前編
イストはティティル出身の旅人だった。
ティティルには――いやクラフトロードでトモロレと繋がっているそれぞれの国では、成人を迎えた子どもたちをトモロレへ送り出す習慣がある。
トモロレはそれぞれの国の文化や技術が一堂に会する場所。そこで様々なものに触れ、知識と経験を積ませるのが目的だ。
中には他国の文化を気に入りそちらへ移住することもあるが、それも旅の果てに見出した道の一つ。
それぞれの国がそれぞれの技術と文化に誇りを持っているから、移民は歓迎だし、元気でやっているならそれでいいのだ。
イストは先日誕生日を迎え、故郷を出た。この時ちょうど同じタイミングで出発する先輩がいたから、トモロレまでの道中を共にさせてもらった。
最低限の着替えを詰めたリュック。財布と、日よけの帽子。そしてティティル出身であることを示す、若草色のコート。
国によって、出身者を示すコートの色は異なる。それをダサいと評する者もいれば、誇りだと言う者もいる。
少なくともイストにとって、この若草色のコートは呪いだった。
自分がどこの出身者であるのかを示す、錨や楔とでも言おうか。最初の旅路にだけ義務付けられるこの装束が、イストはなんとなく嫌だった。
旅は順調だった。周囲から耳にタコができるほど聞かされた旅の心得はなんとなく活かされている。
知らない人の口車には乗るな、新人狩りに気をつけろ、財布は肌身離さず持っていろ。そうした初歩的なものから、どこそこの店は危ないから行くな、と言った実用性のありそうなものまで、とにかく幅が広かった。
旅の先輩であるクラースは、無口だが頼りになる人だった。ブラックロードに点在する宿場町の中で、どんな店が使えるか。どんな店が危険なのか。食べ物屋の屋台に思わず釣られそうになるイストを引き戻し、宿でぼったくられそうになったら理詰めで応戦する。場数を踏んだクラースの姿は、故郷で散々高説を垂れていた大人たちよりも参考になった。
そうして故郷を旅立ってから三日が過ぎた日の夕方。
次の宿場町に辿り着いた二人は、この日の宿を考えていた。
路銀は多めに持っているため、多少お高めの宿でも問題はない。しかし新米旅人というのは格好の獲物である。やむにやまれぬ状況でもない限り、安宿、それもセキュリティがそれなり
に良いところを選びたかった。
もっとも、そういうところは早々に埋まってしまうもの。案の定満室ですと断られてしまい、他の宿を調べようと思っていたところだった。
「“雨の鳩バス亭”でーす! 気象予報フクロウ、オブホフの天気予報をお伝えしまーす!!」
「えっ」
夕暮れの大通りに響いた声に、クラースが反応した。
「どうかしま――」
「しっ」
訊ねようとしたイストの口をクラースが塞ぐ。
「今夜は一晩中晴れまーす! ただし、夜明けごろから雨が降るので、お急ぎの方はご注意くださーい!」
声を張り上げているのは、まだ若い女性だった。やや小柄な体躯のどこからそんな声が出るのかというくらい、女性の声ははっきりとよく通る。
それを聞いた一部の行商人が弁当屋に殺到した。晴れているうちに距離を稼ごうという魂胆だろう。人込みに巻き込まれる前に、二人はさっさと離れる。
「風はありませんし、雨脚も強くありません! でも、しっかり明日の午前中は降ると言います! 旅人さん、行商人の皆さんは雨にお気を付けくださーい!」
さらなる情報に、今度は雑貨屋に人が集まった。雨具を求める人でごった返し、店から嬉しい悲鳴が上がる。
「“雨の鳩バス亭”は、まだお部屋数に余裕がありまーす! ぜひ寄ってってくださーい!」
最後にそう言って、女性は深く礼をした。
大通りにまたざわめきが戻る。
「行くぞ」
「あっ、はい」
女性に向けてまっすぐ歩き始めたクラースの後をイストが追う。
「なあ、“雨の鳩バス亭”、まだ二名泊まれるか?」
「ええ」
干菓子売りの店の店主から何かを受け取っていた女性が、イストたちに向き直る。
「大部屋と相部屋がありますよ」
「大部屋。夕と朝の二食付きで」
「はい!」
