02.男はまるでヒーローのように
雪勿は眠ることが好きではなかった。夢が彼女を苦しめるからだ。
体がひどく思い。まるで血の代わりに鉛でも通っているんじゃないかと思うほどに、夢の中の雪勿の体はいつも地に沈むように重かった。
「……」
次の瞬間周りを炎に囲まれる。近付いてくる赤い炎から逃げたくて、でも逃げられない。呼吸する度に、骨が腐った木板のように軋んだ。
頭の中は感情がぐちゃぐちゃに混ざり合いながら摩擦を起こす。外からも内からも壊される。
重い……熱い……痛い……。
熱い、痛い…痛い…痛い………………。
………ああ…焼けていく。
今までの思い出、何もかも…黒い炭になっていく…。
壊された。
壊された。
大切な人たち…。
大好き。
大好きな人たち。
壊された。壊された壊された。
壊された……!
許さない…許さない……。
わたしの…大好きな……。
許さない、許さない…大切な人たちを…どうして…許さない許さない…………。
体の中で、何かが割れる音がした。
「……はぁっ…!」
目を覚ました時には、雪勿は肩で息をしながら、涙を流していた。
時計の針は午前の二時をさしていた。
今日、いやもう昨日のことだ。洗濯したばかりの寝間着は、季節外れとも言えるほど大量の汗を吸い込み、肌に張り付いて気持ちが悪い。またこの夢かと、雪勿は額の汗をぞんざいに拭った。
不意に、別れ際の紫蒼のあの言葉が頭をよぎる。
荒れた呼吸はしばらく落ち着きそうになかった。
雪降り積もる翌日。雪勿は旧生徒会室のドアを叩いた。しばらくして、どうぞという声が返ってきた。紫蒼の声だ。
「こんにちは。来てくれないかと思った。昨日怒らせたみたいだったから」
中へ入ると紫蒼が手前のソファの背もたれからひょっこり顔を出して、雪勿を出迎えた。相変わらず制服が不似合いな男だと雪勿は思った。
「今日はお弁当持ってないんだね」
「……え?あ、ほんとだ。教室に忘れてきちゃったみたいです」
「……そう。ほら、そんなところに立ってないで、こっちにおいで」
紫蒼に誘われるまま、雪勿は彼と向かい合うソファに座った。座るなり目の前で小さくため息をつく雪勿に、紫蒼は気遣うような視線を向けた。昨日と今日で雪勿の様子がだいぶ違うように、紫蒼には思われた。
「何か気掛かりなことがあるようだね」
紫蒼のダークチェリー色の瞳が、雪勿の顔をじっと見つめている。
「……どうしてそう思うんですか?昨日だって…」
「どうしてって、だってすごいよ」
隈、と自分の目元を指して言う紫蒼。雪勿はふいと顔を逸らした。
「その隈の理由は慢性的な睡眠不足かな。それとも最近は特別疲れていて、元気がないとか」
紫蒼の声はとても穏やかだった。聞いているだけで心が安らぐ。
「あの、わたし……」
ゆっくりでいいよと、紫蒼は青い顔の雪勿を落ち着かせるように言った。雪勿は小さく深呼吸をしてから、ぽつりと話し始めた。
「あなたの思っているとおりです。最近ずっと眠れてないんです。毎日同じ夢を見て」
「夢?」
「この学校の、寮に越してきてから…違う、もうずっと前から……?周りを炎に囲まれて、逃げなきゃいけないのに体が動かなくて、熱くて、痛くて、あとすごく悲しくて、誰かをとても憎く思いながら、わたしはいつも目が覚めるんです」
「可哀想に。夢が眠りを妨げるなんて」
「その夢のせいで…眠るのが怖くなっちゃって…もう何日も…まともに……」
あれ、と思った時には瞼が閉じかけていた。
「雪勿?」
「今日も、その夢で飛び起きて……そしたらその時に…あなたが昨日、別れ際に言ってたこと…を、思い…だして……」
「雪勿?どうしたの?」
「でも、なんでだろ……あなたのことは、苦手な……はず…なのに……」
足が勝手に……と言葉を尻すぼみにしながら、雪勿の体はソファの上に倒れた。
「雪勿!?雪勿しっかり!」
気持ちがいい。暖かくてふわふわする。この感覚を、人は何と言うのだったか。
雪勿、雪勿と紫蒼が呼んでいる。そんなに何度も呼ばなくても、ちゃんと聞こえているのに。そう伝えたくても、もう唇がうまく動いてくれない。
雪勿は本能に抗うこともなく、そのまま意識を手放した。
「雪勿!」
紫蒼はソファから身を乗り出し、倒れた雪勿に手を伸ばした。雪勿の顔を隠す白くまっすぐに伸びた髪をそっと避けて、様子を伺う。息はある。脈も正常。熱もない。近づいてみると雪勿は静かに寝息をたてていた。雪勿は繰り返し見る悪夢に悩まされていると言っていた。何日も寝不足が続いたため、体が限界を迎えたのだろう。眠っただけかと安堵した紫蒼は、大きく息を吐いた。
「こんなになるまで……辛かったね」
