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第1話 「千年の記憶」

目次

第一章  旧街道

第二章  救急病院            

第三章  八王子運送店

第四章  病院特別室

第五章  京都(西陣・糺の森)     

第六章  神楽坂            

第七章  病院特別室(千年の記憶)   

第八章  病院特別室(安倍晴明)    

第九章  都内高級ホテル        

第十章  桜坂             

第十一章 宮内庁            

第十二章 世田谷(安倍屋敷)      

第十三章 六本木1丁目         

第十四章 箱根仙石原

第十五章 六本木ガーデンヒルズタワー  

             

第一章 旧街道

 八王子郊外の丘陵地帯はこの十数年間、大規模な宅地造成がなされてきたが、市街地から遠く離れたこの辺りはさすがに人家が少なく、行き交う車も滅多にない。諒輔は先程から、アルバイト先の運送店の名前が入った軽自動車を慎重に運転し続けている。

 旧街道であるこの山間の道路は、狭いうえに曲がりくねっているので、今日のようによく晴れた昼間でも気が抜けないのだ。ところで、二十八歳にもなって何故昼日中からアルバイトをしているかというと、大学を卒業して入社した会社を数か月前に辞表を叩きつけ退職してしまったからである。不況の最中に失業したわけだが、目下のところはサラリーマンのしがらみから離れて清々した気分であった。

 折しも新緑の季節であり、山も谷も鮮やかな緑に染まっている。全開にした窓から吹き込む爽やかな風が何とも心地よい。今日は順調に配達が進み、この先の峠にあるドライブインに荷物を届ければ仕事は終りである。最近は指定時間に宅配物を届けに行っても不在の場合があったりして、こんなに順調に仕事が運ぶのは滅多にないことであった。

 

 ドライブインは、峠の茶屋といった方がぴったりくる風情の古ぼけた小さな建物で、その前にわずか数台が駐車できるスペースがある。今日は珍しく車が一台止まっている。いかにも高級そうな車だったので、諒輔は万一ぶつけて傷つけたら大変と少し離れて駐車し、降り立つとその車に近づいた。

 車にあまり興味のない諒輔でも、目の前にある車がマニア間で高額で売買されるクラシックカーの類であることは容易に理解できた。しかし、それ以上のことは分からないまま、繁々と車を眺め回した。型式こそ古めかしいが、流線型をしたその外形の機能美とマホガニーの木目が美しい内装に眼を奪われていたのだ。

 ちょうどその時、一人の男性が両手に紙袋を下げて、店から出てきて諒輔の方に近付いてきた。頭髪が真っ白で顔には深い皺が刻まれていることから、かなりの年配の人と察しがついたが、ピンと伸びた姿勢には老人じみた感じがない。一八五センチの身長がある諒輔ほどではないが上背があり、トラッドな衣服を身に着けたその様子は、白髪の紳士といった形容が如何にも相応しい。

「クラシックカーに興味がお有りかな」

いきなり問いかけられて諒輔は少し慌てた。

「いえ、興味は特にないのですが……」

そう答えたものの、興味津々に車を見ていた自分のことを思うと、何か照れくさい。

「そうか、それじゃな」

 男は下げてきた紙袋を後部座席に投げ込み、革張りのシートに身体を沈めると、サングラスをかけ、車をスタートさせた。小気味良いエンジン音を立てて八王子方面に走り去って行く。

 諒輔は呆けたように、その車が坂道を下って姿が見えなくなるまで見続けていたが、呪縛を解き放つように身震いをすると荷物を肩に担いでドライブインの入口に向かった。

 

 この店は、気の良い話好きの老夫婦が、細々と営業を続けている。諒輔が荷物を渡すと、いつものように茶を勧め、いろいろと話しかけてきた。普段客がいないので、偶に訪れる馴染みの者は夫婦の格好の話し相手にされてしまうのだ。

「諒さん、新しい恋人は出来たかい」「運送店の出戻り娘とはどうなってんの」「こうやって良くみると、韓国の男前スターに良く似ているよね」「いやそれよりも、お笑い芸人のあのイケメンに似てないかい」「昔の恋人とはよりを戻したりしないよね」等々、いつもの通り際限がないので、適当にやり過ごして諒輔は話題をあの白髪の紳士に振り向けた。すると、待っていましたとばかりに、老夫婦はその紳士のことについて話しだした。

 数カ月に一回程度この店に寄って休んで行くこと、その度に違う種類のクラシックカーに乗って来ること、見かけによらずとても気さくな人であること、いつも沢山土産を買ってくれることなど、話が盛り上がっていたその時、入口から客が入ってきてお喋りは中断された。

 入って来たのは二人連れの男で、共に黒の丈の長い上着を着ており、何やら不気味な雰囲気を漂わせていた。話好きの老夫婦もそんな二人連れに威圧されたのだろう「いらっしゃいませ……」と言った切り後の言葉が続かない。

「前に止めてある車はあんたのものか」

  背は低いが肩幅の広いがっしりした体格の男が、諒輔に声をかけてきた。

「えぇ、そうですけど何か」

 警戒感から思わず相手の意図を探る調子になる。

「八王子の方からやってきたのか、それとも反対側から来たのか」

居丈高な物言いに少しむっとして押し黙っていた。

「いやあ、済みません。不躾な質問をしてしまって」

 もう一方の背の高い男が、気味の悪い笑顔を浮かべて割って入ってきた。

「実は、一緒にドライブしていた者とはぐれてしまいまして……その人は古い年代物の車を運転していてとても目立つ筈なのですが、見かけなかったでしょうか」

 男の笑顔が如何にも胡散臭いので、諒輔がなおも黙っていると、男は老夫婦の方に向き直り二人の顔を交互に覗き込んだ。

「あーそれなら……」

「えー、それなら……」

男の眼力と沈黙に耐えられずに老夫婦が話し始めた。

「ここに立ち寄られて、少し休んでおいででしたが」

「つい今しがた、ここを出て行かれました」

「今日はもう東京に帰るって」

「お土産も沢山買ってくれて」

「えぇもうそれはいいお方で……」

 交互にしゃべる続ける老夫婦の話を途中で制し、二人連れの男は、互いに顔を見合せ頷くと礼も言わずに外に飛び出した。車のドアの開閉音に続いて、吠えるようなエンジン音が轟く。諒輔が後を追って外に出ると、タイヤの軋む音を残して黒い大型のワゴン車が八王子方面に走り去って行くところであった。

 諒輔に続いて店から出てきた老夫婦が口々に叫ぶ。

「諒さん、どうしよう。あの二人組は、何か悪いことを企んでいるに違いないぜ」

「そうよ、いかにも悪人て顔してたわ。あの人に何かひどい事しようとしているのよ」

 確たる根拠はないものの諒輔にしてみても思いは同じだった。後先考えずに自分の車に飛び乗ると、軽自動車特有のエンジン音を唸らせて二人組の後を追いかけ始めた。


 八王子方面に向かう街道は急な下り勾配である。峠の付近は日光のイロハ坂ほどではないがカーブが連続しており、山肌を開削して作られた道の片側は山側の壁に、もう片方は谷側の崖になっている。しかもカーブなどの要所にしかガードレールが設けられていないので、運転を誤れば崖からたちまち転落である。諒輔は逸る気持ちを抑えて、汗ばむ手でハンドルを握り続けた。

 そうして十分も走っただろうか、突然大きな衝撃音が聞こえた。何か嫌な胸騒ぎがして、思わずアクセルを強く踏み込んでしまい、危うく山際の壁にぶつかりそうになった。これに懲りて速度を落としてヘアピンカーブを慎重に回り込む。すると前方にあの二人組の黒いワゴンが停車しているのが見えた。更に速度を落として近づいて行くと、車の音に気付いたのであろう、どこからかあの二人組が現れて、ワゴンに乗り込むと走り去って行った。

 諒輔はワゴンが停車していた辺りに車を止め降り立つと周囲を見回した。崖側の樹木が薙ぎ倒されたようになっているので、崖下を覗き込むとあのクラシックカーが落下しており、ボンネットから白い煙を上げている。

 諒輔が立つ位置から十メートル程の崖下であったが、運転席にはあの白髪の紳士らしき人物の姿が見える。なおも目を凝らして良く見たが、運転席の人はピクリとも動かない。救急車を呼ばなければと気付き、慌てて携帯電話を取り出して一一九番通報したが繋がらない。画面には圏外の表示。この辺りは電波が届かない地域なのだ。となれば、自分がこの崖を降りて、あの紳士を助けるしか手立てはない。足場の良い道筋が無いか崖に目を凝らすと樹木の隙間の下方に道路のようなものが見える。その時、閃くものがあり、自分の車に駈け戻った。

 車に乗りカーブ状の坂を下り、車1台がやっと通れる狭い脇道に車を乗り入れた。あの車が落ちた真下と見当をつけたところで車を降り、灌木と熊笹を掻き分けて進むと、果たしてそこに、あのクラシックカーがあった。何度か回転して落下したのであろうが、車輪を下にしてうまい具合に着地している。運転席の周囲もあまり損傷が認められない。ボンネットの白煙はどうやら、ラジエーター系統から漏れる水蒸気のようで、火の手が上がっている風ではない。そこまで素早く確認すると、諒輔は運転席に駈けより紳士に声をかけた。

 頭部や顔面を改めたが傷は無いようだ。しかし依然として目を閉じ、動かないままである。口元に耳を近づけて呼吸しているか確認し、更に手首の脈を探った。息をしているし、脈もある。死んではいない。安堵して、一層声を張り上げ、肩を揺すると紳士はうめき声をあげて目を見開いた。

「大丈夫ですか?」

 呼びかける諒輔の顔を紳士は不思議そうに眺めていたが「うむ、死んではおらんようだな」と言って顔を顰めた。どこか怪我をしているようだ。

「今、助け出しますからしばらく我慢して下さい」

 そうは言ったものの、シートベルトや膨らんだエアバックに固定された身体を引き出すのは容易ではなかった。クラシックカーではあるが、最新の安全装備が施されていたようで、それらを取り外すのに悪戦苦闘しなければならなかった。それでも何とか紳士の体を運転席から引き出すのに成功した。

 左の足に大きな怪我を負ったようでかなり出血している。先ずは応急手当として止血しなければと思うものの、どうしたらいいか分からない。もたつく諒輔の様子を見た紳士が止血方法を教える。紳士のネクタイを使って左腿の付け根を縛り、付近に落ちていた木の枝を使ってネクタイを絞りあげた。

「この辺りは携帯電話の電波が届かないので、救急車を呼べません。これから私の車で八王子の病院まで連れて行きます。いいですね」

 諒輔は紳士を助け起こすと軽自動車の助手席に運び入れた。

 

 聞きたいことは山ほどあったが、一刻も早く病院に運び込むのが目下の重大事と思い定め、車を運転することに専念した。

 しばらく走行するうちに、後ろから車が近付いてくるのに気が付いた。バックミラーに映る黒い車体はどうやらあの二人組のワゴンのようである。二人組みは諒輔が紳士を助ける様子を隠れて見ていたのだろう。

「あの二人組が追いかけてきました!」

 諒輔は思わず叫んだ。黒いワゴンは今にも追突するというところまで、車を寄せてきている。追突されたら崖から突き落とされてしまうだろう。恐怖に駆られて、スピードを上げた。

「落ち着け、慌てると崖から落ちるぞ」

 その時衝撃が走り、ハンドルをとられて山側の壁に車体を擦りつけた。ワゴンが追突してきたのだ。車体の右前部が大きく傷ついたものの幸いにしてまだ走行を続けている。しかしまた追突されたら今度は助からないかも知れない。

「いいか案じることはない、慌てずに運転を続けなさい」

『これが慌てずにいられるか』と諒輔は心の中で叫んでハンドルに齧りついた。

「先程は不意打ちを喰ったので、不覚をとったが今度はそうはさせない」

 紳士は白髪を風に靡かせながら、目を閉じ、聞きなれない言葉を唱えると、軽自動車は青白い燐光のようなもので包まれた。そのとき、またもや後ろからワゴンが追突しようとして迫ってきた。しかしあわや追突というところで、青白い光に触れるとワゴンは弾かれたように後方に吹き飛ばされてしまった。ワゴンは崖から転落しそうになったが、踏み止まると体制を立て直すとまた執拗に追跡してきた。何やら後方で大きな音がするので、バックミラーを見ると、ワゴンの助手席の男が窓から手を出して拳銃をこちらに向けているではないか。

「今度は、拳銃を撃ってきました!」

 諒輔は大声で叫んだ。

「心配するな、大丈夫だ。この車に結界を張ったから銃弾も届きはしない」

 後ろから盛んに撃ちかけてくる。しかし銃弾は不思議とどれも当たらない。

「何んですかそのケッカイというのは?」

少し安心して余裕を取り戻した諒輔が訊ねる。紳士は少し考える風であったが「ふむ、まあバリアのようなものかな」と薄く笑った。なるほど、そう言われて良く見れば、車は青白い燐光のようなものを放ちながら走り続けている。

 そのうち後続のワゴンは弾が尽きたのか撃つのを止め、一定の距離を置いて追走してきた。二人組は紳士が大怪我を負ったのを知っていて、その衰弱を待って襲撃しようと機会を窺っているようだ。その後もワゴンに気を取られ、対向車のトラックとあわや衝突という場面などがあり、緊張の連続であったが諒輔は紳士の事が心配で、時折助手席の方を窺い見た。紳士の顔色は蒼白で、一時的に意識が遠のくのか、首ががくんと項垂れてしまうことがあった。しばらくするとまた顔を上げるのだが如何にも苦しそうである。

「大丈夫ですか、気を失ってしまっては困りますよ」

紳士が項垂れると、車の周囲の青白い燐光が萎み、顔を上げるとまた元に復する。紳士が意識を失うとバリアの効果が失われるに違いなかった。

「思ったよりも大量に血が流れたようだな。このままではいずれ意識を失ってしまうことだろう」

「えぇーそんな! 気を確り持って下さい」

 諒輔は悲鳴に近い声をあげた。

「そうだな、ここらでケリをつけるとするか」

 紳士は呟くと、諒輔に命じて車を路肩に停めさせた。後続のワゴンも一定の距離を置いたまま、後方に停車する。

「車の向きを変えて、あ奴らの方が良く見えるようにしてくれんか」

 言われるままに、諒輔は車を少し横向きにして、助手席の紳士が後方のワゴンを良く見えるようにした。

 そのワゴンから、二人組が降り立つ。背の低い方は拳銃を、背の高い方は日本刀の抜き身を手にしている。最悪の状況は、超最悪の状況になりつつある。車から降りて逃げようとしたが、怪我をした紳士を置いては行けないと思い直した。どうしたものかとやきもきしたが、何も良い考えが浮かばない。諒輔が焦りまくっているその最中、紳士は手を奇妙な形に組み、口で呪文のようなものを唱え始めていた。

 ワゴンの山側は切り立った岩盤になっている。その上部からバラバラと小さな岩石が落下してきて、そのいくつかがワゴンに当たり大きな音を立てた。二人組は振り返って岩盤を見上げていたが、驚愕の表情に変わった。その上部が崩れ、もうもうとした土煙があがったかと思うと土石流となって押し寄せてきたからだ。そして土煙の中には、巨大な蠢くものがあったのである。

 土石流はあっという間にワゴンと二人組を飲み込むと谷側の崖になだれ落ちて行った。巨大な蠢くものは、雷のような咆哮を一声発すると崩れた岩盤の裂け目に入り込み姿を消した。



第二章 救急病院

 諒輔は八王子市内の病院のロビーにいる。先程、看護師から怪我人の緊急手術と輸血が無事終わったと聞き安堵して休息しているところであった。

 疲れが一挙に出てこのままベンチで寝てしまいたいほどであったが、紳士が麻酔から覚めるのを待って、警察の対応など色々相談しなければならないので、こうして座り続けているのである。今頃、落下事故の現場検証に向かった警察が、崖から墜落したワゴン車を発見して大騒ぎになっていることだろう。いずれ諒輔も警察から救出の経緯など聞かれるに違いない。しかしあの一連の出来事をありのまま話しても、誰もまともに受け止めてはくれないであろう。

『それにしても……』諒輔は心の中で呟いた。

『あの土煙の中で蠢いていたものは何だったのだろう』

影のようにぼやけており、はっきりした形は見えなかったが、巨大な亀のようでもあり、首の長い恐竜のようでもあった。

『いずれにしても、あの白髪の紳士がただ者じゃないことだけは確かだ』

 そう結論付けると、それ以上深く考えるのを止めにして飲み物を買う為に立ち上がった。その時、看護師が近寄ってきて、患者が目を覚ましたと諒輔に伝えた。

 

 病室は狭いながらも個室で、左足をギブスで固定されたあの紳士が窓際のベッドに寝ていた。諒輔が近づくと、その気配を感じて目を開けた。

「あー、君か……」

「怪我は痛みませんか」

「いや、大丈夫だ。それより、先ずは君に礼を言わねばならん」

 紳士は礼を述べると、安倍忠彬あべただあきらと名乗った上で「それからこう見えても、私は八十過ぎの爺いじゃ。大きな口をきくが年の功に免じて勘弁してくれ」と言って破顔した。あのドライブインの老夫婦が言うように、見かけによらず気さくな人であるようだ。

 諒輔も自分の氏名が三輪諒輔であること、周囲の皆は諒輔とか諒さんと名前で呼ぶこと、会社を退社して今は運送店でアルバイトをしていることなど、簡単な自己紹介をした。

 そんなやりとりが一通り終わると、諒輔は最も気になっていることを口にした。

「ところであなたは、不思議な力を色々と持っているようですが、一体何者なのですか」

「うーむ、そうだな」

 眼を閉じ考え込む様子であったが、目を開け諒輔の顔まじまじと見つめた。

「私がただ者ではないと気付いておるようだし、君は命の恩人だ。それに君は我々と同じ匂いがすると言うか、何故か他人には思えんのだ。君が私の……」

 忠彬はそこで一旦黙し寂しげな表情を浮かべた。

「君が私の?」

「いや何でもない、それより君の質問に答えよう、私は一言で言えば継承者だ」

気を取り直したように元の表情になって諒輔の問いに答える。

「継承者……ですか?」

 怪訝そうな顔をしている諒輔を見て、忠彬は説明を始めた。その概要は以下のようなものであった。

 

 土御門安倍家は天文、暦、占術などを司ってきた陰陽道の家柄であり、公家として代々天皇に仕えてきたが、忠彬の家系は裏土御門と一族内で呼ばれる特殊な存在であった。この家系の者は、世に出ることなく、密やかに陰陽道の陰の部分を千年以上の長きにわたり継承してきた。その一族の長である継承者は代々摩訶不思議な力を駆使する能力を有しており、天皇家や安倍家が危機存亡の折に、その特異な力を発揮して危機を救ってきた――――

 

 諒輔は忠彬の不思議な能力を目の当たりにしていたこともあって、この突拍子もない話を疑うこと無くすんなりと受け入れた。そして忠彬の話が終わるのを待ち構えていたように訊ねた。

「するとあなたは、陰陽師として有名なあの安倍晴明の子孫なのですか」

 安倍晴明のことなら諒輔も知っていた。諒輔がまだ幼い頃、母が晴明に纏わる不思議な伝説を色々話してくれたのだ。

「うむ、安倍晴明公こそが裏土御門の始祖にあたられる方だ」

「それはすごい! 僕にとって安倍の晴明はあこがれのヒーローでした」

 子供の頃、母から聞かされた話を思い出して諒輔は興奮を覚えずにはいられなかった。

「もうひとつ聞いてもいいですか」

忠彬が頷くのをみて諒輔は質問を続けた。

「岩盤が崩れて、あの二人組が土石流に押し流された時のことですが、土煙の中に何か巨大な蠢くものを見たのです」

「ふむ、それはどんな形をしていたかな」

 あの時に見た印象、巨大な亀あるいは恐竜のような生き物と伝えると「不思議だな、常の者には彼の者の姿は見えぬはずだが……」と首を捻り「あれは玄武じゃ」と告げた。

「玄武というと……あぁ、覚えがあります。確かキトラ古墳に描かれていた」

「そう、その玄武だ。裏土御門家の守護神獣として我々が危機に瀕した時に現れて救ってくれる」

 なるほどあの蠢く影は、歴史の教科書に載っていた亀と蛇が合体したような姿の玄武であったかと納得した。

「あ、それから最後にもうひとつ、あの二人組は何故あなたを襲撃したのですか」

「ふむ、その理由を理解して貰うには、先ず安倍一族の歴史的な背景などから説明しなければならぬ」

 忠彬はそう前置きして話し始めた。


「安部一族に恨みを抱いたり、敵対したりする者が過去の長い歴史において少なからずおった。特に仏教は陰陽道と平安の昔から、朝廷の政への影響力を競い合い、何かと抗争を繰り返してきた間柄であった。しかし時代と共に、仏教が次第に勢力を伸ばし、陰陽道は天文・暦の分野でようやく命脈を保つような有様になってしまったのだ。そのような訳で、それ以降、陰陽道は仏教勢力とは、持ちつ持たれつということで一種の共存を図って来たのだよ……」

 忠彬は疲れたのかそこで一息入れ話を繋ぐ。

「ただあの二人組が所属する組織だけは頑強に和解を拒み、我々に敵対を続けてきたのだ。君は織田信長が比叡山を焼き討ちしたのを知っておるかな」

「えぇ、知っています。全山の僧侶、学僧などを皆殺しにしたのでしょう」

「そうだ、この時実は生き延びた者が少なからずいて、それ等が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったのだ。当時は阿修羅党と名乗っていたそうだが、明智光秀が信長を討った本能寺の変は、あ奴等が背後で糸を引いたと裏土御門家では伝えられておる」

 明智光秀が謀反を決意した理由は、色々の説があるが未だに歴史の謎である。もし本能寺の変が阿修羅党の陰謀であったら、歴史の謎が一つ解けたことになる。

「本能寺の変が阿修羅党の陰謀だとしたら、それは歴史の大きな謎を解き明かすことになるのではないですか」

「うむ、だがな、すべては秘密裏、闇の中で仕組まれた事だ。それを立証するものは何一つ残されていないのだ」

 そう言われてみればその通り、陰謀とはそういうものであろう。

「そうですか、何か残念ですね……ところで阿修羅党とあの二人組にはどのような関係があるのですか」

「阿修羅党は、後の時代になっても、国家権力に弾圧されたキリシタンや新興宗教の信者などを仲間に引き入れて勢力を維持してきたのだ。我々裏土御門家は、時々の権力者からの要請を受けて、彼等と抗争を続けてきた歴史があり、彼等にとって我々は不倶戴天の敵と言う訳だ。現在は阿修羅教団と名乗っておるようだが」

「つまりあの二人組は、その教団に属する者なのですね」

「うむ、それ以外、考えようがない」

 これからも襲撃は続けられるのだろうか、それとも今回に懲りて襲うことは無くなるだろうかなどあれこれ諒輔は思いを巡らした。

「この程度で懲りる相手ではない。油断は禁物だ」

 諒輔は、自分の心が忠彬に読まれているのではないかとふと思った。忠彬ならその位のことは造作も無いことだろう。

 

 そのとき、病室のドアが勢いよく開き一人の男が慌ただしく入って来た。

「会長、ご無事でしたか」

 歳の頃は六十前後、小柄で貧相な感じの男であるが、声は大きい。表情はくしゃくしゃですでに半泣き状態である。

「心配かけたようだな、もう大丈夫だ」

 忠彬がそう言っても、まだ心配が解けないのか男は興奮してしゃべり続ける。

「崖から落ちて大けがをしたと連絡がありまして、びっくりして駈けつけてまいりました。大量出血して意識がないとか、緊急手術するとか聞かされたものですからもう……」

いつまでもしゃべり続けそうな勢いに「まあ待て、それよりもこちらは私を助けてくれた命の恩人だ」と諒輔のことを紹介した。

「いやあ、これは挨拶もせず大変ご無礼いたしました」

涙をぬぐうと男は上着のポケットや、ズボンのポケット、更には鞄の中身などひっくり返している。どうやら名刺入れを探していたようだが、ようやく見つかったようで、その中から名刺を抜き出すと、恭しく差し出した。名刺には、《財団法人日本伝統行事研究保存協会 事務局長葛城保興》と印刷されている。

「わたしは、三輪諒輔と申します。あのう、失業中なので、名刺は持ち合わせていないので……」

 諒輔が言い終わらないうちに、葛城が口を挟む。

「いやいやいや、名刺などそんなものはどうでもいいことでして。それよりなにより、この度は会長を助けていただいて心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 どうやら忠彬は、その財団の会長であるらしい。忠彬は葛城に、一部始終を手短に話し、警察・病院・マスコミなどへの対応を指示した。

 

 病室に医師と看護師が入ってきたので、諒輔と葛城はロビーに移り、話し合いを続けていた。何でも困ったことがあれば相談して下さいと言う葛城の申出に甘んじて、諒輔は軽自動車を損傷してしまって困っていると申し出たのであった。

「分かりました。アルバイト先の運送会社にも何かと迷惑をおかけしたようですね。その運送会社には近日中に私が伺いましてお詫びを申し上げ、車の弁償についてもきちんと致します」

 諒輔はその言葉を聞き、肩の荷が下りたような気分になり、運送会社の名前と所在地を教えると、葛城と別れて病院を後にした。


第三章 八王子運送店

 有限会社栗原運輸は八王子郊外にある小さな運送会社で、諒輔が大学時代にアルバイトをし、失業した今もまた世話になっている先である。

 従業員は社長と娘の八百子の他に数人がいるだけの零細企業で、アルバイト料も決して高くはない。しかし社長が無類のお人好しで、アルバイトの諒輔にも何かと気配りしてくれるので居心地が良い働き場所であった。

 そんな社長の性格は、取引先や従業員から信頼されるなど良い面がある反面、経営者としての厳しさに欠けるところがあった。その欠点をカバーして苦しい台所事情を遣り繰りしているのが、娘の八百子である。

 八百子の母は、八百子が中学生のころ男を作って家を出てしまい、その後は八百子が家事を引き受け、父親と二人で支えあって暮らしてきた。高校卒業後は父親の運送業の仕事を手伝う傍ら、定時制の大学で勉学を続け見事卒業したという頑張屋であった。

 八百子はモデルも務まるようなすらりとしたスタイルで、個性的な顔立ちの美人であった。諒輔より五歳ほど年上であったが、諒輔が大学時代にアルバイトを始めた頃、密かに想いを寄せた女性でもある。そんな八百子に言い寄る男は少なからずいたのだが、父親を一人残して嫁に行けないと結婚を拒み続けていた。しかし、どういう風の吹き廻しか、友人から紹介された公務員と数年前にあっさり結婚して八王子を離れていたのである。

 ところがその相手とはどうにも相性が悪かったようで、昨年離婚して現在は以前と同じように栗原運輸で仕事をしている。

 

「諒さん、お客さんだよ。なんかすげぇ車に乗って来たぜ」

 作業用の雨合羽を着た哲さんが、外からドアを開けて事務所にいる諒輔に呼びかけた。ドアの外はかなり激しい雨である。あの事件からすでに1カ月以上が経過しており、季節はもう梅雨になっていた。