頷いた女性は身を翻し、二人を案内する。
裏通りの細い路地を抜け、その先にあったのは一本の大木。どっしりと構えるその姿は、まるで王者のようで、しかし畏怖よりも安心感の方があった。傍を流れる川には魚の姿も見える。
「ただいまー!」
大木の根元にあるドアを開ければ、中をくりぬいて作った室内に通される。
「ご新規様二名、ごあんなーい!」
元気なジャネットの声に、中にいた人たちが反応する。
「おかえりー、ジャネットちゃん!」
「……ああ」
「ジャネットちゃん、お腹すいたー!」
「はーい、ちょっと待っててね!」
元気よく返す者、無愛想に返す者、料理を催促する者……。満席ではないがそこそこ埋まっているところをみると、どうやらここは隠れた名宿のようだ。
天井は高く、四十センチほどあるだろうか。背の高いトカゲやイモリでも頭をぶつける心配はなさそうだ。テーブル席をメインにしているが、カウンターでも十人ほど座れそうである。
キッチンは厨房とフロアが地続きになっている、いわゆるオープンキッチン仕様だ。料理を作っている様子が直にわかるというのは、料理を待つ身としてはありがたくもある。三つあるかまどの上にそれぞれ鍋やフライパンを置き、フル稼働して料理を作っているようだ。
少し気になったのは、厨房の一角でぼんやりとしている男だ。掃除番なのか、たまに鍋を回しているものの、その手つきは料理人のものとは言い難い。
乱雑に切られた薄墨色の髪に、同じく墨のような黒い目。右頬には大きな一筋の傷がある。ちょっと視線が動いただけでこちらが緊張するほどの眼力を備えていた。
食事の催促を受け流したジャネットが、くるりとイストたちを振り返る。
「すぐにご飯を用意するので、適当に座っていてくださいね。上着は壁のフックにひっかけてくれればいいですよ」
「わかりました」
クラースが頷き、イストもそれに倣う。
ジャネットは二人に一礼すると、すぐに厨房へ飛び込んでいった。
「ありがとう、ガンダン!」
「…………」
こくり、とガンダンと呼ばれた男が小さく頷く。彼からお玉を受け取ったジャネットが小皿にスープを垂らし、味見する。
いい具合だったのか、一つ頷くとてきぱきと食器を取り出しにかかる。それをガンダンが手伝い、二人で手分けして料理を盛り付けていく。
「イスト」
クラースに呼ばれ、イストはハッと我に返る。
「こっちにしよう」
そう言って連れてこられたのはカウンター席。テーブル席は三人以上のグループが使うのが暗黙のルール。イストも頷き、出入り口横のフックにコートを掛けた。
カウンター席には先客がいた。一人で先に呑んでいたらしい男は、一つ席を開けて座ったイストたちに声をかけた。
「よう、あんたら初めてか?」
「ええ」
クラースが頷く。
「ここはいいぞ! 安い上に料理が美味い! 中でも絶品なのはカレーだ!」
「カレー?」
思わずイストが声を上げた。
カレーと言えば、具材とスパイスを煮込んだ料理だ。宝飾の国ジェマインの郷土料理で、ジェマイン出身者がトモロレに持ち込んだことで周囲にも広がった。
しかし肝心のスパイスはジェマイン近郊でしか採れないものが多く、また栽培数が少ないために高値で取引される。豊穣の国と謳われるイリューガが、大量栽培を目指して奮闘中との話だ。
「雨の日限定ですよ」
器に料理を盛りながらジャネットが答える。
「初めて食べた時、すごく衝撃だったんです。でもスパイスが高いから、テンションが沈みがちな雨の日にみんなで食べて元気を出そうと思って」
なるほど。だとすると今日はカレーにはありつけなさそうだ。
「むしろ、雨の日ほどここって繁盛するよな」
男がカラカラと笑う。
「“雨の鳩バス亭”とはよく言ったもんだ! 名付け親に金一封!」
そう言って男が胸ポケットからバッと何かを――取り出さなかった。お札を持っているような手つきで厨房に突き出す。
「はい、まいどー!」
それをジャネットが仰々しく受け取る。
見ていた周囲の客からドッと笑いが起こった。どうやらここではよくある光景らしい。
