4 報酬はいらない
風が吹き、ちゃぷん・・・・・・ちゃぷん・・・・・・と運河の水面が揺れている。夜明けが近づいて、辺りはほのかに色を取り戻していた。
一人立っていた黒いマント姿の魔道士は、一つ息を吐くと、小さく呪文を詠唱した。
念の為の結界を作ると、片手で印を作り、もう片手で空間に手をかざす。すると景色が揺らめいて色が混ざり合い、ぐるぐると渦を巻き始めた。さまざまな色が掻き混ざるようなその回転が緩まると同時に、先ほどまではなかったはずのものが徐々にそこに出現する。
それは、石畳にぺたんと膝をついて座り込んでいる真理亜と、その首に子どものようにしがみついている高志の姿だった。
「・・・・・・もう少し待った方がいいか?」
そう訊ねつつ、魔道士は再び空間を隔てる術を使うべく手を動かしかけたので、真理亜は慌ててそれを遮る。
「ちょ、ほら高志、いい加減離れて」
「だって、真理亜がほんとに死んじゃったかもしれないと思って、俺、もう、もう・・・・・・」
「あのねえ。あなただって一緒に相談したわよね?」
「でも、あのタイミングで父さんが現れるのも、魔道士雷夜が父さんに雇われてるのも予定外じゃないか!」
「まあそうだけど。でもそのわりに、ちゃんと演技してたじゃない高志」
「あれは演技じゃないよ。俺、本気で、本気で・・・・・・」
高志はまだぐずぐずと泣いていて、真理亜から離れようとしない。真理亜はため息をつく。けれども気持はわからなくもないので、無理矢理引き剥がす気にもなれない。
「もうやだ・・・・・・」
それは三日前のことだった。何度目かの駆け落ち。二人で街の外に出ようとしたものの、やはりいつものように陸路も水路もガチガチに封鎖され、高志と真理亜は袋のネズミ状態に陥っていた。
「真理亜は凄いよ。何だかんだ返り討ちにして逃げ切るんだもん」
「あのねえ、向こうは私を殺す気で来てるのよ?私の苦労わかってる?」
「わかってるよ。俺がお荷物なのは」
しゅんとして高志は言う。実際そうだった。真理亜一人でなら、魔術を駆使して封鎖を潜り抜けることもできるだろう。けれども魔力のまったくない高志を真理亜一人の術で完全に隠すのは至難の業だった。一般人ならまだしも、見張りに能力の高い魔術士か魔道士がいたら術は一発で見破られてしまう。
「そうねお荷物だわ」
「真理亜ぁ・・・・・・」
高志は情けない声で泣き真似をした。
「真理亜、君に捨てられたら、僕は生きて行けない。真理亜、僕なんて、死んだ方がいいのだろうか?」
役者志望だからなのか何なのか、高志はすぐに芝居がかった台詞を吐く。一体どこまで本気なんだか。いつもなら流す真理亜だが、この時は言った。
「それだわ」
「真理亜?」
「それよ。私もあなたも死んでしまったら、お父様も諦める」
「本気で言ってるの?」
「ええ。本気よ」
発案したのは真理亜だった。幸い高志は金は持っている。
金さえ払えばどんなことでもしてくれるという噂の、魔道士雷夜に依頼しよう。
筋書きはこうだ。誰か真理亜に恨みを持つ人物がいて、魔道士雷夜はその人物の依頼を受けて街にやって来た。戦いの末に真理亜は魔道士雷夜に殺されてしまい、敵を討とうとした高志も一緒に殺されてしまう。勿論本当に殺されるのではなくて、そういう偽装をする。その様子は高志の父親の配下の魔術士か、できれば高志の父親本人に目撃させる。高志と真里亜は追われている身だし、魔術を使った戦闘が起これば術者は察知するだろう。
ともかく殺されたことにしてしまえば、もう追われることはないし、ついでに街を出るところまで、魔道士に協力してもらってもいいかもしれない。
「仕事の依頼をしたいのだけど」
すぐに真理亜は魔道士雷夜に連絡をとった。依頼内容を説明し、街に入るために街の人間の紹介状か何かを送ろうかと提案したが、
「それは問題ない」
魔道士雷夜は不要だと言った。今になって考えると、おそらくこの時点ですでに高志の父親から真理亜を殺してほしいという依頼を受けていたのだろう。事情はひととおり説明したとはいえ、真理亜たちの突飛な依頼に対し、魔道士は余計な詮索や反論を一切挟まなかった。