 葛城からは時折、挨拶に行けないことを詫びる電話が入っていたが、やっと昨日になって今日、栗原運輸に行くという連絡があったのだ。

 そういうことだったので葛城が来たに違いないと察した諒輔は「社長、例の人がみえたようです」と告げ、表に出た。すぐその後に社長と八百子が続く。

 そこに駐車していたのは、大きなリムジンでクラッシックカーの一種であるようだった。車の傍らにはフロックコートを着た葛城と詰襟服に制帽姿の運転手がこうもり傘を差して立っていた。

 葛城は諒輔の姿を認めると近寄り恭しく礼をした。社長と八百子は、びっくりしてその場に立ち竦んでいたが、諒輔に声を掛けられて我に返ったように言葉を発した。

「ど、どうも……よくいらっしゃいました。えー、兎に角、先ずは事務所に入られて……」

「これはどうも、ご挨拶に伺うのが遅れまして大変申し訳ありません。それでは雨も降っていることですし、詳しい話は事務所の中でということにさせていただきます」

 事務所に入ると葛城は、忠彬の転院手続きや警察、消防などの対応などのため栗原運輸に来ることが遅れた理由を述べ、諒輔に助けられた経緯を説明し、栗原運輸の車両に損害を与え迷惑をかけたことを詫びた。そして損傷した軽自動車の弁償とお詫びの気持ちですと言って、袱紗から紙に包まれた分厚いものを取り出して差し出した。

「あ、いや、軽自動車は保険で修理すればまだ使えますから、このようなものは……」

 社長と葛城は押し問答をしていたが、傍らの八百子が社長の耳元で囁く。

「有り難く頂戴したら、保険は効かないかもしれないし、あんなポンコツ修理してもしょうがないわよ」

 八百子の声が聞こえたかのように、葛城は八百子を見て頷き言葉を続けた。

「事故にあった車は、修理してもすぐ故障すると申します。命の恩人が乗る車に万一のことがあっては、当方としても面目が立ちませんので、新車に買い替えていただければ幸いです」

 社長がなおも躊躇していると「それでは、遠慮なく頂戴いたします」と八百子は紙包みを受け取ってしまった。

「あの、お茶入れ替えてきます」

 八百子は紙包みを手にして、衝立の後ろにある給湯所に入った。

「ちょっと、諒さん。諒さんたら」

 少しの間の後、衝立の端から顔を出した八百子が諒輔を手招きする。諒輔が立ちあがって衝立の裏に回ると八百子は包みの中身を見せた。

「全部で五百万円も入っているわ。いくらなんでも多過ぎない?」

 八百子は困惑の表情で眉を顰める。

「うーん、軽自動車は百万位だから、四百万がお詫び料ということになるのかな」

「諒さんが貰うのなら命を助けたことだしこれ位当然かもしれないけど、うちは諒さんの雇い主というだけですもの」

「でもいいんじゃない。くれるというものは有り難く受け取っておけば」

 諒輔は気軽に言う。

「諒さんたら、いつも能天気なんだから」

 八百子は腕組みをし、思案する風であったが「諒さん、八百子、お客さんがお帰りだよ」という社長の言葉に衝立の蔭から諒輔と共に飛び出した。衝立裏でこそこそ話していることが、どんなことか察しをつけた葛城がここは早々に帰った方が良いと判断したに違いない。八百子に話す隙を与えずに葛城はそそくさと立ちあがり「それでは皆様これで失礼いたします」と挨拶し入口に向かい、後に付いてきた諒輔に振り返り話しかけた。

「諒輔さんには会長が直接お目にかかって、改めてお礼を申し述べたいと言っております。ご都合の付く日にお迎えに上がりますが如何でしょう」

諒輔は忠彬が都内の病院に転院したり、忙しかったりで、まだ見舞いに行っていなかった。一度は見舞いに行かねばと思っていたところだったので「分かりました。でも自分で病院まで訪ねて行きますから、お迎えは無用ということでお願いします」と答えた。あんな大層な車で迎えに来られてはたまらない。

 

 葛城が去った後、三人で受け取った金の扱いについて話し合いが続けられたが、諒輔の主張に従い、相手の気持ちを素直に受け入れることで話しがまとまった。

「正直言うとね、このところ資金繰りが苦しくて……ほんと助かるわ」

ほっとした表情の八百子に対し「いやぁ、いつも苦労かけてすまない」と社長が頭を下げた。

「何よ、水くさい。それより、予期しないお金が入ったことだし、偶には皆でパーッと飲みに行かない」

「そうだね、賛成。仕事、チャチャッと片付けて哲さんたちにも声掛けて皆で行こう」と諒輔はすぐに賛意を示したが、社長は「うーん、そうだな……」と煮え切らない。

「実は俺、今日ちょっと都合が悪いんだ。そうだお前たち二人で行ってきなよ。うん、そうしな。昔よく二人で飲みに行ってたじゃないか」と熱心に二人で行くことを勧めた。


 数時間後、諒輔と八百子は、行きつけの酒場でビールのジョッキを傾けていた。すでに数杯のジョッキを空けた八百子の顔はほんのり上気している。日頃、化粧も碌にせずジーンズにTシャツ姿で忙しく立ち振る舞っている八百子が、今夜はワンピースに着替えし、うっすらと化粧までしている。

「なんか、強引だったね、お父さん」

「うん、何が?」

 諒輔はそんないつもと違う八百子に気圧され気味である。

「ほら、二人で飲みに行けってことよ」

「哲さん達も都合悪いって言ったそうだから仕方ないよ」

「それはお父さんが哲さんに……いやもういいわ、そんなこと」

やれやれという表情をして、八百子は話題を変え「それより、諒輔。彼女と別れたってほんと」と探るような目で諒輔を見た。

 諒輔と呼び捨てにするということは、大分酔いが回った証拠であり、要警戒である。八百子は酒にめっぽう強いが、からみ酒の傾向があるのだ。こんな時に隠し立てをすると碌なことが無いことを良く承知しているので、元彼女に愛想を尽かされて振られたことを正直に話した。滅多に悩んだり、後悔したりしない性格の諒輔もさすがに別れた直後は失恋の痛手に苦悶したのだが、引きずることなく今はもう立ち直っている。

「彼女の気持ち良くわかるわ。諒輔は恋人としては申し分ないかもしれないけど、結婚相手としてはねぇ」と八百子は諒輔の話に納得して一人で頷いている。

「恋人として申し分ないなんて言われると照れるな」

「何言ってんの。ほんとに能天気ね、まるで分かっていなぃんだから」 

あきれ顔をして八百子はジョッキの代わりを注文した。

「ところでさぁ、知ってる。私の名前のこと」

「いや……」

「八百子って、八百屋の子みたいで格好悪いでしょ」

「いや、そんなことは……」

「お父さんたらね、最初は八王子って書いて、やおこ、と読ませようとしたらしいの」

「へぇー、そうなんだ。社長、郷土愛が強い人だからなぁ」

「それを聞いた周囲の人がね、そんな名前にしたらいじめに遭うから止めるべきだって言ってくれたの、当然よね。それでお父さんも折れて一字だけ変えて八百子にしたの。可笑しいでしょ」

 そんな他愛もないことを互いに面白おかしく話しながら飲み続けていたのだが突然、八百子は黙りこんだ。急変した八百子の様子に「気分悪いの、大丈夫?」と気遣ったが、「諒輔はいいよね、いつも能天気で」と八百子は呟き、小さな溜息をした。意味を解しかねて諒輔がぽかんとしていると「諒輔、帰るよ」と八百子は大声で言い、伝票を掴むとふらふらと立ち上がった。


第四章 病院特別室

 中元の季節は、栗原運輸にとって歳暮の季節と並んで最も忙しい時期である。仕事に追われて中々見舞いに行けなかったが、七月に入り学生アルバイトを雇った為ようやく諒輔の手が空いた。大分時期がずれ込んだが、気象庁が梅雨明けの発表をした今日、忠彬が転院した都内の病院を訪ねたのであった。

 

 病院の最上階にある特別室病棟ロビーは厚い絨毯が敷き詰められており、静かにBGMが流れていた。ロビーの壁面の一方は全面ガラス張りになっており眺望が素晴らしい。ホテルのフロントのような受付で用向きを伝えると、受付嬢は「お待ちしておりました。ご案内いたします」と言って先に立って歩き出した。

 特別室に通ずる入口でセキュリティ用のカードをスロットに差し入れ、更に奥まった一画にある部屋の前に至ると受付嬢はドアを軽くノックした。するとドアが中から開かれ、豪華な施設には場違いな貧相な男が現れて諒輔を中に招じ入れた。現れたのは、あの葛城事務局長である。

 案内された部屋にはベッドや医療機器は見当たらず、欧風の家具調度品が配されており、まるで高級ホテルのスイートのリビングルームのようであつた。その広い部屋の中央に忠彬が車椅子に座って待っていた。

 忠彬は大分痩せたようで一回り小さくなったように感じられ、諒輔は内心驚いたが表情には出さず見舞いの言葉を述べた。忠彬は重ねて礼を述べ、挨拶が一段落したところで改まった表情で切りだした。

「今日こうしてわざわざ来て貰ったのは、実は折り入って頼みたいことがあるからでの。勝手な申し出であることは充分承知しておるが、是非君に頼みたい」

「はぁ、なんでしょう」

 諒輔は怪訝な表情になる。

「急がねばならんのだ。時間が限られておる」

 いつになく切羽詰まった忠彬の様子に諒輔も真剣な表情で答えた。

「分かりました。私に出来ることでしたら……先ずはその頼み事の内容を説明していただけますか」

 諒輔の返事を聞いた忠彬は安堵した表情になると説明を始めた。その内容は以下のようなものであった。


 転院したこの病院で、葛城の勧めもあり怪我の治療の傍ら人間ドック検診を受けた。その結果、膵臓がんが発見され、更に悪いことにはすでに他の臓器に転移しており、手術は不可能であることが判明した。

 当初、忠彬に病名などは伏せられていたが、本人のたっての願いにより、膵臓がんであることが告知された。そして忠彬は、余命が数ヶ月であることを知ったのであった。

 忠彬は裏土御門の長として、受け継いできた記憶を何としても直系家族に引継がねばならないと思い焦燥した。しかし、一人息子は十数年前に交通事故で既に亡くなっており、引継ぐとすれば孫娘しかいない。

 その孫娘は東京にいるはずだが、住所などはわからず、ずっと音信不通である。しかし孫娘の母親が住む京都の住所は分かっているので、京都の母親を訪ねて、孫娘の連絡先を聞き出して欲しい――――

 

 忠彬は説明中も時折苦しそうな様子をしていたが、何とか一通り説明をし終えた。

「君にこんなことを頼むのは筋違いと充分承知しているが、これも何かの縁と思ってどうか頼まれてはくれないか」

 諒輔は突然の申出に戸惑って返事をせずにいた。

「京都の母親の連絡先などについては葛城が説明する。申し訳ないが、私は少し休ませて貰う、でどうだ、引き受けてくれるか」

 頼まれたら断れないと言う諒輔の性格を知っての申出だとすれば、これを引き受けるのは相手の思う壺とは思うものの、余命幾ばくもないもない老人の頼みとあれば引き受けざるを得まい。諒輔は承知した。

「会長、大丈夫ですか。すぐ看護師を呼びますから」

 葛城は諒輔に頭を下げると車椅子を押し別室に向かった。別室がベッドや医療機器を備え付けた病室になっているのだろう。

 ほどなく医師と看護師がやってきて、別室に消えた。入れ替わりに葛城が戻ってきて「抗がん剤の副作用で体調が優れないのです。お許し下さい」と涙ぐみハンカチで目頭を押さえた。

 葛城は母親の京都の住所と、電話番号と名前を教えてくれたのだが、その母親の名前は《安倍クリスチーナ》というものであった。不思議そうな顔をしている諒輔に「えーそうです、母親のクリスチーナはアメリカ人です」と説明した。

「京都大学に留学中に息子さんの忠成様と知り合い二人は恋に落ちました。でも安倍家の一人息子で、将来陰の長者になる者が、外国人と結婚することは許されないことでした。二人は会長の説得に耳を傾けるどころか、強く反発して同棲生活を始めたのです。そして子供を授かったのを機に二人は正式に結婚しました…… 」

 父子の間をとりもち和解するよう奔走したのは葛城であった。当時の事が思い出されたのか葛城は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。

「クリスチーナさんは、忠成さんが亡くなられた後もアメリカに帰らなかったのですね」

 諒輔は説明の続きを促した。

「えぇ、その後もずっと京都に住んで、平安時代の歴史と文学を研究しておられます。現在は私立大学の講師などをされています」

「事情は大体分かりました。でもクリスチーナさんと安倍家とはずっと絶交状態だったわけですよね。私のようなものが出向いてお願いしても、簡単に娘さんの連絡先を教えてくれないのではないでしょうか」

 幾ら能天気の諒輔でも、これ位の事は察しがつく。

「はい、それは会長も案じておられまして、クリスチーナさん宛ての書状を書かれました。これがその書状です。結婚を認めなかった事など過去の様々な仕打ちについて率直に詫びると共に、伝統を継承する事の大切さを縷々したためたものと伺っております」

和紙に書かれた書状を受け取った諒輔は、今さらながらに重い責任を荷なわされたことに気づかされた。


第五章 京都

 諒輔にとり京都は無縁の地ではない。母親の実家が京都であり、母が亡くなる前は年に数度、母に連れられて京都に来ていたのである。

 母は諒輔が小学校六年生の時に、病気のため亡くなったが、医師である父は母を助けられなかったことを大変悔やんだ。当時父は大学病院勤務で将来を嘱望された外科医であった。その為仕事は多忙を極めており、家族のことはその一切を母に任せ切りであった。母が病に冒された時も、仕事に追われてその身体の異変に気付くのが遅れてしまったのだ。

 母が亡くなった後、父は大学病院を辞めて開業医となり生計を立てていたが、諒輔が大学に進学するのを待って、沖縄の離島の診療所に赴任したのであった。

 そのような経緯もあって母の思い出が詰まった京都に行くことがなんとなく躊躇われていたのであった。諒輔にとり今回の京都行きは久々のことである。

 

 諒輔が京都を訪れた日は七月の上旬で、梅雨明けの時節の暑さは耐えがたいほどだった。堀川通りには陽炎がゆらゆらと立ち昇り、道路に描かれた白い歩道標識が眩しく光っていた。諒輔がタクシーを降りたこの辺りは京都市街の北西部にあたるところで、西陣と称される地域である。古い町屋作りの建物が点在する京都らしい一画で、訪れた先も小振りながら町屋作りであった。

 玄関の表札には“安倍”と言う小さな表札が掲げられており、脇には”西陣倶楽部 源氏物語教室”という看板が掛けられていた。吹き出る汗を拭うと格子状の引き戸を開け、薄暗い奥に向かって声をかけた。

 ややあって近寄ってくる足音が聞こえ、現れたのは作務衣を着た女性であった。髪はブルネットで瞳は青みがかった灰色をしている。

「昨日電話をした三輪諒輔です」と名前を名乗り、更に用件を話そうとすると「そこは陽が当って暑いでしょう。どうぞ中に入ってください」と外国人と京都人の両方が入り混じったような微妙な抑揚で言い、諒輔を土間に招じ入れた。建物の内部は薄暗いが、風が吹き抜けひんやりとしている。

「ようお越しになりました。安倍クリスチーナです」と自己紹介し、下駄を脱いで式台に上がり諒輔を居間に案内した。居間は民芸風の箪笥や座卓が置かれ、開け放たれた障子の向こうは坪庭となっていて、濃い緑が逆光に浮かんでいる。

 諒輔は勧められるまま、座卓の前に座ると、挨拶もそこそこに用件を切り出した。忠彬が末期がんに罹患し余命幾ばくもないこと、孫娘に会いたがっていることなどを話した。

「これがお義父様からお預かりしてきた書状です」

 クリスチーナは受け取った書状の封を切り、水茎の跡も鮮やかな文字をみると顔を輝かせた。

「あぁ、なんて麗しい筆跡でしょう」

 クリスチーナが平安文学を研究していることを知っている忠彬は、平安風の書状としたのであろう。反対側に座る諒輔からも開かれた書状の一部を見ることが出来たのだが、情けない事にその文字は一切判読不能であった。

 熱心に読んでいたクリスチーナだったが、途中からは時々読むのを止めて溢れる涙を手の甲で拭った。書状を読み終えたクリスチーナは赤く充血した目で諒輔を見据えると「承知しました。娘の連絡先をお教えします」と言って立ち上がると部屋の隅に行き、文机の前に正座し何やら書き物をしていたが、戻ると諒輔に和紙に書かれたメモを手渡した。

「これが娘、安倍理紗の連絡先です」

「ありがとうございます。お義父様はさぞお喜びになることでしょう」

 責任が果たせた安堵感から諒輔は満面の笑顔であったが、クリスチーナは厳しい表情で続けた。

「ただ、理紗がお義父様に会うかどうかは本人が決めることです。忠成さんは生前、娘にお義父様は恐ろしい人なので、決して近づいてはならないと、常々言い聞かせていました。ですから、お義父様が望んでも理紗は会いたがらないかもしれません」

「恐ろしい人と言い聞かせていた……」

 諒輔は、忠彬、忠成父子の相克の深さを垣間見た思いで表情を引き締めた。

「それからお義父様の命を救っていただいたそうですね。手紙にあなたのことも書かれていました。私からもお礼申し上げます」

「あ、いや、お礼を言うのはこちらの方です」

 諒輔は居住まいを正すと、改めて礼を述べ辞去するため立ち上がった。


 玄関を出ると、ギラギラと西日が照りつけており、薄暗い室内から出てきた諒輔はそのまぶしさに目を顰めた。そして日差しを避けて軒下に入ると、携帯を取り出し葛城に電話をかけた。

「あー諒輔さん、京都は暑いでしょう。ほんとお疲れ様です。で、どうでした?」

 葛城は性急にまくし立てる。

「娘さんの連絡先を教えていていただきました」

「そうですか、そうですか。それは良かった。早速会長にお伝えします」

「えぇ、でも……」

 娘の理紗は会ってくれないかもしれないと言うべきか躊躇する諒輔に葛城が畳みかける。

「諒輔さん、お疲れでしょう。今日は京都に泊まってゆっくりなさって下さい。詳しいことは明日でいいですから」

 腕時計を見た。今から直ぐ帰っても東京に着くのは午後十時を過ぎてしまうだろう。

「はぁ、そうですね。それではそうさせて下さい」

 京都の暑さにぐったりしていた諒輔は素直に葛城の勧めに従うことにした。携帯を切るとタクシーに乗るため表通りに向け歩き出した。祇園祭りが始まり、西陣の各町内は宵山や山鉾巡行の準備をしているのであろう、遠く近く祇園囃子が聞こえる。ふと幼い頃の思い出がよみがえり、胸が切なくなった。

 表通りに出てタクシーを拾うと、諒輔は行き先を下鴨神社と告げた。ホテルに行くのは後回しにして、糺の森を訪ねようと思い立ったのであった。糺の森は母への想い出が最も詰まった場所であり、長い間行くことを封印してきた場所でもあった。

 タクシーを降りた時はようやく陽が傾き、鴨川から吹いてくる風の効果もあって、さすがの熱気も大分和らいでいた。原始の森の様相を今に伝えるという糺の森を歩きながら、諒輔は母の思い出に浸っていた。


「ちょうど今頃の夕暮れ時の事をね、逢魔が時って言うのよ」

母親は浴衣姿で、片手に団扇を持ち、もう片方の手で幼い諒輔の手を握っている。街は暮れなずみ家々の軒先に吊り下げられた提灯に次々に明かりが灯され、幻想的な街並みに変貌して行く。祇園囃子の音、さんざめき行き交う多くの人々の影、どうやら祇園宵山の光景のようだと記憶の底で諒輔は気付く。

「オーマって、お馬さんのこと」

 諒輔が、母を仰いで問いかける。母はしゃがみ込み諒輔の頭を撫でながら「違うわ、逢魔って言うのはね、魔物に出逢うと言う意味なのよ」と優しく教える。

「ふーん、それじゃ、僕たちも魔物に出逢えるの」

テレビや絵本、ゲームなどに出てくる魔物しか知らない諒輔にとり、魔物は怖いと言うより、むしろ出逢ってみたい興味ある存在であった。

「そうね、逢えるかもしれないわ。あなたには、ご先祖さまの血が流れているからきっと魔物を見ることが出来るはずよ」

 母がどうして、そのようなことを話して聞かせたのか記憶にないが、魔物に逢えるということを聞いて無邪気に喜んだことを今も憶えている。そして母はこう言ったのだ。

「お母さんが生まれた京都のお家はね、下鴨神社というそれはそれは古い神社と深い繋がりのある家柄だったのよ。明日はその神社に行ってみましょうね」

 

 今、その下鴨神社の森にいるのだと、諒輔は感慨深げに周囲を見渡した。いつの間にか辺りは深い闇に包まれ、鬱蒼とした木々の向こうに参道の白色灯が狐火のように浮かんでいる。行く手から小川のせせらぎの音が聞こえ、まるで深山幽谷の地にいるかのようだ。何時になく感傷的な気分になった諒輔はまた遠い昔の記憶を呼び起こした。


 母はその後も京都に行く度に、諒輔を連れて下鴨神社に行った。そして糺の森を二人で歩きながら神社の由来や先祖に纏わる話を色々してくれた。

 中でも母が楽しそうに話してくれたのは葵祭りに関するものであった。中学・高校時代は毎年欠かさず葵祭に参加していたようで、母にとってそれは青春時代のかけ替えのない想い出だったのだろう。

「とても美しい行列でね、皆が古い時代の衣装を着ているの。私は綺麗な着物を着て腰輿およよの脇を歩くのよ」

「えー、オヨヨって変なの」

「ふふ、可笑しいわよね。腰輿というのは女人行列の中で一番偉い人が乗るものなのよ」

 オヨヨ、オヨヨと叫びながら跳ねまわる諒輔を見る母は実に幸せそうであった。


 それからというもの諒輔は糺の森に来るといつも葵祭の話をして貰うようになった。母はせがまれると「諒輔は葵祭が好きなのね」と笑い、楽しげに葵祭に纏わる話を聞かせてくれるのだった。


第六章 神楽坂

 翌日、京都から戻り、諒輔は忠彬の元を訪ねた。忠彬は数日前に会った時より更に痩せたようで、病状が悪化していることを窺わせた。そんな忠彬の様子に胸を痛めたが、クリスチーナとのやりとりについて、順を追って正直に話すことにした。他人の心を読む能力のある忠彬に隠し立ては通用しない。

 クリスチーナが町屋作りの建物に住んでいること、作務衣姿で出てきたこと、忠彬の書状を見せると目を輝かせたこと、読み始めると涙を流したこと、それらの話に忠彬は、興味深げに一つ一つ頷き返していた。しかし忠成が理紗に“祖父は恐ろしい人だから決して近寄ってはならない”と言い聞かせていたということに話が及ぶと、忠彬は苦渋の表情を浮かべ目を閉じた。

 しばらくして目を開けると、「私が直接理紗に会いたいと申し入れても、理紗は簡単には承知しないだろう」と、諒輔に理紗の説得を要請したのであった。そのような成り行きになるのではと、ある程度覚悟をしていた諒輔は、今度の頼みも引き受けることにしたのであった。

 

  諒輔は忠彬の元を辞すると、すぐに理紗に電話をして用件を伝えた。電話に出た理紗は「母から昨晩連絡があり、経緯は伺っています」と諒輔と会うことをあっさり承知してくれた。都合のいい場所と時間を指定するよう求めると、神楽坂で夜の九時であれば明日でも構わないと返答したのだ。


 神楽坂には昼間訪れたことは何度かあるが、夜間に訪れるのは今回が初めてである。賑やかな表通りから横町に入り、更に奥まった路地に入ると、あたりは急にひっそりとして薄暗くなる。

 神楽坂はかっては都内でも有数の花街であったが、昨今は置屋の数が数軒を数えるのみになっており、現役の芸者も激減している。しかし今、諒輔が足を踏み入れているこの路地は石畳で、昔ながらの黒塀があったりして、花街の風情を色濃く残していた。

 行く手の方から三味線の音色が微かに聞こえてくる。今にも粋な芸者が、路地の向こうから現れそうな雰囲気である。路地の角を曲がると、三味線の音色がはっきりと聞こえるようになった。その音色が聞こえてくる建物は和風の料亭のような造りである。塀に看板が掲げられており、“神楽坂邦楽稽古処”と書かれている。ここが指定の場所に違いない。

 門を開けると足元には飛び石が配されており、斜めに玄関に続いている。狭いながらも茶室の露地のような設えになっており、地面に直接置かれた行燈が辺りを淡く照らしている。

 玄関を入ると、正面の壁に神楽坂邦楽稽古処のポスターが貼られており、下駄箱の上には各種のパンフレットが並べられていた。理紗はここで邦楽の稽古を受けているのだろうか。案内を乞うとスタッフと思われる女性が出てきたので用向きを伝える。

「理紗先生は今お稽古中です。もうすぐ終わりますので、上がってお待ち下さい」

控えの部屋に案内された諒輔は、理紗先生と言ったスタッフの言葉を訝しく思いつつ、座卓の上に置いてあった神楽坂邦楽稽古処のパンフレットを手に取った。手持ち無沙汰もあって何気なく開いて見ていると、講師紹介のページがあり、理紗のプロフィールが掲載されている。

 

 安倍理紗

 一九八七年 京都市に生まれる 

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部邦楽科三味線音楽専攻 卒業

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部音楽研究科入学(在籍中)

 二〇一〇年 神楽坂邦楽稽古処三味線コース講師

 《 演奏活動》

 邦楽ライブ活動を積極的に行う。

 洋楽演奏家とのコラボにも意欲的


 理紗がここで三味線講師をしているとは夢にも思わなかったし、理紗の意外な経歴は驚きであった。しかし母親のクリスチーナが平安時代の文学を研究していることを思えば、娘の理紗が邦楽の道を志したとしても不思議ではない。そう思って諒輔は納得した。

 それからしばらくすると、奥の部屋から若い女性が五、六名出てきた。そのうちの数人は三味線を抱えており、諒輔のいる部屋に入ると隅に置いてあった各自のケースに三味線を入れ、手に提げると互いに挨拶を交わして帰って行った。急にしんと静まり返ったその時、着物姿の女性が出てきて諒輔に声をかけた。

「三輪諒輔さんですね、安部理紗です。こんな時間に来ていただいて申し訳ありません」

 西洋人の血が混じっていると分かる顔立ちであるが、和服の着付けが板に着いている。容姿はアメリカ人の母親の血より日本人の父親の血を幾分多く受け継いだのだろう、ハーフにしてはバタ臭くない顔立ちだ。髪は濃いブルネットで、瞳の色は薄い茶色をしていた。

