02 変異と異変
「やぁやぁ早速だけど、君に提供される変異薬の詳細については資料を確認してくれたかな?」
ここは病院の診察室という表現がしっくりくるだろうか、対面に腰掛け白衣を着た女性が尋ねてくる。
口元にはニコニコというよりはニヤニヤと言った笑みが浮かんでおり、どことなく胡散臭い印象を受ける。
濡羽色の髪は非対称に伸びており右は肩にかかる程伸びているが、左は耳まで完全に見えるほど短い。
座っていてもはっきりわかるほど背が高く、瞳の中にあるもう一つの瞳が彼女が変異者である事を教えてくれている。
「えぇ、肉体強化と変化の複合型に分類される能力だとか」
「そうだね。君は探索者になることを希望しているみたいだから、戦闘でこそ力を発揮する変異が望ましいだろう」
女性の首から下がっているネームプレートには"Dr.羽蛾"と 表記されていた。
このタイプのプレートは実際には無地で、視界に入れた相手のBLsと通信し、相手の視界内にのみ相手の主要言語で表示されるものである。
注視していると所属などの情報も表示されるだろう。
「理解してもらってることだが、資料に書いてある事はあくまで高度なシミュレーションによって得られた確度の高い予測に過ぎない。ほぼ確かに変異するであろう事象について記載しており、それが起きないことも、それ以外でも何らかの変化が起きる可能性も常に否定できない」
「承知しています。個人の適応力もあるので事前にデザインした通りになる確率は95%以上にはなり得ないと」
「うん、いいね。今回の選考は出来るだけシミュレーション通りの結果が得られるであろう人材を集めてるから、大きな相違点は出来ないと考えてるけどね。実を言うと君への変異薬をデザインしたのはこのワタシでね。勿論この薬を人間に投与するのは今回が初になるわけだが、自信作だ。期待してくれよ」
あの会議室にて説明があったのは既に昨日のこと。
あの後、個々人に投与される予定の変異誘発剤の資料を全員に送信され、その日は各自部屋で休むことになった。
食堂で食事した時も、部屋のシャワーを浴びているときでさえ、俺も他の参加者も資料を確認するのに必死だった。
それぞれ応募した際にどの様な目的で変異したいのか確認されており、更には面接の際に詳しくどの様な力が望ましいか、どの様な肉体の変化を求めているかについても綿密に話し合いがなされている。
俺が求めたのは勿論探索者としての成功であり、そのために必要な力だ。
探索者に憧れるほとんどの者たち同様、俺も様々な先輩探索者の著書や探索映像、考察動画などを観てきた。
それをもとに考える俺が必要とした力は、自分の肉体そのものを武器とするタイプの変異だった。
変異によって手に入れられる能力のことを一般的に"異能"と呼び、この力には傾向によっていくつかの種類分けがされている。
分け方にも様々な方法があるが一番広く浸透しているのは『強化、変化、操作、創出』の四種類に大別し、更にそこから何に作用するのかで分けていく方法である。
例えば物質の持つある性質や能力を増減させるものは強化系となり、それ以上の性質を持たせられるなら変化系、念じることで物質を動かしたり出来るなら操作系、ピュアマテリアルを変質させ全く別の物質を生み出す力があるのなら創出系と言った具合だ。
それと変異によって起こる肉体の恒常的な変質を合わせることで、高い次元での戦闘能力を得ることが出来るわけだ。
「この変異薬では基本的な五感、身体能力、代謝機能の大幅な上昇に加え、モンスターの攻撃にも耐えうる様に皮膚を硬化させる変異を起こし、さらに異能の力を使えばそれ以上のことが出来る。詳しいことは変わってからのお楽しみだ」
ドクドクと胸が鳴る音がする。
期待と不安で体温が上がっているのを感じながら、変異前の最後の確認を取る電子書類が羽蛾先生から送られてきたことを確認する。
確認の内容は変異に関する如何なることでも責任を求めないとい免責事項をはじめとし、秘匿義務についてや権利関係についての同意など多岐にわたる。
それらの内容をBLsの高速処理によって精査し、事前に贈られた資料と齟齬がないかを確認して、同意する旨の電子署名を行う。
「さあ、これで面倒な手続きや同意関係は片付いたわけだ。これから君は人間という殻を壊し新しい自分となる。覚悟はいいかな?いや、これは具問だろうね。さぁ、こちらに来賜えよ」
促されるままに、手術台を思わせる台座へと案内される。
台座は巨大な円筒形の装置から迫り出ており、頭部を乗せる箇所にはヘッドギアじみたデバイスもある。
変異装置と呼ばれるこれは、一見するとMRIのようにも見える。
様々なモニターや謎の装置と繋がっており、怪しい雰囲気があった。
水着のような専用の下着を残し服を脱いで横になると、頭部をヘッドギアが覆う。
後頭部の付け根にあるBLsとの接続器へとプラグが挿入され、口元には人工呼吸機が装着された。
モニターにバイタルが表示されたのを確認すると、ゆっくりと台座が機械内部へと侵入していき音もなく足元の入り口がしまった。
閉所が苦手な人間だとこれだけでパニックを起こしてしまうのではないかというほどの密閉間を感じる。
