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きみとせつなに  作者: 蒼依
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04.血に濡れた制服

「おい。遅刻だぞ」


 旧校舎を出て教室へと向かう廊下の途中で、後ろからかけられた声に雪勿(せつな)は振り向いた。


土御門(つちみかど)先生」


 雪勿のクラスの担任で生物学を担当する土御門晴花(つちみかどはるか)だ。黒い顎髭、皺だらけの白衣、どこかに『やる気』というものを置いてきたような目の薄幸顔の男。


「俺の授業で遅刻なんていい度胸だな、ん?なにしてた」


「別に何も。お昼寝してたらこんな時間になっただけです。先生こそ遅刻じゃないんですか」


「俺がいつ授業を始めようが俺の勝手だ」


 なんだそれと雪勿が言うと、晴花は鼻で笑って返した。

 この男、身なりからでも分かるが、全てにおいてズボラで、さらに怠慢主義者だ。授業は時間通りに始まらないし、終わらない。晴花の生物の授業は授業開始のチャイムがなって十分以上置いてから始まり、授業終了時刻まで十分以上残して終了する。それでもきっちり一年で、教科書一冊を一通り終わらせてしまうらしい。教え方が上手いのか、はたまた適当なのか。


 飄々としてとらえどころのない存在だとたしかクラスの誰かが言っていたのを小耳に挟んだことがある。


「お前男といただろ」


「……は?」


 突然なんなんだと真顔で訴える雪勿に、しかし晴花は無礼を気にする様子もなく続けて言った。


「匂いがすんだよ、男の。そいつ誰だ?」


「匂いって……やめて下さい。気持ち悪いですよ、先生」


「その言い方は酷くねぇか」


「よく言えますね。先生のほうがもっと酷いです。女子に嫌われますよ」


「餓鬼にどう思われようが関係ねぇよ」


 晴花は煙草の匂いを纏わせて、大仰にあくびをした。だらしがないと言ってやりたい気持ちを押し込めて、雪勿は紫蒼の姿を浮かべる。晴花のいい加減な仕草には、紫蒼(しき)のような優美さの欠けらも無かった。

 そんな彼に、雪勿は気まぐれに聞いてみた。


「先生は…何か気になることがあった時、自分の気持ちが晴れるまで探究しますか?それとも何もせずに自己完結させますか?」


 晴花は雪勿が唐突にこの質問をする真意が汲み取れずに、目を眇めた。


「気になることって、例えば」


「眠ってる時に見た夢が、夢に思えなかった時とか」


 晴花はしばらく黙って考え込むような仕草をして、はっと顔を上げた。


「先生?」


「悪い。教科書職員室に忘れちまった」


「今すぐ取りに戻ってください」


 呆れたような半目を向ける雪勿をよそに、よれた白衣をはためかせて晴花は踵を返した。無骨な手をひらひらと振る晴花は、去り際にちらりと雪勿を見下ろした。


「気になることといえば…少し前に同居人が家出したことがあったな。そいつは未だに行方不明だが……必ず見つけだして連れ戻す。まあお前の質問に答えるとしたら、俺は前者かもな」


 雪勿はそれを先に言えと来た道を戻る晴花の背中に叫びたくなったが、今は授業中であることを思い出してやめた。


「よし」


 気になるならとことん調べる。きっと珍しいのであろう晴花の真面目な言葉は、雪勿の心を少なからず後押しした。おそらくそこに晴花の意識はない。


 行くのはいつも昼休みで、その時間以外で行ったことはない。突然行ったら驚かれるだろうか。だがそれでも構わない。自分には確かめたいことがあるのだと、雪勿はまだ先生のいないクラスの教室のドアを開けた。


 放課後、旧生徒会室で紫蒼と話す。そう決めた途端、少しだけ胸が高鳴った。



 □□□□□□□□



 放課後、旧生徒会室へと急ぐ雪勿は、旧校舎と本校舎を繋ぐ非常用通路で思わぬ足止めをくらった。鍵すらかかっていないはずのそこに、昼休みには見なかった立ち入り禁止の札が道をふさいでいた。


 もう何度も入ったことがあるのに今更そんなことを言われても従う気にはなれず、というよりも紫蒼に早く会いたい一心で、雪勿は少し思案した後、その札を無視した。


 陽の光が入らない旧校舎は、ほぼお化け屋敷のようだ。目を凝らして前をよく見ないと、何かにつまづきそうで怖い。雪勿はふと窓の外を見た。月が出ていない真っ暗な空。星も見えなかった。異様に暗く感じるのは、光を隠してしまったこの闇色の空のせいだろうか。


