幸せなお伽話を授ける王子の話
「ダーリヤ、僕は君をお嫁さんにすると約束するよ」
唐突に発せられた幼子の戯れの言葉は、部屋の空気を和ませた。銀髪に青い瞳。幼い王子の輝く笑顔は、教育係として仕える私にお伽話の一場面を見せてくれる。
「イグナート様、お伽話の続きはこの問題を解いた後にお願い致します」
「……僕は本気なんだよ?」
ガラスペンを持ちながら、不満に口を尖らせる幼い王子の表情が可愛らしくて笑ってしまう。
カデットリ王国の第三王子と、没落した男爵家の娘である私とは結ばれるはずもなく。ましてや王子は五歳で私は十九歳。十四歳の歳の差は、どうやっても埋められない。
それでも幼い王子の初恋の相手に選ばれたことは光栄で、王子と過ごす間だけは自分の辛い境遇を忘れることができる。
私の生家である男爵家は両親の散財によって没落してしまった。持参金もなく流行り病で子が望めない体になった私と結婚しようという者はおらず、独りで生きる為、家庭教師として働けるようにと勉学に勤しむ日々の中、王城庭園の木に登って降りられなくなっていた王子を助けたことがきっかけで、王子の教育係に任命された。
「ダーリヤ、今日の予定は終わったよ。お茶にしよう」
幼い王子は私の手を引いて、私室へと招き入れる。特別に用意させたという二人掛けの椅子に座って、私が淹れた花茶を飲む。
「僕は君をお嫁さんにするからね。約束するよ」
毎日繰り返される幼子の他愛のない言葉は、いつか消えてしまうお伽話。わかっているからこそ、微笑みで返すことしかできない。
穏やかな時間はあっという間に過ぎ去った。王子の学習能力は並外れていて、私が十年以上を掛けて学んだ内容を、たった三年で理解してしまった。
「もう私がお教え出来ることは無くなりました。これからは、学者様をお呼び致します」
「ダーリヤがいなくなるなんて嫌だ」
私の辞職の申し出を王子は認めなかった。ならば王子付きの侍女になるという件も認められず、教育係という肩書のまま、一緒に学者の講義を受けるという異常な状況が続いた。
王子が十六歳になると閨教育を王から命じられ、私は毎夜王子の寝室へと呼ばれるようになった。
「ダーリヤ、愛している。僕は君を妻にする」
毎夜閨で囁かれる王子の言葉が、辛くなっていく。叶う事のない夢のようなお伽話は朝になれば消え去って、人々の好奇の視線の中に戻るしかない。
少年の愛は愛ではなく執着なのではないかと思う。子供が手に入れた玩具を手放したくないだけ。いつか飽きる日がくるだろう。私は、王子から与えられるすべてを受け入れるだけだった。
◆
王子が十八歳になり公式行事に女性を伴う必要が出るようになると、同伴者として常に私が選ばれた。用意されるドレスには王子の紋章が刺繍され、王家に伝わる宝石が私に飾られる。
それがどれだけ身分不相応で恐ろしいことなのかと理解はしていても、無邪気に微笑む王子や、優しい王妃の好意に抗うことはできなかった。
「行き遅れの没落貴族の娘が王子妃のような顔をして! 図々しいことですわね!」
公爵家の令嬢フェオドラは、私が一人になると他の令嬢たちと一緒になって絡んでくる。十歳以上年下の少女たちとはいえ、身分は遥かに高い。
「本来なら、わたくしがイグナート様の妃となっているはずですのに。貴女がいつまでも付きまとっていらっしゃるから、お優しいイグナート様がお困りなのよ」
フェオドラは王子と同じ十八歳。銀髪に青い瞳で輝く美貌は若々しく、直視する勇気も出ない。比べても無駄だと思っても、若さの熱量がうらやましい。
付きまとってはいないと反論することはできない。何度も職を辞そうと試みても、毎回引き留められることに私の甘えがあった。
「わたくしは王子妃になりたいの。他の縁談を断ってきたのも王子妃になる為。そうね。何なら、わたくしが貴女の縁談を紹介して差し上げてもよくてよ。最も子を成せない貴女は、後妻にしかなれないでしょうけれど」
フェオドラと令嬢たちの嘲笑の中、私は頭を下げて逃げ出した。
その後、いつの間にか私の両親を巻き込んで縁談が進められ、顔も知らない子爵の後妻になることが決まっていた。異議を唱えることはしなかった。王子と離れるには、それが一番いい解決方法なのではないかと思う。