「報酬ははずむわ。ただ、高志を殺したということで、今後高志の父親に命を狙われることになるかもしれない。彼の配下には一級魔術士が何人もいるけれど」
「問題ない」
「じゃあ交渉成立ということで・・・・・・高志、何かある?」
「うん。あのさ雷夜さん、真理亜も一級魔術士で、すごい強いんだ。それは父さんもよく知ってるから、もしもあっけなく真理亜がやられたりしたら、たぶん怪しむと思う。だからそこが不自然にならないように、ある程度時間をかけて、雷夜さんがすごい力量を持っていて真理亜は苦戦してとうとう・・・・・・っていう、そういう演出が大切だと思う」
芝居馬鹿の高志ならではの意見だ、と真理亜は思った。その時魔道士雷夜はしばらく沈黙したが、
「・・・・・・加減はするが、本気を出してもらうことになっても構わないか?」
と真理亜に訊ねた。
他人相手にいきなり真理亜のことを自慢げに語る高志は恥ずかしかったが、しかしそれはそれとして、魔道士雷夜が完全に真理亜の能力を自分より下と決めつけたような言い方をしたことに、真理亜は内心カチンときた。
「わざとやられて殺されるふりをするのだから、不自然にならないようにお願いしたいわね」
真理亜はそう答えたのだ。
戦闘の最中に高志を恨んだりしたが、真理亜だってそうやって魔道士雷夜に頼んだのだから、文句を言えるような立場ではなかった。けれど。
「だけど実際、高志の父親の依頼を受けた後でこちらの依頼を受けるのは、職務倫理規定違反な気がするわ」
言いがかりにも等しいが、真理亜は言わずにはいられなかった。
「殺人の依頼なんてそもそも無効だ。俺は殺し屋じゃない」
魔道士はそっけなく答える。
「でも、それならそうとこっちに言ってほしかったっていうか」
「他の人間の依頼内容を漏らすのは守秘義務違反だろう」
同じ口で、今度はそんな風に言う。
なんて口の減らない魔道士だろう。子どもみたいな顔してるくせに。
真理亜は思わず低俗な悪口でも言いたい気持になって自制する。
それは八つ当たり以外の何物でもない。
実際のところ魔道士雷夜は、こちらの想定を遥かに上回るクオリティで依頼を遂行してくれたのだ。
魔道士は自分たちを裏切ったのか?
それとも自分たちの依頼を今まさに実行してくれていて、高志の父親の方が魔道士に騙されているのか?
自分への攻撃が開始されてからずっと、真理亜には判断がつかなかった。
つかなかったが、どちらにせよ、どうしようもなかった。
「わざとやられて殺されるふりをする」どころではない。真理亜は本気で戦っていた。けれど手も足も出なかったのだ。
今にして思えば魔道士は真理亜の力量を見極め、ギリギリのラインを突いていたのだろう。真理亜の反射神経と運動能力にあわせた、浅い手傷は負わせながらも致命傷には至らない巧妙な攻撃。
はじめを除いて見た目の属性に反した反応を示す術をほぼ使わなかったのは、真理亜が魔術行使による反撃にためらいを見せたからだ。
術を出すようになってからは真理亜の得意な属性が火であること、別の属性に切り替えるのに要する時間、属性以外の細かな得意不得意や術の発動速度、その精度など、すべて把握したうえで攻撃をしかけていたにちがいない。自らが得たい実験結果のために、真理亜が発動する術の種類を誘導するような仕掛け方をしていたようにも思える。
(私は魔道士の手の上で、彼の計算どおりに踊らされ、「殺された」)
火炎鳥の炎に包まれた瞬間、真理亜は本気で死んだと思った。が、自分を焼き殺すはずの炎の中はうっとりするほど心地の良い快適空間で、さらには強力な治癒の術まで付与されていた。確かにこの火炎鳥を出す時の魔道士の印は回復系っぽいものだったと、その時になって初めて真理亜は気づいた。一般的に呪文の詠唱や印を省略した場合より、きちんと手順を踏んだ方が術の効果は高い。すべて省略してあれだけの攻撃を繰り出していた魔道士がそこだけ呪文を唱え印を結んだだけあって、回復の効果は抜群だった。攻撃でつけられた傷はすべて跡形もなく消えたし、服の破れまでもきれいに修復されていた。
その気遣いには、感謝すべきなのかもしれない。
けれど真理亜は、何だか釈然としない気持でいる。
