24.動き始める
紫蒼は雪勿の家の敷地内から一歩出た場所にいた。雪勿が起きてきたことには未だ気づかず、その傍らには輪郭が赤くなぞられた黒蝶が赤い光の粒をほろほろと零しながら舞っている。
紫蒼はただ無言で待っていた。その黒蝶の向こう側に現れる者を。
「……!」
やがて、黒蝶に動きが見られた。紫蒼は伏せていた目を開けて、眼前で浮遊する蝶を見据える。そして口火を切った。
「……おはようございます。翠李さん」
「……お前さん、こんな時間にあたしを起こして…それなりの要件なんだろうね?」
黒蝶からノイズ混じりに聞こえてくる声。
紫蒼が翠李と呼ぶその女は、紫蒼がいる場所からは遠く離れた屋敷に住んでいる。
安倍翠李。安倍晴明直系子孫にして、現安倍家の女当主である。
「こんなものをあたしに寄越すとはねぇ。お前さんはあたしらから逃げている立場じゃあなかったのかい?」
翠李がこんなものと称したのは、赤い縁どりの施された黒蝶のことだった。今、紫蒼と翠李はこの二匹の黒い蝶を通して会話を行っている。紫蒼の能力のひとつだった。
「逃げているのは彼からだけです」
「そんなに嫌いかね。土御門晴花のことが」
土御門晴花――それを耳にすることすら、今の紫蒼には酷なことに思えた。
「奴の名を…あまり口にしないでください」
紫蒼は目付きと声を僅かに尖らせた。
大嫌いな名前を聞いてしまった記憶すら消してしまいたくて、紫蒼はため息をひとつ、話を戻す。
「……それに、貴女には全てお見通しかと思って」
「お前さんは少々あたしを買い被りすぎだね。あたしは神サマか何かかい」
紫蒼はふっと笑った。
「ご冗談を。校長先生」
「おや。そう呼んでくれるんだね」
翠李の声に喜びの音が混ざる。
「俺が貴女の学校の旧校舎に入り浸っていること、貴女は最初から気付いていたでしょう。気付いていながら、貴女は俺たちに干渉してこなかった。ひとりで、事の果てを俯瞰しているおつもりですか?」
紫蒼の見つめる黒蝶から、吐き捨てるような息遣いが聞こえる。翠李は笑っていた。
「はっ。なんだいその言い方は。まるであたしに干渉して欲しかったみたいに聞こえるね。いいかい。あたしゃ回りくどいのは嫌いでね」
翠李の女性らしい高い声が、次の瞬間ひくく唸るような声色へ変化した。
「はっきり言いな」
その声に紫蒼は気圧される。
翠李は、人を従わせるだけの強い権力と威圧感の塊が、彼女の身体という器に同棲しているような女だった。彼女を目の前にすると、人は無意識に俯きたくなってしまう。要するに、翠李は少し怖い女ということである。
「…手を…貸していただきたいのです」
何故、と翠李は問うた。
「全て、彼女の――雪勿の為です。雪勿と悪霊は結びつきが強すぎる。このままではきっと…」
紫蒼は奥歯を噛み締める。
「俺の力だけではもう解決できそうにありません。…どうせ俺たちの今の状況も、貴女にはほとんど視えているのでしょう?」
「そうだね」
「俺がこんなことを言う資格なんかないということは十分理解しています。でも……どうか宜しくお願いします。翠李さん」
翠李はしばし考え込む。
黒蝶を通してでは彼女の表情を伺うことが出来ない。
紫蒼はただ、翠李の次の言葉を待った。
「……手を貸したとして、お前さんの負担が減るとは思えないんだがね。まあ多少の息抜きくらいは出来るようになるかもしれないが」
「俺のことはいいんです。この体が保てなくなるまで、俺の力は彼女の為に使うと決めています」
「頑固だねぇ。何がそんなにお前さんを動かしているのか…と、聞くだけ野暮ってもんだね」
含み笑いをする翠李に、だが紫蒼は言った。
「彼女を…快く思っているからです」
「おや」
せっかく察してあげたのにと、翠李は大層愉快に思い笑った。それでも上品さが欠けない翠李の纏う独特の雰囲気は、その声色からも感じられる。
「お前さんも、まだまだ坊やだったってことだ。もういい年だろうに」
「……」
「はぁぁ。いいだろう。手を貸してやる」
「えっ、本当に…?」
ああ、と翠李の優しい返事が帰ってくる。