「あの」
タイミングを見てクラースが声をかけた。
「先ほど、オブホフ氏の名で天気予報を伝えていましたが、あれは本当ですか?」
「はい」
「おうよ!」
ジャネットと男が同時に答えた。
「そこのガンダンがオブホフに勝ってな! 勝ったらこの樹に住まわせろって約束だったみたいでよ! へそ曲がりで天邪鬼なオブホフが負けたって聞いた時は大騒ぎだったぜ!」
「そ、そんなに?」
イストが誰にともなく訊くと、クラースが頷いた。
「天気を読むのが得意なコノハズクの中でも、的中率がほぼ百パーセントの天才だ。ただあまりにも気難しすぎる性格で、話すどころか近付くことすらできないことでも有名だったんだ。たまに好奇心旺盛な奴が近付いていって、八つ裂きにされかけたこともある」
「ひえっ」
オブホフがどんな人物か知らないが、近付いたって良いことがなさそうだ。イストだったら絶対に近付かない。
「なんなら上にいるぜ?」
「いっ!?」
あっけらかんと天井を指さした男の言葉に、イストは思わず引っ繰り返った。派手な音を立てて倒れたイストに、また店内が笑い声で満たされる。
「出た! “雨の鳩バス亭”名物『オブホフに怯えるご新規さん』!」
「大丈夫か?」
「は……はい」
クラースの助けを借りて起き上がり、椅子に座り直す。どうやらイストの反応は、ここではよくあることらしい。コノハズクに限らず、鳥類は人間にとって隣人であり脅威だ。平均身長十五センチの身では、あの鋭い爪やくちばしに襲われたらひとたまりもない。
「気にすんな! 俺も初めて来たときは引っ繰り返った!」
男が上機嫌に慰める。
おっかないと噂の人物(鳥物?)がすぐ上にいるとなれば、イストのように引っ繰り返るのも無理はなかった。
「しかし、そうですか、ここが……」
呆然と店内を見回すクラースの呟きに、イストも内心で同意する。
どうやって周囲から恐れられるオブホフに勝てたのかは、知りたいような知りたくないような。あの右頬の傷も戦った時にできたのだろうか。それを聞くだけの度胸はイストにはなかった。
「はい、おまちどーさま!」
ぼんやりしていると、目の前に深皿と木の椀が出された。
「今日のご飯は川魚とツワブキの煮つけ、それから具沢山のミソスープでーす! ご飯とスープはお代わり自由ですよー!」
待ってました! とお腹を空かせた旅人たちから喝采が上がる。
差し出された深皿を手元に持ってくると、艶のある茶色い液体の中に川魚の切り身とツワブキが浮いている。隣の木の椀の中には、キャベツやニンジンや肉団子が入っている。
体が資本の旅人や行商人たちは、必然的に食べる量も多くなる。それぞれの店で出されるスープは具沢山のものが多く、それがお代わり自由になるのは嬉しかった。
「イスト、冷めないうちに食べよう」
「はい」
クラースに促され、カトラリーボックスから箸を出す。
食前の祈りを捧げて、まずはミソスープから飲む。
「っ!」
美味い。
イストはあまり食に興味を持たないタイプだ。好き嫌いもほとんどないため、食べられて栄養が取れればそれでよかった。
だが今飲んだスープは、その思考をぶん殴ってきた。
強烈に味が濃いわけでも、逆に薄すぎるわけでもない。強いて言えば薄めの味付けだが、それを具材が補完する。
歯ごたえの残ったキャベツ、熱が入ってとろけるニンジン。玉ねぎとゴボウも芯を残しつつ柔らかく、豚ミンチの肉団子は口の中でほろりとほどけた。
なんだ。
これは一体、なんなのだろうか。
気付けばお椀の中は空になっていた。そのことにショックを受ける自分に愕然としつつ、イストは水を飲んで口の中を一度リセットする。
次は煮つけだ。ティティルでは魚が住めるほど大きな川も湖もなかったため、魚は貴重かつ高級品だった。ここは川が近くを流れている分、手軽に提供できるのだろう。もしかしたらあの川で釣ってきたのかもしれない。
箸で身を切ると、中は十分に火が通っていた。一口サイズにほぐしたそれを口に運ぶ。
これも美味しい。魚のほろほろ感と、ツワブキのシャキシャキ感が癖になる。
