9話 ラーメン屋の店長がおかしい
――葵視点
暖簾をくぐると数人のお客が居た。ちょうどオーダーした物が届いたところであろう、テーブルにはもやし山盛りの名物ラーメンが乗っていた。
この店は食券で自分の好みのメニューを選ぶシステムなのだが、俺だけは何故か口頭注文なのだ。その為、強制的にカウンター席に座らなけれならない。
渋々であるが、二人で席に着いたのだが、今日程テーブル席を望んだ事は無い。対面でお食事がしたい……。
ふと服を見ると羽織っていたシャツが相当濡れている事に気付いた。どうりで寒い訳だ……だが、鈴宮さんを濡らす訳にはいかなかったので仕方が無い。
羽織っていたシャツを脱ぐものの、中に着ているロンTも濡れて色が変わっている。中々に冷たい……。
しかし、ラーメン屋で上半身裸になる訳にはいかない。鈴宮さんがいなくとも駅前のお巡りさんに強制連行されてしまう。
自分の体温で乾かすしかないな……。
「あの! こ、これ使って下さい!」
鈴宮さんが使っていたタオルを……使う? 何のご褒美ですか?
「こんなに濡れて……風邪引いちゃいますよ!」
タオルをかけてくれたのだが、とてもいい匂いがした。それと同時に……透けたブラが見えた。これはいけない!
「だ、大丈夫です! そ、それより、その、み、見えちゃいますからこれは使ってて下さい!」
ご厚意だけ頂いておくとしよう。ふうう……なんか体温上がったぞ? これならほっといても乾きそうだ。
「お、葵じゃねえか!」
鈴宮さんとのトークを邪魔するかのように男勝りな口調の女性の声が届いた。とてもグラマラスな体型であるが、その風貌はラーメン屋のユニフォームに誰もしていないであろう、白衣を着用している。
いつも思うだが、ここは病院では無いよね?ラーメン屋で合ってますよね?
ダイナマイトボディに揺れるポニーテールとお胸、ラーメン屋の店主、近藤ななみ、通称なっちゃんだ。
歳は20代であろうが、詳しくは知らない。一度聞いた事があるのだが、笑顔で『ああ、今日のラーメンはサプリを大量に入れといてやろう』と、くそ不味いラーメンを完食させられた経験がある。
「なんだ? 外、そんなに雨降ってんのか? どうりで客足が悪い訳だぜ」
まあ、そればっかりは仕方が無い。飲食店の宿命であろう。その代わり俺と可愛らしい後輩を連れて来てあげたんだ。感謝してもらわないと。
「結構降ってますよ、まあ、ちょっと濡れちゃったけど直ぐ乾くと思うから」
「でもお前、結構濡れてるじゃねえか? 大方カッコつけてそこのお嬢ちゃんを濡らさないようにしたんだろ?」
やめていただきたい。まるで俺がキザ野郎みたじゃないか。善意です、善意と言って下さい!
いつもこんな感じなのである。鈴宮さんも驚いた顔してるからやめて?