「三輪諒輔です。お忙しいところ無理を言いまして、こちらこそ申し訳ありません」

 諒輔は立ち上がり頭を下げた。

「お話はこの近くのイタリアレストランで伺ってもよろしいでしょうか。ここは閉めてしまうので、直ぐ出なければならないのです」

 諒輔が承知すると、理紗は玄関で待つように言うと、奥の部屋に戻った。玄関で諒輔が待っていると、身支度を終えた理紗が現れた。

「お待たせしました。それでは行きましょうか。レストランはすぐ近くですから」

 下駄箱から草履出して履き、諒輔と共に玄関を出た。

 神楽坂は和服姿が良く似合う街である。先に立って歩く理紗の姿につい見入ってしまう諒輔であった。


 そのイタリアレストランは路地から出た直ぐの所にあり、かなり混み合っていたが幸い二人用の窓際の席が取れた。

「食事をしながらお話を聞いてもいいかしら。私お腹ペコペコなんです」

 諒輔のことをほぼ同じ年代と見たのか、理紗は気取る様子を少しも見せない。

「えー、もちろん。僕もビール飲んでいいですか。さっきから喉カラカラなんです」

 諒輔の返事が可笑しかったのか理紗は笑いをこらえる様に口元を手で押さえた。

「えぇ、もちろん。それじゃ私もビール頂こうかしら」

理紗は美人の上に理知的な顔立ちなので、一見近寄り難い女性のように見える。しかしこうして話してみると気さくな一面も持ち合わせているようなので、諒輔はほっとした。

 生ビールが入ったグラスが二つ運ばれてきた。諒輔はグラスを前にして何と切り出したらよいものか一瞬迷ったが、早くビールが飲みたかったので「それではとりあえず、乾杯」とグラスを持ち上げた。

「とりあえずに乾杯」

 理紗は微笑み、左手で袂を押さえると、右手でグラスを掲げた。

 こうして二人の会話は始まったが、導入部こそフレンドリーな雰囲気であったものの、話が本題に及ぶと理紗の表情は険しくなった。そして忠彬と会うことに対し、慎重な姿勢を終始崩すことはなかった。父と母に対して忠彬が行ったことは簡単に許されるものではないと頑なに思い定めているようだった。諒輔は忠彬の病状が進んでいるので、なるべく早い時期に会うよう考え直して欲しいと訴えたが、理紗は「母とも良く相談して決めたいと思います。しばらく考える時間を下さい」と言って諒輔に頭を下げた。


第七章 千年の記憶

 神楽坂を訪れた翌日、諒輔は再び忠彬の入院している病院に行った。特別室のドアを開けて中に招じ入れたのは今回も葛城だったが、通された部屋はリビングではなく別室であった。忠彬は医療機器に囲まれたベッドに、点滴の管、心電図などのモニターを取り付けられた姿で寝ていたが、諒輔が近づくと眼を開いた。

 諒輔は忠彬と葛城に事の次第を報告した。聞き終えた忠彬は「そうか、やはりな」と言うと眼を閉じ、じっと何かに耐えている様子であった。予期していたとはいえ、相当なショックを受けたようである。

「諒輔さん、もう一度理紗様に会って説得する訳には行きませんか」

葛城は縋るように諒輔を見た。

「いや、無理強いは禁物だ。理紗が自ら会うと言うまで、もうしばらく待つことにしよう」

 忠彬は苦しそうな表情を浮かべると、身を捩った。かなり具合が悪そうである。末期がんの痛みを緩和するためモルヒネなどが投与されているが、それでも時々苦痛が襲うようであった。

 突然ベッドの周囲に置かれた医療機器の一つが、赤く点滅しながらピッピッピッという警告音を発し始めた。葛城が慌ててナースコール用のインターフォンのボタンを押す。

「すぐに来て下さい。血圧が低下しています」

 意外な展開に諒輔は成す術も無く茫然としていた。すぐに看護師と医師が相次いで走り込んできて、すばやく状況をチェックすると、注射などの処置を施した。

 処置を終えた医師は、葛城と諒輔を手招きしリビングに行くと「この数日病状が安定していたので、私達も安心していたのですが、容態が急に悪化したようです。今日明日ということはないでしょうが、万一に備えて関係者に連絡するなどなされた方がいいでしょう」と告げ、続けて「一時間位してからまた参ります。その間に何かありましたら呼んで下さい。すぐ駆けつけますから」と一礼すると、看護師と共に特別室を出て行った。

 突然の成り行きにただ驚いていた諒輔だったが、事の重大性に気付き、葛城に申し出た。

「クリスチーナさんと、理紗さんに連絡した方が良いのではないでしょうか。よろしければ私から事情を伝え、なるべく早く病院に来るよう話しますが」

「そうですね、そうして頂けると助かります。私はその他然るべき方たちに連絡いたします」

 諒輔は忠彬の様子に異常が無いことを確かめると、葛城にロビーに行くと声をかけて特別室を出た。気分転換を兼ねてロビーでクリスチーナと理紗に電話をする積りであった。 

 

 特別室専用ロビーには、受け嬢の他誰もいない。諒輔は隅のソファーに腰を落ち着けると、先ずクリスチーナに電話を入れ事情を話した。クリスチーナは忠彬が危篤状態と聞くと驚き、大学での講義が終わり次第、東京に駆けつけると約束してくれた。

 次に理紗に連絡を試みたが、電話は一向に繋がらない。留守番電話に至急連絡するようメッセージを入れたが、その後何分経っても何の音沙汰もない。困惑しつつも諒輔は、神楽坂邦楽稽古処に聞けば何か分かるかも知れないと思いついた。

 メモしておいた番号に電話すると、先日の女性スタッフと思われる者が電話に出て、理紗は現在、銀座のホールで邦楽ライブに出演中であると教えてくれた。あと1時間もすればライブは終了するとのことであった。諒輔は再度理紗の携帯に電話して、留守電に忠彬が危篤であること、クリスチーナが東京に向かっていること、理紗もなるべく早くこの病院に来て欲しいことなどを吹き込んだ。

 

 特別室に戻りると葛城はベッドの傍らの椅子に座っていた。

「ずっと眠られています。病状は安定しているようです」

 諒輔は頷き、葛城の隣に腰かけた。そして互いの報告をし終えると二人は沈黙し、忠彬の寝顔を見守った。

 

 諒輔はふと何かの気配を感じて目を覚ました。この数日来の疲れのため居眠りしてしまったようだ。隣を見ると葛城も居眠りしている。

 先程の気配は何だったろうと、周囲を見回した。するとリビングルームに通じる入口の近くに白い靄のような影が二つ、ぼぅっと浮かび上がっているのが見えた。その二つの影は次第にコントラストを強め、人の形となり、どうやらそれが妙な着物を身につけた少年と識別できるようになった。ただ普通の人間と違うのは、頭髪の生え際から大きな耳が飛び出していることで、もう片方の少年には角まで生えていた。二人が着ている装束はどこかで見たような記憶がある。思いを巡らせて諒輔は気付いた。それは葵祭の牛車の赤い引綱を持つ牛童が着ている水干というものにそっくりであった。

 諒輔は隣で居眠りをしている葛城を肘で突いた。

「何か異様な者がいます」

 諒輔が葛城の耳元で囁くと、目覚めた葛城は「あぁ、居眠りしてしまいましたか」と言って眼を擦った。

「葛城さん、あそこです。牛童のような水干姿の少年が二人立っています」

諒輔の言葉に我に返った葛城は、慌てて椅子を立ち、忠彬に近づいた。

「お目覚めなのですね」

「うむ、先程から目覚めておった」

「私としたことが気付かず失礼しました。ところで今、式神をお遣いになりましたか」

 葛城は何かを探すように周囲を眺め回した。

「たった今、犬麻呂と牛麻呂を呼び出した」

「私には何も見えませんが……でも不思議です。諒輔さんは見えるようです」

「うむ、そのようだな」

 忠彬は、葛城に小声で何か囁き、聞き終えた葛城が諒輔を呼んだ。

「諒輔さん、会長がお話をしたいそうです。こちらに来ていだだけませんか」

 葛城はベッドの操作ボタンを押して、忠彬の上体を起こすと一歩退いた。

 諒輔は忠彬の近くに歩み寄り、話が良く聞こえるように腰を屈めた。

「君は彼の者が見えるのだな?」

 忠彬が諒輔の眼を鋭い眼光で見据えた。

「はい、牛童のような装束をした二人でしたらそこにいますが」

「うむ、そうか。恐ろしいとは思わぬか」

「いえ、少しも、それどころか、何やら懐かしい感じさえします」

諒輔の返事を聞いて忠彬はしばらく考え込むようであった。

「重ね重ねの願いで恐縮の極みだが、是非にも引き受けて欲しい願い事がある」

 そう言うと忠彬は右手を上げ、指先で宙に小さな円を描いた。すると式神と思われる二人の童がするすると諒輔の近くに歩み寄り、揃って深々と辞儀をした。式神に頭を下げられて仕方ない。

「分かりました、ともかく詳しく説明して下さい」

まんまと忠彬の策に嵌められたようにも思われたが、兎も角その願いを聞くことにした。

 忠彬は頷くと、呪文を唱えた。すると二人の式神は輪郭をぼかして行き、白いガス状のものとなり消えてしまった。それを見届け、忠彬は語り始めた。

 

「私の命がもう僅かしか残されていないことは、この私が誰よりも良く知っておる。しかしこのまま死んでしまっては、千年以上連綿として続いた裏土御門が私の代で途絶えてしまう。死ぬ前に理紗に継いで貰おうと思っておったが、今となっては手遅れと断念せざるを得ない」

 そこまで言うと忠彬は疲れたのか話を中断し呼吸を整えた。

「裏土御門家が途絶えることは何が何でも避けねばならぬ。そこで最期の願いとして、君に裏土御門家の長を引き継いで貰いたい」

思っても見ない申出に諒輔は驚いた。裏土御門家の長は摩訶不思議な力を有して天皇家や安倍家の危急を救うという途方もない存在であるはずだ。

「でも、私は安倍の血筋の者ではありません。そんな私が引き継ぐことなどできるのでしょうか」

「君は常人には無い能力を持っておる。先ほどそれが改めて実証された。大丈夫だ」

 気力を振り絞って訴える忠彬の迫力に諒輔は圧倒された。もうすぐ死んで行く者の最期の願いでは断る訳には行かないだろう。

「うーん、自信はありませんがそれ程に仰るなら……」

「そうかありがたい。それでは私の両手をしっかり握って下さらんか」

「こうですか?」

 訝しがりながらも諒輔は、言われるままに差し出された忠彬の両手を双方の手で握り締めた。すると握った双方の手が熱くなり、次に強烈な電流のようなものが忠彬の両手から流れ込み脳にまで及んだ。そして大量のイメージが次から次へと奔流のごとく押し寄せ、諒輔の意識の中で逆巻き、渦巻いた。同時に猛烈な頭痛が襲いかかって来た。諒輔は忠彬の手を振り解こうとしてもがいたが、力が全く入らなかった。ひたすら歯を食いしばって耐えたが、遂に力尽き崩れ落ちた。


 葛城は諒輔が忠彬に覆い被さるように崩れ落ちるのを見て、諒輔を抱え起こし、椅子に座らせた。諒輔はぐったりとして、時折身体を痙攣させている。

 振り返って忠彬の様子を窺うと、がっくりと首を項垂れ気を失っているようだ。慌てて葛城がベッドに近寄ると、数種類の医療モニターが点滅をし、警告音を発し始めた。葛城はナースコールのボタンを押して、医師と看護師を呼んだ。

 やってきた医師は応急措置を施すと、ストレッチャーの運び込みを看護師に指示した。

「昏睡状態に陥りました。非常に危険な状態です。この病室では充分な治療と監視が出来ないので、集中治療室に移します。よろしいですね」

 医師が葛城に告げると、看護師たちは手慣れた手付きで忠彬の身体をストレッチヤーに移した。そして一同はストレッチャーを取り囲み、急ぎ足で集中治療室に向け出て行った。

 葛城は、椅子に腰かけ、頭を抱えて身体を小刻みに震わせている諒輔に近づき、「諒輔さん、大丈夫ですか。しばらくベッドで休んでいて下さい。私は集中治療室に行ってきますから」と耳元で叫んだ。そして肩を差し入れ、諒輔を立ち上がらせ、支えながらベッドに運び込んだ。大きな諒輔を抱えて息が切れ、肩で息をしていたが、諒輔の靴を脱がし、シーツを胸元まで掛けると特別室を出て行った。

 

 諒輔は放心状態でベッドに横たわっていた。混濁した意識がどんどん拡散して行く。


 どの位の時が経ったのだろうか。諒輔の脳の一部が何かに感応した。どこか遠くで声がする。その声は次第に鮮明になり、どうやら諒輔の名を呼んでいるようだ。眼を開けようとしたが、瞼に力が入らない。手足も同様で全く動かすことが出来ない。そうこうする内にも、呼びかける声は更に大きく鮮明になった。

『私の声が聞こえるか』

 諒輔は答えようとするが、話すことはもちろん、頷くこともできない。

『そうか聞こえておるな。心で思えば私に通じる、言葉は入らぬ』

 聞き覚えのある声である。

『その声は……』

『うむ、忠彬だ』

 諒輔は今起こっている事が何が何だか分からず夢の中の出来事ではと疑った。

『いや、夢ではない。テレパシーで伝えておる』

 忠彬なら他人の心を読む事も、自分の心を他人に伝える事も出来て当然かもしれない。

『今どこにいるのですか』

 諒輔は疑うことを止めて尋ねた。

『私は、今、集中治療室のベッドに寝かされておる。もう間もなく命が尽きるであろうがその前に是非にも伝えておかねばならぬことがある。裏土御門の長となる者にとり、極めて重要なことなので心して聞いて欲しい』

 忠彬がテレパシーで諒輔に伝えたのは次のようなことであった。


 安倍晴明公は嫡男に、天文、暦、有職故実などを伝え土御門家の正統としたが、これとは別に、式神遣いなどの呪法に類するものは、非嫡出子の子息のうち霊力が備わった者に伝えることにした。これが裏土御門家の始まりであり、代々その伝承は、直接記憶を脳に転写する方法で行われた。

 この秘伝の法により、自分の記憶を諒輔の脳に送り込んだが、転写された記憶はまだ封印されている。しかし、このまま放置しておくと、やがて記憶が一斉に蘇り、過去の記憶が野放図に発露され、多重人格のような状態になってしまう。

 これらの記憶を諒輔の意のままに制御して、駆使出来るようにするには、記憶の跡を遡り、始祖の晴明公の下に行き、裏土御門の長として認めて貰わねばならない。自分を含め、過去の皆が為してきた極めて重要な通過儀礼である。

 過去の記憶の封印が解かれるのは明日の夜明けである。従って今夜中に晴明公の承認を得なければならない。晴明公の下に行き、承認を得るのに要する時間は、順調に行けば三十分程度である。晴明公の下に行く方法の記憶だけは封印されていないので、強く心に念じさえすれば今すぐにも晴明公の下に行けるであろう――――


『さて、伝えるべきは全て伝えた。これで思い残すことは無い。そろそろ、この世とお去らばするとしようかの』

『待って下さい。本当に私のような者でも大丈夫でしょうか』

『私が見込んだ者だ。大丈夫、心配するな。よいか、くれぐれも夜が明けぬ前に……』

 声は次第に小さく不鮮明になっていき、『いざ、さらば…..』という声が微かに聞き取れたのを最後にそれきり声は聞こえなくなった。その後、諒輔が幾ら呼びかけても答えは返ってこなかった。


 ちょうどその頃、集中治療室では、医師が葛城に対し、忠彬が息を引き取ったことを告げていた。


 諒輔は我に返った。頭がずきずきと痛む。思わず顔をしかめ頭に手をやった。次にそっと眼を開いてみた。今度は瞼を開けることが出来た。しかし視界の全てがぼやけている。それでもしばらくするとようやく眼の焦点が定まり、周囲の状況を視認出来るようになった。

 部屋の様子から忠彬が入院している特別室の病室であると分かり、少し気分が楽になり、先程の出来事を振り返る余裕が出来た。忠彬の手を握った途端、激痛と共に夥しい量のイメージが流入してきて、遂に耐えられず崩れ落ちたことまでは覚えている。そして葛城が抱えてくれてベッドに寝かせてくれたことも微かに記憶がある。しかしベッドに倒れ込んだ後に我が身に起こったことは果たして現実だったのか、それとも夢幻の類であったのか。

 誰かが部屋に入ってくる気配がして諒輔は病室の入り口を見た。入ってきたのは葛城であった。

「諒輔さん、気分はどうですか」

 ベッドの近くにきて諒輔の顔の上で語りかける葛城の目は赤く充血している。

「大分頭痛は治まりました。でも何が何だかよくわからなくて……」

 諒輔は起き上がろうとして、ベッドの手すりを掴み、何とか上体を起こした。

「つい先ほど、忠彬様が亡くなられました」

 また涙が溢れてきたのであろう、葛城は手の甲で目を拭った。

「あぁ、するとあの時が、亡くなられた時だったのですね」

 諒輔は忠彬がテレパシーで語りかけてきた事を葛城に詳しく説明した。葛城は一々頷いて聞いていた。

「忠彬様がテレパシーをお使いになったのは間違いありません。ちょうどその頃、集中治療室の脳波計が激しく動いていましたから」

 傍らにあった椅子を引き寄せ腰掛けると言葉を繋いだ。

「忠彬様が伝えられたことは極めて重要なことです。必ず今夜中に晴明公の下に行かれて下さい」

「はぁでも……」

 晴明に会うこと自体はさほど恐ろしいと思わない。それどころか、会って見たい気さえする。晴明は諒輔にとり、子供のころからの憧れの人だったのである。しかし、晴明が認めてくれなければ、死ぬか、狂人になるか、そのいずれでしかない。

「忠彬様は、最後におっしゃられたのでしょう。自分が見込んだ者だ、大丈夫、心配するなと……躊躇するなんて諒輔さんらしくありません」

 逡巡する諒輔をみて葛城が叱咤激励した。

「分かりました。行きますよ。それ以外の選択肢はないのですから」

 諒輔は不貞腐れた子供のような表情で答えた。

「えぇ、えぇ、それでこそ、諒輔さんです」

 葛城は乗せ上手、煽て上手でもあるようだ。

 

 その時ノックする音がして、ドアから特別病棟の受付嬢が顔を覗かせた。

「葛城様、お客様をご案内して参りました」

 受付嬢が退くと入れ替わりに病室に入ってきたのは理紗であった。

「あぁ、諒輔さん、こちらでしたか。何度か携帯に電話したのですが繋がらなくて」

 今日も理紗は和服姿である。きっと邦楽ライブをしていた銀座のホールから、直接駆け付けてきたのであろう。葛城はその女性の容姿から、安倍理紗と判断したようで、歩み寄り、椅子に座るよう勧めた。理紗はベッド上の諒輔を見て心配そうな表情をした。

「諒輔さん。どうされたのですか?」

「いえ、もう大丈夫です、心配ありません。あ、こちらは葛城さんです」

 葛城はポケットをあちこち探って、名刺を取り出すと差し出した。互いの挨拶が終わると葛城が尋ねた。

「お爺様のことは、まだ何もお聞きになっていませんか」

 頷く理紗を見て葛城は沈痛な面持ちで、忠彬が亡くなったことを告げた。理紗は覚悟していたのであろう、冷静な態度を崩さなかった。

「母から先ほどメールがありました。新幹線に乗ったそうです。こちらに着くのに後二時間ほどかかるとの事でした」

「そうですか、それではお母様が見えたら葬儀の事など相談させていただく事にして、その前にお爺様の所に行かれますか?」

「はい、お爺様のお顔を拝見したいと思います」

「では、霊安室の用意が整った頃と思いますので、ご案内しましょう。諒輔さんはどうしますか?」

 諒輔は同行することにした。葛城が隣室から車椅子を持ってきて、乗ることを勧めたが、申し出を断りベッドを降りて靴を履いた。何とか歩いて行けそうであった。


 病院の地下にある霊安室の前に、男が一人見張り番をするように立っていた。その男は葛城の姿を認めると葛城の側に来て小声で何やら話し掛けた。葛城は一々頷き返している。男が着ている詰襟服に見覚えがある。どこで見たのだろうと思案して気付いた。葛城が栗原運輸に来た折のリムジンの運転手であった。

 霊安室に入るとそこにも、男が一人立っていた。黒の上下に黒のネクタイ、手には白い手袋をしている。こちらの人物の面識は無い。財団の職員か、あるいは葬儀社のスタッフと諒輔は見当を付けた。

 霊安室の奥まったところに祭壇が設えてある。その前に神式と思われる枕飾りが施された忠彬の亡骸が安置されていた。忠彬の顔は穏やかで、威厳に満ちていた。忠彬の亡骸を目の当たりにした理紗は、動揺を隠しきれない様子であった。理紗に会うことを切望していた忠彬の想いに応えなかったことが、理紗の心を苛ませているに違いない。

 

 忠彬の亡骸と対面を終えた三人は、また特別室のリビングに戻った。葬儀の打ち合わせなど色々話し合わねばならないことがあったからだが、諒輔としては、それらを協議する前に、理紗に事の次第を報告し、理紗の了解を得ておきたかった。本来であれば裏土御門家は、理紗が継ぐべきであったからである。葛城にその旨を話すと「ご尤もです」と言って賛意を示したので、諒輔は一部始終を理紗に語って聞かせた。

 

 聞き終えた理紗は半信半疑の状態であった。安倍の血筋を引く者として、素直に肯定してしまいたい気持ちがある一方、母方から引き継いだ合理的な DNAが、真っ向から諒輔の話を否定していたからである。

「正直に言いますが、記憶が転写されるとか、遠い昔の先祖の認可が必要とか、そのような話、直ぐに信じるわけには行きません。でもこれだけははっきりとお答え出来ます」

「それは何ですか?」

「私に代わって諒輔さんがお爺様の後を継いで裏土御門家を継ぐことは、まったく異存ありません。それどころか代わってくれた諒輔さんに感謝します。大変な事を押し付けてしまったようで申し訳ありません」

「いえ、理紗さんから感謝されたり、謝られたりするなんてとんでもないです。理紗さんはまだ信じられないでしょうが、僕はあの方が言われたことをすべて信じます。ですから間もなくしたら、記憶の跡を辿って晴明公の下に行こうと思います」

「信じません。信じはしないけど、何かそれはとても危険なことだと心の底で何かが警告を発しています。そういう感覚は昔から私にはあってよく当たるのです。ですから行くのは止めた方がいいのではないでしょうか」

「えぇ、とても危険なことのようです。でも行かなければならないのです。それ以外の選択肢は無いのです……そこでお二人にお願いなのですが」

諒輔はそこで一旦言葉を区切り二人の顔を真剣な眼差しで見つめた。

「何でしょう」

「何ですか、おっしゃって下さい」

 二人は口々に言って、諒輔の言葉を待った。

「僕が記憶の果てから戻って、正気に帰るまで、そう多分三十分位と思うけど、僕の側に付き添っていてくれませんか」

 諒輔は我ながら情けないと思ったが、側に誰か付いていて欲しいと切実に思ったのだ。

「えぇ、そうすることが諒輔さんのお役に立つなら」

「はい、私でよろしければ理紗さんと一緒にお側にいさせていただきます」

 二人の返事を聞くと諒輔は大きく頷き、吹っ切れた表情で告げた。

「ありがとう。それでは千年の時間旅行に旅立つとしましょうか」


第八章 安倍晴明

 諒輔と理紗と葛城は並んで特別室のリビングの大きなソファーに並んで腰かけている。真ん中に諒輔、その左側に和服姿の理紗、そして右側が葛城だった。諒輔が精神を集中出来るようにと部屋の照明のほとんどが消され、部屋は薄暗い。

「それでは、開始します」

 諒輔が告げると、理紗が諒輔の左手をそっと握った。手を握られるのは正直うれしいが、これでは精神集中出来ないと困っていると「では気をつけて」と理沙は握った手を離した。少し気落ちしたが、気を取り直し、精神を集中させて行った。


 意識が薄れて行く。巨大な渦に巻き込まれ下へ下へ落ちて行くような感覚。そのスピードがどんどん増して、もうこれが極限と思われた時、周囲のすべてがまばゆく発光し、何もかもが瞬く間に霧散霧消した。気が付くと諒輔は真空の宙に浮かんでいた。

光も色も音も無い無間地獄かと思われたが、宙の彼方に小さな光が一つ浮かんだ。蛍のように淡い光は、次第にその数を増していったが、中にはテニスボール程に大きなものもあった。そんな大きな光は放電と共に映像を一瞬浮かび上がらせる。家族団欒の光景、赤ちゃんを抱いて幸せそうに微笑む婦人の姿、欧州旅行の風景、東京大空襲と思われる悲惨な光景など様々であった。

 どうやらこれらの光は忠彬の記憶であるようだった。光は次々に増殖し隙間無く埋め尽くされたが、突然その全てがまばゆく発光し当たり一面真っ白になった。と、次の瞬間またもや諒輔は、真空の宙にいた。そして暫らくすると小さな光が浮かび、増殖を始めた。放電と共に浮かび上がるイメージには、皇族と思われる人々との談笑、神宮外苑で行われたという学徒出陣式、マッカーサー元帥とその幕僚などの光景があり、仲間とジャズを演奏する楽しげな光景もあった。それらは忠彬の父親の記憶に違いなかなかった。

 

 このような事を何度も、繰り返し昔へ昔へと記憶を遡ったが、 三十数回目は少し様子が違った。辺り一面真っ白になったその後は、真空の何も無い宙があるだけの筈なのに、今回は最初から大きな月のようなものがぼうっと浮かんでいるのだった。暗赤色の血を滲じませたようなそれは、いかにも禍々しく不気味である。

『これこそが、土御門家の創始者、安倍晴明公の記憶』

固唾を呑んで見守る諒輔であった。

 

 稲妻が数本、宙を走り、続いて凄まじい雷鳴がした。月のようなものが振動し、燐光を放ち始めた。しばらくすると卵の殻がひび割れる様に砕け、辺りに濃密な妖気が漂った。

「千年の眠りを破るは、いかなる者か」

 声がする方を見たが、闇よりも更に黒いガス状のものが蠢いているだけである。そんなおどろおどろしい中にあっても、それほど恐怖は感じない。しかし畏れはある。

「三輪諒輔と申します。この度、安倍忠彬様より裏土御門家の長を引き継いだ者です」

自分でも驚くほど、確りとした声が出た。

「忠彬から引き継いだとな」

「はい、忠彬様は私に記憶を転写した後、間もなく亡くなられました」

「死ぬるは必定。じゃがな、我らの記憶は引き継がれることにより、永遠の命を得ることが出来るのじゃ」

黒いガス状のものは徐々に収斂し、今や人の形になりつつある。

「晴明様、私が裏土御門の長となることお許しいただけるでしょうか」

「お前、もう一度名乗ってみよ」

人の形は、更に鮮明になり衣冠束帯の人物と分かるほどになった。

「三輪諒輔と申します」

「安倍一族の者か」

「いえ、そうではありません」

「なんと、安倍の血を引く者ではないというのじゃな」

「はい」

「うーむ、何と言うことじゃ。安倍の血を一滴も引かない者に、裏土御門の長を引き継ぐなど、このわしが許さん」

 放たれた怒気に呼応するかのように稲妻が走り、雷鳴が轟いた。

「そこの者、覚悟はよいな。今、この場にて取り殺してくれるわ」

 諒輔は焦った。何とか凌がなければと必死で訴えた。

「しかし、晴明様。私が死んでしまえばあなた様を始め、全ての裏土御門の長の記憶がこの世から消え去ってしまいます。皆さんの永遠の命が失われるのです」

「そのようなこと言われんでも分かっておる。つべこべ言わず観念しろ」

先程にも増して、大きな稲妻が走り、雷鳴が轟き、諒輔の直ぐ近くにその一つが落ち炸裂した。

 諒輔は黙した。やるだけのことはした。言うべきことは言った。これ以上じたばたしたところで仕方ない。諒輔は思考を遮断し、心を無にしようと務めた。激しかった稲妻と雷鳴がいつの間にか治まり、晴明と思しき人影はじっと動かず声も発しない。奇妙な静寂が広がった。


