16.晴花と松帆
だらしがない身なりの晴花とは正反対の、シワ一つ見当たらないフォーマルスーツを身に纏うこの男。名は安倍松帆。この学校の古典を担当する教員のひとりで、晴花の同期だ。
「相変わらず気に入りませんね。その態度」
「奇遇だなぁ。俺も好きじゃねぇよ、お前のその口調」
嘲るように口角を上げる晴花に対し、松帆はあからさまに眉間にシワを寄せる。
「少しは改めたらどうなのです。会議中も欠伸ばかり…」
「あいつらの話が長すぎるからだろ。ただでさえ寝不足なのに、朝になって急に呼び出しやがって」
「仕方がないでしょう。緊急事態なのです。よもや分かっていないのですか?あれが無くなったとなれば、必然的に…」
「わぁーってるって。あの蔵の鍵が無くなったんだろ?たかが鍵一つじゃねぇか。どうしてそんな大袈裟にうろたえてんだか、逆に聞きたいね」
「まだ発見されていない重要証拠になりうる物が、あの蔵に隠されていることは既に分かっています。その蔵の扉を開ける唯一の鍵が何者かによって盗まれたとなれば、その犯人は我々がまだ見つけられていない証拠品と隠し部屋の場所を探していることになるのです。もしそれらが犯人の手に渡ってしまえば、最悪の場合この世の秩序と、生物の輪廻の輪が乱され人々の混乱は必至。土御門晴花、あなたはそれでもたかが鍵一つと言いきれますか」
「うるせぇなぁもう。説教は勘弁しろ」
ぼりぼりと頭を掻きどこか不真面目さが抜けない晴花の態度は、松帆に大きなため息をつかせた。
「で、どこに行こうとしていたのです」
「はあ?それ聞いてどうすんだよ」
「いいから答えなさい」
「ったく……。帰るんだよ家に。決まってんだろ。なんでそんな事いちいちお前に言わなきゃなんねんだ」
「この状況で…本気ですか、土御門晴花」
「ああ本気さ。え、なに。まさか泊まれとか言わないよね。お断りだぜ、こんな独裁城で一晩過ごすとか」
その瞬間、滑らかな松帆の声色が、ずんと低くドスが効いたようなものへと変化した。
「あなた、今なんと言いました…」
「あ?」
「独裁城…?それはまさかこの学校のことではありませんよね」
「他にどこがあるんだよ」
「訂正しなさい」
「嫌だね。本当のことだろうが。あの女がここを支配し、全ての実権を握ってることはお前でも分かってんだろ。ここに集められたのは皆あの女の駒。俺も例外じゃねぇんだぜ、可笑しいだろ!この俺が!何故十年もこんな気持ちの悪い空間に居なけりゃならない!?全てはあの女が原因だ!あいつがこんなことを考えなければ!」
「黙りなさいっ!」
激昴した松帆に、晴花は怖い怖いと言いながらその顔に嘲笑を浮かべた。
「そういやお前はあの女のお気に入りだったな」
「あの方を貶す事は許しません」
「お前のそういうとこ俺だーいきらい」
晴花は終始皮肉な笑みで、松帆は冷徹な眼差しでお互いを睨めつけた。
先に逸らしたのは、晴花だった。
「んじゃ俺は帰る。こう見えて結構忙しいのよ」
ひらひらと手を振り去っていこうとする晴花の背を、松帆は止めもせずただ心底気に入らないと言いたげに顔を歪めて見つめた。
「私はあなたを認めない。私が必ず、あの方の下にあなたの膝をつかせてやりますよ」
「こんな腐った空間を肯定するなら、お前の目もとうに腐ってんだよ」
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雪勿は何度目かもわからない嘆息をもらした。テーブルの上と足元には、確認し終えた書物が棚に戻されることもなく雑に積み上げられているが、まだ書物庫全体の五分の一も終わっていなかった。
ここに保管されている書はどうやら両親の仕事用の物らしかった。人間の体について書かれたもの、最先端医療の知識本、医療器械の設計図、他にも雪勿が見ても何のことやらさっぱりわからない難しい内容のものがとにかく多い。
開けど開けど悪霊の『あ』の字も見当たらず、もうかれこれ三時間はソファと本棚を行ったり来たりしている。空気澄み渡る夜の九時をまわって、とうとう雪勿の集中力も限界に達しようとしていた。
「紫蒼ぃ。飽きました」
もう無理ですと声を細々に、雪勿はソファに倒れた。
「本当にこの中にあるんですかぁ…?」
「うーん…わからないねぇ」
「もう活字見たくないです…」
ローテーブルを挟んだ向かい側のソファで広辞苑にも負けないくらい分厚い医療用語本を読んでいた紫蒼は、手元から顔を上げるとおもむろに立ち上がり寝そべる雪勿のそばに寄り添う。古ぼけて生地の毛足がごわついたソファの肘掛けに腰を下ろす紫蒼は、いたわるように雪勿の頭に優しく手を置いた。
雪勿がごろんと寝返りを打つと、月明かりと共に紫蒼の紅色を帯びた黒い瞳とぶつかった。
「相変わらず綺麗ですね」
何に対して言っているのかと、紫蒼は軽く首を傾げた。
「紫蒼が、ですよ」
そう言うと、紫蒼は可笑しそうに笑った。
「どうしたの今日は。そんな口説き文句を言うなんて」
「今日だけじゃないです。ずっと思ってます。綺麗な人だって」
「そう。ありがとう。嬉しいよ。でも少し恥ずかしいかな」
「さっきの仕返しですよ」
「俺、何か言った?」
「言ったじゃないですか!」
雪勿は両手で自分の髪を握って、数時間前の紫蒼の言葉を思い出した。それだけでもう雪勿には赤面ものの、正真正銘口説き文句だった、あの言葉だ。
「雪勿の真っ白で塵ほどの穢れも持たない、この髪がとても好きなんだ……って!!」
紫蒼は目を瞬かせた。
「それが…口説き文句になってしまうの?」
「む、無自覚怖い…。普通にしてください」
「普通…」
紫蒼が困ったような顔で見下ろしてくるので、雪勿は彼に自分の普通を求めることをその一瞬で諦めた。
「忘れてください」