(もっと渋られるかと覚悟していたんだけど……。条件でも出してくるかな)
未だ翠李の思惑を掴みあぐねる紫蒼は、それでも自分の要求が通ったことでふっと緊張が緩んで背後の塀にもたれた。
翠李の考えは誰にも予測できない。この要求も、紫蒼にとってすれば一種の賭けだった。翠李に接触すれば紫蒼や雪勿の居場所が瞬時に割れてしまう。そうなれば最悪雪勿と離ればなれになることだって考えられないことではなかった。だがその可能性を踏まえても、紫蒼は翠李が持つ、その業界の中では他と比べ物にならない権力と雪勿を守る盾となる圧倒的な存在が欲しかった。
「あ…りがとう…ございます…」
「礼なら蔵の鍵をあたしの所に返してから言いな。お前さんがあたしにすら断りを入れずに盗むもんだから、松帆が血相変えて教員共を集め始めちまってね。しかもあたしの名前でだよ?おかげで何時間も会議するはめになったんだ」
紫蒼は苦笑いを浮かべた。
「はい…すみません」
蔵の鍵を雪勿の目の前で見せた時、紫蒼はあの場で誤魔化しの嘘を彼女についた。
屋敷で見つけたのではないその鍵は、雪勿が通い、翠李がトップに立つあの高校の金庫の中から盗んだものだった。
連雀の屋敷に行くと決まったその日のうちに、紫蒼は人知れず蔵の鍵を盗った。
「まあいいさ。この件が片付いたら返してくれるんだろう?」
「勿論」
翠李はそれを確認すると、軽く嘆息して聞いてきた。
「それで?めぼしいものは見つかったのらかい?お前さんがご執心のあの娘も、そこにいるんだろう?」
「ええ。隠し部屋を発見しました」
「遂に見つけたか…!」
翠李は興奮する心を押し殺して平静を装いながら、言葉を紡ぐ。
「おっとすまない。…それはやはりあの娘が見つけたのか」
「そうです。ですが偶然見つけたようで…それと彼女の様子で少し気になる事が」
「ふむ……。分かった。そっちに松帆を向かわせよう。詳しいことはそいつに伝えておくれ」
わかりましたと言って通信を切ろうとする紫蒼に、翠李は待ったをかける。
「よく聞きな。娘を守るにも、力の加減を間違えるんじゃあないよ。お前さんはもうあの事件からはどっちみち逃げられないんだからね。部屋のことも詳しく聞きたいし、あたしとしてもお前さんに消えられると困るんだ」
「…彼女の名前は雪勿ですよ。翠李さん」
「ではその雪勿を守るためと思うことだ。今のお前さんにとってその雪勿が、己が刃を収める鞘になってるみたいだしね。感情に任せて猪突猛進するんじゃあないよ」
「……わかりました」
「沈黙が少し引っかかるが…まぁいいだろう。そうだ。それとお前さんが毛嫌いしているあの男」
「彼の話は…」
とことん晴花の話題を嫌う様子の紫蒼に、だが翠李は問答無用で続ける。
「いいから聞きな。お前さんが一番よくわかっているとは思うが、あれにはあたしの眼を掻い潜る術がある」
「はい」
「もしかしたらということがあるかもわからない。気を付けるに越したことはないだろう。奴は何を考えているか全く分からないからね」
「わかっています」
少しばかり不機嫌な声色で答えてきた紫蒼、翠李は何度目かのため息をもらす。
「忠告は以上だ。松帆がそっちに行くまで、娘を守ってみせな」
「はい」
赤く縁どられた黒蝶が砂のように消えていくと同時に、翠李との通信が切れた。
門をくぐる紫蒼は、ようやく一安心できると肩の力を抜き、そして蔵に入ってすぐに足を止めた。
「どうして…」
蔵を出る前に綺麗に片付けたはずの本が、何者かに荒らされたように床に散乱している。
先程まで翠李と話していた正面の門からは誰かが入ってくることも出て行くことも無かった。
ならばどこか違う場所から…?あるいは悪霊の仕業か。
「雪勿…!?」
紫蒼は慌てて、昨夜雪勿を寝かせたソファに駆け寄る。だがそこはもぬけの殻で、紫蒼のブレザー諸共雪勿の姿は無くなっていた。雪勿を守るために放っていた黒蝶だけが、その場で虚しく羽を休ませている。紫蒼は酷く嫌な想像をした。
「嘘…」
大き過ぎる精神的打撃に、紫蒼の両足は体を支えることを放棄し、紫蒼はその場にへたり込む。
(まさか、連れ去られた――?)