「晴明、これよ晴明」

 いつの間にか宙空に、青く輝くものが浮かんでいる。静寂を破ったその声はそこから漏れ出しているようであった。

「あぁ、その声は……」

 声に気付いた晴明が驚きの声を上げた。

「そうじゃ、賀茂忠行じゃ」

「これはお師匠様、なんとお久しゅう」

 そう言えば、晴明は師の賀茂忠行から、陰陽道の極意を修得したのであった。今昔物語の巻第二十四の第十六話に、晴明公が師の加茂忠行から陰陽道を伝えられた様子が「此道ヲ教フル事瓶ノ水ヲ写スガ如シ」と記されている。あの青い輝きは、その折に取り込んだ賀茂忠行の記憶に違いない。

「晴明、そちは、この者をどうしようというのじゃ」

「はい、安倍の血筋を引かぬ者、この場にて打ち殺さんとしていたところにございます」

「したが晴明、すぐに殺さず逡巡していたであろう。それは何故か」

「この者の言う通り、殺してしまえば千年の記憶が絶えまする。それに……」

「それに、なんじゃ」

「こしゃくな奴ながら、この晴明に怖じることなく物申すとは中々の者。更に申せば、命乞いもせず慫慂として覚悟を決めた物腰、殺すに惜しいと不覚にも逡巡した次第、面目次第もありませぬ」

「晴明よ、わしが何故この場に現れたか分かるか。そちの逡巡を責めに来たのではない。この者に呼ばれたのじゃ。この者の血脈に感応したのじゃ」

「なんと、それは真にございますか」

 晴明が諒輔の方に顔を向け質した。

「これ、そこの者、お前は賀茂の血を引く者か」

 幼い頃、糺の森で母から幾度となく聞かされてきたことを思い出し答えた。

「私の母が嫁ぐ前の旧姓は賀茂でした。母の実家は京都で、下鴨神社に所縁の深い家柄と聞いています」

「晴明よ、聞いたであろう。確かにこの者、安倍の血は引いておらぬが、陰陽道の家柄の血を引く者じゃ。このわしに免じて、この者を裏土御門の長として認めてはくれぬか」

「ははぁー、お師匠様の仰せとあらば、この晴明、お指図に違うことなど微塵も致しませぬ」

 晴明は忠行の声に向かい深々と辞儀をすると、諒輔に向かい直し威儀を正した。

「三輪諒輔と申したな。その方、裏土御門の氏長者としてしかと認め祝福しようぞ。わしに連なる代々の者共も、この新しき(おん)の長者を助け祝福せよ」

稲妻が走り、雷鳴が轟いた。それは、諒輔が裏土御門の長になったことを祝す、花火と号砲のように明るく晴れやかなものに感じられた。


 拡散し混沌としていた意識の彼方で微かに声が聞こえる。

「諒輔さん、諒輔さん」

「諒輔さん、戻って来て下さい」

 その声は次第に大きく鮮明になる。

「もう一時間近くになるわ。諒輔さん大丈夫かしら」

 その声が理紗のものだと気がついた。

「大丈夫、必ず帰ってきます」

 葛城の声だ。諒輔は二人の声が無性に懐かしかった。

「あっ、今、口が動きませんでしたか。いや、確かに動きました」

「えぇ、私も見ました。諒輔さん、諒輔さん。眼を覚まして下さい」

「お願い、戻って来たのでしょう」

諒輔は眼を開いた。

「あぁ戻って来たのね」

「大丈夫ですか、どこか異常はありませんか?」

 心配そうな葛城と理紗との顔があった。

「えぇ戻りました。どこも異常はないようです。今のところはどうやら……」

理紗と葛城は床に跪き、其々が諒輔の手を握っている。そうした姿勢で二人は懸命に諒輔を励まし、語り掛けていてくれたのだろう。

「あぁ良かった。時間があまりにかかるものだから、心配で、心配で」

理紗は涙声であったが、葛城は感激の為か声も出ない。

「どうもありがとう。二人が付いていて励ましてくれたお陰です。本当にありがとう」

 諒輔は二人の手を交互に握りしめた。

「お疲れでしょう。ベッドで休まれますか?」

 葛城が気を遣う。

「いや大丈夫です。それより飲み物をいただけますか」

 葛城がリビングルーム備付けの冷蔵庫からミネラルウオーターを持ってくると、理紗がグラスに注ぎ諒輔に手渡した。諒輔がミネラルウオーターを飲む間に、理紗と葛城はソファーの前の椅子に座り、諒輔と向き合った。葛城は改まった調子で尋ねた。

「それで、晴明公はお認めになられたのですね?」

「はい、裏土御門の氏長者であることお認めいただき祝福を受けました。でも“オンの長者”って何でしょう?」

「あぁ、晴明公はそう仰られましたか。(おん)の長者のオンとは陰陽道の陰のことです。つまり陰の長者とは裏土御門の長を指す言葉です」

 葛城は涙を溢れさせながら嬉しげに説明した。理紗は「おめでとう諒輔さん、私、信じます。お爺様の言われた事、諒輔さんの言われた事、すべて信じます」と喜びの声を上げた。

「ありがとう、理紗さん、信じてくれて僕も嬉しいよ」

 一同が喜びに包まれていた時、ドアをノックする音が聞こえた。葛城が涙を拭いて立ちあがりドアに向かった。ドアを開けるとそこにクリスチーナが立っていた。

「お久しぶりです。良くお越し下さいました。どうぞ中にお入り下さい」

今日のクリスチーナは黒のパンツスーツ姿で、髪をアップに纏めビジネス用の大きなバッグを肩にしている。大学の講師らしい出で立ちである。部屋に入ったクリスチーナの姿を見て、理紗が駆け寄り、二人は抱き合った。

 一通り其々の挨拶が済むと、葛城はクリスチーナに忠彬が数時間前に亡くなったことを伝えた。クリスチーナは天を仰ぎ、隣に座った理紗の肩を抱いて引き寄せた。

「理紗、あなたに知らせて置かなければならないことがあるの。皆さんも聞いて下さい」

 そう前置きしてクリスチーナは、語り出した。

「理紗、あなたはお爺様を恐ろしい人だと思っていることでしょう。お父様から言い聞かされて育ったのだから、そう思うのは無理ないことです。でも本当は違うのです。あなたが東京の大学に進学したいと、私に泣いて訴えたこと憶えてる? 当時私は大学の臨時講師をしていたけど、とてもそんなお金は無かったの。そこで以前から、“何か困ったことがあれば何でも相談しなさい”と言って下さっていたお爺様に事情を話したの……そう、あの時は葛城さんに大変お世話になりましたね」

 葛城に眼を向け一息つくとまた話し始めた。

「勿論お爺様は私の願いを聞いてくれたわ。でも、お爺様が学資を出したと理紗が知れば、大学進学を諦めると言うに違いないから、理紗には内緒にしておこうと言われてね、今まであなたに話す機会がないまま……」

 クリスチーナは声を詰まらせ、涙ぐんだ。

「あぁ、分かったわ、泣かないで。私の為に皆がしてくれたこと、感謝するわ」

今度は理紗が、クリスチーナの肩を抱いて手を握った。


第九章 都内高級ホテル

 葬儀の打合せを兼ねた夕食が済むと、諒輔は一人、病院の近くのホテルに向かった。葛城が気を利かして手配してくれたのだ。部屋に入ると、シャワーを浴びる気力もないまま、ジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。

 

 酷い頭痛がして諒輔は目覚めた。何やら夢を見ていたようだ。千年の記憶を遡って行く時に垣間見たイメージの数々が猛烈なスピードでフラッシュバックされ、厖大な情報が洪水のように湧き出し、溢れかえる感覚に必死に耐えていた。しかしこうして目覚めて、夜が明けたことを知った今、それは千年の記憶の封印が解かれ、記憶が一斉に蘇った瞬間だったのだと悟った。

 恐る恐る諒輔は記憶を探った。記憶は忠彬が先祖代々引き継いできたものと、忠彬の代に取り込んだものとがあり、先祖からの記憶は、それぞれの代の陰の長者の人生の記憶と陰陽道に関するものがほとんどであった。その中には呪術に関するものがあり、式神遣いの法などもあるようであった。

 一方、忠彬自身が取り込んだ記憶には、「物理学」「化学」「医学」「経済学」「法学」「文学」など近代から現代にかけての学問が網羅されていた。医学においては「脳生理学」など脳に関するものが多く、経済学においては「投資理論」など金融に関するもの多く含まれていた。語学は英語の他、フランス語、ドイツ語、中国語など多数に及び、それらの言語で自由に会話することが出来るようであった。その他に芸術、武術、スポーツなど、実に様々なものが取り込まれており、忠彬の貪欲なまでの知識吸収に改めて驚かされた。

 諒輔は起き上がり、ベッドから降りると、先ずは小手調べに呪術が実際に使えるか試してみることにした。印を結び、呪を唱えた。ぼぉっとした影が二つ浮かび上がる。

「お呼びにございますか」

 声を揃えて低頭するのは、あの犬麻呂と牛麻呂、童形水干姿の式神であった。式神には主人として威厳を持って対応すべしというのが、引継がれた記憶であった。

「忠彬様から陰の長者を引き継いだ三輪諒輔だ。お前達二人は身の回りの世話と警護をして呉れる者共と聞いている。今後は私の式神として尽くせ」

「畏まって候、して今日の御用の趣は」

 少年特有のやや甲高い声である。問い返された諒輔は、はたと困った。何を言い付けるか考えていなかったのだ。

「うむ、そうだな、朝の支度など頼もうか」

 二人は少し思案するようであったが、犬麻呂は浴室に行くと風呂の用意を始めた。牛麻呂は、諒輔のシャツとズボンを脱がしにかかる。戸惑う諒輔の意を介さずにパンツまで脱がそうとするので、慌てて自分で浴室に行き、パンツを脱いで浴槽に飛び込んだ。湯はまだ三分の一ほどしか貯まっていないが、手足を伸ばすと快さが広がった。

 湯が肩を浸す頃、犬麻呂、牛麻呂は諒輔を湯船から出し、座らせると二人掛かりで諒輔の頭、手足、背中などを洗い始めた。こんな調子で傅かれては堪らない。風呂を出ると早々に告げた。

「あぁ、もう良い、後は自分で始末する。下がって良い、ご苦労であった」

 呪を唱えると二人の式神は低頭して退くと、ぼおっと霞んで消え去った。

「ふぅ、やれやれ、やりつけないことは迂闊にやるものじゃないな」

 独り言を呟いて、衣服を身に付けた。


 葬儀は忠彬の世田谷の屋敷に於いて神式で行われた。クリスチーナ、理紗、諒輔、葛城の他、参会者は故人にごく近しい人に限られて執り行われたのであったが、忠彬の死を知った人達の中から“忠彬を偲ぶ会”を開催したいとの申出が寄せられた。

 申し出たのは忠彬がこの20年程逗留していたホテル関係者達であった。一人息子が駆け落ち同然に家を出た後、その心痛により間もなくして妻が亡くなり、さすがの忠彬もひどく気落ちした。そんな気持ちを紛らわすために、家族の思い出が詰まった屋敷を出て、ホテル住まいを始めたのであった。

 始めはほんの数週間位の積りが、よほどそのホテルが気に入ったのか、その後二十年近くも逗留することになったのだ。忠彬にとっては、この二十年ほどはそのホテルが自宅のようなものであり、ホテルの従業員達も忠彬を慕い、家族のように接してきたのであった。

 その話を聞いた、クリスチーナと理紗は偲ぶ会の開催に同意し、是非自分達も出席したいと申し出たのであった。偲ぶ会は、クリスチーナが京都に帰る前にという計らいで、急遽クリスチーナが京都に帰る日に開催される運びとなった。

 

 偲ぶ会の当日、諒輔の宿泊するホテルに大型のリムジンが迎えに来た。

「葛城様は打合せの為、会場に先に行かれました」

詰襟制帽姿のあの運転手はそう告げるとドアを開けた。車内にはすでにクリスチーナと理紗がいて、理紗は和服の喪服姿で忠彬の遺影を抱えている。車内に乗り込み、ボックス席の二人に向き合うように座ると、諒輔は英語でクリスチーナに話しかけた。クリスチーナはごく普通に応対したが、理紗は諒輔が話す流暢な英語に驚いていた。

「諒輔さん、何か変わりましたね」

 理紗は諒輔の顔を繁々と見つめた。クリスチーナも同意するように頷く。

「やはりそう思いますか。実は鏡を見て、以前の僕とは大分違うと感じていたのです」

「えぇ、以前はどこかぼうっとしたところがあったけど……あら、御免なさい」

「いえ,皆にそう言われていましたから」

「今日の諒輔さんはとても理知的な顔をしてるわ」

「理知的か……なんせ千年の記憶を取り込んだらなあ」

少し複雑な気持ちであったが、そんな会話を取り交わしている内に目的地に着いた。

 

 会場となるホテルは都内でも有数の高級ホテルで、広い敷地内には回遊式の日本庭園や茶室もある。正面玄関の車寄せにリムジンが停車すると、すかさずホテルの従業員が車のドアを開けた。一行が車を降りると、そこに年老いたドアマンがおり、理紗が掲げる忠彬の遺影に恭しく辞儀をして一行を入口に案内した。

 クリスチーナと理紗の後に諒輔が続く形で入口を入る。ロビーには大勢の人達が待ち構えていて、行く手の両脇に整列していた。それらは、フロントクラーク、コンシェルジュ、ベルマン、ウエイター、ウエイトレス、バーテンダー、室内清掃係、ひと際目立つのが白く高いシェフ帽の一団などホテルの各職制に応じた制服に身を包んだ人々であった。

 お驚きながらも、歩みを進めると、両側の人々は口々に「お帰りなさいませ」「お帰りなさい」「先生お帰りなさいませ」などと言い、忠彬の遺影に向け丁寧に辞儀をするのであった。ハンケチで涙を拭う者、隣の人の肩を抱く者、皆が忠彬の死を悼み悲しんでいた。

 整列の最後に葛城と支配人らしき人がいて、二人が先導して、一行を忠彬の部屋に案内した。その部屋はスイートルーム仕様で、リビング中央のテーブルには白い薔薇が飾られていた。忠彬が好んだ種類の薔薇だと、葛城が説明した。

 二つあるベッドルームの一つは書斎として使っていたようで、ベッドの代わりに紫檀の大きな机と皮張りの椅子が置かれていた。しかし、その机と椅子以外は、ほとんどがホテルの調度品のようで、全体に品よく調和がとれていた。忠彬が私物を極力持ち込まず、また部屋を自分の好みに変えようとしなかったのであろう。そんな配慮もホテルマンには好もしく思えたことであったろう。

 一通り、部屋を見て回った一行は、宴会場フロアにある偲ぶ会の会場に案内された。会場には、先程ロビーで出迎えてくれた人達が待っていて、人垣を作っていたが、入って来た一行のために道を開けた。

 会場内は普通の立食パーティーのように、食べ物、と飲み物が用意されていた。クリスチーナと理紗が正面の一段高い壇に促されて上ると、支配人らしき人がマイクをとり挨拶を始めた。

「私、当ホテルの総支配人をしております工藤と申します。本日は我々従業員の無理なお願いをお聞き届けいただき、安倍忠彬様を偲ぶ会がこうして開催出来ましたこと、従業員一同心から感謝しておる処でございます。またご遺族の皆様はご葬儀でお疲れのところ、ご臨席を賜り厚く御礼申し上げます」

 工藤は壇上の遺族にお辞儀をして、挨拶を続けた。

「ご存じのように安倍先生は二十年来、当ホテルをご自分の住まいのようにご使用していただき、その間我々従業員に対し、父のごとく接していただきました。また博学多才の先生は、我々が困った事態に遭遇した時には、適切なアドバイスをしていただき、何度も助けていただきました。先生が亡くなられたとの悲報に接し、従業員一同、深い悲しみを覚えた次第でございます。本日は、それぞれの立場で先生の想い出を語り、先生のご遺徳を偲びたいと存じます。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます」

拍手してよいものやら誰もが、躊躇していたが、諒輔が拍手すると、ほっとしたように拍手が沸き起こった。

 遺族を代表してクリスチーナが挨拶し、引き続いて献杯が行われると飲食しながらのパーティーとなった。しばらくすると、従業員が交互にマイクを取り、自分が体験した忠彬のエピソードを語って行った。どれも心温まる話で、感激屋の葛城は話の一つ一つに涙を流していた。クリスチーナと理紗も感動で顔を紅潮させていた。

 出席者はホテルの制服ではない普通の格好をした男女も混じっていた。総支配人の工藤に聞くと、このホテルの常連客で忠彬と馴染みの深い人にも声をかけたとのことであった。その中に妙に気になる背広姿の二人連れがいた。その内の一人の顔に大きな傷があったので、目立ったのがその理由だが、もう一方の男も眼光が鋭く独特のオーラを放っていた。   その男は長髪、色白で一見すると女と思い違いしそうになる優男であった。諒輔がなお注意して観察して気が付いた。傷のある男は、以前襲ってきたワゴン車の背の高い方の男に違いなかった。傷により引き攣った顔が以前と変わっていたので気付くのが遅れたのだ。その二人は部屋の隅に行くと、辺りを憚るように小声で話し始めた。諒輔は精神を集中して二人の男の心を読んだ。会話の内容が伝わってくる。


『安倍忠彬が死んだことは確認された。問題は次の陰の長者が誰かと言うことだ』

優男が傷のある男の耳元で囁いている。

『血縁者はあそこにいる孫娘しかいないのではないですか』

 傷のある男が、壇上の理紗を見やりながら囁き返す。

『しかし、若い女の上に外国人の血が混じっていることを考えるとどうもな』

『そうですね、あの孫娘に陰の長者が勤まるとは到底思えません』

『うむ、陰の長者が引き継がれなかった可能性も否定できぬか』

『それなら、我々にとって、正に好都合』

『いや楽観論は禁物だ。我々の知らぬ血縁者が他にいる可能性もある。情報収集と探索を強化する必要があるな……うん?』

 優男が会話を中断し、怪訝な顔をして周囲を見回した。心を読まれたことを察知したのだろうか。二人連れは、もう一度壇上を睨みつけると、踵を返して会場を出て行った。もし、心を読まれた事を察知する能力をあの男が有しているとすれば、侮るべからざる敵と言わざるを得ない。


第十章 桜坂

 理紗の安全が気になったが、葛城が夜間の外歩きなどの場合は身辺の警護をすると言うのでしばらく様子を見ることにした。理紗にあまり心配掛けない程度に注意すると、「私には、危険察知能力があるから大丈夫」と言って気にかけない。何かあれば直ぐ連絡するように約策させたが、それでもまだ少し心配である。

 諒輔については、阿修羅教団側は何も気付いていないようなので、これまで通りにして置いた方が良かろうという判断から、八王子のアパートに住み続けることにした。

 そんな訳で陰の長者になった後も、諒輔は相変わらず、栗原運輸のアルバイトを頼まれたりしていた。それは諒輔にとって気が紛れることであり、社長や八百子と過ごすのが楽しかったからでもあった。しかし忠彬の葬儀などで忙しくなってきて、そうもしていられなくなり、諒輔は社長と八百子にあの財団に就職する旨を告げて、アルバイトを止める事にした。 

 納骨を済ませ、葬儀に関する当面の行事が終わると、葛城は相続について相談したいと諒輔と理紗に申し出た。財団事務所を二人に見て貰いたいとの葛城の思惑があり、相談は財団事務所で行われることになった。

 

 理紗は教えられた場所をインターネットで調べてみた。そこは地下鉄の溜池山王駅からほど近い桜坂の中程の所であった。桜の咲く頃、何度か訪れたことがある場所である。葛城は迎えの車を出すと言ったが理紗は断り、諒輔と溜池山王で待ち合わせして、一緒に訪れることにした。諒輔と二人で桜坂を歩くのも悪くはないと思ったのだ。

 その日の理紗は白いブラウスにベージュのタイトスカートでセミロングの髪を自然に下ろした姿である。スカートの深いスリットが気になったが、多少の色気も必要だろうなどと思いつつ、理紗は先に待っていた諒輔に歩み寄った。諒輔はちらっと近づく理紗の姿を見やったがどうやら理紗とは気付かない様子である。少し腹を立てて、無言で諒輔の目の前を行き過ぎ、モデルターンをし、ヒールの音を殊更立てて戻ると諒輔の前に立った。

「あぁ理紗さんか、一瞬誰かと思ったよ。何時も和服だったから」

「まぁ、諒輔さんたらいけずやなぁ」

つい京言葉が出てしまった。諒輔は狼狽気味に言い訳するが、服装と髪型が変わった位で見損なうとは諒輔もどんくさい。まぁ、それがどこか憎めない要素にもなっているのだろう。

 二人は連れ立って歩き出した。九月も中旬になり、ようやく残暑が一段落したのと、夕方の五時を過ぎて陽も傾いたので、地上を歩いても苦にならない。目指す建物は桜坂の途中にあるキリスト教会の隣にある三階建の古ぼけた小さなビルであった。古風なデザインのビルの表面に蔦が絡まった様子は瀟洒であり、隣のチャペルと良く調和がとれていた。一階入り口に小さな看板があった。《桜坂画廊 営業時間 10:00~17:00》とある。ここが目的のビルだ。諒輔がドアを開けて、理紗を先に中に入れる。理紗は内心『ヘぇ、中々気が利くじゃない』と感心する。左手に部屋があり画廊になっているようだ。額縁を模したような窓枠のガラス窓があり、そこから中を見ることが出来る。ユトリロ風の風景画が数十点掛けられている。ユトリロが好きな理紗は中に入ろうとして、画廊に通じるドアに手を掛けたが、鍵がかけられているようで中に入れない。あきらめて諒輔に続いて更に奥に進むと狭いエレベーターホールがあり、案内表示の看板が立ててあった。

 〈一階 桜坂画廊〉〈二階 画廊事務所〉〈三階 財団法人 日本伝統行事研究保存協会〉

エレベーターに乗り込むと諒輔が三階のボタンを押した。アールデコ調の装飾が施されたエレベーターはゆっくりと動作して三階に止まりドアが開いた。その部屋はかなり広いが、来客用の応接セット、書棚、事務用のスチール机と椅子が数人分あるなど、ごくありふれた事務所の佇まいである。

「これはこれは、諒輔様、理紗様、良くお越しいただきました。お迎えも致しませず誠に申し訳ございません」

 葛城は恐縮の体である。部屋には葛城の他にもう一人の男性がいて辞儀をした。

「いいえ、桜坂と聞いて歩いてこようと諒輔さんに私が言ったのです」

「そう、桜の季節ですとデート、いえ散歩には打ってつけの場所なんですけど……あっ、こちらは遠山です」

 紹介された二十四,五歳と思えるその男は小柄で、どことなく葛城に似ている。どこかで見たような気がすると理紗は記憶を巡らせ気付いた。

「あぁ、あなたは病院の霊安室にいらした」

 黒の上下のスーツに白い手袋をしていたあの若い男だった。

「遠山と申します。ご挨拶が遅れまして失礼いたしました」

 遠山は、七三に分けた頭を律義に下げた。 

「実は遠山は、姉の息子、つまり私の甥でして、財団の経理全般を見て貰っています」

 理紗にとってその男が葛城の甥というのは意外だが、諒輔は意に介する風も無く、気さくに遠山と握手などしている。

 その時エレベーターの扉が開き、別の男がもう一人入って来た。葛城はその男が近づくのを待って声をかけた。

「異常はありませんでしたか」

「はい、尾行された形跡は認められません」

 そう答える男を葛城は諒輔と理紗に紹介した。

「既にお見知りかと思いますが……」

 いつもは詰襟の制服姿だが今日は普通の背広姿だった。

「神崎です。どうぞよろしくお願いします」

 神埼は慇懃に礼をした。贅肉の無い筋肉の引き締まった体つきをしており、顔の表情も精悍そうである。

「こちらこそよろしくお願いします」

 理紗は挨拶を返した。

「神崎は空手の達人です。元自衛官で銃器などの武器のエキスパートでもあります」

 理紗は葛城の説明を聞いて頼もしく思ったが、先程、神崎が口にした尾行という言葉が気になった。

「あのぅ、神崎さん、先ほど尾行された形跡とかおっしゃいましたよね」

理紗は気になっていたことを口にした。

「はい、阿修羅教団の者どもがお二人を尾行することも考えられますので、失礼ながら監視させていただきました」

 理紗はその返事を聞いて急に怖くなって、隣の諒輔を見やったが、諒輔は平然としている。そう言えば先程から、何もかも承知しているという様子である。

 一通り挨拶が済むと葛城は「それでは早速ですが、財団の本部事務所にご案内しましょう」と歩き出した。理紗はここがその事務所とばかり思っていたので不思議に思った。

「財団の本部事務所って、ここではないのですか?」

「ここも財団の事務所ですが、言わば表の事務所です。五時までは職員が何人かいたのですが、定時に退社するようにしているので今は居りません。二階に会長室もありますがご覧になりますか」

 理紗にはよく理解できない説明であったが、財団本部というものを早く見たかった。

「いえ、結構です。その本部事務所というものを見せていただきます」

 葛城は頷くと二人に付いて来るよう促し、一同全員でエレベーターに乗り込んだ。定員五名とあるからこれが乗り込む限度である。エレベーターの扉が閉まると、遠山が一階のボタン、二階のボタン、三階のボタンを何回か押した。出鱈目に押しているようで不思議に思ったが、ゆっくりとしたスピードでエレベーターは下降して行く。一階に付くのに嫌に時間が掛かると思った時、やっとドアが開いた。降りたところは、一階ではなく地下であるらしい。それもかなり深い地下のようだ。眼の前に連絡通路のようなものがあって、ずっと先に続いている。遠山が通路入口の壁にある操作パネルに暗証番号を入力する。多分赤外線センサーなどのセキュリティを解除したのだろう。

「どうぞ、こちらです」

 葛城が先頭になって案内する。

「この通路は坂下にある神社の地下に通じています。そこに財団の本部事務所があるのです」

 理紗は大掛かりな施設に驚いた。敵対する者達への備えなのだろうか。

「これほど厳重な防備がなされているとは……想像をはるかに超えています。敵対する者達が多かったからなのでしょうね」

「いえ、当時は敵対勢力とは和解が出来ておりまして、攻撃を仕掛けてくる者はいなかったのです。あの阿修羅教団はこの十年程で先鋭化し、当方に攻撃を開始したのはごく最近のことです」

「すると、当時はこんなに厳重な防備が施された施設を造る必要はなかったのじゃありませんか?」

「この施設を造った頃は、忠彬様が金融取引を積極的にやっておられた時でして、国税庁や証券監視委員会などの査察や捜査に備えるという意味合いが強かったのです」

 葛城の説明は理紗にとって腑に落ちないものだったが、理解を超えていたので話題を変えることにした。

「阿修羅教団と言いましたか……その敵にはまだこの事務所の存在を知られていないのですね」

「えぇ、今のところ察知された兆候はありません。しかし、阿修羅教団の者達は、最近しきりに当方へ探りを入れている模様です。決して油断できません」

 それを聞いて理紗は少し不安になったものの、まさか自分に危害が及ぶとは思わなった。

 