「これより合成型変異誘発剤の投与を開始する。呼吸器より体内へと直接投与を行い、BLsより直接脳に働きかけることで麻酔を開始。また、変異促進剤によってその変化を効率的かつ安定したものとし、……を用い、…て…、、」
装着された人工呼吸器から、シューという音と共に薬剤が投与され始めると同時に、首元に刺さったプラグから麻酔プログラムがインストールされ、たちまち意識が遠のいていくのが分かる。
中からはくぐもって聞こえる彼女の声はこちらに話しかけているというよりは、記録を取るためのレコーダーか何かに向けたものだろう。
筐体内の狭い空間に体温よりやや温かい薬剤―変異促進剤―がゆっくりと満たされていき、それに体が沈み切る前に落ちる様に意識が深く沈んでいった。
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ブアーン ブアーン ブアーンと一定のリズムで不快感を煽る音が遠くで鳴っている。
どこから聞こえてくるのかとぼーっとした頭で考えているうちに意識が覚醒していく。
目をあけるとすぐ目の前に天井があり、狭い空間にいることを自覚して混乱してしまった。
直ぐに目覚める前の状況を思い出し、更なる混乱に陥る。自分は変異するためにこの機械に入ったはず。
変異が無事に終わったのならなぜまだ自分はここに入っているのだろうか。
それに意識がはっきりしたことで音が警報音であることが分かった。
明らかに普通じゃないことが起きているのだ。
「何が起きてる。誰か!誰かいないか!!ッ、どうなってるんだ」
なんとか身を捩れるほどの空間で、変異装置の外から聞こえてくる警報音に急かされる気分を、一度深呼吸して落ち着ける。
状況から考えるに、何らかの非常事態が発生していること、俺がここに放置されていることから羽蛾先生をはじめ職員が周囲にいない可能性が高い。
「ひとまず、ここからでなければ」
この様な設備は大抵安全のため、中から一定の衝撃を加えれば出られる様になっている物だ。
手を突っ張り棒の様について足下を思い切り蹴りつける。
ガゴンッ!!!
予想外の力が出て装置の入口部が吹き飛んでしまい、思わず声を上げる。
それと同時に寝ていた台座部が外へと排出される。
装置の外へと出たことで警報がよりはっきりと鳴り響いており、赤い光が施設を明滅しながら照らしている。
立ち上がって視界に違和感を感じた。視界がいつもより開けている…気がする。
-そうだ、俺は変異したんだ-
そこで初めて自分の体をしげしげと眺める。
視界に違和感が有るのは、身長が変わった事と視力が以前と比べ物にならないほど良くなっていたからだろう。
手足が明らかに長くなり、それに比例して上背も高くなっている。
剥き出しの腹を見ると筋肉のつき方が人間よりも複雑で、人よりも獣を思わせる肉の付き方をしており、おそらく骨格そのものも変質していることだろう。
そして外見的に最も変わったところは皮膚だろう。
まるで石膏のように無機質なまでに白く、触れてみると確かに生物的な温かみがあるものの鉱物のような硬さがあった。
変異者の中には一目ではそうだと分からないものも多いが、これは遠目にも変異者であると分かることだろう。
暫く跳んだり腕を動かしたりと体の調子を確かめていたが、今の状況を考えるとあまり悠長にしている暇はないだろう。
まずは状況を確認するべきだ。
部屋に置かれていたままになっていた今やサイズの合っていない服を着て歩き出そうとしたとき、唐突にけたたましく鳴っていた警報音が止まり、照明が正常に作動した。
「どうやら誰かはいるようだな」
警報を切って、施設のシステムを復旧させることのできる人間がいることが分かり少し安心した。
さっきまで少しだけもうここには自分以外いないのではとも考えていたからだ。
そうして、ひとまずその人物と合流して現在の状況を確認するところから始めようと部屋からでた瞬間だった。
ゴッッッッ!!!っと、いう音がするような突然凄まじい衝撃が襲ってきて、俺は吹き飛ばされたのだった。
・Tips.1
複合型変異誘発剤の合成は通常の薬の様に再現性の有る物質を用いて作られる訳ではなく、厳密には科学薬品ではない。その作成は複数のモンスターから採取された血液中の寄生虫から得られた変異を引き起こす成分を掛け合わせ、その詳細なデータを独自のAIに入力。被験者の肉体情報をもとに成功な仮想体を構築し、その肉体に薬剤を投与し起きうる肉体の変化をシミュレーションし、変異薬を調整した場合の値で再度シミュレーション。これをスーパーコンピューターにて膨大な数繰り返し、より優位な変異を導き出すと言うかなりの力技。複数のモンスターの遺伝子情報を掛け合わせて破壊されないところにこの技術の根幹があり、独特の思考ルーチンをもつAIこそが技術的な要となっている。
・Tips.2
変異促進剤は誘発剤によっておこる変異をより安定したものとし、変異にかかる時間を操作し肉体にかかる負担を大幅に低減する働きがある。その為、自然に起こる変異と違い変異にかかる日数はやや長いものとなる。