
いったいどんな人物なのか。悩みも疑問も尽きないが、ひとまずの方針は定まった。
そして当面は資金繰りに喘ぐことになるだろう。
「ところで……」
「おい、イストって誰だ?」
話を切り出そうとしたイストの声に、誰かの声が被った。
「はい、俺です」
そう言って手を挙げると、自警団の一人が大きく膨らんだ布袋を手にやって来た。
「確認なんだが、財布を盗まれて、その中身がなくなったっていうのは本当なんだな?」
「はい」
再三確認したし、された。全財産の約三十万五千イェルは、見事に消えていた。
「金額は覚えているか?」
「だいたい」
「いくらだ」
「三十万五千です」
「うし、ちと待ってろ」
そう言って自警団が布袋の口を広げ、そこからお金を取り出して数える。
「三十万と五千イェルだな。確認してくれ」
「えっ」
目の前にぽんと置かれたのは、三十万五千イェル分のお金。
「な、なんで?」
嘘をついている可能性だってあるのに、なぜそう簡単にお金を渡せるのか。そもそも、そのお金はどこから出ているのか。
盗まれたお金は返ってこない。常識ではないか。
「なんで?」
だが問われた自警団の方も、きょとんとした顔でイストを凝視した。
「なんでって、そういう決まりだからだが」
「え……?」
「金銭関係の現行犯を捕まえた場合、被害者に全額返すんだよ」
盗った、盗らないの争いはどこにでも付きまとう。とくに通り道のクラフトロードでは犯人が逃げやすい。そのため、犯人を現行犯逮捕できた場合、被害者に最大限の補償をするよう取り決めがされていた。
もちろん、取り逃がしてしまったら泣き寝入りするしかない。だから今回、イストはとても
運が良かったのだ。
「けど」
「いいからもらっとけって!」
隣に座っていた客がイストの背中を強く叩いた。強すぎてイストがむせた。
「旅はなにかと入用だからな。むしろもっとふっかけたっていいんだぞ?」
「いや、それは……」
さすがに人としてどうかと思う。
「いい子ちゃんだなー」
と笑う客らを尻目に、イストは目の前のお金を渋々財布に移す。
とんでもなくケチがついた気がした。早めにスーニャへ行き、スニフリの事務所を訪ねる必要がありそうだ。
「ジャネット、ガンダン」
二階の客室から自警団が下りてきた。
「部屋を提供してくれて感謝する。このままこいつらを引っ張っていく」
「そうか」
「お気をつけて」
頷いたガンダンとジャネットに会釈を返し、自警団はクラースたちを引っ張って“雨の鳩バス亭”を後にした。
その直前、縄をかけられ連行されていくクラースがイストを睨んだような気がした。
だが、睨みたいのはイストの方だった。
世の中のすべてが善人だとは思っていない。しかし、信用を逆手に取った犯行はあまりにも許せなかった。
叫び出したい、暴れたい衝動に駆られながらも、それをどうにか押し殺す。
「みなさん」
調理の手を止めたジャネットが手を叩いた。
「ご協力ありがとうございました。ささやかですが、こちらをサービスさせてください」
そう言ってガンダンと共にイストたちの前へ差し出したのは、牛乳で満たされた一杯のコップ。
訝りながらも一口飲んでみて、目を見開いた。
「あっま!」
砂糖を何杯入れたのか、いやそれよりも練乳だろうか。こってりとしているのにクドくない甘さが口の中に広がった。
「牛乳に練乳と蜂蜜を混ぜたんです。美味しいでしょ?」
「ええ、まあ……」
予想外の甘さに驚いたものの、慣れてしまえばどうということはない。中にはもう少し甘みが欲しいと、蜂蜜の追加を頼む客もいた。
「こうした夜は、冷たくて甘いものを飲むと、すこし落ち着くんですよ」
ジャネットがこっそりと、イストにだけ聞こえるように囁く。思わず顔を上げれば、ジャネットは小さくウィンクをして蜂蜜を回収しに行った。
気を遣わせてしまっただろうか。そう思いながら、この甘い牛乳のおかげで少し頭が冷静になったのも事実だ。
