23.蔵の中での戦い
僅かに開かれていた蔵の扉の隙間から、朝の陽の光が入ってくる。紫蒼と隠し部屋を見つけたのが日付の変わる前の時間だったはずだから、雪勿は六時間ほど眠っていたことになる。
そろそろ紫蒼を探しに行こうとソファから立ち上がった時、そのすぐ横を猛スピードでかけていく影に雪勿は短く悲鳴をあげた。その拍子に黒蝶が蓮の髪飾りから離れ、雪勿にも気づかれぬまま蔵を出ていってしまった。
よろめく体を立て直し、影が飛んでいったほうをじっと見据えるが、既に姿を眩ませたあとだった。
本棚が朝日の届かない場所で鎮座している。
「……っ…」
空中を走る影に悪霊の姿を重ねた雪勿は、緊張と不安で息を呑む。指先からさぁっと血の気が引いていくのを感じる。
胸の前で握りしめていた髪飾りを音を鳴らさないよう慎重に髪に留めた時、手のひらに汗が滲んでいることが分かった。
本棚の奥から目を逸らさずに、雪勿は静かに一歩を踏み出した。
抑えているつもりでも、コツコツという革靴の底が床を打つ音がいやに耳を刺激する中、及び腰で進んでいく。
本棚は壁に打ち付けられたものに加え、蔵を縦に二つに分断するように置かれたものもある。影が身を隠しているとしたら、その裏だろうと思われた。雪勿が今まで眠っていたソファからは死角となる場所だ。
「や、やっぱり紫蒼を先に探したほうがいいかな…」
本棚に背を預け必死に思考を巡らす。
けれど頭の中がまとまるより先に、影が沈黙を破った。
「!!」
鈴の音が雪勿の背後で響く。
続いて何かを引っ掻くような音が数度。
「……」
再び沈黙が流れる。
「…どうしよう………」
雪勿はそっと本棚の裏を覗きこんでみる。影らしき姿は見当たらない……と安堵するもつかの間、本棚の上に座す黒いものを視界の端に捉えた。
「ぁ……!」
声を出す間もなく襲いかかる影。
雪勿は間一髪それをかわすも、盛大に尻餅をついた。
「っ」
影は暗闇に溶け込んで輪郭がはっきりしない。尻をさすりながら目を凝らした雪勿の頬を、鋭い爪が掠めていった。
「いや……っ…!」
雪勿は恐怖に震える足に鞭を打って、転がるように駆け出した。
頬を温かなものが流れ落ちる。涙ではない。影につけられた傷から血が滴っているのだ。けれど今にも雪勿の両の目からは涙がこぼれそうだった。
楽しくて、嬉しくて、雪勿は油断していた自分自身にここまで追い込まれてやっと気が付く。もう何日も悪夢を見ないから、そばにいつも彼がいて守ってくれていたから、気が緩んでいたのかもしれない。
「自分ひとりで舞い上がって馬鹿みたい。まだ何も解決していないのに…!」
見えてきた扉に伸ばした手は、雪勿の眼下に回り込んだ影によって簡単に払われた。影はさらに雪勿の足を掬う。
「わ…」
雪勿は床に思い切り背中を打ち付けた。影が彼女の上に音もなく降り立つ。
昇りかけの陽の光を邪魔するものは何も無い。雪勿は容易に胸の上に乗る影の正体を視認出来た。
「…………」
人ではない獣耳、長細い尾、全身を覆う白い短毛。
「………ね、こ…」
朝日を背に雪勿を見下ろしているのは、白い猫だった。猫は雪勿の声に応えるようににゃあと短く鳴いた。その瞬間雪勿の体の力がどっと抜けた。
「猫って……えぇ…」
雪勿の中にくつくつと笑いがこみ上げる。つい先程まであんなに怖い思いをしたのに、その原因がよりにもよって猫とは。怒る気力も出ず、雪勿はただ可笑しくなって声を上げて笑った。
猫が再び短く鳴く。
「あぁごめんね。必死にあなたから逃げていたって思ったら、可笑しくて…ふふ……あはははっ」
涙を拭く雪勿は、頬の上を走る痛みに一瞬顔を歪めた。そういえば切れていたのだったと思い出して、体を起こす雪勿。
「この傷、あなたに付けられたんだよ。結構痛いんだけど」
猫の首には黄金色の鈴のついた首輪が巻かれている。
「あなたのお家は?どこから来たの?」
つんとすました猫は何も答えない。首輪に連絡先でも書いてあるかと思いついて首輪に手を伸ばすと、猫はしなやかに雪勿の上から降り、雪勿を一瞥してからまた蔵の奥に消えていく。
「あっ、待って!」
本棚を荒らされたら困る。雪勿は猫を追いかけた。
追っているうちに、猫と雪勿は蔵の外に出ていった。