「・・・・・・もうすぐ朝一番の船が出る。悪いけど、私たち二人の乗船時の隠蔽の術もお願いしていいかしら。街から離れたところで船側にはお金を払って説明するわ。本当は、高志の術だけお願いしようと思っていたのだけど・・・・・・魔力を消費しすぎたせいなのか、なぜかさっきから魔術が使えないの」
「ああ。・・・・・・魔術を使えないのは、俺が『強制停止』の術をかけてるからだ」
「は?」
「傷は魔術で治せるが、体力と魔力は休養しないと実質的には回復しない。短時間で回復させるために、一時的に魔力を使えなくしている」
魔力のある人間は、起きている間は(場合によっては寝ている時も)常に魔力を消費している。それをこの魔道士は、強制的に魔力のない人間と同じ状態にして、消費ゼロ状態にしてくれている、ということだが・・・・・・。
(頼んでないし)
傷の治癒。元通りになった衣服。それらに気づいた時から感じていたことだけど、ここまで行き届いた配慮をされると、あまりに下に見られている感じがして、逆に感謝する気も失せてしまう。まあ、見下されて当然の力量差であることは痛感しているが。だからこそ、腹立たしい。それに他人の魔力を「なくさせる」ようなことを、本人の意思にまったく関係なく、しかも本人も知らないうちにできてしまうというのは・・・・・・
(正直、怖い)
顔をしかめている真理亜に、しかし魔道士は別の解釈をしたらしい。
「安全な状況になるまで責任は持つから、そこは安心してもらって構わない。その頃には魔力も回復しているはずだ」
付け加えるように言った。
(すごく親切な人なんだろうとは思うけど・・・・・・)
すべてよかれと思ってしてくれているだろう魔道士にしてみれば、真理亜の今の感情はまったく理不尽なものにちがいない。大人げない。恩知らず。弱者のひがみ。どう考えても非があるのは自分の方だと、真理亜もわかってはいる。
「・・・・・・ありがとう。よろしく頼むわ。成功報酬は、言ってた額より色をつけるから」
どちらかと言うと自分がこれ以上みじめにならないために、真理亜は取り繕ってそう言った。
「そのことだが」
だが魔道士はあくまでも、こちらの感情には気づいていないらしい。
「成功報酬はいらない」
「ええと・・・・・・どうしてかしら?」
似た会話を、攻撃を受ける前にもしたはずだ。依頼を遂行しないから。確かそんな流れで。
けれど今はちゃんと責任を持って逃がしてくれるという話なのに?
魔道士は言った。「さっきの魔術士に、偽装を見破られたから」
火炎鳥に取り込まれた後、真理亜はこの隔てられた空間から、その場の様子をすべて見ていた。さっきの魔術士・・・・・・最後に魔道士に話しかけていた、高志の父親のお抱えの老魔術士。名前は確か・・・・・・。
「ねえ高志。さっきの、お父様配下の古株の魔術士。名前なんだっけ」
高志はずっと真理亜の首に抱きついていたけれど、会話はすべて聞こえていたはずだ。ぐずぐずと鼻をすすりながらも、高志はようやく真理亜から少し身体を離し、答える。
「笹来のこと?」
「あ、そうだ。笹来さん。雷夜さんに、便りがほしいとかなんとか」
「あれは俺に言ったんじゃない」
魔道士雷夜は高志に目を向けた。
「彼はおまえに言ったんだ。父親に、死んでないということだけでも伝えてやってくれと」
その時船の汽笛が鳴った。
いつの間にか辺りはすっかり明るくなっている。港の方に、ぱらぱらと人の姿も見え始めた。
魔道士はいくつかの結界を追加して人目を遮ると、真理亜と高志を再び魔術で作った別空間へと封じ込めた。もはや魔力すら失っている真理亜には、わずかな抵抗さえもすることはかなわず、ただもうこの魔道士のなすがままになるしかない。体力の限界まで動き回った真理亜はもちろん、恋人が死んだかもしれないという悲痛の思いで泣き叫んだ高志も、ぐったりと疲れ果てていた。そうでなくてもこの夜は、二人とも一睡もしていないのだ。
心地よい空間の中で、二人はお互い寄りかかりあうように目を閉じた。お節介な魔道士のことだ、「眠り」の術でもかけられたのかもしれない。
「次に目を開けた時には、俺たちは新しい世界にいるんだ」
まどろみかけの意識の中で、高志は真理亜に語りかけた。
「そうね」
目を閉じたまま、真理亜は優しく微笑んだ。