思考のままならない紫蒼の脳が、その最悪の事態だけを認識する。
紫蒼はあの時、雪勿が彼の力を好きだと言ってくれた時、何をしてでも彼女のことを離したくないと思った。思ってしまった。それ故に、蘇生装置に感化される雪勿を黙って見ていることが出来なかったのだ。
(あの装置と雪勿には密接な関係がある)
それを確信した瞬間、恐怖が紫蒼の全身を走った。そして半ば強引に連れ出すようにしてあの場から離れた。雪勿の意思すらも無視して。
冷静になってから紫蒼は己の身勝手な行動を恥じ猛省した。だから雪勿が起きたら謝ろうと思っていたのだ。その為には安心できる環境が必要だと、紫蒼は熟考の果てに翠李に助けを求めることを選んだ。
「それなのに…どうして…こんな…」
絞り出した声は弱々しく震える。ただひたすらに、後悔だけが募っていく。
「雪勿…」
やっと現状に光が見え始めたと思ったところで、想定外の事態だ。それも最悪の、紫蒼が最も恐れていたこと。守るという言葉は口先だけで言ったのではない。本気だった。神がいるのならば誓ったっていいと思えるほどに。
そうして紫蒼が項垂れていると、ふいに黒蝶が飛び立った。紫蒼の頭上を通り過ぎ黒蝶が向かった先に、紫蒼は蔵の扉から顔を覗かせる人影をぼやける視界の中で捉えた。
「あ!もうやっと見つけました!どこに行ってたんですか?」
ぱたぱたと駆け寄る、紫蒼よりも小さな人影。綺麗に整えられた白い髪が陽の光を受けて、白銀の光を魅せるその姿は天の使いを想像させる。
「起きたらいないんですもん。家中探してたんですよ?」
言葉を失って呆ける紫蒼の顔を、覗き込むようにしてしゃがみ込む雪勿。
言葉も発することが出来ないまま、それでも紫蒼は彼女のある一点に気付く。
紫蒼は見慣れない雪勿の頬の傷にそっと触れた。
「……?あ、この傷ですか?猫に引っ掻かれただけです」
紫蒼は何も言わない。
触れる指先が震える。
「紫蒼?」
「え…あ…ごめんね……」
「どこでなにしてたんですか?」
「も、門のところで…知り合いに…電話してた……よく眠っていたから、起こしたら悪いかと思って…」
紫蒼がそう言うと、雪勿は頬を膨らませた。
「昨日も言ったじゃないですか。そんなこと気にしなくていいって。忘れちゃったんですか?」
「そう、だったね…ごめんなさい」
「もういいですけど。でも、起きた時紫蒼がいないと不安になるんです。だから今度は忘れないで起こしてくださいね」
無言でただ頷く紫蒼。雪勿は満足げに笑う。その笑顔を目にした瞬間、紫蒼は俯いた。
「あの、雪勿…」
「はい?」
「あ…うん、えっと…手…繋いで…」
「はい、喜んで」
雪勿は戸惑う様子もなく、紫蒼の手に自分の手を重ねてぎゅっと握る。
「ありがとう…」
快く思っているなんて、そんな言葉では収まりきらないほど、紫蒼の中で雪勿の存在が大きくなっていく。
紫蒼は願った。
何があっても、永遠にこの世界で雪勿と共に在りたい――
自分の罪もどこかに忘れて。