連絡通路の突き当たりに扉があり、遠山がセキュリティを解錠して一行を中に招じ入れた。本部事務所は幾つかの部屋があるようで、先ず案内された部屋の壁面には液晶パネルがいくつも設置されており、机の上には数十台の情報端末とパソコンが置かれている。壁面のパネルには株価、為替相場、金利などが時々刻々と変化する数字を表示していた。

「ディーリングルームです。昔はこの部屋で忠彬様が金融取引の指揮を直接採っておられましたが、この二十年程はディーリングルームとしては使用しておりません。ただ保有資産の管理のために役立つと申しまして、遠山が時折使っておるだけです」

 葛城は説明が終わると、次の部屋に二人を案内した。そこは監視セキュリティルームであった。壁面に沢山のモニター画面がある。それらの画面には画廊の入り口、画廊の一階通路、エレベーター内部、三階事務所など桜坂画廊の至るところが映し出されている。神社の境内や神社の建物はこの施設の地上にある神社であろう。雑木林に囲まれた建物の外部とその内部は世田谷の屋敷だろうと理紗は推察した。

「このセキュリティルームの責任者は神崎です。何かご質問があれば神埼にお尋ね下さい」

 理紗が首を振ると、葛城はまた別の部屋に案内した。

「こちらが本部会長室です。どうぞお入り下さい」

 諒輔と理紗が部屋に入ろうとすると、神崎が「私達はこれで失礼いたします。別室で控えておりますので御用があればお申しつけ下さい」と告げ遠山と共に去って行った。

 部屋の中は、大手企業の役員室とさほど変わらぬ仕様で、床には分厚い絨毯が敷かれ、扉、壁、調度品はマホガニーや紫檀などの木製品で統一されている。皮張りの応接セットは十数名が座れるような大きなもので、諒輔、理紗、葛城は一番奥に向かい合って腰かけた。

「意外と普通の部屋なんですね。クラシックカーが趣味だと聞いていたので、自分の部屋は、重厚な英国貴族風かと思っていました」

 理紗は率直な感想を口にした。

「忠彬様は、『私の趣味はディーリングルームだけで充分だ』と言われて、ご自分の部屋には頓着しなかったのです。それでこのようにありふれた部屋になっているのです」

 葛城は部屋をぐるっと見渡し感慨深げな表情を見せた。それでもすぐにいつもの調子に戻り、二人に好みの飲み物を聞き、それを内線電話で伝えると居住まいを正した。

「早速ですが遺産相続についてご相談させていただきます。先ずはこれをご覧ください」

 葛城は資料を二部取り出し、諒輔と理紗に一部ずつ手渡した。

「それは、忠彬様の遺書のコピーです。本物は顧問弁護士が保管しており、詳細については後日、弁護士から説明があります。本日は私が、この遺書の概要を説明いたします。尤も諒輔様は忠彬様の記憶を引き継がれておられますので、先刻ご承知でしょうが、一緒にお聞き下さい」

『あぁ、そうか、諒輔さんは何もかも知っていたんだ。だから平然としていたんだわ』

理紗は内心呟き納得した。

「忠彬様がこの遺書を書かれたのは、亡くなる一週間ほど前でして、理紗様が陰の長者を引き受けてくれるかどうか分からない時でした。ですから陰の長者が忠彬様の代で絶えることもあり得るという前提に立っての遺書になっています。まぁ、内容は後ほどよく読んでいただきたくとして、遺産相続の要旨ですが、忠彬様個人名義の資産の内、四分の三を理紗様に、四分の一をクリスチーナ様に相続するということです。当財団の会長には陰の長者が就任し、その所有する資産の管理も陰の長者に委ねられます。因みに次代の陰の長者が不在となってしまった場合については、財団は解散し、所有資産は国庫に納める事になっておりました」

 葛城はここで言葉を区切ると、諒輔と理紗の顔を交互にじっと見た。

「色々と質問があると思いますが、もうしばらく私の説明を聞いて下さい。さて問題は世田谷の屋敷の相続です。土地も建物も忠彬様の個人名義ですが、遺書には陰の長者が管理するべきものとされております。なぜならあの屋敷には、代々の陰の長者を祭祀する祭壇があり、これを守るのは当代の陰の長者の務めだからです。忠彬様はこの20年ほどホテル住いでしたが、代々の陰の長者の祥月命日などの式日には必ず、世田谷の屋敷に行かれていました」

 葛城の話に理紗はすぐ反応した。

「あのう、私、そんな広い屋敷に絶対住みたくないです。ましてや先祖の祭祀の間があるような所、とても怖くて近づけません。遺書の通り諒輔さんが住むなり管理してくれたら嬉しいです。それよりも……」

 理紗は言葉を区切りおずおずと訊ねた。

「あのう、こんなこと聞いて、はしたないと思うかもしれませんが……私に相続される資産て、どの位の額なんでしょうか?」

「詳しい額は、顧問会計士が株式などの時価評価をして算出します。私もどの位になるか見当がつきませんが、金融資産だけでも数億円単位にはなることでしょう。でも、高率の相続税が課せられますから、手取り額はその半分以下になります」

 思っても見ない事態に理紗は茫然としている。

「ついでと言ってはなんですが、財団の所有資産についても理紗様に簡単に説明しておきます。財団資産は陰の長者である諒輔様が引継ぎ管理して行くことになります。財団には表と裏があることは、もうご理解いただけたでしょうが、表の資産はわずかなものです。裏の資産、我々は財団本部と言っておるのですが、その資産は中規模の銀行程度だと言っておきましょう」

 巨大な資産ということは理解できだが、具体的にそれがどれ位の額なのかは理紗には分からない。

「このような巨額の資産を保有するに至った経緯や、その方法などは私が説明するより、忠彬様の記憶をそのまま引き継いだ諒輔様の方が、ずっと詳しいので、説明は諒輔様にお願いしたいと思いますがよろしいでしょうか」

 葛城は諒輔の顔を窺った。その時、ノックがあり、遠山が飲み物を持って室内に入って来たので、ひと先ずコーヒーブレイクにすることにした。

 飲み物を飲んで一息つくと、諒輔が「話は長くなるけど」と前置きして話し出した。その概要は次のようなものであった。

 

 忠彬が陰の長者を引き継いだのはちょうど二十歳の時だった。それは太平洋戦争が終結した翌々年の一九四七年(昭和二十二年)のことであった。

 忠彬の父、顕平は戦時下においてその能力を買われ、天皇陛下からの諮問に応えるなどしていたが、終戦間際においては徹底抗戦派の将校等のクーデター鎮圧に尽力するなど活躍した。

 戦後は占領軍司令部と皇室存続について裏面交渉を行ったりもした。しかし、長年奔走した疲れと、安倍家の経済的な逼迫から気力を失い、息子の忠彬が成人するのを待って陰の長者を引き継いだのだった。裏土御門安倍家は多くの農地を所有する大地主でもあったが、占領軍の農地解放政策により、その大半を失った。また東京大空襲で自宅を始め、貸家のほとんどが焼失する被害もあって、家計を逼迫させたのであった。

 陰の長者を引き継いだ忠彬は、まだ大学生であり、家計の苦しい安倍家の当主として四苦八苦した。このような自身の経験もあり、これからの時代は経済力の時代になると予見し、経済、財政、金融などの最新知識の吸収に努めた。数少ない家財や土地を売り払い、海外留学をして欧米流の投資理論も習得した。知識は学ぶのではなく、脳に直接転写する方法で行われたから、短時間の内に、忠彬は世界トップクラスの質と量の投資理論と技法を習得できたのであった。

 忠彬は経済関連だけでなく、あらゆる分野の知識を吸収していったので、望めば総理大臣でも、大学の総長でも、大企業の社長でもなれる能力を持っていた。しかし陰の長者は世の表に出ること、多くの人に知られることは禁忌であったので、何事も人知れず行う必要があった。

 忠彬は若く、自信に満ちており、自分の能力を存分に発揮したいと切望した。それは抑え切れない若い性の衝動のようなものであった。そこで忠彬が情熱を注いだのが、投資と投機であった。自分の能力を存分に発揮することが出来て、念願の経済力が手に入る。正に一石二鳥であった。

 忠彬は投資と投機に没頭した。戦後の高度経済成長期でもあり、運用する資産は膨張した。運用先は株式、債権などの金融取引の他、商品相場、為替相場、不動産など多岐に亘った。

 莫大な投資収益があったが、税務申告をすると、世間やマスコミに忠彬の存在が知られることになるので、税務申告はしないことにした。忠彬の類ない才覚をもってしても、多額の資金の運用は当局が察知することになる。が、そうなった場合も、国税当局や証券監視委員会と渡り合い攻防することが当時の忠彬の生き甲斐になっていたのである。

 そのような時に造られたのがこの財団本部事務所であり、ディーリングルームであった。しかし息子の忠成が家を飛び出し、妻がその心労で亡くなると忠彬は投資と投機への関心を一挙に無くしたのであった――――


 理紗は諒輔の説明が一段落したところで、疑問を投げかけた。

「すると、財団本部の巨額な資産は脱税による違法なものなの?」

「それについては私から説明いたしましょう。国税当局と交渉したのは私でしたから」

 葛城は諒輔の方に眼をやり、諒輔が頷くのをみて説明を続けた。

「現在は国税当局にすべて申告して、過去の分も含め税金を支払っているので違法なものは一切ありません。脱税の時効は長くて七年です。金融商品取引法違反なども七年で時効が成立します。その期間を過ぎれば法的には罪に問われることはないのです。しかし忠彬様は時効になった分も含めて納税すると国税当局に持ち掛けたのです。その代わりに世間への公表は一切しないという約束でした。いわば一種の司法取引のようなものでしたが、当時の国庫状況も現在同様に逼迫していましたので、案外と順調に事が運びました」

「それを聞いて安心しました。諒輔さんが違法なことをしなければならないのかと心配しました」

「財団本部の資産については遠山が管理しています。詳しいことをお知りになりたければいつでも遠山にお尋ね下さい。えーそれでは財産相続の件はひとまずこれで終わりにして、次に阿修羅教団への対策について相談させていただきたいのですがよろしいですか」

 二人が頷くのを見て葛城は話し始めた。

「それでは、理紗様の為に、先ず阿修羅教団のことをご説明しましょう。阿修羅教団の原型となるものは戦国時代に形作られました。織田信長が比叡山を焼き討ちしたのはご存じと思いますが、信長はこの時、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われています。これに恨みを抱いた者や、恐れを抱いた者達が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったというのがその原点です。その後、時の権力者によって宗教者が弾圧される歴史が続きましたが、それ等の者達に手を差し伸べ救済することで勢力を伸張させ現在に至っているのです。豊臣政権から徳川政権にかけて迫害されたキリシタン、明治維新の廃仏毀釈により排斥された僧侶、明治以降に弾圧された数々の新興宗教の信者などが取り込まれていったのです。そのような種々雑多な者を受入れてきた結果、教団の教義は天台・真言両密教を基盤にしていますが、黒魔術やオカルト的な呪術なども取り入れて今や仏教とは異質のものになっているようです」

葛城は一息つき、飲み残しのコーヒーを飲んだ。

「あのう、阿修羅って言えば、奈良の興福寺の阿修羅像が有名だけど、阿修羅とはどういう意味なのですか?」

 理紗は気にかかっていたことを質問した。

「阿修羅は仏教の守護神とされており、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯の者が住む世界を現すとも言われています。つまり阿修羅教団とは迫害や弾圧に対抗し、常に闘争することを厭わない者達の集団という意味合いが込められているのです」

「よく分かりました。でもどうして、彼らは私達に敵対するのでしょう」

「それにも深い理由があるのです」

 葛城は深刻な表情を浮かべ、話を続けた。

「先ほどの説明でお分かりかと思いますが、阿修羅教団は時の権力者にとって極めて危険な存在でした。特殊な能力を駆使して要人の暗殺をしたり、政権転覆の陰謀に加担したりしたからです。そこで時の権力者が頼りにしたのが、阿修羅教団を凌駕する能力を有する裏土御門すなわち陰の長者だったのです。陰陽道は、天文、暦などを司ってきた為に、常に時の権力者に必要とされ、密接な関係を保ってきました。安倍一門としては権力者の要請を無碍にすることは出来なかったのでしょう。そのような次第で、裏土御門が阿修羅教団との戦いの矢面に立ったのです。その後長い抗争の歴史がありましたが、忠彬様のお父様の顕平様の代になってようやく和解が成立して抗争に終止符が打たれました。ところが十年程前に過激急進派が阿修羅教団の実権を握ると、和解を破棄し我々に対して敵対する事を鮮明にしたのです」

 葛城は説明を終えると、『理解していただけましたか』というように理紗を見つめた。

「それで彼らからの攻撃に備えなければならないのですね」

「その通りです。正にそのことをお二人にご相談したいのです」

 理紗は今まで、自分の身に危害が及ぶことはないと漠然と思っていたのだが、葛城の説明を聞いて急に恐怖心が湧き出した。

「あのう、すると、私も攻撃されるかもしれないのですか?」

「彼らは陰の長者への攻撃を最優先する筈です。理紗様が陰の長者を引き継いだと彼らが看做した場合、理紗様を襲う可能性があります。しかし彼等は理紗様が陰の長者になったかどうか判断を決めかねている様子なので、すぐに攻撃されるという状況ではないと思っています」

 葛城はそう言って、諒輔の同意を求めるような目付きをした。諒輔が同意を示すと、葛城は更に説明を続けた。

「理紗様、彼らは当財団の会長に誰が就任するか見届けようとしているのです。財団の会長に理紗様が就任しないと分かれば、理紗様は陰の長者でないと彼らは判断するでしょう。ですからなるべく早く諒輔様に会長を就任していただかねばなりません。」

「でも、会長に諒輔さんが就任したら、今度は諒輔さんが狙われることになるのでしょう?」

 理紗は心配気に諒輔の方を見た。

「僕は陰の長者です。襲われたところでどうにも対処できます。今は理紗さんの安全が大切です」

 葛城は二人のやり取りを見守っていたが、ここで口を挟んだ。

「何はともあれ会長就任の手続きを急ぎましょう。しかし関係者の同意を得るなどそれなりの手続きと時間が必要です。それまで万一に備えて理紗様は安全な場所にお住いになっていただきたいのですが如何でしょう?」

 理紗は今住んでいる下町のアパートを、住めば都とそれなりに気に入っていたが、身の安全が第一である。

「えぇ、引越しするのは構いませんけど、どこか良いところありますか?」

「はい、それはもう私共にお任せ下さい。すでに候補をいくつか手配していますから」

葛城は内線電話で神崎に理紗の住いに関する資料を持ってくるよう指示をした。すぐに 神崎が資料を持って現れ、理紗と相談して青山一丁目のセキュリティが厳重なことで定評のあるマンションに住まう事を決定した。これでその日の主要な打ち合わせは一通り終了した。

 世田谷の屋敷の問題は、取りあえず理紗が相続し、諒輔が住むなり管理するということにした。将来のことはその内、二人で世田谷の屋敷を訪れ、現場を見た上で検討しようということで合意したのであった。

 理紗は諒輔と六本木辺りで夕食を共にする積りであったが、諒輔は葛城と更に詳細な打ち合わせがあるのでここに残ると言う。理紗は仕方なく一人、神埼の車で自分のアパートへ帰る事になった。諒輔は矢張りいけずでどんくさい。

 

第十一章 宮内庁

 数日後、神崎の運転するリムジンで皇居に向かった。同乗しているのは諒輔、理紗、葛城である。今日の理紗は訪問着を着ており、諒輔にとっては見慣れた和服姿であった。諒輔は葛城からモーニングコートを着用するよう言われたが、普通の背広で勘弁して貰った。葛城は勿論モーニングコート姿である。

 坂下門で皇宮警察官のチェックを受け、リムジンは皇居に入り宮内庁前の車寄せで停車した。三人は車から降りると受付で来意を伝えた。今日は宮内庁式部官長に会い、諒輔の財団会長就任の承諾を得るためにやってきたのだ。財団法人日本伝統行事研究保存協会は宮内庁が所管官庁となっており、会長就任にはその承諾が必要だったのだ。

 一行は応接室に案内され、お茶が供されたが、『式部官長は会議が長引いておりしばらく待っていただきたい』とのことであった。

「私、実はね、以前宮内庁に来た事があるの」

 理紗は皇居に入ってから、宮内庁の応接室に来るまで少しも物怖じする様子を見せなかった。諒輔には宮内庁の様子は既視感デジャブが有った。忠彬の記憶を引き継いでいるのだから当然であろう。しかし理紗が、先ほどから平然としているのを、不思議に思っていたところだったのである。

「へえ、それは意外だな。またどうして?」

「芸大時代の友達に雅楽を専攻していた人がいてね。その人、宮内庁式部職の楽部に就職したの。それで宮内庁で開催される雅楽演奏会に招待してくれたと言うわけ」

「ふーん、その人って大学時代のボーイフレンド? それとも恋人?」

 諒輔はつい、口走ってしまった。

「さぁ、どうかしら」

 理紗はわざと悪女めいた笑顔をして諒輔の顔を覗き込んだ。葛城はそしらぬ顔でそっぽを向いている。その時「大変お待たせいたしました」と言いながら顔を紅潮させた肥満体の男が応接室に入って来た。葛城は何度かこの人物に会ったことがあるらしく、双方を紹介した。諒輔に渡された名刺には“宮内庁式部官長 安倍豊淳”とある。この人物は安倍本家筋にあたる者でいわば表土御門の当主とも言うべき存在であった。一通り挨拶が済むと葛城が切り出した。

「この度、忠彬様ご逝去あそばされ、こちらの三輪諒輔様が新しい裏土御門家を継がれました。つきましては財団会長への就任に付き、所管官庁として、また安倍宗家としてご承認賜りたく参上いたしました」

 諒輔も葛城に習い頭を下げる

「本来なら、そちらの安倍理紗さんが引き継ぐべきだったのでしょう。あ、いや事情は聞いております。理紗さんが引き継がなかったことを責めているわけではありません。えぇっと、理紗さんは、三輪諒輔さんが陰の長者を引き継ぎ、財団の会長になることを承知しているのですな」

「はい、勿論承知しています。私は諒輔さんが陰の長者を引き継いでくれた事を、心から感謝しています」

「そうですか、しかしですな……いや、安倍一族の主だった者に内々で相談したのですが、安倍の血を引かぬ者が陰の長者になれる訳が無いと言いまして、あなたが陰の長者になったということを信用しないのです」

 諒輔には豊淳の心を読まずとも、豊淳本人が諒輔を信用していないことが手に取るように分かった。

「それでは、今この場で、私が陰の長者であることを証明して見せましょう」

「ほう、それは」

 豊淳は予想もしない諒輔の言葉に呆気にとられている。諒輔はそんな豊淳に構わずおもむろに印を結び、呪を唱えた。

 

 豊淳はしばし呆然としていたが、応接セットのテーブルに蟻の様に小さなものが湧き出したのに気付いた。それらは次第に大きくなって、大豆ほどの大きさになり、あるものは人となり、あるものは馬となり、やがて行列となって動き出した。それらは更に大きくなって行き、男は狩衣などの束帯姿、女は十二単などの女房姿で、それぞれが葵の葉を飾っていることが分かる程になった。『あぁ、これは葵祭りの行列だ』と豊淳は理解する。葵祭りは宮内庁が深く関わって行われる行事であり、豊淳自身も何回か行列の一員として参加しているのですぐ分かったのだ。

 最初、蟻位だったものが今やゴルフボール大になっていたが、そんな行列の中に、牛車が現れた。赤い引き綱を手にする二人の牛童の姿もはっきりと見て取れた。牛車は勅使が乗る豪華な御所車である。と見る間にその御所車は急拡大し応接室一杯になる程の大きさになった。

 周囲はいつの間にか溶暗に溶け込んでいたが、その暗闇から水干姿の二人の牛童が現れた。その牛童の一人が牛車の後方の御簾を上げ、もう一人が踏み台を据えると、恭しく辞儀をして乗り込むように促した。

「どうぞ、皆さん牛車にお乗り下さい」

 諒輔はそう言うと理紗の手を取って、最初に牛車に乗せた。次に豊淳、葛城、最後に諒輔が乗り込んだ。豊淳は驚きの余り、声を上げるのも忘れて諒輔に言われるままに従っている。皆が乗り込むと、牛童は御簾を下げ、踏み台を取り去った。

「よろしいですか。これから何があっても、何を見ても決して声を上げてはなりません。くれぐれもこれだけは守って下さい」

 諒輔が言い終わると、牛車はゴトリと動き出した。諒輔は理紗の肩を抱いて耳元で囁く。

「理紗さん、何があっても心配しないで下さい。僕が付いていますから」

 牛車はゴトゴトと進んで行く。豊淳は脇の小窓の御簾を上げて外を見たが暗くてよく分からない。しかし目を凝らしてそこがどうやら京都の町並みの風景と見当を付けた。

「ご主人様、奴らがやって参りました。如何いたしましょうか」

牛童の一人が牛車の外から諒輔に向かい言上する。

「うむ、牛車を脇に寄せ停止させよ。お前達は身を隠しておれ」

「畏まりました。仰せの通り致しまする」

牛車はギシギシと音を立てて脇に寄ると停止した。

 やがて前方から、がやがやと人の話す声や下卑た哄笑が聞こえてきた。がちゃがちゃと物が打ち合う音に混じって女のすすり泣くような声も混じる。葛城は恐ろしくなって思わず声を上げそうになった。諒輔は口に手をあて「シィー」と葛城を制止した。

『葛城さん聞こえますか。テレパシーで話しかけています。恐ろしかったら眼を塞ぎ、耳も手で押さえていて下さい』

 葛城は何度も頷いて見せ、眼をつぶり、耳を手で覆った。

 物音は更に大きくなり、近付いてくる者達が話す内容を聞き取れるほどになった。

「なんじゃ、良い匂いがするわい」

「おう、そう言われてみれば、麝香、白檀にも勝る良い匂いじゃな」

 理紗は自分の香水が匂うのだろうと気付き、恐怖で震え、諒輔にしがみ付いた。豊淳は御簾の隙間から近づいてくる者達を凝視していた。恐ろしくて仕方ないが身体が凍り付いてしまい、眼が離せなくなっていたのだ。

 豊淳の目に映った者どもは、正に悪鬼の群れであった。痩せさらばえた身体に襤褸を纏った者は、もぎ取られた人の腕を握っており、それを齧りながら歩いて来る。またある者共は、狩った猪を棒にぶら下げるように、人の手足を棒に縛り付け運んでいた。またある者は、全裸の女を逆さに肩に担いでいる。女の腹や太股は抉り取られており、見るも無残な有様であった。

「おい、この辺りじゃ、この周りをよく探せ」

 ひと際獰猛な形相の者が下知すると、悪鬼どもは鼻をひくつかせて牛車の周りを嗅ぎ回り出した。ここに至り豊淳は「ひぃー!」と喉を震わせた。同時に金縛りにあったような状態が解かれて、その場に崩れ落ち、そして気を失った。

 

「豊淳様、もう大丈夫です。目を覚まして下さい」

 頬をひたひたと葛城に叩かれて、豊淳は目を覚ました。

「あぁ、なんて恐ろしい夢を見てしまったのだろう」

 まだ、意識が朦朧としているようだ。

「確りして下さい。ここはどこか分かりますか」

 豊淳は周囲を見渡した。

「あぁ、ここは……」

「私達の事も、分かりますね」

 豊淳は諒輔、理紗、葛城の顔を順番に見つめ頷いた。

「確かに……確かにあなたは陰の長者です。疑う余地は有りません。先程の失礼深くお詫びいたします」

「いや、良いのです。あの光景は我らが祖、晴明公が師の賀茂忠行様に鬼どもが来るのを告げられた折の光景を、晴明公の記憶に基づき忠実に復元したものです」

 諒輔は今昔物語の一説を語った。


「晴明若かりける時、師の忠行が下渡(しもわたり)夜行(やぎょう)に行ける供に、徒歩にして車の後に行きける、忠行車の内によく寝入にけるに、晴明見けるに、(えもいわ)ず怖き鬼共車の前に(むかえ)に来ける。晴明此れを見て驚きて、車の後に走り寄りて、忠行を起こして告ければ、其時にぞ忠行驚きて覚て、鬼の来たるを見て、術法(ずっほう)を以て忽に我が身をも恐れ無く、供の者共をも隠し、平かに過にける――――」


「今昔物語には鬼と記されていますが、あれ等は鬼でも魑魅魍魎でもなく人間です。当時の京の都は、夜盗、押込み、人さらい、死人喰いなどが溢れていたのです」

「うーむ、人間ほど恐ろしいものは無いということですな……」

豊淳は諒輔の説明を受け絶句した。



第十二章 世田谷安倍屋敷

 諒輔は財団会長に正式に就任した。所管官庁の宮内庁に就任届けを提出し、財団定款や商業登記簿に会長として諒輔の氏名が掲載されたので、阿修羅教団側も諒輔が陰の長者になったことを知るであろう。理紗はこれで、彼等からの攻撃対象から外されることになりそうだが、これからは諒輔が彼等の攻撃に注意しなければならない。

 諒輔はこれを機に、八王子のアパートを引き払って、世田谷の安倍家屋敷に引っ越そうと思った。しかし、今ひとつ気が進まないのも事実であった。忠彬の記憶を探ってみても、あまり良い印象があの屋敷には無いのである。しかし何事も実際に自分の目で確かめることが大切である。理紗との約束に従い、二人で世田谷の屋敷を訪れることにした。桜坂の財団事務所を訪れた時は、迎えの車を断ったが、今回は駅から離れている上に分かり難いということなので、最寄り駅の小田急線成城学園前駅からの送迎を神崎に依頼した。

 

 国分寺崖線とは多摩川が十万年以上の歳月をかけて武蔵野台地を削り取って出来た段丘である。その崖の連なりは立川市から国分寺市を経由し、世田谷区にも亘っており、その延長は三十キロメートルにも及んでいる。安倍家の屋敷は世田谷の野川を見下ろすこの涯線段丘の斜面に建てられており、周囲は武蔵野の自然のままの雑木林になっている。屋敷以外の敷地の大部分は崖や斜面であったが面積は広大であった。

 リムジンは崖下のゲートを通り抜け、くねくねと曲がる細い坂道をゆっくりと登って行く。秋も半ばを過ぎ、雑木林の木々は落葉を始めていたが、屋敷近くは杉などの常緑樹の林になっていて、昼というのに薄暗い。

 やっと屋敷門に到着し、神埼がリムジンを降りて門を開く。理紗は車の中から、屋敷の中の様子を薄気味悪そうに眺めていた。

 神崎は再びリムジンに乗り込み車を進め、屋敷の洋風の車寄せで停車した。神崎はリムジンのドアを開け、諒輔と理紗が降り立った。今日の理紗はジーンズにスニーカーというカジュアルな姿で、髪はポニーテール風に後ろに纏めている。