頭をそっと撫でると、雪勿は小さく唸った。眠っているはずなのだが、全身に強ばったような力が入っている。
「何かが意図的にこの子を苦しめているというのなら」
許せないね、と呟く紫蒼がぐっと目頭に力を入れた、その直後。
ガタンッ、という音がして、部屋の明かりが落ちた。紫蒼は咄嗟に、眠る雪勿を抱き寄せた。
紫蒼の視線の先で、ガタガタと揺れはじめた旧生徒会室と廊下を繋ぐ廃れた引き戸。それがひとりでに、ゆっくりと開いていった。
「やぁ。……待っていたよ」
それが空に浮かぶ雲ではなく、炎が出す灰色の煙であることが分かる度に、雪勿は絶望を繰り返す。
またこの夢─────
一体いつまで苦しまなければならないのか。目尻から落ちた涙が地面を濡らした。
「……雪勿…」
呼ばれたように思えた。
でも、いつもはそんなこと……。
「雪勿」
聞こえる。自分以外の声が聞こえる。呼ばれている。いつもは無い、温もりを近くに感じる。
視界の端を金色の光を振りまいて飛ぶ黒い蝶が横切っていった。
「起きれる?」
脳が眠りから覚めたことに気がつくまで、若干の時間を要した。雪勿はしばらく、ぼうっと紫蒼を見つめていた。
「雪勿?」
「……助けて、くれたんですか」
掠れた声で雪勿が聞くと、紫蒼は首を振り眦を下げた。
「うなされていたよ。また悪い夢を見たの?」
「……はい。でも、いつもとはちょっと違うものでした。あなたが助けてくれた」
「そう」
それはよかったと鷹揚に微笑む紫蒼に、何故だろうと雪勿は首をかしげた。彼の顔が眠る前よりも近くに見える。
だがそれにしてもこの男、見れば見るほどこの世のものではないような、目を奪うほどの麗しさを持っている。雪勿を見下ろしてしだれる黒髪は、そう、さしずめ月明かりに照らされて揺れる藤の花に似て……。
雪勿はそこまで考えて、あれ、と今の自分を客観視してみた。横になる自分、それにかぶさるような姿勢の紫蒼。いつの間にか紫蒼の膝の上に頭を置いて眠っていたようだ。
とんでもない状況だと、雪勿は跳ねるように体を起こした。
「すみません!」
紫蒼は驚いたというように目を瞬いた。
「突然倒れたうえにこんなこと……重かったですよねすみませんっ!」
「ああ……いや、構わないよ。俺が勝手にしたことだから、気にしなくていい」
それよりも、と紫蒼は言葉を継いだ。
「顔を見せて。ここに来た時は、肌が白を通り越して青くなっていたからね」
ソファに額をこすりつけていた雪勿は、おずおずと顔を上げた。
「少し眠ったからかな。さっきよりは良くなったようだ」
雪勿の頬に触れた紫蒼は、ふっと顔をほころばせて、また、よかったと呟いた。
「ありがとうございます、助けてくれて。やっぱり来てよかった」
「うん?俺は何もしてないよ」
「そんなことないです!あなたがわたしを助けてくれたんです。夢の中で、あなたの声が聞こえました。ずっとわたしの名前を呼んでいてくれていた…あなたが近くにいてくれたから……ありがとうございます!」
雪勿に再び深々と頭を下げられ、紫蒼は戸惑いの表情を浮かべた。
「もうわかったから。ほら、頭を上げて。参ったな。昨日の貴女とは別人のようだよ」
「え?あ…昨日は、その…ちょっとイライラしてて…」
「そう」
雪勿は、自分は昨日転校してきたこと、クラスメイトに休み時間中絡まれ続けたこと、それに加えて寝不足のせいもあってストレスが溜まっていて紫蒼に八つ当たりしてしまったことを伝えた。
ひたすら謝り倒す雪勿を、紫蒼は笑って許しの言葉をかけた。
「あの時は、俺も少し貴女に意地悪してしまったからね。お互い様だよ」
「……あ、あのっ!」
「なに?」
「あなたは…本当に、幽霊じゃないんですよね?」
紫蒼はその黒い瞳を一瞬だけ見開き、そしてすぐに細めた。口元はどこか挑発的に弧を描いている。
「そうだよ。もう一度確かめてみる?」
そう言って、紫蒼は手のひらを雪勿の顔の前に出した。雪勿が自分の手を少し伸ばすと、簡単に触れることが出来た。
「どう?」
「……幽霊…じゃない」
「正解。じゃあ今度は俺の番」
「え?…わっ」
雪勿が首をかしげた時にはもう腕を掴まれ、声を上げた時には既に体が倒されて紫蒼の顔が間近にあった。
「な、なんで…!?」
「俺の膝枕はお気に召しませんか?」
「…そ!んなことは、ない、ですけど」
「昼休みは長い。俺がここにいてあげるから」
でもと食い下がる雪勿の唇に、紫蒼の細い人差し指が添えられた。シーと息を吐きながら、紫蒼は反対の手のひらで雪勿の視界を優しく奪う。
「おやすみ。雪勿」
まるでその言葉に誘われるように、雪勿は再び眠りに落ちていった。
「夢から覚めたら、俺の名前を呼んで」
その日から、雪勿が悪夢を見ることはなくなった。