口の中に広がる確かな味と一緒に、胸の奥で柔らかな感情が広がる。
物心ついたばかりの頃の、五感を刺激するすべてが輝いていたあの頃のような。
「あの、すみません」
感情の答えが出ないまま、イストはおずおずとカウンターにご飯とミソスープの椀を出した。
「……おかわりを」
「はいっ!」
太陽のような笑顔でジャネットが応える。
「えっ、マジ?」
隣ではクラースが信じられないものを見るような目を向けてくる。
実際、イスト自身も驚いているのだ。おかわりなんて人生で初めてかもしれない。
他にもあちこちでおかわりを求める声が上がる。ジャネットとガンダンはそれぞれ手分けして器を回収し、盛り付けて運んでいく。のんびりしているように見えて、その動きには一切の無駄がない。
「はい、おまちどおさま!」
新しくよそわれたご飯とミソスープがカウンターに置かれる。
「どうも」
イストはそれを受け取り、湯気の立つミソスープに口をつけた。
二度目は意識してゆっくりと食べてみる。
優しい味。そう表現したくなるような味だった。
普段しないことをするとツケが回ってくる。
おかわりしたせいで胃の許容量が限界を迎えたらしく、イストは少し苦しい体を動かして客室に向かった。
今日泊まる大部屋は、二階をまるごとワンフロアにしたものだった。階段スペースを除いたすべてが客室になるから、かなりの人数が泊まれそうである。
「じゃ、先に風呂に行ってくる」
「はい……」
タオルや着替えなどのセットを持ったクラースを見送る。こうして別々に風呂へ入るのは珍しいことではない。個室や実質独占している相部屋ならともかく、大部屋はセキュリティがないに等しいのだ。そのため一人旅では貴重品を肌身離さず持っているし、二人以上で旅をするならどちらかが荷物番をするのが定石だ。
イストは自分の荷物を抱え、その脇にクラースの荷物を置いて体を休めた。
“雨の鳩バス亭”には、イストたちを含めて十人ほどの客がいた。その誰もが料理に舌鼓を打ち、おかわりをする人も少なくなかった。
あれだけ美味しかったら、もっと繁盛していても不思議ではないと思う。ひょっとしたら、開店してまだ間もないかもしれない。だとしたら、自分たちはすごくラッキーだ。
明日の朝ごはんも楽しみだ。午前中は雨が降るらしいが、急ぐ旅でもないから止むまで滞在させてもらえるか交渉してみよう。
そういえば、流れで来てしまったけれど、ここの料金を聞きそびれていた。クラースが自分から宿の申し込みをしたから、法外な値段ではないと思うけれど。
ごそごそと鞄の中を覗き、財布を確認する。
旅立つ前、旅費としてバイトで稼いでいたお金で買ったものだ。イストにとって珍しく欲し
いと思ったもので、トカゲの押印と丹色の石が付いた飾り紐が特徴だ。
普段から適当に安いもので済ませていたイストがそれを買った時、周囲は驚いたものだ。こぞって質問攻めに遭ったが、イスト自身その欲求を言葉では説明できなかった。
旅立ちに備えて溜めていたお金をはたいてまで買ったのは、本当に「欲しかったから」としか説明できない衝動だった。
一目惚れ、と言えばいいのか。露店でこの財布を見た時、何も考えずに手に取っていた。
革で出来た丈夫なもので、大きさも手の平より少し大きい程度。使いやすく、持っているととても落ち着いた。
もちろん、資金が大幅に減ったので巻き返しは大変だったが、不思議と苦労したとは思わなかった。
財布にはイストの全財産が入っている。これまでも盗まれないよう細心の注意を払っていたし、クラースのおかげで想定よりも多くお金が残っている。
ひとまずトモロレに着いたら当面の生活を支えるための仕事先を探さなければいけない。金銭的な余裕は精神的な余裕に繋がる。順調にいけば三日から四日、途中で足止めを食らっても一週間あればトモロレだ。
故郷の仕事は誇りだが、その作業はどれもイストには向いていなかった。そのため、早くから住み込みで仕事を覚え始める同級生たちと違って、彼は常に雑用係だった。