「よし、今日は体も冷えているだろうから、いつもの特製野菜ラーメンにちょいとピリ辛風味のダシで、食欲を増進させてやるぜ。麺はちぢれ細麺だな、この方がスープに良く絡むからな」
これである、発券機で注文させてもらえない理由は。このイカレラーメン屋店主は俺が食いたいラーメンを食べさせず、その日の俺の状態を見て勝手にメニューを決める。
……的確ではあるのだが。
「お嬢ちゃんは……そうだな、バランスの良い食事を取ってるみたいだし、今日はシンプルにうちのラーメンを味わってもらうか。だが、そんなに多くは食べれないだろうから特製のものを用意してやるぜ。麺は細麺、硬さはハリガネだな、食べるのが遅そうだから麺に辿りついた時にはちょうど食べ頃になってるだろうよ」
ここまで的確に見抜き、対応出来るのは元栄養士だった経歴があるかららしい。とても俺にお節介を焼いてくれる。
ただ、連続で来たりすると『また来たのか!? 連続でラーメンだぁ? 栄養が偏るだろうが! 今日はラーメンは無しだ! うちに帰って自炊しろ! いいか、白米と味噌汁、焼き魚に高野豆腐、ヒジキだ! スーパーに寄って買って来い!』と追い返される日もあった。
ほんと、変わっている人である。が、俺の栄養管理は彼女によって支えられている。
しばらくすると白衣の姉ちゃん、なっちゃんがラーメンを持って来てくれた。俺には野菜てんこ盛りラーメンと鈴宮さんには次郎系ラーメンの女性仕様である。尚、この二つはメニューには無い。えこひいきも良い所である。
周りから見れば大層な身分にも見えるかもしれないが、食べたい物を食べさせてくれないのはそれはそれで辛いものがある。
「あいよ、お待たせ! しかし葵はちょいちょい女を連れ込んでくるな!」
「ちょっと!? なっちゃん!? 鈴宮さんが誤解するから!?」
ほら、軽蔑の眼差しでこっちを見てるから! やめてよ! 会社の後輩なんですよ!? 部署は違うけどずっと顔を合わせて行かなければならない人なんですから!
「ち、違うんですよ! ここに連れて来たのは梓とさっきのコンビニのバイトの子だけですから!」
「え……コンビニの、バイトの……子?」
ぐあああ! 墓穴掘ったぁ!? 違う! あいつには恩があってですね、アザラシちゃん一番くじラストワン賞を狙う為に、くじが少なくなったら連絡する代わりにラーメンで手を打ったんです!
ほら、部屋にあったぬいぐるみがそうなんです! あれ、ラストワン賞なんです!
「へえ、鈴宮っていうのかい? 下の名前は?」
「あ、はい、桃華と申します……」
「桃華か……あんたもこれからこの店に来る時は発券機使っちゃダメだ。あたしがおすすめメニューを提供してやるからさ!」
ああ、白衣の悪魔に魅入られてしまった……いや、そんな事より誤解を解かないと!
「鈴宮さん! 違うんです! 確かに梓とはよく来てますが、それは残業の帰りにお腹が空いたからであって。それに清音はですね――」
「きよ……ね……」
ああ! しまった! いつもの下の名前で呼んでるからつい!? やばい! 誤解の溝がマリアナ海峡の深度と変わらないものに!?
「違うんです! アザラシちゃんなんです! アザラシちゃんの為に手を打ったんです!」
こうなったら仕方が無い! いい歳した兄ちゃんがアザラシちゃん好きとカミングアウトしよう! それで誤解が解けるなら安いものだ!
「何をさっきからガタガタと言ってるんだ。さっさと食べな!」
「あ、はい……」
ちょっとお! まだ話の途中なんですよ、無理やり箸を勧めないで!
「なっちゃん! まだ誤解が解けてな――」
「あたしは同じ事を二度も言うのはごめんだ。サプリ味に変えてやろうか?」
「さあ、いただきましょう! 鈴宮さん! ここのラーメン美味しいんですよ!」
うう……終わった……。いろんな意味で。これじゃあ俺がアザラシちゃん好きとカミングアウトして気持ち悪がられただけじゃないですかぁ……。
ピリ辛ラーメンの味は何故かしょっぱく感じた。多分、涙と鼻水の味が混ざっていたんだと思う……。
「またのお越しを待ってるぜ? だが毎日来るなよ! 体に悪いからな!」
飲食店の店主が絶対言ってはならない言葉を笑顔で吐き、見送ってくれた……雨はまだ降っている……踏んだり蹴ったりだ。
お腹は膨れたが、味……分からなかったな……はは。
「あ、あの……だ、大丈夫ですか?」
「はい……あ、駅まで送りますね……」
肩を落としながら傘を開いた。俺は全てを失ったのだ。そうだ、便せん買わなきゃ……辞表をしたためる為の。
とぼとぼと駅の方に向かい歩いてると鈴宮さんから声が上がった。
「あ、あの、アザラシちゃんって……あれですよね?」
鈴宮さんが指を差すのは俺も御用達のファンシーショップである。ここはアザラシちゃんの品揃えがいいので定期的に通っている。店先にも可愛らしい小物が並んでおり、それを指さしていた。
「そ、そうですね。アザラシちゃん、好きなんですよ……」
もう恥もへったくれも無い。バレてるし隠す事も無いだろう……。
「ちょっと、寄って行きませんか?」
ま、まさか鈴宮さんもアザラシちゃんが好きになったのか!? そうなの!?
