17.好きなものは
「忘れてください」
「ごめんね。気分を害してしまったのなら謝る…」
「違います!違うんですそういう事じゃなくて」
その、だから…と雪勿は言葉を探す。紫蒼に伝えるべき言葉、それに相応しい棘のないものを選んで…。
「慣れてないから、は、ずかしい…です…」
雪勿は言いながら、ああ、今の自分の顔は紫蒼からしたらさぞかし見物だろうと思った。羞恥で耳まで熱い。恥ずかしいという言葉を口にするだけで、それこそ恥ずかしい。ソファの上を転がる雪勿は、そのまま逃げるように紫蒼から顔を逸らした。
「でも、嫌…とかじゃ…」
「本当に?」
「ほ、本当です。こんな誰が見てもおかしいと思うこの髪のこと…好きだと言ってくれる貴方のその言葉を、嬉しく思わないはずが…」
「よかった」
不意に、こめかみの辺りに何かが触れたような気がした。紫蒼がまた髪に触れているのかと思い、雪勿はそのまま目を閉じた。
「雪勿」
ふと紫蒼の声がとても近くで聞こえて、雪勿は不思議に感じながら首を動かした。
「ありがとう」
「…は…い…」
距離が近過ぎる気がするんですけど、と言いたかった雪勿は、言いたかったがしかしその機を逃した。目の前で微笑む紫蒼の顔に驚いて、言葉が引っ込んでしまった。
きっとこの先、何度でもこの秀麗な面差しに見惚れては圧倒され、何も考えられなくなってしまうのだろう。まるで夢に描く理想の貴公子そのものだ。
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紫蒼は雪勿に覆いかぶさっていた体を起こし、言った。
「無自覚とはいえ、貴女を少しからかい過ぎてしまったかな」
「…い、いえ」
惚ける雪勿から視線を外し、紫蒼は手に持つ本の表紙を指でなぞる。
「お詫びをしよう。何か…」
すると今度は顎に指をあて、なにやら思案する仕草をしてからそうだと顔を上げた。
「雪勿の質問にひとつ、俺が答えるっていうのはどう?」
「えっ、いいんですか!?」
紫蒼に聞きたいことは山ほどある。一つに絞れと言うのは少々難しいことだが、なにせ当人である紫蒼からの提案。もう二度とない機会かもしれない。雪勿はこみ上げる興奮を押し殺して、真剣に考える素振りを見せた。
姓名、趣味、年齢、どこに住んでいるのか、手のひらから出すその黒蝶のこと、いつから幽霊を祓うようになったのか、どうして祓い人の仕事をしているのか……考えれば考えるほど、それは湯水の如く溢れ出てくる。
「聞きたいことは決まった?」
「あ…はい。あの、紫蒼っ」
はいと返事をする紫蒼の表情は、いつも通りの穏やかさだった。半月はもう窓枠から退場している。紫蒼が放った黒蝶が、切れていた電灯の代わりに金色の光を書物庫のあちらこちらに振りまいて飛び回っていた。
「紫蒼の…好きなものが知りたいです」
「俺の?なんでもいいの?」
「はい。食べ物でも色でも…紫蒼が好きだと思うものならなんでも」
「好きなもの、ね……いいよ。当ててみて」
「え。ええぇ?そこは素直に教えてくださいよ…」
「それじゃあつまらないでしょう」
こんなことに面白さを求めないでほしいと雪勿は唇を尖らせる。
「じゃあせめてヒントをください。紫蒼の好きなものなんて見当もつかないから聞いたのに」
「そうだよね。このままでは難しすぎるか。うーん…では一つ目のヒントです」
そう言い放つ紫蒼は、人差し指をたててなんだか楽しそうだった。
「それは俺の近くにあります」
「はいっ!この黒い蝶々!」
「残念」
「普通に飛んでる蝶々も駄目ですか?」
「駄目ですねぇ。不正解です」
蔵の中を自由に飛び舞う光源たちは、蝶が好きな彼の想いを表しているものなのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「ヒント二つ目。それはとても可愛らしいものです」
「可愛いものー?……本」
「本は…可愛いのかな」
「少なくともここにあるのは可愛くないです。すみません。周りに沢山あるのでつい」
しかしこれはかなりの難問だ。紫蒼が今まで何かに執着する姿を見たことがあっただろうか。正直雪勿は黒蝶が外れた時点でお手上げだった。この限られた空間の中で紫蒼の近くにあるものを、手当り次第に挙げていく作戦に移す他ない。
この書物庫にあるものといえば蝶や本の他にも壁一面の本棚、二階へと続く梯子、ソファ、テーブル…だがどれに対しても紫蒼が首を縦に振ることは無かった。
「あ!月はどうですか?紫蒼さっき見てましたし」
「残念。外れ」
「えー。もう何も無いですよ…。いい加減教えてください」
「仕方がない」
でもその前にと紫蒼は、むくれながら起き上がる雪勿の隣に座った。同時に差し出したのは、一冊の分厚い本。表紙には『医学の心得~上級編~』という文字。
「こっちの調査が先かな」
「うげぇ。もう、やっぱり意地悪するんですか」
グチグチと文句言いながら受け取ったハードカバーの本は、ずっしりと重い。本当にこんなものの中に何かがあるというのだろうか。
「全然関係無いところを調べてる気がするのは、わたしだけですかね…」
紫蒼は既に雪勿の隣を離れ、本棚を漁りに奥の方まで行ってしまった。しばらくは戻ってこないだろう。
雪勿は自分の周りに積み上げられた、親のものと思われる医学専門書をジト目で睨みつけ、この終わりの見えない現実から逃避するように天井を仰いだ。
勢いよくソファの背もたれに体を預けた拍子に、中に潜んでいた埃が一気に舞い上がる。うわという呻き声をあげ反射的に立ち上がりそこから退避した瞬間、足元不注意の末雪勿は思い切りローテーブルの分厚い天板の角に脛を打ち付けた。
「いっ!?……たぁ……」
うずくまり、よりによって精神的にも肉体的にもに参っている今にこの仕打ちは酷くはないですかと、恨めしく思いながら顔を上げた雪勿は、そこで目の前の光景に首をかしげた。
「……なんか……」
ローテーブルの形がおかしいと、見た瞬間に感じた。先程までと確実に何かが違う。例えば、そう。四角の形をとる天板の位置が若干ずれているような…。試しに雪勿は天板をずれた方向に回してみた。
カチカチカチとからくり時計のネジが巻かれるような音を発し、それは九十度回ったところで止まった。
「す、すごい…。……お?何か入ってる」
天板の下に隠されるように置かれた、紙の束。左上がホチキスで留められているが、誰かが読んだような形跡は無い。一枚目の紙は白紙で、なんだろうと手に取る雪勿はなんとなくそれを捲ってみた。
「……人体…蘇生…計画…」