「この屋敷には私が屋敷番として住んでおります。昼間は財団の仕事があるので、私はおりませんが、警備保障会社に警備を依頼しています。それから後でご案内しますが、この敷地内にはクラシックカーを収納する車庫がありまして、その管理も私が担当しています。では先ずは屋敷内をご案内しましょう」

 神崎は玄関を開け、二人を中に入るよう勧めた。玄関付近の建物は洋館造りで、一部が二階建てになっている。忠彬が建築してから五十年程経っている筈だが、手入れが行き届いているのだろう、壁や柱にひび割れや剥がれは見当たらない。中に入ると吹き抜けになっており、大きなシャンデリアが吊り下げられていた。洋館一階部分は応接スペース、二階部分は来客用のベッドルームになっていた。

 屋敷の奥の部分は和風木造建築で、庭に面した大広間があり、その他、書斎、寝室、子供部屋、使用人の部屋、食堂、浴室など大小様々な部屋があった。それらの間取り配置は陰陽道の風水によるものであり、合理的な思考をする理紗にとっては、使い勝手の悪い屋敷に感じられた。

「やはり私、この屋敷には住めないわ」

 理紗は感想を述べ、同意を求めるように諒輔の顔をみた。

「そうかな……」

 諒輔は理紗とは違う印象を抱いていた。諒輔は先程から、この屋敷の佇まいや、屋敷の中の様子に懐かしさを感じていたのだ。この屋敷には先入観としての悪い印象しかなかったのだが、こうして実際訪れてみると、諒輔には、相性の良い建物のように思えたのである。陰の長者になったからそう感じるのか、それとも子供の頃、母と歩いた糾の森の雰囲気にどこか似ているからなのか分からないが、諒輔はこの屋敷に住んでも良いと考え始めていた。

 屋敷の最奥の鬼門にあたるところに、代々の陰の長者を祭祀する部屋があった。この部屋には陰の長者以外はたとえ理紗であっても入れないので、諒輔一人が入ることにして、理紗と神埼は洋館の応接室で待って貰う事にした。

 諒輔は祭祀の間の前に立つと、印を結び、呪を唱えて式神を呼び出した。いつもの犬麻呂と牛麻呂である。二人の式神は祭祀の間の観音開きの扉を左右に引いて開いた。この扉は式神でなければ開けることは出来ない仕組みになっていたのだ。諒輔が室内に入ると式神も後に続き、内側から扉を閉めた。

 中は真っ暗になった。式神の動く気配がしたかと思うと、左右に置かれた燭台に明かりが灯った。犬麻呂、牛麻呂が燭台から離れ、諒輔の後ろに畏まる。燭台の灯りで室内の様子が浮かび上がる。白木の祭壇が四段ありその台上には、霊璽がずらっと並んでいる。歴代の陰の長者のものであろう。四段の祭壇より更に上の壇に一際大きい霊璽がある。始祖、晴明公のものであった。

 床には魔方陣のような大きな円があり、その中に晴明紋である五芒星が描かれていた。部屋の壁の右に青龍、左に白虎、祭壇裏の壁には裏土御門の守護神獣の玄武が描かれている。朱雀はどこかと探し、振り返ったがそこは扉で何も描かれていない。ふと上を向くと、天井一杯を朱に染めて朱雀が羽を広げていた。


 諒輔は祭祀の間を出ると、洋館の応接室に行き、理紗と神崎に、この屋敷に住むと伝えた。それを聞いた神崎は大層喜んだが、理紗は『理解できない』という表情をした。

「理紗さん、この屋敷は理紗さんのものなのだから、そんなに嫌わないで下さいよ。月に一度ぐらい是非、家主として、店子の様子など見に来て下さい。歓迎しますよ」

「えぇ、まぁ気が向いたら……」

 理紗は思う。どうせ会うなら麻布とか代官山とか洒落た街中にして貰いたい。

『こんな辛気臭いところ、勘弁して』

 理紗は内心呟いた。

「それでは、クラシックカーのコレクションをご覧に入れたいと思いますので、一旦外に出ていただけますか」

 玄関を出て、車庫の前に来ると神崎が説明を始めた。想像以上に大掛かりな構造物であった。

「ご覧のように非常に大きな車庫です。二十台は楽に入る設計になっていますが、現在全部で十二台のクラシックカーが保管されています。今、シャッターを開けます」

 神崎が電動スイッチを入れ、三つあるシャッターの内、一番左側を開けた。現れたのは五台のクラシックカーであった。

「この五台は、ヴィンテージカー呼ばれるもので、1930年以前に生産された自動車です。これは1920年製のベントレーで、あれは、1926製のオースチンです。えーと、それからこちらは――――」

 神崎は、嬉しそうに色々と説明してくれたが、諒輔はともかく理紗は興味が無いらしく、小さな欠伸などしている。

「神崎さんありがとうございます。ところでこれ等のクラシックカーは、公道を走ることが出来るのですか」

「えぇ勿論です。どの車もちゃんと車検を取っています。ですが安全面という面では大きな問題があります。シートベルトやエァバックが装備されていないなど、事故に遭った場合は大変危険です」

「でも先代が乗っていたクラシックカーにはちゃんと安全装置が装備さえていましたが」

 諒輔は忠彬が崖から落ちたあの事故の事を思い出して尋ねた。

「忠彬様は、遠出なさるときは安全を考えて、セーフティ装置の付いた特別仕様のクラシックカーに乗車されたのです。都内など近場の場合は、何も手を加えないクラシックカーの運転を楽しんでおられました」

 神埼も相当なクラシックカーマニアのようで、なおも説明を続けたそうな表情をしていたが、ここらでひとまず退散することにした。

「さぁ、それではそろそろ帰りましょうか。理紗さん成城にうまい中華レストランがあるんですが寄って行きませんか」

 諒輔は、上機嫌で理紗に話しかけたが、理紗は何か浮かぬ顔である。

「何か先ほどから胸騒ぎがしてならないの。心配だわ、私達に危険が迫っている……」

理紗は以前にも『私には危険を察知する能力が有る』と言っていた。諒輔は大して気に留めなかったが念のために神崎にこの屋敷のセキュリティをチェックするよう指示した。神崎は携帯電話を取り出し何やら操作していたが、「この屋敷の監視装置が作動していません。何者かがシステムを遮断した疑いがあります」と急いで車庫のシャッターを閉めた。

「ここは危険です。屋敷の中に入りましょう」

 神崎の言葉に従い、急ぎ足で玄関に向かった。

 玄関に向け急ぐ諒輔たちの前に物陰から黒服の男が五、六名走り出てきた。身の丈程の棒を脇に抱えている。後ろにも気配を感じて振り向くと、同じ格好をした者がやはり五、六名走り寄ってきて、脇に抱えた棒を両手に持ち身構えた。諒輔達は取り囲まれてしまった。

「三輪諒輔だな」

 待ち伏せていた中の一人、それは偲ぶ会に現れた、長髪、色白の女に見紛うあの優男であった。隣にいるのは顔に大きな傷のある男だった。

「あぁ私が三輪諒輔だ」

 諒輔と神埼は理紗をかばう様にして、油断なく身構える。

「ふん、若造だな。お前本当に陰の長者か?」

「はは、どうかな」

「安倍の血筋を引かぬ者が陰の長者になれる訳がない。お前は偽者であろう。それとも陰の長者である証拠を見せるか、それ!」

 優男の合図に呼応して、前後の敵が一斉に攻撃してきた。諒輔は身体が自然に動いて合気道の技を繰り出していた。大学時代の同好会で合気道をしてきた土台の上に、忠彬の武術の記憶が反応して自分でも驚くほどの技の切れがあった。諒輔はたちまち二人の敵を投げ飛ばした。神崎はさすがプロの腕前で、棒の攻撃をものともせず空手で反撃している。

「敵の棒を奪って私に下さい」

 理紗は高校時代に女子剣道でインターハイに出場したことがあり、武器があれば戦える自信があった。

「私、小さい時から剣道していたんです」

 諒輔は打ち込んできた棒をかわすと、敵の懐に飛び込み、腕の関節を決めて棒を奪い取った。

 その棒を受け取ると理紗は敵と対峙した。棒の先を細かく上げ下げしていたが、打ちかけてきた敵の棒を払い除けると、敵の脛を強かに打った。脛の急所を打たれた敵はその場にへたり込む。理紗まで手強い反撃をするとは思っていなかったのだろう、敵は怯んだ。

「合気道に空手、剣道か、中々手強いな」

優男は手負いの男達を自分の後ろに退けた。

「三輪諒輔、体術比べはこの位にして、今度は呪術比べと行くか」

優男はそう言うと、空に九字を切り、密教の真言を唱えた。風が巻き上がり小さな竜巻が生じた。と見る間にそれは人の倍ほどもある鬼神の姿に変貌した。火炎を全身から放っているからこれは不動明王か。

「どうだ、三輪諒輔、お前も呪術で応戦せんか、そーれ!」

 優男が手を上げると、鬼神は口からゴーッと音を立て、炎を吐き出し威嚇した。理紗は驚いて諒輔の背後に隠れる。

「仕方ないな、それでは相手するか」

 諒輔は印を結び、呪を唱えた。ぼぉーと白い靄のようなものが湧き上がった。それは一旦拡散したが急速に凝縮して、クリスタルのように光り輝く天女の姿が現れた。辺りの空気がいっぺんに冷え込み、見守る者達の肌に鳥肌を立たせた。

「待たせたな、それでは行くぞ」

 諒輔が指先で、空に小さな円を描くと、天女が片手を口元に添えて、鬼神目掛けて、ふぅーと息を吹きかけた。盛んに炎を上げていた鬼神は、天女に息を浴びせられると、たちまちの内に炎はチロチロと燃える炭火程度になり、天女が袖を払うと影が薄れ消滅してしまった。呪術の技量の差は歴然である。とても適わぬと悟ったのか、優男はそれ以上反撃しようとはしなかった。

「確かにお前が裏土御門陰の長者であること見届けた。今日の目的は達したので引き上げるとしよう。今回はほんの小手調べだ。次に合間見える時は、これ位では済まぬこと良く覚えておけ」

優男が手を振ると、比較的元気な者が手負いの者を担いだり、支えたりして屋敷から出て行った。諒輔は敵が逃げ去るのを見届けると、呪を唱え天女を消した。

「諒輔様、あの天女は理紗様にそっくりでしたね」

神崎は諒輔が新しい陰の長者として頼もしい働きをしたので、安心し、感動していたので、つい気軽に思った事を口にした。

「そうかな、偶然だと思うよ」

 諒輔は照れていると理紗は思った。

『私にだって、読心能力が有るのよ』

 理紗そう言いたい衝動をぐっと堪えた。


第十三章 六本木1丁目

 諒輔は毎日、神崎の運転する普通の国産車で財団の事務所に通った。神崎はクラシックカーで送迎したいようであったが、それだけは勘弁して貰いたいと頼んだのだ。屋敷は崖の途中にあり、駅まで距離があるので、車での送迎はありがたい。でも、こんな事では運動不足で肥満になりはしないかと少し心配でもある。そこで、暇さえあればスポーツジムに通って筋肉トレーニングに励んでいるのであった。

 午前十時頃、桜坂の財団事務所に着くと、エレベーターで三階に上がり、出されたお茶を飲み、葛城や他の職員と雑談を交わし、その後決裁書類に署名するなどの雑務を処理する。それ等が終わると、二階の会長室に行くと告げて、エレベーターに乗り込み地下の財団本部の会長室に向かう。

 

 その本部会長室では、このところ連日のように阿修羅教団対策の協議がなされていた。

「神崎さん、阿修羅教団の新しい情報は入って来ませんか」

 諒輔も手を尽くして調べているのだが、教団の過去の歴史は分かっても、現在の彼等の所在地は勿論、その組織、リーダーと目される人物など皆目分からない。

「我々の調査だけでは限度があります。ここは国家権力を借りるしかないと思いますが」

 神崎の提案に葛城と遠山が同意した。阿修羅教団は、その発足以来、反国家権力の団体であり、現代においても警察などが監視を続けているのだろう。

「国家権力に頼るのは、気が進まないけど、事は急を要するので、それも仕方ないか」

 諒輔の言葉に応じて葛城が意見を述べる。

「えぇ、我々は既に二回も彼等の襲撃を受けています。最早猶予はなりません、手段を選ばず対処するべきと存じます。つきましては我が裏土御門の一族に連なる者に、警察庁で公安関係を担当している者がおりますので、この者に協力して貰えばどうかと思いますが、如何でしょう」

 諒輔としても異存は無かったので、葛城がその人物と接触し、協力を求めることにした。

 

 その数日後、接触を図っていた人物が、財団の表事務所二階の会長室を訪れた。その人物は歳の頃は四十台後半、職業柄か目付きが鋭い。渡された名刺には《警察庁警備局参事官 日野達明》とある。この日は葛城と神崎が同席している。

「こちらからお伺いするべきなのに、お越しいただき申し訳ありません」

 諒輔は素直に、無礼を謝った。

「いえ、裏土御門陰の長者のご用とあらば、我ら一族の者、馳せ参じない訳には参りません」

 日野はどこまで本気なのか、芝居がかった真面目な態度を崩さない。

「私は陰の長者と申しましても、このような若輩者です。お気遣いなどしないで下さい」

「そうですか、いや実を申しますと、もっと年配の方かと思っていました。それに、安倍の血を引いていないとか」

 日野もどうやら、諒輔が陰の長者になったことに懐疑的なようである。

「えぇ、その通りです。安倍の血は引いていません」

 諒輔はそう言いながら、右手をさり気なく上げた。すると会長室のドアが開き、犬麻呂と牛麻呂が茶碗と菓子を捧げ持って入って来て、それ等を日野の前に置くと、一礼し部屋の隅に下がった。日野はこの様子を驚きつつ眺めていた。日野には式神の姿は見えないので、ドアが自動的に開閉し、茶碗と菓子が空中を浮遊してきたと映ったのだ。

「あぁ、式神を遣ったのですね」

 日野も裏土御門の一族、直ぐそれと察した。

「えぇ、最初は皆さん、中々信じてくれないので、このような手品紛いのことをしてお見せしました」

 諒輔が目配せすると、犬麻呂と牛麻呂は腰に差した扇子を開き、応接のテーブルに置かれている名刺を左右から煽いだ。日野は諒輔、葛城、神崎の名刺をテーブルの上に並べて置いていたのだが、それがふわふわと舞いあがり、三羽の蝶と化すのを見て頭を下げた。

「いやどうも、申し訳ありません。あなたが陰の長者になられたこと、頭では納得していた積りでしたが、こうして実際に会ってみると、つい疑念が生じました」

「早く信じて貰わないと、これからの話が進みませんので、手っ取り早いやり方をしました。子供騙しのようで失礼しました。それでは式神を引き下がらせましょう」

 諒輔は呪を唱えると、蝶はテーブルに降り立ち元の名刺になった。犬麻呂と牛麻呂も霞んで行き消え去った。納得した日野が話した阿修羅教団の情報は、概要以下のようなものであった。

 

 阿修羅教団の本拠はその歴史にあるように今も比叡山の山中にある。しかしそれは名目的なもので実際の本拠は六本木の高層ビルに在る。教団のリーダーは、役行者の生まれ変わりと自称する凌霄院月瞑りょうしょういんげつめいという者で、十年程前に教団の長老達を力で排除し、実権を掌握した。

 月瞑は天台・真言の両密教の他に西洋の黒魔術やオカルト教団の呪術などを自在に駆使する異能者で、教団の者全てが彼に絶対忠誠を誓っている。月瞑は教団の弱点が経済力の劣弱さにあるとして、これを克服するために、コンサルタント会社を設立し収益の柱にしようと企てた。

 月瞑はマインドコントロールの法に長けていたので、最初の頃は社員研修を請負う事業を行ってきた。研修を受けた社員の意欲が上がり、その結果、会社の業績が上向いたとの評判が立ち、それからは順調に規模を拡大し、現在では経営コンサルタントと人材ビジネスを事業の2本柱する中堅企業へと変貌を遂げている。その急成長振りは、経済界でも話題になるほどである。その会社の名前はシュラ・コンサルタンツと言い、代表取締役には月瞑が就任し、他の教団首脳も役員に名を連ねている。

 教団の戦闘組織の根拠地は、箱根にあり、表向きはシュラ・コンサルタンツの研修センターと言うことになっている。その中では、少林寺拳法や丈術などの格闘技、銃器、爆弾の取扱いなど、テロリスト養成所と変わらぬ訓練がなされている模様だ。更にはサリン等の毒ガスが製造されている節があり、公安当局の捜査員を過去に何度か潜入させようとしたが悉く失敗している――――

 

「シュラ・コンサルタンツの経営内容は、資料を置いて行きますので、後でゆっくりご覧下さい。それ以外に何か質問はありますか?」

 日野は説明を一先ず終えると、諒輔、葛城、神崎の顔を見回した。

「先日、彼等の襲撃を受けたのですが、その襲撃隊のリーダーは、一見すると、長髪、色白で女のようにも見える男でした。心当たりはありますか」

 諒輔の問いに日野は躊躇なく答える。

「あぁ、それは月瞑の右腕で戦闘部隊を束ねている、横川玲雪よかわれいせつと言う者でしょう。彼も呪術を操ると言われています」

「私からも質問があるのですが良いですか」

 葛城は、日野が頷くのをみて、質問を続ける。

「公安は彼等を、強制捜査する計画はないのですか?」

「我々は注意を持って彼等の監視を続けています。先程もお話したように、最近オカルトの残党が合流し、サリンなどの毒ガスの開発に着手したとの情報を得ています。現在その確認に注力しているのですが、彼等のガードは鉄壁で手を拱いておる処です。その証拠が無い以上、直ぐに強制的な捜査は出来ないのです」

 公安警察と雖も、法治国家の枠組みでは、無茶な事はできないのであろう。しかし、今日の日野の話はとても参考になった。諒輔達は口々に日野に厚く礼を言い、日野が事務所を出るのを葛城と神崎が入口まで見送った。

 日野が帰った後、シュラ・コンサルタンツについてインターネットで検索し調べてみた。

 入居しているビルは、六本木ガーデンヒルズタワーと言う名称で、地上四十五階地下二階建て、屋上には緊急離着陸用のヘリポートが設けられていた。溜池山王の隣駅の六本木一丁目駅に地下で直結しており、メーンのオフィス棟の他に、レストランなどがテナントとして入る商業棟や、高級レジデンス棟が併設されている。それを知った葛城は「灯台下暗しとはこの事ですなぁ」と旧い諺を呟いて驚いている。インターネットの地図を見ると、桜坂を上がりスペイン大使館の前を通れば徒歩で十分もあれば行ける距離である。

 教団の最高指導者でシュラ・コンサルタンツ社長の凌霄院月瞑についても、インターネットで調べてみた。

 十年ほど前の、シュラ・コンサルタンツ創立当事の新聞インタビュー記事と写真があった。修験道を取り入れた研修の厳しさや、研修の成果を絶賛する利用企業の声などが記事として紹介され、研修生の前で講義をする坊主頭、サングラス姿の月瞑の写真を数点見ることが出来た。企業社員研修のカリスマ的な存在になってからは、マスコミの取材を一切拒否することで、月瞑のカリスマ度は更に増幅しているようだった。

 

 日野が財団事務所を訪れた翌日、天気も良かったので諒輔は散歩を兼ねて、六本木ガーデンヒルズタワーまで歩いて行った。このビルは城山と呼ばれる台地の西斜面に建てられており、四階が車寄せ付きの正面玄関になっている。その前に立って総ガラス張り地上四十五階のタワービルをしばらく見上げていると、眼が回るような感覚に囚われた。首筋をほぐすために、首をぐるりと回してからエントランスに向かった。

 警備員が入り口で警備しているが、呼び止められることもなく中に入ることが出来た。エントランスの壁面にテナント企業の名前がずらりと掲示されている。その中にシュラ・コンサルタンツの名前があった。三十五階、三十六階、三十七階の三フロアを使用しているようだ。今日は外見だけ見て帰る積りでやって来たのだが、ついでだから、事務所の様子も見てやろうと思い、シュラ・コンサルタンツの研修用受付がある三十五階に行ってみることにした。

 乗り込んだエレベーターは途中で止まることなく、直ぐに三十五階に到着した。諒輔が受付に近づくと、可愛らしい受付嬢が立ち上がり礼をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。研修生の方は受講票をご提示下さい」

「いぇ、研修生ではありません」

 諒輔は何と言えば良いか素早く思案した。妙案は浮かばない。

「それでは、研修の見学でしょうか」

「あ、はい。そうです。見学したいのいですが」

 願ってもない受付嬢の言葉にほっとする。

「それでは、こちらの見学申込書にご記入下さい」

 受付嬢が、にこやかに差し出す申込書を受け取る。会社名、会社所在地、見学する者の氏名と所属部署、役職名、連絡電話番号、見学の目的などを記入しなくてはならない。仕方ないので会社名の欄などは以前勤務していた、日本不動産タイムス社のものを書き込んだ。氏名は、あのろくでもない上司であった島田洋一とし、役職名も彼の肩書である新聞局長としておいた。見学の目的は思いつくまま出鱈目なものを書き入れ、書き終わった申込書を受付嬢に渡す。

「それでは、この入館証を付けて少しお待ち下さい。研修広報担当がご案内いたします」

 自由に研修フロアを見て回れるという思惑は外された。しばらくすると如何にもやり手と言う感じの眼鏡をかけた女性が出て来た。受付嬢から受け取った諒輔が書いた見学申込書に素早く目を通すと、こちらに歩み寄って来る。

「島田様、どうもお待たせしました。私、研修広報担当の鮫島と申します」

 名刺を渡されると、こちらも名刺を渡さなければならないので困る。

「ちょうど名刺を切らしてしまって済みません。日本不動産タイムス社の島田です」

鮫島と名乗った女性は、ちらっと嫌な表情を浮かべたがすぐ打ち消し「ではご案内いたします」と先に立って歩き出した。

「このフロアの研修施設は、過去に弊社の研修を受けたことのある者、つまりリピーター向けのフォローアップ施設です。初めての方は、箱根にある研修センターで合宿形式による研修を受けていただいております」

 通路を進んで行くと、左手に研修生が憩う為のラウンジがあり、良い匂いが漂って来た。

「良い香りでしょう。弊社が独自に開発・製造したアロマです。もしお気に入りましたら、ラウウンジの売店でもお買い求めが出来ます」

諒輔が『いや、結構です』と言うように手を振ると、鮫島はあっさり先に歩き出した。

「ではこちらの部屋にどうぞ……」

 最初に案内された部屋に入ると、大勢の人が喚く声が大音量となって耳を圧した。

「この部屋ではあらん限りの大声を出すことにより、羞恥心などの邪念を払う訓練をしています」

 鮫島もこれ等の人に負けじと大声で説明する。女性を含む研修生と目される五〇人ほどの人達は、作務衣のような研修服を身につけ、ネームプレートを首から下げている。額や首筋の血管を浮き上がらせ、顔を紅潮させて何やら叫び、喚いている。各自がてんでばらばらに喚くものだから、何を言っているのかは分から無い。こんなことをして邪念が払えるか疑問に思ったが、諒輔は感心した風を装い、数度大きく頷いて見せ部屋の外に出た。

「いきなりでびっくりされたでしょう……大声を腹から出す、これが当社研修の基本その一です。この訓練は研修センターの中だけでなく、繁華街や駅前でも行っています」

 繁華街や駅前で訳の分からぬ事を喚かれては、聞かされる方はさぞ迷惑だろう。

「ところで島田様、当社の事はどちらからか紹介などあったのでしょうか」

「えぇ、取材先の企業などからかねがねシュラ・コンサルタンツの評判を聞いていましたので」

「成程、それで、御社の従業員は如何ほどですか?」

 どうやら見学する者をただでは返さない腹積りのようだ。

「うちは零細でして、四十人ほどしかいません」

「いぇいえ、四十人も従業員がいらっしゃれば、ご立派ですわ。弊社の研修の一つの特色ですが、二十人・三十人と言った中小企業が多くご利用しております。尤も弊社の研修を受けて、大きく業績を上げ、現在大手企業に成長したクライアントも数多くございますが」

 さり気なくPRを混ぜるとは、鮫島は思った通りのやり手である。

「どうぞ、こちらの部屋にお入り下さい。今度は静かですから話される時は小声でお願いします」

 案内された部屋は、入った部分が靴脱ぎ場になっており、脱いだ履物を収納する棚が左右に幾段も設けられている。その奥は一段高くなった畳敷きの大広間になっていて、三十人ほどの研修服を着た人達が座禅のような姿勢で静かに座っていた。諒輔と鮫島も靴を脱いで広間に上がると、香の匂いが鼻を打った。鮫島が諒輔の耳元で、ひそひそ声の説明を始める。

「こちらは瞑想の間です。弊社では禅とヨガ、更にはキリスト教の修道士が行う無言の行などを取り入れた独特な方法で瞑想が行われます」

 部屋の奥には、研修講師と思われる丈の長い黒服を着た男が棒を持って立っていて、鮫島を見ると一礼した。

「この研修は私も気に入りました。これなら良いですね」

 諒輔は思ったままを口にしたのだが、鮫島は先ほどの大声を発する訓練が否定されたと感じたのだろう、眉間に皺を寄せた。

「あ、いや、先程の研修はちょっとびっくりしただけで、中々良いんじゃないでしょうか」

 諒輔は卒なくフォローする。

「瞑想、これが当社研修の基本その二です」

 鮫島は諒輔の言葉に機嫌を直したようだ。

「それでは、そろそろ参りましょうか。次にご案内するのが、弊社の研修で最も重要と位置付けられているものです」

 鮫島に催促されて、その部屋を後にすると、廊下の一番奥まった所にある扉の前に着いた。

「少しお待ち下さい」

 鮫島はそう言うと、首から下げていた身分証をセキュリティ端末にかざした。

「本日は社長が講師を務める研修が無かったので、こうして中をお見せすることが出来るのです」

 鮫島は勿体ぶっておもむろに扉を開いた。中は劇場のような造りで、入った右手が舞台になっており、台上には大きな演台が置かれている。左手は劇場の椅子と同様のものが二百席位並んでいた。

「こちらの講堂は、研修の最終日に、社長の凌霄院月瞑が訓話をする場となっています。

この訓話こそが弊社研修システムで最も重要なところでして、訓話を聞いた研修生は誰もが深い感銘を覚えずにはいられないのです」

 諒輔は先程から何やら息苦しさを覚えていた。体調が悪いわけではないのに、この部屋に入った途端、気分が優れなくなったのだ。

「社長の凌霄院月瞑は研修指導のカリスマと世間で言われていますが、それ以上にとても大きなパワーをお持ちの方です。凌霄院月瞑の訓話、これが当社研修の基本その三です。

勿論、欧米流のメソッドやカリキュラムも用意しておりますので、お客様のどのようなご要望にも対応した研修システムのご提案をさせていただきます。ただ、カリキュラムでどうしても外せないのが、凌霄院月瞑の訓話です……」