年上の女がいつまでも王子の隣にいては、王子は妃を娶ることができない。私がいなくなれば王子の目も覚めるだろう。寂しい気持ちはあっても、名ばかりの教育係では何の役に立てない。夜の教育係と揶揄されることにも疲れていた。
今夜も寝室で二人きり。習慣になっていた就寝前の花茶を淹れ、私は話を切り出した。
「……イグナート様、教育係の職を辞したいのですがご都合の良い日を……」
私の言葉が終わる前に、王子は私を抱きよせて口づけた。
「ダーリヤ。君の縁談は無くなった」
「……それは……」
「子爵は爵位を息子に譲って、引退することになったんだ。領地へは昔からの愛人と向かうそうだ」
子爵の息子はまだ十代後半だと聞いている。引退には早いのではないだろうか。
「僕は必ず君を妻にする。時間が掛かるが、待っていて欲しい」
成長した少年からは幼さが消え、青年へと変化し始めていた。見上げる視線で、いつの間にか抜かれた背丈を知る。
そんな夢のようなお伽話は叶うはずがない。叫んで逃げ出したい衝動が、涙になって静かに流れていく。いつの間にか私の心に生まれてしまった愛を告げる勇気はでない。
「ダーリヤ、愛してる。僕が君を護るから、泣かないで」
流れる涙を唇で拭い、王子は私を優しく抱きしめた。
◆
二月後、フェオドラは見目麗しい外国の王子からの求婚を受け、華々しい嫁入り行列を作って旅立った。美しく着飾り、輝くような笑顔で去っていく姿を見て、ほっと安堵の息を吐く。
夜になって寝室で二人きりになると、イグナートが口を開いた。
「お相手の王子の妃は先々月病気で亡くなっていてね」
初めて聞く話に驚いた。フェオドラは後妻を蔑んでいたのに、自らがその立場になることを承諾したのだろうか。それ程までに王子妃になりたいと強く思っていたのか。
「理由は違えど、これまで三人の妃を亡くしていらっしゃるんだ」
「三人?」
遠い外国の王族の話なので、詳しいことは知らなかった。
「あの王子は飽きやすい方らしい。王子の興味が無くなると、何故か王子妃が命を失う。僕も周囲もちゃんと説明したんだけどね。本人がどうしても行くと言って聞かなかった。『自分は特別だから、飽きられることはない』ってね」
背筋に冷たいものが走り抜け、気軽に口にしてはいけない想像が頭をよぎる。
「彼女は王子妃になりたいという願いを叶えた。それでいいんじゃないかな」
イグナートの美しい微笑みの中、微かな黒い影が潜んでいることに気が付いたのは、この時が初めてだった。
◆
一年後、フェオドラが事故で崖から落ちたと知らされた。愛する夫の為に美しい花を摘もうとして手を伸ばした時、運悪く足元の岩が崩れた。
最愛の妃の死を嘆き悲しむ王子の様子が吟遊詩人によって語られ、美しい悲劇の物語になって近隣諸国へ伝わった。イグナートによると、実際は護衛騎士との不貞が理由で自決させられたらしい。
一人、また一人と、私を嘲笑い虐げていた人々がお伽話のような願いをイグナートに叶えられて、私の目の前から消えていく。イグナートには『幸せなお伽話を授ける王子』の異名が付き、いつしか私の周囲には、心優しい理解者たちだけが残った。
毎夜私が王子の寝室で眠っていても、王子の紋章が入ったドレスを着ても、もう誰も咎めない。ただの教育係である私を王子妃のように敬い、尊重してくれる。
王子が整えてくれた優しい日常の中で当たり前のように任される王子妃の職務をこなしていても、本当にこれでいいのだろうかと考えることもある。
お伽話を作り出して授ける手際を見ていた私は、もしも私が姿を消そうとすれば、あらゆる手を使って追いかけてくるかもしれないと諦めの気持ちも持っていた。
「ダーリヤ、待たせてごめん。僕は愛する君を絶対に妻にする」
毎日繰り返される約束は、きっと執着。そうは思っていても、その言葉の束縛が甘くて心地いい。離れなければと思いながらも、離れることができなくて苦しい。
◆
甘く苦しい日々の中、妹姫のスヴェトラーナが毒婦の甘言に乗って〝恋人たちの宴〟という夜会を開いては平民を虐殺しているという情報がもたらされた。
王家は直ちに事件を隠蔽する為、妹姫を平民にあてがって『心優しい姫君が平民に恋をして、幸せな結婚をした』というお伽話を作り上げた。平民と姫君の恋物語は国民から熱狂的な支持を受けただけでなく、吟遊詩人によって周辺諸国へと広められて、凄惨な虐殺事件は闇へ葬られた。