クラースたちがなぜこんな行動に出たのか、イストにはわからない。ただ、世の中には息をするように罪を犯す輩がいるとわかった。それだけでも収穫だろう。
「ごちそうさまでした」
空になったグラスをカウンターに乗せる。
「お粗末様でした」
ジャネットも会釈をしてグラスを回収する。
口をすすぎ、歯を磨き、大部屋に敷き詰められた布団の一角で毛布にくるまる。
財布を入れた鞄をクッションのように抱きかかえ、イストはそのまま眠りについた。
外では、木を包み込むように雨音が降り注いでいた。
◆ ◆ ◆
翌日は予報通り雨が降っていた。
本来、チェックアウトは十時ごろなのだが、特別に雨が止むまで延期して良いとジャネットが言ってくれたおかげで、急ぎの旅ではない人たちがロビーでのんびりとくつろいでいる。
イストも持て余した時間を使って、カウンターで地図を広げていた。
トモロレ近郊のスーニャという街がどこにあるのか、ここからどう行けばいいのかを考えるには最適だった。
ちなみに言っておくと、朝食も絶品だった。朝からピカタは重いかなと思ったが、そんなことはなかった。動けなくなると困るので、お代わりの自制に必死になるほどだった。
客たちが思い思いに雨が止むのを待っていると、がちゃり、とドアが開いた。
「いらっ……おかえりー」
後片付けをしていたジャネットが顔を上げると、朝から出かけていたガンダンが帰ってきた。
「お疲れさまー」
「ん」
短く返事をして、ガンダンは着ていた雨合羽をフックに掛ける。
昨夜の一件について、自警団から聞きたいことがあると招集を受けていたらしい。被害者のイストも数日は事情聴取で滞在せざるを得ないと思っていたが、旅人に手間を取らせるわけにはいかないらしく、招集されなかった。その分、昨日の聴取は一番長引いたのだが。
「空が少し明るくなっていた。あと一時間もすれば晴れるだろう」
ぼそりと零されたガンダンの呟きを拾った一部の客から歓声が上がる。そこから歓声は伝播していき、いつ晴れるかを見るために窓に張り付く者も出た。
イストも窓の方を見たが、生憎と先客で埋まっていて、外の方はうかがい知れない。仕方なく地図に目を落とし、トモロレから少し離れた場所に、ようやくスーニャの文字を見つけた。
城壁に囲まれ、規則正しい碁盤の目で仕切られたトモロレと違い、スーニャは面積の半分を森で占められた小さな村だった。街道からも大きく外れてはいないので、村で尋ねればすぐにわかりそうだ。
財布は防寒用にと思っていたベストの内ポケットにしまった。これの上にコートを羽織るので、スられる心配もない。
雨のせいで出立が少し遅れてしまったから、早めに次の宿を確保しておく必要もある。幸いにも次の宿場町は近いので、いつもより時間を気にしながら移動しよう。
頭の中で色々と組み立てていると、窓の外を見ていた客から「晴れた!」と歓声が上がった。
それを合図に、次々と客がチェックアウトしていく。ガンダンがまず受付に立ち、下ごしらえの区切りがついたジャネットもそこに加わる。二人で素早く客をさばき、ついにイストの番になる。
「一泊二食なので、五千八百イェンになります」
「はい」
財布を取り出し、代金を支払う。
「よい旅を!」
お釣りと共にそう言われ、一瞬ドキリとする。
今までも宿でそう言われたことはある。
よくある旅の一幕。
だけど、イストにはこう聞こえた。
良い旅路を送れますように。
都合のいい解釈だとわかっている。
けれど、イストはそう思いたかった。
「はい」
お釣りを受け取り、緊張で少し引き攣った笑顔で返し、若草色のコートを羽織る。
宿を出ると、すっかり高く昇った太陽が、雨露を眩しいくらいに輝かせていた。
「っし、行くか」
夢のない旅だけれど、目的はある。
イストはスーニャに向けて歩き出した。