 鮫島は淀みなく話していたが、そこで一旦言葉を区切り、諒輔の様子を窺うと話を続けた。

「では基本的なことはご理解いただけたと存じますので、別室で詳しく御社のニーズなどお聞きしましょう」

 諒輔は更に息苦しさが増していた。

「折角ですが、何やら先ほどから気分が悪くて仕方ないのです。相談はまた後日と言うことにしていただけませんか」

 鮫島は今度ばかりは露骨に顔を顰めたが、言われてみれば確かに諒輔の顔は青ざめ、気分が悪そうである。

「そうですか、それでは仕方ありませんね。研修のご相談は私が承りますので、いつでも電話して下さい」

 鮫島はなお未練がましい様子であったが、それでも諒輔を研修受付まで送ってきた。

 

 研修受付の前に戻った諒輔はやれやれと言うように、大きく伸びをした。あの部屋を出た途端、気分の悪さは嘘のように何処かへ行ってしまっている。このまま帰ろうと思ってエレベーターホールに来たが、月瞑にどうしても会ってみたいという思いが湧き出した。カリスマにして、偉大なパワーを持つと言う敵の首領に是非にも会って、どのような人物か、この眼で確かめたいという衝動が抑え切れなくなっていた。駄目もとで行ってみよう。諒輔はエレベーターに乗ると三十七階のボタンを押した。

 役員室受付は、三十五階の研修用受付よりずっと重厚な雰囲気で、一段と美しい受付嬢が座っていた。諒輔の姿を認めるとその受付嬢は立ち上がり、キャビンアテンダントのような笑みと姿勢で辞儀をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。こちらの受付は役員専用の受付となっております。弊社のどの役員にご用事でございますか?」

「凌霄院社長にお目にかかりたい」

「えーと、失礼ですがどちら様でしょうか」

 受付嬢は手元の来客予定リストを見ながら怪訝な顔をしている。

「私はこう言う者です」

 諒輔は財団会長の名刺を差し出した。

「あのう、すいません。アポイントは取られたのでしょうか?」

「いえ、思い立って突然やって来たのです。アポは取っていません」

 受付嬢は困惑した表情で「お約束のない方とは、どなたであっても社長はお会いになりません。申し訳ありませんが、アポイントをお取りいただいて出直してきていただけないでしょうか」

 至極当然の申出であり、諒輔としてもこれ以上我儘を言って、この美人受付嬢を困らせる積りは無かった。

「それもそうですね。では、こう言う者が挨拶に来たと伝えて置いて下さい」名刺を受付嬢に預けると、踵を返した。

 諒輔がトイレで小用を足し、三十七階のエレベーターホールで下りのエレベーターが来るのを待っていると、ヒールが床を打つ音が近づいてくる。かなりの早足のようだ。

「待って下さい、お客様。社長がお会いになるそうです」

 先ほどの受付嬢が息せき切って走ってきた。

「あぁ、間に会って良かった。下まで行ってしまわれていたらどうしようかと焦りました」

いかにもほっとした表情である。

 

 役員受付の前には社長秘書と名乗る女性が待っていて、役員フロアの最奥の社長室まで案内した。秘書がノックしドアを開けた。

 室内には、二人の男が待っていた。一人はあの玲雪という長髪、色白の男。もう一人は、坊主頭、サングラスの男であった。坊主頭が凌霄院月瞑に違いない。

「驚きましたな。陰の長者自ら、それも一人でお越しになるとは」

 月瞑はサングラスをしたまま、歩み寄って来た。

「ご近所の(よしみ)で参上しましたが、ご迷惑でしたか」

「いやいや、大胆なことと感服しておるところです」

「そちらの方は、先日、当方にご挨拶に来ていただいているようですね」

 諒輔は玲雪に目を向けた。玲雪は怒りの眼差しで諒輔を睨みつけている。月瞑の下知一つで、今にも飛びからんばかりである。

「そうでしたな、玲雪とはすでに顔馴染みの間柄とか……申し遅れました。私が凌霄院月瞑です。以後お見知り置きを」

「私は三輪諒輔、忠彬様の後を継いだ者です」

 長い間に亘り抗争を続けてきた組織の首領が、こうして穏やかに相見えるのは過去の歴史にも無いことであろう。

「どうぞお座り下さい。今日の所はコーヒーでも飲みながら世間話でも致しましょう」

月瞑に言われて諒輔は椅子に腰かけた。

「いや、そう長居はする積りはありません。一目、阿修羅教団の頭領の顔を拝見出来ればと参上したまでで……サングラスはいつもされているのですか?」

「このサングラスがお気に障ったようですな。他の者には決して素顔を見せないのですが、他ならぬ陰の長者のご要望のようなので、どれ外しましょう」

 素顔を決して見せない月瞑のその言葉に玲雪は驚いて目を見開いている。

 月瞑がサングラスを外し、その顔の全貌が明らかになった。歳の頃はまだ四十歳前後であろうか、若手歌舞伎役者のホープと世上騒がれている名門御曹司にそっくりな端正な顔立ちである。しかしその御曹司と決定的に違う所があった。その両眼の瞳は血のように真っ赤だったのである。端正な顔立ち故に、瞳の不気味さが何倍にも増幅されている。

「生まれた時はこれ程赤くは無かったそうですが、私の目を見た母は驚き悲しみましてね。長じるに従い、更に私の瞳に赤味が増すと、母は私を気味悪く思うようになったのです。その頃、父の知り合いの修験者が私を見て『この子は、不動明王か、役行者の生まれ変わりに違いない』と言いまして、その修験者が幼い私を引き取ったのです。母にとっては化け物を追い払ったという気持ちでしかなかったのでしょう」

 月瞑は、言葉を区切ると、ゆっくりとした手付きでサングラスを掛け直した。

「それからはその修験者の下で、それは厳しい修業を科せられました……もうご想像が付いたと思いますが、その修験者は阿修羅教団の幹部だったのです」

 玲雪は隣の月瞑の横顔を、潤んだ目でじっと見つめ聞き入っている。諒輔も月瞑が敵だということをしばし忘れ、幼い月瞑の心境を思いやり、つい、しんみりとしてしまった。

「この話は教団の幹部には何度も話しているはず、玲雪までが真剣に聞き入ってどうする」

「いえ、月瞑様。この話、何度聞いても切なくて」

「泣くな、玲雪、陰の長者に笑われるぞ」

月瞑はそう言うと、玲雪の肩に手を回し優しく抱いた。諒輔は見てはならない場面を見てしまったように感じられ、思わず顔を背けた。そんな諒輔の反応を敏感に感じ取ったのであろう、玲雪が突然激高して立ち上がった。

「おのれ、我々を馬鹿にするか。ただではおかんぞ……月瞑様、我ら二人で掛かれば、例え陰の長者であろうと、容易く討ちとることが出来ます」

 玲雪は白皙を紅潮させ、月瞑に攻撃許可を求める。

「まぁ、待て。攻撃する機会は、これから幾らでもある、今日は両首領が相見えた歴史的な日だ。このままお引き取りいただこうではないか」

「私もそろそろ、お暇いただこうかと思っていたところです。これで失礼いたしましょう」

月瞑は、まだ激高が納まらない玲雪を手で制し、インターフォンを押して秘書を呼んだ。


第十四章 箱根仙石原

 八百子が財団事務所に諒輔を訪ねてきたのは、月瞑に会った翌々日のことであった。諒輔は八王子から離れるにあたり、世話になった栗原運輸の社長と八百子に、お礼の葉書を出した。その中に、財団の所在地と電話番号も書いて置いたのである。


 八百子は都心で同窓会が行われると聞いて最初は参加を見送ろうと考えたが、友人に説得されて出席することにした。これまでの同窓会は八王子の市内で開かれるのが常であったが、“偶には都心の洒落た所で会いましょう”という多数の意見により、赤坂のANAインターコンチネンタルで開催されることになったのだ。

 都内に出ることが滅多にない八百子は、開催される日の数日前からインターネットで、ホテルまでのアクセスなど色々調べたのだが、ある事に気付いた。そのホテルは諒輔が勤務する財団と、つい目と鼻の先の距離であったのだ。同窓会は夕方の六時集合になっている。少し早めに行けば諒輔に会えるかも知れない。相談したいこともあった。そう思って、葉書に書かれていた電話番号に連絡して、今日午後四時に訪ねて来たのだ。

 桜坂の財団事務所は、八百子の想像通りと言えば、その通りの古ぼけたビルの三階にあった。年代物のエレベーターで三階に着くと、事務所の奥にいた葛城が席を立ってやって来て挨拶した。

「八百子さんお久しぶりです。ここは直ぐ分かりましたか」

「えぇ、教えられた通り来ましたから、直ぐに……あの、その節は過分なご配慮をしていただき、有難うございました」

「いえ、いえそんな、こちらこそご迷惑を掛け申し訳ありませんでした。諒輔様は二階の会長室でお待ちしています。ご案内しましょう」

『諒輔様? 会長室?』と八百子は訝しんだが、葛城に案内されてエレベーターに再び乗り込んだ。

 二階の会長室の前に来ると、葛城はノックしてドアを開け「八百子さんがみえられました」と声を掛け、八百子を室内に招じ入れた。

「やぁ、八百子さん、良く来てくれました。今日はANAホテルで同窓会ですって?」

 昔と変わらぬ明るい諒輔の様子に、八百子は緊張が解れる思いがした。

「お久しぶりね、諒輔さん、どう元気にしてた?」

「うん、色々あったけど元気だよ。八百子さん今日はドレスアップして、一段と綺麗だね」

 今日の八百子は、ジャッケットにスカートそれにブーツと秋らしい装いであつたが、別れた夫と結婚した当時買い求めたもので、流行遅れではないかと実は気にしていたのだ。しかし諒輔が皮肉を言うような男でない事を知っている八百子は、大人の女らしく切り返した。

「どうしたの、都心に勤めるようになって口が上手くなったわね」

「都心と言ってもこんな古ぼけたビルだからね、八王子と変わりはしないよ。」

 葛城が座るように勧めたので、諒輔と八百子は向かいあって応接セットに腰を掛けた。葛城は飲み物を用意させると言って部屋を出て行った。八百子は室内を見回し「ここは会長室でしょ。なんで諒さんがここにいるのよ」と不思議そうな顔をした。

「うん、実は色々複雑な事情があってね。会長に就任する羽目になってしまったんだ」

「ふーん、良く判らないけど、それって凄い出世じゃない?」

「そうかなぁ……ところで何か相談したいことがあるって言ってたけど」

「えぇ実はね……」

 八百子の相談と言うのは、概略、以下のようなものであった。

 

 この2か月程前に同業者から運送の仕事を紹介された。小型コンテナーを箱根から横浜まで月に数回運ぶ仕事で、条件も良かったので引き受けた。コンテナー内の品物は産業廃棄物と言うことだったが、異臭が漏れ出すことがしばしばで、何か危険な品物のように思えるのだった。気味が悪くなって、紹介してくれた同業者を通じて断りを入れようとしたがその業者に、“もう少し続けて欲しい“と頼み込まれ、気のいい社長はそれ以上言えず、仕方なしに今もその仕事をしている。

 八百子も時々、運転手や助手としてその仕事をすることがあるが、怪しい仕事に思えてならない。仕事を紹介した同業者は、背後に暴力団がいるとの噂が絶えない会社で、違法な運送を過去にして起訴されたこともある。八百子の見るところ、その会社は運送料金をピンハネしているようだ。父親はあのような人だから、良いように言い包められてしまう。どうしたものか思い悩んでいる――――


「その同業者は如何にも胡散臭いけど、運送の依頼主はまともな会社なのかな」

「シュラ・コスメティックと言う会社だけど……」

「えっ、何! シュラ・コスメティック」

「あら、諒輔さんこの会社知ってるの?」

「あ、いや、シュラ・コンサルタンツと言う会社なら知ってるけど」

「そう、その会社が、シュラ・コスメティックの親会社のようよ。私もインターネットで調べたけど、人材ビジネス業界では名の知れた会社みたいね」

「うん、まあね。それにしても驚いたな、栗原運輸がシュラ・コンサルタンツの仕事を請け負うなんて」

「諒輔さんの財団もシュラ・コンサルタントと取引があるの?」

「いやそう言う訳じゃないけど……」

 会話が途切れたところで、諒輔は話題を変えて質問した。

「するとシュラ・コスメティックの工場は箱根にある訳だね」

「えぇ、箱根の仙石原にね。香料・アロマの製造工場らしいわよ」

 諒輔は研修見学した時に案内してくれた者が、自社開発・製造のアロマとか何とか言っていたのを思い出した。子会社がアロマなどの香料を製造しているのは筋は通っている。

「その工場の近くに、シュラ・コンサルタンツの研修センターがあるはずだが」

「えぇ、あるわ。工場の隣にシュラ・コンサルタンツの大きな研修施設が……ねえ、どうしたの、そんな怖い顔して、この会社何か悪い事しているの?」

 諒輔の何時に無い真剣な表情を見て、八百子は不安になる。

「うん、そうなんだ。とんでもない事をしているのかも知れない」

 諒輔は黙り込み考えた。八百子に協力して貰えば、教団の施設に潜入出来るかもしれない。でも八百子に潜入の手引きを手伝って貰えば、八百子に危害が及びかねない。

 ジレンマに苦しんだが、この機会を逃したら、二度とこのようなチャンスは訪れないかもしれない。諒輔は正直に事情を話して、判断は八百子に委ねることにした。 

 

 諒輔はシュラ・コンサルツの裏面を説明し、その箱根の施設でサリンなどの毒ガスが製造されている可能性があることを話して聞かせた。サリンと聞いて八百子は驚き、息を飲んだ。諒輔は、そんな八百子を申し訳無く思いながら眺めていたが、八百子が落ち着くのを待って切り出した。

「そこで、八百子さんに頼みがあるんだ。警察でもその情報は察知していて、過去に何度か捜査員を潜入させようとしたんだけど、悉く失敗しているんだ。どうだろう、僕をその研修センターに連れて行ってくれないか。僕が内部を探ってみようと思うんだ」

「諒さんが? 何故?」

「詳しい事は言えないけど、この件は警察庁と協力して捜査することにしているんだ。もし、八百子さんが望むなら、警察庁の担当者に引き合わせることも出来るけど、会ってみるかい」

 八百子は(かぶり)を振った。

「警察は嫌いよ。それより、諒輔さん大丈夫なの? そんな相手、私怖いわ」

「うん、僕は大丈夫だけど八百子さんに危害が及ぶ可能性も否定できないからね。心配なら断っても良いんだよ」

 八百子はじっと考え込んでいたが、意を決したようにキッパリと告げた。

「いいわ、諒輔さんの頼みなら、それにこの仕事、白黒はっきりさせないと、父さん何時まで経っても断れないから」

「八百子さん、ありがとう」

 諒輔は感激の面持ちで八百子の手を両手で握った。


 それから数日後、諒輔は栗原運輸のマークの入ったジャンパーを着て、八百子が運転するトラックの助手席で揺られていた。『慣れた道だから』と八百子が運転を申し出たので、諒輔は先程から海原のように広がる芒の原を眺めている。晩秋の箱根仙石原は芒で埋めつくされ、風に吹かれて揺れる様は、銀色の波のようであった。

 シュラ・コンサルタンツの研修センターは、大手企業の保養所や研修所が集まる姥子地区ではなく台ケ岳の麓、奥の湯に近い山間にあった。想像以上に広大で、白一色で統一されたその外観は、白亜の殿堂と呼ぶにふさわしい威容である。

 研修センターの脇道に入り、ぐるりと回り込むと、研修センターの建物に隠れるようにして建つ、工場らしき建造物が目に入った。高いコンクリートの塀に囲まれた工場の入り口の前で八百子はトラックを停めた。塀には《シュラ・コスメティック 香料・アロマ製造工場》という青銅製の看板が埋め込まれている。

「先ず、このゲートを通り抜けるけど、身分証の提示を求められるから、栗原運輸の社員証を警備員に見せてね」

 八百子はトラックから飛び降りると、諒輔にも付いて来るよう促した。八百子は胸の丈ほどある鉄柵から中を覗き込み、工場の敷地の中の警備員詰所に向かって手を振った。それを認めた警備員が、いそいそとした足取りでゲートにやってくる。馴染みの警備員らしい。

今日の八百子は、ばっちり化粧しており、嫣然と警備員に微笑みかけた。

「栗原運輸です。毎度お世話様です」

 警備員はそんな八百子を見て相好を崩したが、後ろの諒輔を見ると一転、気難しい顔になった。諒輔が不機嫌そうな表情で警備員を睨んでいたからだ。

「あまり見かけない顔だな、新入りか」

『そら、来たぞ』

 八百子は内心呟いて気を引き締めた。新人の場合は、根掘り葉掘り、色々な事を詮索されるのが何時ものことである。

「えぇ、そうです。先月入ったばかりで……ほら挨拶しなさい」

「ぅおっす、よろしく!」

諒輔は睨みを効かせ凄んで見せた。

「態度悪い奴だな,どれ身分証を見せてみろ」

 警備員は身分証に貼られた写真と諒輔の顔を見比べている。

「御免なさいね、礼儀知らずで。ちょっといいかしら」

 八百子は警備員の傍らに身を寄せると、その耳元で何か囁く。警備員はにやけた顔をして、しきりに頷いている。

「そうか、まぁいいだろう」

 警備員がゲートの内側のボタンを押したのだろう、鉄柵が左右にがらがらと音を立てて開いた。

「ありがとう、今度お土産持って来るわね」

 八百子は調子良くそう言うと、諒輔を急き立て、トラックに乗り込んだ。

「上手く行ったね」

諒輔は運転席に座った八百子に笑いかけた。

「諒輔さんに言われた通り、とんでもなくクレージーで危ない奴だって聞かせたわ。まさかこんなに上手く行くとは思わなかったけど……それにしても諒輔さんの凄み方が可笑しくて、笑いを堪えるのに苦労したわ」

 実を言えば、警備員に耳打ちした八百子の行為が功を奏したのだとは分かっていたが黙って聞き流した。

 トラックは裏手に回り工場とは別棟の倉庫の前で停車した。倉庫のシャッターは開いていて、中に小型コンテナーと、大型フォークリフトが置いてある。このフォークリフトを使ってコンテナーをトラックに積み込むらしい。

「八百子さん、一人でコンテナー積み込めるかい」

「えぇ、何度も一人でやったから大丈夫だけど」

「じゃ悪いけど、僕はその間に、工場の中を調べてくるよ。コンテナー積み込むのにどれ位時間がかかる?」

「何時も大体二十分位かしら、それ以上係ると怪しまれるかもね」

「分かった、その間に戻って来る。それじゃ……」

 あまり時間に余裕が無いので、諒輔はトラックから急いで降りようとした。

「あ、待って、工場の出入り口は、警備員詰所の横にあるからね。警備員が見張っているから気づかれないようにしてよ」

 諒輔は『分かった』と言うように手を上げると、トラックを飛び降りた。駆け足で警備員詰所が見える工場建物の角まで来ると、警備員の様子を窺った。警備員は居眠りすることもなく真面目に仕事に就いている。

 諒輔は急いで印を結び、呪を唱えた。犬麻呂と牛麻呂が現れる。諒輔の意を素早く悟った二人の式神は、警備員詰所に擦り足で近づく。犬麻呂は腰の扇子を引き抜くと、半分開き、紙飛行機を投げるようにして、空に放った。扇子は空を飛んで警備員の方に向かったが、途中で鳩位の大きさの鳥に変身した。極楽鳥のような美しい尾羽を持つその鳥は、警備員の足元から一メートル位の地面に着地すると、バタバタと羽ばたき、地面をぐるぐると回った。それを見た警備員は何事かと驚いたようだが、美しい鳥と知ると、近寄り、手で捕まえようとした。しかし、今一歩という所で鳥は、警備員の手を逃れ、また一メートル位遠のき、バタバタと羽ばたく。その間に牛麻呂は、ふわりと跳躍すると、入口の上部に取り付けられている監視カメラの向きあらぬ方に変えてしまった。警備員はまだ鳥を追い回している。その隙に諒輔は工場の内部に入り込んだ。

 

 入って直ぐの両側には更衣ロッカー室があった。左が男性、右が女性用の表示がある。そしてロッカー室の奥に、防護服ルームという表示の部屋があり、中を覗き込むと、放射能防護服のように頭から足元までをすっぽり覆う服がずらりとぶら下げられていた。特大、大、中、小とサイズ順になっているようだ。

 更に進むと除染ルームという表示の部屋があって、固定シャワーと足元を洗うためと思われる手持ち用のシャワーの設備が幾つもあった。仕事を終えると、ここで除染し、次に防護服を脱ぎ、更衣ロッカーで着替えるという仕組みになっているに違いない。いつの間にか犬麻呂も戻っており、牛麻呂と共に諒輔の後ろに控えている。諒輔は二人に「ご苦労であつた」と労い、呪を唱え式神を下がらせた。

 腕時計を見ると、既に十五分経過している。急いで携帯のカメラであちらこちらを撮影していると、通路の突き当たりにある扉の向こうから話声が聞こえて来た。諒輔はどうするか一瞬思案したが、防護服ルームに入り、特大サイズの陰に隠れた。その一行は除染ルームに入るとシャワーを浴びていたようだが、時間をあまりかけずに出てくると、諒輔が隠れている防護服ルームにがやがや話しながら入って来た。

「あー、防護服は息苦しくて、かなわないな」

「ほんと、俺なんか発狂しそうだよ」

「お前、すでに狂ってんじゃねーのか」

「何言ってやがる。それより腹減ったな、今日は何食うかな」

「そうだな、研修センターの食堂に早く行こうぜ、あそこの飯は旨いからな」

 それぞれが防護服を脱いで吊り下げると外に出て、男性用ロッカー室に入って行く。全員十二名、すべて男性のようだ。ロッカー室を出て来た男達は、誰もがジーパンに上着を引っ掛けている。諒輔と大差無い服装だ。諒輔はふと思いついて、男達の最後尾にそっと走り寄った。男達は、早く食事がしたいのだろう。後ろを振り返ることもなく、話しながら工場の外に出た。諒輔も素知らぬ顔をして、その後に続く。警備員が敬礼をして男達を見送る隙を突いて、諒輔は警備員詰所の裏側に回りしゃがみ込んだ。

 

 八百子はジリジリとして諒輔が帰ってくるのを待っていた。すでに三十分近くなろうとしている。その時、八百子は諒輔の声を聞いた気がして辺りを見回した。

『八百子さん聞こえるかい。諒輔だよ』

「え、えっ、何処? 何処にいるの」

『シー、静かに、いいかい僕の言う事を落ち着いて聞いて欲しい』

「分かったわ」

 混乱して落ち着くどころではなかったが、兎も角そう返事して、また周囲を見回した。

『トラックで警備ボックスの脇まで来てくれないか。そして、あの警備員の気を引いてくれないかな。その隙に助手席に乗り込むから』

「いいわ、やってみる」

 八百子はエンジンをかけると、そろそろと、警備員詰所に近付いて行き、トラックを止めて、降り立った。

「あぁ、今日は何だか積み込むのに、長引いちゃって、それに途中で気分が悪くなって、熱があるのかしら」

 八百子が自分の額に左手をやって「ねえ、ちょっと私の手、熱くない?」と右手を警備員に差し伸べた。警備員は信じられない幸運に出逢ったような、うっとりした表情で手に触る。

『うー、気持ち悪! 熱があるのはあんたの方だわ』

面には出さずに内心叫ぶ。

 その隙に諒輔はトラックの助手席に滑り込んだ。それを横目で見た八百子は「お陰さまで、熱が引いたみたい。ありがとう、それじゃ」と警備員の手を振り払って、運転席に乗り込んだ。

「うん、それじゃ、次にまた会うのを楽しみにしてるから」

 警備員は未練がましくそう言うと、詰所に戻り鉄柵の開閉ボタンを押した。エンジンを空吹きさせ待ち構えていた八百子は、鉄柵が開くとアクセルを踏み込みタイヤの軋み音を立てて、ゲートを飛び出した。



第十五章 六本木ガーデンヒルズタワー

 翌日、シュラ・コンサルタンツの箱根の施設に潜入した事を警察庁の日野に告げた。日野は『直ぐそちらに行って、詳しい話を聞きたい』と一時間もしない内に、財団の事務所に駆けつけて来た。

 事務所の二階会長室に通された日野は挨拶もそこそこに、詳しい説明を求めた。諒輔は一部始終を話して聞かせ、携帯電話のカメラで撮った写真のプリントを見せた。日野は熱心に写真プリントを眺めて、何事か検討をしているようだったが、顔を上げて諒輔に向き合った。

「工場内の潜入に成功したのは今回が初めてです。この写真は捜査の大変貴重な資料になります。どうもありがとうございます。でも残念ながらこれだけでは、毒ガス製造の証拠とはならないでしょう」

「そうでしょうね。時間が限られていたので、ほんの入り口部分しか探れなかったのです」

「えぇ、もう少し決定的なものがあれば強制捜査に踏み切れるのですが」

 葛城と神埼が前回と同様に同席していたが、二人とも悔しそうな表情を浮かべた。

「でも、日野さん」

 葛城が抗議するように声を上げた。

「防護服だの除染室だのって怪しいじゃありませんか」

「普通の物造り工場なら葛城さんのおっしゃる通りです。ですが、この工場は一応、香料・アロマの製造なので、防護服や除染室があってもそれほど不思議ではないのです。香料には昔から毒薬なども原料にすると言われています」

 葛城は尚も不満そうな顔をしていたが引き下がった。

「ご提供いただいた情報について、近々、警視庁公安部や検察と協議したいと思います。それから、今回捜査にご協力いただいた栗原八百子さんに、もし危険が迫るようなことがあれば、SPによる身辺警護を致します」

「潜入した事は、多分気付かれないでしょう。ですから八百子さんは、今のところ危険は無いと思います。ですが、もし何かあれば、その時はよろしくお願いします」

 諒輔は八百子に大きな借りを作ってしまったと思いつつ、日野に頭を下げた。

 その後の協議で、今後の協力事項や連絡を更に密にすることなどを相互確認すると、日野はいそいそと財団の事務所を出て行った。


 理紗は下町のアパートを引き払い、現在は青山の高層賃貸マンションに住んでいる。セキュリティを第一にして選んだ物件であり、その充実振り言うまでもない。間取りは一LDKだが、LDKが二十畳もあるので、一人住まいには贅沢過ぎる広さであった。二十三階から見る眺望も素晴らしく、理紗は移り住んで早々にこのマンションが気に入った。最寄り駅は青山一丁目駅で東京メトロ銀座線、同半蔵門線と都営大江戸線の三路線が利用できて、交通アクセスもすこぶる便利だ。

 理紗は世田谷の屋敷で敵の攻撃を受けた後、直ぐにこのマンションに引っ越して来たが、その後、危険予知のアラームが鳴るような不穏なことは何も起こらなかった。それでも念のため夜間の一人行動の場合は、財団が警備会社に依頼して身辺警護要員を派遣してきた。また、演奏会、邦楽講師などの外出スケジュールは事前に財団に報告するようにしていた。

