26.紫蒼の気持ち
空気も凍る、冬の早朝。
外の気温と変わらない蔵の中で震える雪勿に、紫蒼は自分のブレザーを羽織らせた。
すみませんと受け取りながら、雪勿は紫蒼を見上げる。
「わたしが勝手にどこかへ行ってしまったとでも思ったんですか?」
黒いブレザーに腕を通すと、袖からは指先から第二関節までが僅かに覗く。ぶかぶかのサイズ感が雪勿の乙女心をくすぐりながら包まれるような安心を与える。
(この制服から紫蒼の匂い……ふふ)
「うん…ごめんね。本当は俺が動揺なんかしてたらいけないんだけど……。雪勿…さっきからにやけてどうしたの?」
「あ…いいえ!なんでもないです」
「うん…?そう?」
蔵の中に朝日が僅かに注ぐ。
雪勿の隣に腰掛ける紫蒼は、その美しい顔に微笑を浮かべた。
「それ、いいな…。着られてる感がとっても可愛い」
「!」
「雪勿」
わっという声を上げる暇もなく、雪勿はすっぽりと紫蒼の腕の中に捕えられた。
「し、紫蒼…?」
「雪勿。さっき電話でね、話したんだ。俺と雪勿が今どういう状況なのか」
「……?誰にですか?」
「知り合いの、強力な力を持った人に。幼い頃から霊を祓う為だけに生きてきたような人だ」
「助けてくれるんですか?その人が」
「彼女はそう約束してくれた。悪霊から、きっと雪勿を救い出してくれる」
紫蒼は強く雪勿を抱きしめている。
その温かい体に埋もれないように、雪勿は顎を上げた。
「でも紫蒼。紫蒼は嬉しくなさそうです」
首元で、紫蒼の動揺がその息づかいから感じ取れた。
「どうしてそう思うの」
「何となく、声で」
「……そう……そうなんだ…俺は……」
消えてしまいそうな紫蒼の声が、彼の内に隠した思いを言葉に落としていく。
「貴女を助けるために、あの人を頼ることは必要なことなんだと思う。でもあの人が頷きを返した時から、俺は苛立ちを抑えられずにいる」
───これ程までに大きく感情が揺れたのは久々のことだった。
「それはつまり俺が貴女を、俺の力だけでは守りきれないと俺自身が認めたことになる。それが俺には許せない…」
より深く顔を埋めてくる紫蒼の髪が、雪勿の首元をくすぐる。
「でも紫蒼は助けを求めたんですよね…?」
紫蒼の頭にそっと右手を置く雪勿。紫蒼はわななく唇ではぁ、と息を吐く。
「貴女を失いないたくない」
くぐもって聞こえるいつもより低い彼の声が、その言葉が嘘ではないことを雪勿の心に直接伝えてくる。
その態度が苦しげで、雪勿は何も言えなかった。
「でももし…俺にもし何者をも退けられるような圧倒的な力が残っていれば……」
「……」
「なんて、今頃後悔しても意味無いんだけどね。けれど貴女を、俺一人で守りたかったんだ」
一瞬だけ向き合う紫蒼の笑顔は切なく、儚い色を魅せる。
(…あぁ…なんて嬉しい言葉…。勘違いしそうになる)
あるいは本当に――
雪勿の胸は紫蒼に対する淡い感情でいっぱいだった。
こんなにも思ってくれている人がいる。例えそれが、自分と同じ思いではないとしても。
「紫蒼。ありがとうございます。紫蒼のその気持ちが、わたしはとても嬉しいです。だからそんなに謝らなくても大丈夫ですよ」
しかしにっこり笑う雪勿のその言葉を聞いてなお、紫蒼はまだ、ごめんねと眉を下げてきた。
こんな時にこんな所で「ごめんね」「大丈夫」の押し問答をするつもりなど、雪勿にはさらさら無い。
「…わたしの話聞いてました?」
「それじゃなくて、隠し部屋に行った時」
「んん?何かしましたっけ?」
紫蒼は面食らったような顔で雪勿を見つめた。
「俺が無理矢理貴女を部屋から追い出してしまったでしょう?」
「あ、ああ、あれですか」
(そんなに気にしてないんだけど……)
「もしかしてあまり気にしてない?」
「え、あ、はい。なんか様子おかしいなぁとは思いましたけど」
あはは、と雪勿は乾いた笑みを返すと、紫蒼は困惑の表情を見せた。
「でもちゃんと謝っておきたい」
「……。分かりました。気持ちは受け取ります。でもそんなに落ち込まないでください。ゆっくりは見れなかったけど、それはまたあの部屋に行けばいいだけなんですから」
「う、ん……」
歯切れの悪い返事を返されて、雪勿の中に一つの事が思い浮かぶ。
(もしかしてあんまり行かせたくないのかな)
「あの、紫……」
不意に、紫蒼の頭が視界から消える。
再び抱き直され、雪勿は驚きのあまり閉口した。
「雪勿」
「はい?」
「俺のこと好き?」
「すっ!?」
雪勿の心臓は体ごと跳ね上がる勢いで大きな脈を打った。ことによると本当に跳ね上がっていたかもしれないし、それでなくても今の反応で隠してきた想いの存在に、紫蒼が気付いてしまったかもしれない。
「ばっ…なん…っ…なんで…そんなこと…!」
「俺ね、貴女が俺の目の届く場所に、すぐにこうして抱き寄せられる場所にいないと不安になるようなんだ。俺の言いたいことがわかる?」
紫蒼の腕から抜け出そうと体をよじる雪勿。けれど紫蒼は、雪勿をその腕の中に捕らえて離してはくれなかった。
「…わ…からな…」
紫蒼が雪勿の肩口で、静かに息を吐く気配がした。
「なら教えてあげる。俺は――」
沈黙が苦しい。逃げることも許されない。
とんでもない辱めを受けているような気分の雪勿は、お願いだから早く言ってしまってほしいと心の内で訴える。
当然その心の声が紫蒼に届くはずはなく、むしろ紫蒼はそれから固まったように動かない。
「……紫蒼…?」
「…雪勿…頬の傷…猫につけられたって言ったよね…」
「え?は、はい。そうですけど」
(え。え?なんで今それを聞くの?)
思わぬ質問に雪勿は首をかしげつつそう答える。紫蒼の考えは相変わらず読み取れない。
「紫――」
彼を呼ぶ言葉は強制的に切られた。目の前が真っ黒に塗り潰されたと思った。
ぶわっ…と視界に黒い花弁が舞い上がったように思えた直後、だがそれが紫蒼の黒蝶だということに雪勿はややあって気が付いた。