トモロレに行けば天職に出会える、なんて思っていない。ただ、少しでも興味を持てる仕事に巡り合えればいいのだ。
「あれ? それオレの財布じゃん」
日割りであとどれくらい使えるだろうかと頭で計算していたら、不意に声を掛けられた。
「えっ」
顔を上げれば、革ジャンを着たハイイロトカゲの男がこちらを覗き込んでいた。
「いや、これ俺のです」
「ああ、違う違う」
鞄の中に財布を突っ込んで守れば、ハイイロトカゲは手を振って笑った。
「その財布、オレが作ったんだよ」
「えっ」
別の意味で同じ言葉が出た。
「それ、角にトカゲのマークが入ってるだろ? あれオレの印璽」
言われて財布を見れば、たしかに隅にトカゲの押印がある。
「どこで買ったんだい?」
「てぃ、ティティル……」
「ほう!」
男がぎょろりと目を動かした。
「ティティルか! そこまでオレの品が流れていってたんだ! そりゃ感慨深い!」
「……そちらは、これからティティルに行かれるんですか?」
「ああ。新しいアイデアを探しに。いつもはトモロレ近郊のスーニャって街に住んでる」
そういうものなのか。周りからしたら迷惑千万だろうに。いや、作家というのはえてしてそういう生き物かもしれない。
ティティルにいた時も、大手の社長や匠と呼ばれる職人が周囲を振り回す話を聞いてきた。やれあそこの何某が方針転換したとか、どこそこの名人が出奔したとか。
その話に憧れる者もいたが、イストは憧れるどころか忌み嫌っていた。
どれだけ富や地位や名誉を手に入れても、周囲に迷惑をかけては意味がない。いずれそんな人は転落するのがオチだ。そして本当に転落した話を聞いて、イストは内心で「ざまあみろ」と笑っていた。
そんな自分にも嫌気が差して、成人の習慣にかこつけて故郷を飛び出した。
他人を腹の底で見下しながら、では自分には何があるのか。誰かを語る資格がないことは、イスト自身が嫌ってほどわかっていた。
「迷惑じゃないですか?」
気付けば、目の前の彼にそう問いかけていた。
「ん?」
「そんな風に、勝手に飛び出して。周りは、迷惑していませんか?」
思った以上に棘のある言葉が出てきてしまった。だが一度出た言葉は引っ込められない。
ハイイロトカゲの男はきょとんとしたあと、豪快に笑った。
「アッハッハッハッハ!! 迷惑を顧みてて作家が務まるか!」
いっそ清々しいと思うほど笑い飛ばしてくれたせいで、危うくイストも納得しかける。
「たしかに売れない作家はごまんといる。そして周りを振り回している作家はそれ以上いる。だが俺たちは作り続けるさ。この世に自分の作品を残したいからな」
果たしてそれが、周囲に迷惑をかけるだけの価値があるのか。少なくとも目の前の男は“ある”と信じた目をしていた。
「それより、オマエはこれからトモロレか?」
「はい」
「そうか。仕事が見つかんなかったら俺を頼れ。一人くらい抱えられるだけの余裕はあるからな」
そう言ってハイイロトカゲの男は名刺を渡してきた。印璽と同じトカゲがすみっこにいる、ちょっと可愛らしい名刺だった。
「スニフリ、さん」
「そうだ。ちなみにこれは妻が作った」
「はあ」
奥さんの苦労がしのばれる気がして、気の抜けた声しか出なかった。
「おーい、イスト」
そこへクラースが戻ってきた。
「上がったぞ。お前も入ってこい」
「はい」
名刺と財布を鞄の中にしまい、入浴セットを取り出す。
「じゃあ、スニフリさん。これで」
「おう。ここは温泉もいいぞ。ゆっくり浸かってけ」
「はい」
スニフリとクラースに会釈をし、イストは一階の奥にある大浴場に行く。
大浴場と言っても、人間が十人も入ればいっぱいになりそうな規模の湯船が一つ。その脇に頭や体を洗うためのスペースが少しあるだけ。けれど十分な広さだった。
同じように入浴に来た人たちと言葉を交わしながら、イストは風呂に浸かる。全身をちょうどいい温度のお湯が包み込んでくれて、体から力が抜けた。
誰かが鼻歌を歌う。旅の途中でこうした穏やかな時間を感じるのも悪くないなと、イストは思った。