06.悪は無垢な少女に執着する
「どうか、怖がらずに聞いてほしい」
紫蒼は雪勿の手を引いて、ソファへと腰を下ろした。雪勿を気遣う紫蒼の滑らかな仕草ひとつとっても、映画に出てくる英国紳士も嫉妬するほど美しかった。
黒髪の見目麗しい男は、まず始めに雪勿の悪夢について触れた。
「雪勿がずっと見続けていたあの夢は、正確には見ていたのではなく、意図的に見せられていたものだったんだ」
「見せられていた?」
首をかしげて言葉をオウム返しする雪勿に、紫蒼はうんと頷いた。
「誰に…ですか?」
「さっきの幽霊……悪霊に」
悪霊という馴染みのない言葉に違和感を覚える雪勿だが、あの黒い影には幽霊というよりも、悪霊という方がいささかしっくりくる。
紫蒼は、自分があの悪霊を見つけたのは今から少し前のことだと言う。
「その時はまだ悪霊にはなっていなくて、人の形をしながら人の目には映らず、ただ浮遊するだけの幽霊だったんだ」
「……?悪霊は、元々幽霊なんですか?」
「全てがそうというわけじゃない。そもそも幽霊と悪霊の違いはひとつだけで、この世に残してきた未練や思いが恨みや憎しみかっていうことだけなんだよ。違うならば幽霊、そうならば悪霊」
外はもうすっかり暗くなっている。部外者に勘づかれると面倒だからと、電気を半分だけつけた教室は薄暗い。
「幽霊は人に危害を加えることはほぼ無いけれど、悪霊は現世に何かしらの憎悪を持っているから、人間を襲うことが多い。俺は幽霊を見つけては成仏させると同時に、そういった悪霊も祓っているんだよ」
紫蒼の手は既に雪勿から離れ、彼の膝の上で固く組まれていた。雪勿は何度も組み直されるその手に触れてもいいのか迷ったが、なんとなくはばかられて、結局話を聞くこと以外何も出来なかった。
「雪勿が見たあの影はまさに悪霊だ。でも俺が少し前にあいつを追いかけていた時には、まだ幽霊だった。俺から逃げた先で貴女を見つけた途端、突然悪霊になったんだ」
紫蒼は背中を丸めたまま顔だけを雪勿の方に向けた。
「理由は不明だけど、多分…生前に雪勿と関わりがある人だったんだと思う。あれは貴女にひどく執着しているようなんだ」
どういうことですかと雪勿が尋ねると、紫蒼は数秒の沈黙を挟んでから口を開いた。
「最初にも言ったけど、雪勿が見ていた炎に囲まれて逃げられないっていう悪夢は、あの悪霊が見せていたもの。即ちそれは、悪霊の恨みが貴女に向いていることになる」
いざ言葉にされて言われると心臓が抉られたような、恐ろしい気分になる。
それからひとつの結論が浮かんで、雪勿はきゅっと唇を結んだ。急激に指先の熱が引いていく。
「わ、わたしの、せいで…?」
「それは違うよ」
紫蒼はそれを予想していたような、食い気味な口調で雪勿の言葉を遮った。
「この数日間貴女を見てきたけれど、そんな酷いことができるような人には見えなかった」
「で、でも気付かないうちに…もしかしたらわたしが人を死…」
「雪勿。よく聞いて」
紫蒼は震える雪勿の手を優しく握った。紫蒼の手から雪勿の手へ、体温が流れ込む。
「あの悪霊の恨んでいる本当の相手は、雪勿自身じゃない可能性もある」
「え…?」
雪勿が顔を上げると、目の前で紫蒼の黒い瞳が細められた。
「悪霊が恨みを抱く相手は、雪勿と関係のある人ということも有り得ることなんだよ。貴女を苦しめることで、恨みの本当の相手が苦しむことを望んでね」
「本当の相手……」
こつんと額を合わせ、紫蒼は雪勿の手を握る力を少しだけ強めた。
「貴女を大切にしている人、血縁者か友人か、あるいはもっと違う……いづれにしても貴女にとってはあまり嬉しいものではないけれど。でも俺は、貴女が恨みの相手じゃなくて心から良かったと思っているんだ。…酷いね」
ごめんねと目を伏せる紫蒼に、雪勿は大袈裟に首を横に振った。
「それはわたしが悪人じゃないってずっと信じてくれていたってことだから、すごく…嬉しいです」
やっと紫蒼が自分の内側をほんの少しだけでも見せてくれたようで、雪勿は満足げに笑った。
「話してくれてありがとうございます、紫蒼」
「……俺は…何もしてないよ」
それから、雪勿は強いねと、紫蒼は言った。その顔には何故か傷付いたようなぎこちない笑みが張り付いていた。
「紫蒼…?」
「ん?なに?」
「あ…いえ、なんでもないです」
一気に彼のことを知るのは止めておこう。雪勿は気掛かりなことを今は一旦忘れて、何も見ていないふりをした。
「やっぱりわたしが寝ている間、紫蒼はずっと悪霊からわたしを守ってくれていたんですね」
「……」
「悪夢を見なくなったのは、やっぱり紫蒼のおかげでしたね」
何も返さない紫蒼に、雪勿は薄ら笑いを浮かべた。
「いい加減認めてください。往生際悪いですよ」
そこで突然あっ、と雪勿は声を上げた。
「ていうことは、紫蒼は夜中わたしの部屋に来たってことになりません?」
思ったことをそのまま口にしたら、隣で力んでいた紫蒼の表情筋がひゅるんという音が聞こえてきそうなくらい一気に緩んだ。
「……え?」
「だって紫蒼が悪い幽霊を追い払ってくれていたから、わたしはぐっすり眠れていたんでしょう?自分の知らないところで紫蒼に部屋を覗かれていたって考えると、うぅ…なんか恥ずかしいです」
顔を両手で覆い赤面する雪勿を見て、紫蒼はふっと息をもらした。
「なっ、なんで笑ってるんですか!」
「あぁ、ごめんね。恥ずかしがる貴女が可愛らしくて、つい」
「そのセリフ、初めて会った時にも言っていましたよね。からかわないでください」
「そう返されて、俺はあの時も言ったね。からかってなんかいないさ」
「そんなの嘘です!信じられません!」
「嘘じゃない。貴女は可愛らしい女性だよ」
暖房もない教室で、雪勿の顔は身にしみる冬の寒さがまるで効いていないかのように急激に発熱した。手を繋ぐのも抱きしめられるのも平気なのに、どうしても面と向かって言葉をかけられることには慣れない。だが紫蒼も紫蒼だ。見惚れるほど美しい容姿の男に可愛らしいなんて言われて、照れない女などいるのだろうか。
「紫蒼は…大人ですね」
「雪勿よりはね」
何歳なのか聞いてみたが、紫蒼は教えてくれなかった。