 演奏会は定期のものと不定期や臨時のものがあった。理紗は仲間と一緒に、邦楽を少しでも生で聴いて貰う機会を増やそうと、出張ライブとか出前演奏会とか銘打った活動を行っていたので、最近は臨時的な演奏会が増えている。一週間程前にも、三味線独演会の出張演奏の要望が寄せられたのだが、他の演奏者とのスケジュール調整の必要が無いのでどうにか応じることが出来たのであった。それにしても三味線の独演会というのは珍しいことであった。三味線の独奏曲もあるが、基本は伴奏楽器である。そのため普通は三味線、横笛、尺八、太鼓、琴など複数のチーム編成で出掛けるのだが、要請した会社の社長が何処で聞いたのか理沙の三味線が大層気に入り、自社の研修会の慰労会で是非演奏して貰いたいと申し入れてきたのだ。その会社はニシガタ工業と言う大田区の機械部品メーカーで、従業員数五百名強の準大手企業であった。研修会は大森の本社で行われると言う。先方との調整が済み、日時が決まると、理紗は他のスケジュール同様に、財団の神埼に、独演会の場所と日時を報告した。

 独演会の当日、青山のマンションまでニシガタ工業の車が迎えに着た。人事部研修担当と名乗る女が車のドアを開け、理紗を後部座席に座らせると、その女も続いて理紗の隣に乗り込んできた。理紗の危険予知アラームが反応した。

『何? この車に乗ってはいけないの?』

 不安げな理紗の表情や態度にお構い無しに、研修担当と名乗る女が何やら説明している。不安で動顛してしまい、話し声がよく聞き取れない。女はどうやら、研修会の慰労会場が大田区本社から、六本木ガーデンヒルズタワーの三十五階に変更になったと言っているらしい。危険を知らすアラームが一層大きく鳴り響く。

「嫌です! 降ろして下さい」

 理紗が叫ぶと、女は手にしたハンカチを理紗の鼻と口に押し当てた。理紗は意識を失った。その女、シュラ・コンサルタンツの鮫島は、気を失った理紗の髪を撫でほくそ笑んだ。


 神崎は理紗と連絡が取れなくなり焦っていた。理紗は外出して自宅マンションに帰ると、必ず神埼に帰宅した事を伝えることにしていた。その日の理紗の予定は、大田区のニシガタ工業で独演会を午後一時から二時まで行い、遅くとも四時には帰宅するスケジュールであつた。しかし四時を過ぎても連絡が無かったので、理紗の携帯に神崎は電話した。電源が切られているか、電波の届かない場所に居るとのアナウンスである。その後も理紗から連絡が無く、また神埼がなんど連絡しても繋がらない。

『理紗様の身に何か起こったに違い無い』

 そう直感した神崎は財団本部の会長室に行き、理紗と連絡が取れなくなったことを報告した。

「とりあえず直ぐ、ニシガタ工業に連絡して下さい」

「分かりました」

 神崎は理紗のスケジュール表に書かれているニシガタ工業の連絡先に電話した。すると電話に出たニシガタ工業の研修担当者は、『今日、午後一時に安倍理紗さんが来るのを待っていましたが、来社されませんでした。事前に連絡も無く、当方としても大変迷惑しましたが、事故にでも会っていなければ良いと思っていた所です』との話であった。

 ニシガタ工業が言うように交通事故の可能性もある。でも一番考えられるのは、阿修羅教団による拉致あるいは……諒輔は歯を噛み締め、不吉な考えを振り払った。


 阿修羅教団から、理紗を拉致したとの通告の電話があったのは午後六時過ぎのことであった。その電話の主は、理沙の返還条件として、諒輔一人が深夜二時に、六本木ガーデンヒルズタワーの三十五階に来るよう要求した。また、警察などに連絡した場合は、直ちに理紗を殺害するとの脅しも忘れなかった。

 葛城、神崎、遠山の三人は、敵の罠に嵌るのは目に見えているので、一人で行くのを止めるよう言い、警察庁の日野に連絡して、彼等の力を借りるべきだと主張した。確かに敵の本拠地での戦いは不利である。大勢の敵を相手にしなければならず、どのような罠や計略が張り巡らせているかも分からない。でも、諒輔にとって選択肢は無かった。一人で行く。これしか無い。

 諒輔の決意を知らされた、三人は説得をあきらめ、理紗の奪還作戦を協議することにした。

神崎は大勢と一人で戦うには、多人数向けの武器が必要と言い、監視セキュリティルームの武器庫から、自動小銃、手榴弾、スタングレネード(閃光弾)、催涙弾など沢山の武器を会長室に持ち込んだ。神崎はクラシックカーだけでなく、武器オタクでもあるようだ。

「世田谷のガレージには、もっと強力なやつがあるんですが……」

神崎は残念そう面持ちをしたが、気を取り直して持ち込んだ武器について薀蓄を語り出した。

「いざとなれば式神だって遣えます。そのような武器は必要ありませんよ」

「いや、敵はどのよう策略を用いるか油断できません。印を結び、呪を唱える余裕が無い場合だってあるかもしれません」

 神崎は武器を持参することを強く勧めた。それほどまでに言うのならと、皆で検討した結果、自動小銃は大きすぎて持ち込むのは無理であり、小型のものであってもせいぜい二つ位が限度と言う結論になり、手榴弾とスタングレネードそれぞれ一つを携行する事にした。

 遠山は、理紗を助け出す事が出来たとしても、あのビルから無事脱出する事は、非常に難しいだろうと指摘した。

「あのビルは、二十四時間稼動が売り物の一つです。出入り口は深夜でも閉じられてはいません。ですが、敵は非常用も含め、出入り口の全てについて万全の策を講じているに違いありません。脱出は極めて困難と考えた方がいいでしょう。ではどこから脱出するか……」

 遠山は皆を見回した。

「そうか、分かった。屋上ヘリポートだな」

 葛城が膝を打って叫んだ。

「そうです。諒輔様は三十五階に行かれ、そこで闘うことになるでしょう。あのビルは地上四十五階建てです。三十五階からは、下の出入り口に向かうより、屋上に出た方がずっと近い」

「なるほど! それならヘリの手配は私にお任せ下さい。自衛隊時代の友人が民間の会社でヘリの操縦をしています」

 神崎は力強く言って諒輔に同意を求めた。

「分かりました。ヘリの手配は神崎さんに任せます」 

 作戦の概要が決められると、神崎はヘリを手配すると言って出かけて行った。葛城と遠山は作戦の準備と情報収集に没頭した。六本木ガーデンヒルズタワーの各フロアの平面図、ビルの消防設備、非常用階段、屋上ヘリポートの詳細など、集めなければならない情報は沢山あった。

 諒輔は葛城の勧めにより、闘いに備えて軽い食事を取った。その後、身体と精神を休ませる為、仮眠しようとしたが、理沙の事が気になり眠る事は出来なかった。


 深夜二時五分前,諒輔は六本木ガーデンヒルズタワーの正面玄関がある四階からエレベーターに乗り込んだ。印を結び、呪を唱えて、犬麻呂と牛麻呂を呼び出した。犬麻呂に手榴弾、牛麻呂にスタングレネードを手渡すと、二人の式神を従えて三十五階に降り立った。

 研修受付には可愛い受付嬢に代わって、十人ほどの黒服の男たちが待っていた。諒輔は犬麻呂と牛麻呂に武器を床に置いて、その場で待つように指示し、受付に進んだ。黒服の男達は、誰もが興奮し緊張している。その場で固まったように動かず、口も開かない。

「三輪諒輔だ。約束通り一人で来たと月瞑に伝えろ」

諒輔が声を掛けると、この場のリーダーらしい男が「お前、奥に知らせて来い」と男の一人に命じた。

「お前等は、こいつの、ボディチェックをしろ」

 黒服の男たちは、呪縛から解き離れたように動き始め、諒輔の全身を探った。その間に待機していた二人の式神は武器を口で咥えると、四つん這いになり、研修受付の横を通って中に入り込んで行く。受付の周辺には十人近くの男がいるのに、諒輔に気を取られて、誰一人、武器が空中を浮遊しているのに気付かない。

 ボディチェックが済むと男達は諒輔を取り囲んで通路を進んだ。しばら歩いて行くと、左手にラウンジが見えて来た。犬麻呂は手榴弾を牛麻呂に手渡すとラウンジに入り、男達が近付いたのを見計らって、テーブルを勢い良く押し倒した。突然の大音響に男たちは一斉に音がした方を向く。その隙に、牛麻呂が諒輔に近寄り、上着の内側ポケットに手榴弾とスタングレネードを忍び込ませた。内側ポケットは、手縫い,大型、遠山の特製である。

 一行は、通路の突き当たり、月瞑が研修の最終日に訓話する講堂の前に到着した。

「そこで待っていろ」

 リーダーらしき男は言い捨て、扉を開けて、一人中に入って行った。

二人の式神は何故か諒輔に着いて来ようとせず、離れた所に佇んでいる。

『ご主人様、これ以上私達は進む事が出来ません。これから先は、結界が張られている様です』

 式神二人が念力で訴える。

『よし、分かった。お前たちはそこで私達が戻るまで待っておれ』

 諒輔が式神に待機指示を出したその時、扉が開いてリーダーらしき男が戻ってきた。諒輔を指差して「お前だけ一人、扉を開けて中に入れ」と指図し「お前達五人はここを、そっちの五人は研修受付で見張りを続けろ」と命令すると、諒輔の背を強く押した。

「とっとと中に入れ」


 諒輔が扉を開け、中に入ると、外にいた男達が扉を直ぐに閉めた。講堂の中は真っ暗で何も見えない。この部屋に入った途端、何やら息苦しくなる。見学したときと同じ感覚だ。

『この部屋には、矢張り何か仕掛けられている』

 諒輔がそう思った時、スポットライトの強烈な明かりが諒輔を捕らえた。眩しくて目を細めた。

「皆さん、盛大な拍手をお願いします。白馬の王子様の登場です」

 マイクを通した女の声が講堂一杯に響き渡る。同時に大勢による拍手が湧き起こった。

「続いて本日のヒロイン、それは美しいお姫様を紹介致します」

 諒輔に向けられていたスポットライトが消え、別のスポットライトが、右手の舞台上の一点を照射した。浮かび上がったのは、椅子に縛り付けられている和服の女性の姿だった。声が出せないように猿轡をされた理紗であった。

「皆様、ヒロインのお姫様にも盛大な拍手をお願いします」

 諒輔の時より、一層大きな拍手と口笛が湧き上がる。

「こんな芝居がかったことは止めて、直ぐに理紗さんを放せ!」

 諒輔は舞台に向かって叫んだ。更に息苦しさが増している。スポットライトが再び諒輔にも当てられる。

「芝居を止める訳には行きません。なにせ観客が大勢居られます。さて、それではプロローグはこれ位にして、本編の開始と行きましょう……音楽スタート!」

 音楽が始まり音量が次第に増してきた。曲はワルツ、仮面舞踏会。舞台全体の照明も音量に合せ次第に明るくなる。舞台上手に理紗、舞台中央の演題にはサングラス姿の月瞑、その横のやや下がった位置に、玲雪が月瞑をガードするように立っている。舞台下手でマイクを握っているのは、何と研修広報担当のあの鮫島であった。観客席はまだ溶暗に包まれている。

「陰の長者、三輪諒輔、一人で来た事。褒めてやろう」

 月瞑が始めて口を開いた。

「そんな所に、ヒーローが何時までも居ては、芝居が始まらないではないか。早く舞台に上がり、ヒロインとラブロマンスを演じてくれ。観客もそれを望んでおる」

月瞑の言葉に呼応して、鮫島が指揮者のように手を振ると「早く上がれ」「舞台に上がれ」「芝居をして見せろ」など様々な声が飛んだ。足をどんどんと踏み鳴らす音も混じる。鮫島が手を振るのを止めると、急にしーん、と静まり返る。

「それ、観客がお待ちかねだ。早くヒロインの側に行ってやれ」

 言われるまでも無く、諒輔は舞台目掛けて走った。舞台上手の階段を上り、理紗に近寄り、猿轡を外した。

「理紗さん、大丈夫? 怪我は無いか」

 諒輔は縄を解きながら聞いた。

「えぇ、大丈夫。でも怖かった」

 解き放された理紗は立ち上がると、諒輔に縋りついた。

「あぁ、感激の一瞬、こうして悲劇の二人は、涙の再会を果たしたのであります」

 鮫島が大仰なセリフ回しで言い、手を振ると又もや観客席から拍手と、口笛。

「よーし、もういいだろう。ここらで芝居は止めて裁判に移ることにしよう」

 月瞑の言葉に応じて鮫島が「音楽ストップ、客席に明かりを!」と声を張り上げた。

 講堂全体の照明が付き、観客席の全体が見渡せるようになった。二百ほどの座席は満員の黒服の男女で埋め尽くされていた。

「阿修羅教団信者の紳士淑女、そして裁判員の皆さん、大変お待たせした。これより裁判員制度による裁判を開廷する」

 月瞑が声高らかに宣した。

「検察官、論告と求刑を申し述べよ」

 月瞑に向かい礼をして、玲雪が前に出る。鮫島がマイクを手渡す。

「裏土御門陰の長者は、我が教団の発足以来、千年に渡る不倶戴天の敵。よって死刑を求刑致します」

 玲雪はマイクを鮫島に渡すと、元の位置に戻った。客席から「死刑だ」「有罪、死刑」などの声が飛び、足を踏み鳴らす音が続いた。

 月瞑はそれ等を手で制し、諒輔にサングラスの目を向けた。

「被告人何か弁明があるか」

「馬鹿馬鹿しい、こんな事に付き合っていられるか」

 諒輔はそう言うと、印を結び、呪を唱えた。しかし、息が益々苦しくばかりで、呪術は何の役にも立たない。

「陰の長者ともあろう者がまだ気付かぬらしい、あの慌てぶり、とんだ喜劇じゃないか」

 客席がどっと笑い声を上げ、口笛を吹く。

「気付かぬようなら、教えて上げよう。後ろの緞帳を上げよ」

 舞台の後ろ側の暗紫色の緞帳がゆるゆると上がって行く。その奥に現れたのは天井に届きそうな背丈のある大きな立像であった。更にその奥の壁には、巨大な曼荼羅が掲げられている。大きな立像は、三面、六本の手を有する阿修羅であった。観客は現れた阿修羅に向かい手を合わせ、拝む仕草を繰り返した。

「ここに御座すのは、我が教団本尊にして守護神であらせられる。この講堂に漲るマインドコントロールのパワー、陰陽道の呪力を削ぐ力は、全てここから発せられているのだ。陰の長者よ。この講堂に足を踏み入れたのが運の尽きと諦め、裁判の結果を受け入れ罪を償え」

 客席からは「死刑」「死刑」「死刑」のシュプレヒコールが鳴り止まない。

「さぁ、有罪、死刑は確定した。では諸君、どのような死を与えるかな。八つ裂き、火炙り、鋸引きと色々あるが……」

 今度は「石打ち」「石打ち」の歓声があがり、ばらばらと拳大の石が数個、舞台に放り込まれた。

 理紗が悲鳴を上げ、諒輔の背後に逃げ込む。

「分かった、分かった。多数の民衆が行う処刑は昔から石打ちの刑と相場は決まっておる。石打ちの刑に処すとしようぞ」

 一段と大きな歓声が沸き上がると、客席の皆が立ち上がり舞台の下に押し寄せて来た。手に手に石を握り締めている。間近に迫った彼等は皆憑かれた者の顔をしており、まるでゾンビの集団のようであった。最前列の者が早くも石を投げ出した。

「理紗さん、僕が合図したら、しゃがみ込み、耳を抑えて、いいですね」

 諒輔は理紗に囁くと、左の内ポケットの手榴弾を取り出し、安全ピンを引き抜くと阿修羅像目掛けて投げつけた。

「理紗さん伏せて」

 手榴弾は阿修羅像の胸元辺りで炸裂した。大音響が轟き、石を投げようとしていた者達は頭を抱えて蹲った。爆風と煙に感応してスプリンクラーから、放水が始まり、非常を知らせるベルが鳴り響いた。煙と滝のような水に講堂はパニック状態に陥った。

「皆慌てるな」「逃げるな」「非常ベルを止めろ」「消防に故障と伝えろ」

 様々な怒号が飛び交う。さすがの月瞑も手のつけ様がなく呆然としていたが「おのれ、どこに隠し持っていたか」と怒鳴り諒輔目掛け駆け寄って来た。玲雪も後に続く。諒輔は待機しておいた犬麻呂と牛麻呂を講堂に呼び込んだ。阿修羅像が粉砕されたので、式神を妨げるものはもうない。

『仰せにより、参上仕りました』と犬麻呂『して、御用の趣は』と牛麻呂

「我々を警護して、ここを脱出させよ」

『畏まって候』

 二人の式神は口を揃えてそう言うや否や、向かって来た月瞑と玲雪に体当たりを食らわせた。月瞑と玲雪は共に後方に弾き返される。

「さあ、今の内に講堂を出るぞ」

 諒輔は理紗の手を引いて舞台上手の階段を駆け下りた。近くに群がるゾンビのような男女を合気道の技で撥ね飛ばす。式神二人は諒輔と理紗を守って押し寄せるゾンビの群れを蹴散らしている。

 扉の前に至ると、諒輔は右側の内ポケットからスタングレネードを取り出し、安全ピンを引き抜くと、講堂の奥目掛けて放り投げた。急いで扉から外に出る。講堂の中で、大音響がした。内部の者は、閃光と大音量で、目と耳が一時的に使えない状況になっている筈だ。扉の外と研修受付で警備していた者達は、式神に襲われたのであろう意識を失って倒れていた。

 

 諒輔と理紗は屋上ヘリポートに辿り着いた。犬麻呂と牛麻呂も後ろに付いている。四十五階建て高層ビルの屋上は、遮る物が何も無く、東京の夜景が一望出来て、それは美しい光景であった。しかしそこには、肝心のヘリコプターが待機していない。諒輔は携帯を取り出すと、神崎に電話した『もう直ぐしたら東京ヘリポートを飛び立つ』との返事であった。東京ヘリポートは湾岸の若洲にあり、飛び立てば、五分もあれば到着するであろう。

 その時ヘリポートに複数の人が上がって来た。月瞑、玲雪、鮫島、顔に大きな傷のある男など、総勢二十名程である。教団最精鋭部隊と見受けられた。一行は諒輔と理沙が居る位置から十メートル位の所で歩みを止めた。

「先程は、見事にやられた。策に溺れて慢心した我々に落ち度があった。どうだ、今度は罠も仕掛けも無し、武器も無しで実力勝負をしようではないか」

 月瞑が一歩進み出て叫んだ。

「分かった。月瞑、お前と一対一の勝負だ! 他の者は一切手出しをしないと言うなら、その勝負受けようじゃないか」

「望むところだ。先程から式神を遣っているらしいが、式神の手出しも無用だぞ」

「おう、承知した」

 諒輔は呪を唱え、式神を下がらせると、理沙に「もう直ぐヘリコプターが助けに来る、もうしばらくの辛抱だから隅で待っていて」と告げ、月瞑に向かい合った。月瞑も玲雪などを後ろに引き下がらせ、ヘリポートの中央で両者は対峙した。


 月瞑は呼吸を整え、気の充実を図っていたが、手で印契を組み、大音声で呪文を唱え始めた。

「オン・キリキリ・ハラハラ・フダラン・バッソワカ・オン・バザラ・トシャカーク!」

一方、諒輔は、陰陽道の早九字活法を唱え、空を手刀で切った。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!」


 月瞑の足元から風が巻きあがり、上空に達すると竜巻と化した。空中に現れたのは、阿修羅教団の守護神の三面六手の巨大な阿修羅であった。六本の手にそれぞれ武器を掴んでいる。

 諒輔の足元からは、白い霧が湧き上がり、雲となって上空に達した。それが一気に収斂すると、阿修羅とほぼ同じ大きさの白拍子の姿になって空に浮かんだ。白の水干に立烏帽子、緋の袴の腰に白鞘の刀を差している。手に舞扇を持っているところは、静御前が頼朝の前で静の舞を踊った時の出で立ちとそっくりであった。

 阿修羅の六本の手にしている武器は、刀・剣・錫杖・独鈷・矛・鎖鎌の六種であり、それらを次々に繰り出して、白拍子に襲い掛かる。白拍子は反撃すること無く、ひらりふわりと身をかわす。理紗の目には優雅な舞をしているように見えた。

 しばらく同じような進退が続いたが、白拍子が一回転して上空高く飛び上がると、阿修羅の背後に舞い降り様、閉じた舞扇で発止とばかり阿修羅の顔面を強打した。阿修羅の三面ある内の一つの顔面が崩れる。同時に六本ある内の二本の手が動きを停止した。

 一心不乱に念じていた月瞑がぐらりと揺れた。顔面は蒼白であり苦痛に歪んでいる。玲雪や鮫島等が不安そうに、そんな月瞑を見守る。

 

 阿修羅は、残された二面を怒りで赤く染め、前にも増して激しく、白拍子に打ち掛かった。白拍子は、ひらり、ふわりとその攻撃を避けていたが、身を低めると阿修羅の胸元に躍りこみ、顔面を扇で下から上に払い上げた。残された二面の内、一面が崩れ去り、更に二本の手が動かなくなった。

 

 月瞑は遂に、床に片膝を着いてしまい、肩で息をしている。その様子を見兼ねた玲雪が月瞑に駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせた。

 

 阿修羅に残されたのは、一面と二本の手だけとなった。その両手には刀と剣が握られており、あたかも二刀流のようにして、攻撃を仕掛けてきた。白拍子はそれを見ると、舞扇を腰に差し、刀を引き抜いて構えた。 二十四階高層ビルの屋上で、刀剣による熾烈な戦いが開始された。阿修羅は、それまで邪魔だった四本の手が無くなったからか、あるいは玲雪の支えがあってか、見違えるような敏捷な動きで襲い掛かった。

 

 神崎はヘリコプターの助手席から、六本木ガーデンヒルズタワーの上空を凝視していた。ビルの上空には十メートル位の大きさの黒い雲と白い雲の二つが激しくぶつかり合い、時に入り混じって、放電のような閃光を発していた。自衛隊時代の友人であるヘリのパイロットは、ビルの上空は、異常気象で、とても近付けるような状態でないと言う。仕方ないので、こうして先ほどからビルの上空を旋回しながら、気象状況が良くなるのを待っていたのだ。

 

 理紗は両者の戦いをヘリポートの隅から見上げていたが、阿修羅の動きが俊敏になり、白拍子が押される展開となっていた。玲雪が月瞑の元に駆け寄ったのを見て、理紗も諒輔の元に駆け寄った。諒輔は苦戦に額に脂汗を滴らせ相当に苦しいようだ。それまで目を閉じていた諒輔は、理紗の気配を感じて目を開けると、理紗を片手で抱きしめ、もう片方の手で印行を結んだ。


 白拍子に活気が戻り、猛然と反撃に出た。剣先鋭く阿修羅に突きを入れる。理紗の得意技だ。阿修羅は避け切れず喉を突かれて、断末魔の叫び声を上げた。阿修羅は次第に霞んで行き、消え去った。残る白拍子は、一指し、優雅に舞うと、姿を朧にして消えて行った。


 月瞑が崩れ落ちる。玲雪も支え切れず、月瞑はヘリポートの床に倒れ伏す。

「月瞑様、月瞑様」

 哲雪の呼びかけにも、月瞑は応じず、死んだように身動きしない。

「おのれ、よくも月瞑様を……あ奴等を逃がすな」

 玲雪が叫ぶと、鮫島と黒服の男達が諒輔と理紗目掛けて走り寄った。諒輔は月瞑との闘いに精根使い果たしてその場に立つのが漸くであった。

 その時であった、轟音が急接近してきたかと思うと、バリバリッと言う銃撃音がして、黒服の者達の行く手に銃弾が着弾した。玲雪達は、その場で踏鞴を踏む。轟音と共に風圧が激しくなり、ヘリポートに居る者は皆、吹きと飛ばされないように姿勢を低くした。

 ヘリコプターが降下してきた。助手席には、機銃を手にした、迷彩服姿の神埼が乗っていて、諒輔と理紗に早く乗り込むよう手招いている。轟音で声は聞こえない。諒輔と理紗がヘリに乗り込むと、神崎はパイロットに離陸の合図をし、ヘリは舞い上がった。

 

  その時、死んでいるかに見えた月瞑は上半身を起こすと、サングラスを外した。

  

 ヘリの中では、諒輔と理紗が神崎の指示で、ヘリの座席ベルトを装着しようとしていた。


 月瞑は上空高く舞い上がったヘリを、最後の力を振り絞り、念力を込めて睨み付けた。

赤い瞳から血が滴り落ち、赤いレーザー光線のような光が照射された。その光線はヘリ目掛け一直線に飛んだ。ヘリがぐらりと大きく傾き二人が空中に放り出されるのが見えた。月瞑はそれを見届けると、満足げな顔を一瞬して瞳を閉じた。


 突然の衝撃であった。ヘリが左に大きく傾いた。まだ座席ベルトを着ける前だった二人は機外に放り出された。

 諒輔はとっさに右手で理紗の手を、左手で座席シートベルトを掴んでいた。機外に放り出された諒輔は左手一本で座席ベルトの先を掴かみ、二人の体重を支えていた。風が激しく吹きつける上に、先程来の闘いで体力が消耗していた。あとわずかな時間しか持ち堪えられないであろう。

 理紗が何か叫んでいる。爆音が激しく、テレパシーを使わなければ、会話は出来ない。

『手を放して。二人はとても支えきれないわ』

 風圧で理紗の着物の袖は膨らみ、裾があられもなく広がっている。

『いや、離さない、何とかなる筈だ、これまでも何とかなってきた。今度だって必ず……』

『だって絶体絶命よ、私はいいから、お願いその手を離して!』

 諒輔は絶体絶命と言う理沙の言葉に閃くものがあった。絶体絶命の危機に陥った時にしか唱えてはならない、裏土御門秘法中の秘法があったのだ。その呪を唱えれば裏土御門の守護神獣である玄武が現れ必ず救ってくれる。忠彬が襲われて危機に陥った時も玄武が現れ救ってくれたではないか。

『理紗、僕を信じてくれ。これから空に飛び出すけど必ず助ける。だから僕の手を絶対に離しちゃ駄目だ』

『分かった。私、諒輔を信じるわ。絶対手を離さない』

『それじゃ行くよ』

 諒輔は左手で掴んでいた座席ベルトの端を離した。

 二人は手を繋いだまま、落下して行く。諒輔は渾身の力を込めて秘法の呪を唱えた。


 眼下に東京タワーの航空障害灯が点滅するのが見えたが、見る見る内にその高さまで落下して行った。秘法の効果はまだ現れない。このままでは地面に激突と思われた時、下方にむくむくと土煙が湧き起こった。その中に蠢くものがある。

『理紗、理沙! 目を開けてご覧、大丈夫だ。玄武が現れた』

『あぁ! 諒輔あれが玄武なの』

 二人は土煙の中に突入した。玄武の甲羅にぶつかるかに見えたが、柔らかな布団に包まれるような奇妙な感覚がして、落下のスピードがぐんと落ちる実感があった。

 二人を自らの甲羅で受けた玄武は、雷のような咆哮を一声発すると地中に潜り始めた。


 諒輔と理紗は地上に軟着陸した。もうもうたる土煙が収まると、そこは夜明け近い芝公園であった。

「理紗……」

「諒輔……」

 二人は名前を呼び合うと、固く抱き合い、熱い口付けを交わした。

 長い抱擁の後、目を開けると、間近に巨大な影のような東京タワーが聳え立っていた。

折しも差し昇る陽の光を浴びて、タワーは黒いシルエットから本来の明るい彩りを徐々に取り戻して行く。

                                                    第1話 完


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