「鈴宮さんもアザラシちゃん好きなんですか!?」
「あ、い、いえ、その初めて知ったんですが……」
うわ、恥ずかし! 俺、恥ずかし! 何を喜々として迫ってるんだか。もう死にたい……。
「で、でも、とっても可愛いですね!」
屈託の無い笑顔が向けられた……良かった、俺、まだぎりぎり土俵際で粘れてたんだ。
鈴宮さんの誘われるがまま、可愛らしい夢の国に入場した。普段はこんな日中に入る事はなく、いつも閉店ギリギリを狙って入る。白昼堂々と一人でアザラシちゃんを見つめてにやついていたら流石にお巡りさんが来てしまう。
だが女性と一緒なら隠れ蓑になる! そう、俺は彼女と一緒に来た付き添いと言う形で……か、彼女? な、何を失礼な事を考えているんだ俺は。
「あら、いらっしゃい、こんな時間に来るなんて珍しいわね」
すらりとした長い手足に細い体。整った顔立ちにモデルのような体形。このファンシーショップのオーナーである。
「綺麗な人ですね……」
うん? 確かに綺麗ではあるんですけど……。やっぱりそっちになっちゃいますか。
「あらあら、可愛い子連れちゃって」
「そんなんじゃない、和夫」
石角和夫、見た目は完全に女性だが、れっきとした100%純正の男だ。
「か、かず!?」
「もう、ちゃんとカズリンって呼んでよ!」
腰に手を当て人指し指を立てて『め!』のポーズを取っている。俺も最初は騙された。特別な感情はなかったのだが、衝撃が背骨に走ったぐらいだ。恋心を持った何人かはその事実を知り、廃人になったのを俺は見ている。
「はいはい、カズリン、邪魔しないでくれる?」
「そんな態度だと……新製品、出すのやめよっかな?」
「今日も美しいなカズリン、さあ、新製品を出せ」
軽く誉めて本題に移らせてもらおう。
「全く、葵ちゃんてば正直なんだから~! はい、これよ」
カズリンこと和夫が出してきたのはシルバーキーホルダーのアザラシちゃんである。一個のキーホルダーが二つに分かれる仕様であり、ウインクしているアザラシちゃんが2匹デザインされており、とってもキュートだ。
しかも合わさせると尻尾と反りかえった体、頭とで空いた空間がハートの形になるカップル仕様のアイテムだ。
よし、これは要らない。厳密に言うと欲しいがこれは持っていても使い道が――
「それ下さい!」
鈴宮さんは目を輝かせて購入意欲を剥き出しにしていた。
そ、そんなに気に入ったのかな? でもカップル用なのに……はっ!? 俺はなんて勘違いをしていたんだ……そうだ、思い上がりも甚だしい。こんな可愛い子なのだ、彼氏がいない筈が無い。それに今日はあくまでお礼でお付き合いしてくれているだけなのだ…。
ふふ、何を舞い上がって居るんだか……。
「それじゃあ、気を付けてね」
ファンシーショップを出て駅の改札の前で見送る事にした。もちろん笑顔である。尚、心は泣いているが。
「今日はありがとうございました! そ、その濡れちゃってるんで早く着替えて下さいね……それと……」
先程購入したキーホルダーを取り出し、片割れを差し出してきた。
「こ、こ、これ、受け取って欲しいです……そ、そのお礼として……出来れば、何処かに付けていて欲しいです……わ、私も付けますから……」
雨の音にかき消されそうな程のか細い声であったが、なんとか聞こえた。
……嘘? マジで?
アザラシちゃんのファンになってくれた!?