「紫蒼……いますか?」


 旧生徒会室のドアを開け、雪勿は紫蒼を呼んだ。返事はなく、いつも彼が寝ている手前のソファにも、その姿は無かった。誰かがいるような気配もない。


 雪勿はここに来て、紫蒼がいない場合のことを考えていないことに気が付いて我ながら無計画だったかもしれないとため息をついた。今まで紫蒼がこの教室にいないということはなかった為、行けばいるものだと雪勿は勝手に思い込んでいた。この学校の制服を着ているということは紫蒼もこの学校の生徒であるはずなのだから、いない時間もあって当然なのだ。


 帰ってしまった可能性を考えながらも雪勿はここで少し待つことにした。電気をつけ、改めて見渡すと、空中に舞う埃やら壁の傷やら古びた場所ばかりが目に入る。見れば見るほど、どうしてこんな雰囲気まで薄暗い部屋で食事などできたのか不思議で仕方が無い。しかしそれは雪勿がひとりでいた場合のことだ。紫蒼がいれば一切考えない。彼は雪勿にとって、道標のような存在になっていた。


 夢の中で動けずにいた雪勿に救いの手を差し伸べた唯一の人。


 闇と同じ色の黒蝶は、金の光の粒を振り撒きながら雪勿を穏やかな朝へと導いた。

 紫蒼は相変わらず自分の凄さを認めようとはしないが、雪勿は確信している。紫蒼との出会いは必然であったのだと。神の導きと言えば大袈裟にも聞こえるが、紫蒼に出会って悪夢を見なくなったことは事実だ。紫蒼が雪勿にとって『自分を助けてくれた人』であることに間違いはなかった。


 どうにかして紫蒼にこの礼をしたい、彼は何をしたら喜んでくれるのだろう。いやそれよりも今はあの黒い影のことを紫蒼に聞くことが先か、今日ははぐらかしても引いてやらないぞ、と胸の前で両の拳をにぎり意気込む雪勿の目が、ふと見慣れないものを捉えた。

 室内を仕切るパーテーション、その奥の物置スペースに積まれたダンボールのひとつから、白いシャツの袖口が出ている。


 それだけ埃をかぶらずにある。


 こんなものこの部屋にあったかと訝しみ、そばに寄ってそれを指でつまみ引っ張り出した雪勿は、見えてきたものに小さく悲鳴をあげた。


 そのシャツは左の二の腕のところが鋭い刃物できられたように破け、その周りが真っ赤に染まっていた。血という文字が頭をよぎると同時に、昼休みに見た夢がフラッシュバックする。


 あの夢の中で紫蒼が黒い影に付けられた所とこのシャツの同じ場所が裂け、血に染まっている。おそらくこれはこの学校の男子生徒が着る制服のシャツで、紫蒼も同じものを着ていたはずだ。昼休みに見た夢、否。もう夢ではないことが確定した。紛れもなく実際に起こったこと、現実。


「やっぱり、夢じゃなかった…」


 それを口にしたら、雪勿は自分の体の芯のところが一気にさぁと冷めていくのを感じた。

 紫蒼はあの黒い影に襲われていたのに、それを隠している。


 あんなに血がたくさん出れば彼の身に何が起きるかなど、誰にでも容易に想像できる。


 紫蒼を探さなければ。雪勿は血で汚れたシャツを胸に抱えて踵を返す。そして教室を出ようと一歩踏み出したとき、背後に何かの気配を感じた。なんだろうと半分反射的に後ろを振り返った雪勿は、息をすることも忘れてその場に固まった。


「あ……あ…っ」


 夢の中にいた影だ、と気づいた時には口から漏れる声は言葉を無くしていた。


 影は形を持っていなかった。ざわざわと渦を巻くその様はブラックホールのようだ。

 一度吸い込まれればもう二度と戻れない。

 雪勿の本能が逃げろと警鐘を鳴らす。堪らず一歩、すり足で後ずさった。するとその瞬間、


「…ひ…っ」


 影も大きくうねるように動き始め、それはこの黒い影の意思のようだった。逃すまいと途端に膨張を始めた影は、壁や床を伝い雪勿をブラックホールの中に閉じ込めようとした。天井の蛍光灯は火花を散らしながら、影に光を奪われた。


「や、だ…嫌だっ」


 雪勿は恐怖で強ばる体に鞭打って、出入口へ走り、ドアハンドルに手をかける。しかしいくら力を入れても、ドアが開かない。


「な……どうしてっ…!」


 鍵をかけた記憶はない。訳も分からないまま周りを見て、雪勿は恐怖に駆られた。

 部屋を仕切っていたパーテーションも、乱雑に積み上げられた備品の入ったダンボール箱も、紫蒼がいつも寝ていた黒いソファも、旧生徒会室にあった全てが闇と炎の中に消えた。


 ごうごうと燃え上がる炎の壁。もうここは見知った旧生徒会室ではなくなっていた。

 この空間を知っていると、雪勿は唇を震わせた。


「夢と、同じ…」

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