幸せなお伽話を作り出したのは、やはりイグナートだった。根回しや情報統制に奔走し、疲れ果てた体で毎夜私を抱きしめる。
「……妹は幽閉したが、首謀者は逃げてしまった。僕は王家の一員としてこの件を解決しなければならない。兄たちは裏工作が苦手だからね」
無理はしないで欲しいとは言えない。王族が平民を虐殺していたことが知られれば、国が揺らぐ。王家の信頼が弱くなった所に外国が攻めこんで来れば、王族や貴族だけでなく国民すべてが命を失う。
「何か私に出来る事はありませんか?」
王国の存亡がイグナートに掛かっている。その重圧は私の想像をはるかに超える。
「ありがとう。……僕が弱音を吐いても、失望しないで欲しいな」
「私は絶対に口外しません。だから私には秘密を作らないで下さい」
せめて同じ世界を見たいと私はイグナートに願った。少しずつ情報を開示され、表向き見えている世界が真実とは限らないということを知った。
カデットリの王族には狂人の血が流れていた。平民を虐殺した妹姫だけでなく、父王にも兄王子たちにも多少の秘密があり、宰相や大臣たちが支えることで国家が成り立っていた。
「幸いなことに愛するダーリヤがいてくれたおかげで、僕の狂人の血は発露していない。だから宰相や大臣たちも安心してくれている」
宰相や大臣達が私が隣にいることを認めている理由がやっとわかった。私はイグナートの血を鎮める為の道具。そう思えば、気も楽になった。
◆
六年の月日が過ぎ、虐殺事件の首謀者がイグナートの手で捕らえられ絞首刑が執行された。事件のすべてが片付いた後、私たちは晴れ渡る青空の下、王城庭園で久しぶりの散歩を楽しんでいた。
水が煌めく噴水の前で立ち止まったイグナートが跪き、一輪の白い薔薇を私に差し出した。
「ダーリヤ。僕と結婚して下さい」
毎日の『約束』とは違う言葉に戸惑いしかない。男性が一輪の花を女性に差し出すのは、正式な求婚の儀式と知ってはいても、うろたえてしまう。
「妹が起こした事件を完全解決する褒賞として、父王に許可をもらったんだ。やっと約束を実現させることができる」
青年になった王子の笑顔は眩しくて。求婚の花を受け取ってもいいのか迷う。
「ダーリヤ、僕は君を逃がさないよ。君の為なら、どんなお伽話でも作ってみせる。この国を滅ぼしてもいい」
長年苦労して護り続けてきた国を、滅ぼしてもいいと笑う瞳に狂気の光が見えた。
――ああ。そうか。イグナートは、もう狂ってしまっている。
没落した男爵家の娘が王子の妻に。そんなお伽話を叶える為、王子は静かに狂ってしまっていた。
その光を見て、ようやく私自身も狂っていることを理解した。
年下の王子の束縛に甘い苦しみを感じながら、逃げ出すこともせずに愛を受け取っていただけ。身を引く常識なんて最初から持ち合わせていなかった。
薔薇を受け取り、微笑んで口づける。それは求婚への承諾の印。
「……逃げません。私は……貴方のすべてを愛しています。もっと早く、正直に気持ちを申し上げておけばよかった」
私が自分の意思で王子の隣に立つと表明して堂々と振る舞っていれば、イグナートはお伽話を作り続ける苦労をしなくてもよかったかもしれない。
「それでも僕は止まることはなかっただろう。邪魔する者を排除して、君を妻にすることだけが、僕の願いだったんだ。次は君を幸せにするっていう願いが僕の夢になる。愛しているよ」
「私も愛しています。……私の願いを告白してもいいですか?」
「何かな?」
「二人で幸せになりましょう。永遠に」
立ち上がったイグナートの背に腕を回して抱きしめると、イグナートが息を飲んだ。もう遠慮はしない。いつも抱きしめられ、愛を与えられるだけの存在ではなく、イグナートの心を支えて幸せにしたい。
願いが叶って大団円で終わるお伽話の後は、本人たちの物語。
愛する王子が授けてくれたこのお伽話を、私は幸せな物語のまま続けていきたい。
「そうだね。二人で幸せになろう。永遠に」
嬉しくて頬を寄せれば温かい。くすぐったいと私が笑えば王子も笑う。
私の為にお伽話を紡ぎ続けた王子様。
永遠の幸せなお伽話を、貴方に贈りたい。