11.悲しい顔の訳は……
「努力します」
彼の黒髪の合間からちらりと見えた耳の淵が赤く染まっている。今度ふたりで出かける時は、耳あてを持っていこうと雪勿は思った。
「紫蒼の手、あったかいです」
「うん。雪勿のも、とてもあたたかいよ」
「この道真っ直ぐ行ったら、家まであと少しですよ」
「…そう。雪勿」
「なんですか?」
紫蒼と繋いだ手に力が込められた。
「俺はずっと、雪勿のそばにいるから。何があっても、この手を俺から離すことはしない。俺は貴女の味方で在り続けるよ。約束」
どうしてかその時、雪勿は紫蒼が酷く苦しげな表情をしているように見えた。美しく笑う仮面が彼の本当の表情を隠している、そう思えて仕方がなかった。だから雪勿は言った。
「じゃあ、わたしも」
「ん?」
「わたしも、紫蒼の味方でいたいです。紫蒼みたいにすごい力は無いかもしれないけど、でも隣でこうして、歩いていきたいです。わたしも手を離しません。繋いだままでいます。約束、です」
雪勿が手を握り返すと、紫蒼は込み上げるものを押しこむように口を結んだ。
「うん。ありがとう」
「はい。…あ。あそこです。わたしの家」
雪勿が指差す道の突き当たり、そこだけ異様な和の雰囲気を醸し出している。日本の古城のような門を開いた先には、視界には収まりきらないほど広い日本庭園が広がっていて、雪をかぶった松や桜、その他丸い低木、そして小さな池がそこに見事な銀世界を作り出している。
「雪勿、大丈夫?」
「……なにがですか?」
「……………いや…なんでもないよ」
庭を蛇行するように敷かれた敷石道を進むと、瓦屋根の純和風な屋敷がどんと建っていた。
ここで今更だが両親は家にいるだろうか、もしかしたら仕事で会えないかもしれないことを少しだけ懸念したが、その前に早速問題が起きた。
「あれ」
玄関の戸が開かない。鍵がかけられているようだった。
そして雪勿は、この家の違和感に気が付いた。静かすぎるのだ。家にまるで誰もいない、何も無いような、人の声どころか物音一つ聞こえない敷地。
「おかしいですね。お手伝いさんもいないのかな…今日は何か行事ごとが…」
「雪勿、あの」
「あ、すみません。玄関閉まっていて家に入れないみたいです」
「……そう、みたいだね」
紫蒼は少し考え込むような仕草をした後、鍵は持ってないのかと聞いた。
「絶対誰かいると思っていたので…ごめんなさい。でも大丈夫です。秘密の通路があるので」
まるで悪戯をする前の子供のような笑顔を見せると、雪勿は玄関に背を向け来た道を戻り始めた。
「ちょっと薄暗くて狭いんですけど、我慢してくださいね」
門がある場所まで戻ってくると、雪勿は敷石道を逸れて白い砂利道の上を進み、かと思ったらおもむろに砂利を手で掻き始めた。
「え、ちょっと雪勿。何して…」
「確かこの辺なんですけど…あ、ほら当たりです!」
紫蒼が訝しげに屈んでみると、砂利の下の土を手で払いのけた所から、黒いマンホールのようなものが見えた。だがもちろんこんな所にマンホールがあるわけが無く、それには蓮の花、蓮雀家のシンボルが彫られていた。
「これは…」
「うちの隠し通路ってお父さんが言ってました。こういう時のためのものです」
「いや…多分もっと緊急時に使うものなんじゃ…」
「家に入れない今は十分緊急時です。さぁいざ!開けーごま!」
ふぬぬぬぬ…と雪勿が隠し通路の蓋の窪みに指をかけ引っ張ってみたが、それは一向に動く気配が感じられなかった。しばらく呆然と見守っていた紫蒼も、次第にその口元に笑みを浮かべ始めた。
「あーっ!もう、笑ってないで手伝ってください!玄関が開いてないんだから、ここからじゃないと家に入れないんですよ!」
「はいはい」
紫蒼が代わると言うので、雪勿はその場所を譲る。
「寒さで霜でも張ったかな」
そう言いながら、紫蒼は片膝をついて右手を蓋に伸ばした。するとあんなに固く閉ざされていたはずの重い蓋が、紫蒼が指をかけて引いた瞬間いとも簡単に開いてしまった。
「おや。意外とすんなり」
「……紫蒼って力持ちなんですね。全然そんなふうには見えませんけど」
「酷いな。一応男ですからね。ある程度は」
蓋の下は人ひとり通れるくらいの穴が、ずいぶんと深くまで続いていた。暗くて見通しが悪い。
蓋を適当な場所に退け、穴の中を覗き込んでみると鉄の梯子が見える。これで降りるのかと、紫蒼は内心息を呑んだ。
「…これ少し危なくないかな。暗いし、梯子が凍って滑りそうだ」
「大丈夫ですよ。わたし何度も使ったことあるので心配いりません」
なぜそんなに使う必要があったのか聞きたいところだったが、一切の躊躇いもなく梯子を降りていこうとする雪勿に紫蒼はいささか大袈裟に慌てた。
「あ、ちょっと待って雪勿!やっぱり他の方法を探そう。裏口とかなら鍵を閉め忘れているかもしれないじゃない」
「ええ?今更何言ってるんですか。汚れるの嫌ならそこで待っててください。わたしが家の中に入れば鍵も開けられますし、そうすれば紫蒼は玄関から入れます」
若干呆れ顔の雪勿は繋いでいた紫蒼の手を離し、通路の中に足を入れていく。
「そうじゃなくてね…。あ、あの、雪勿」
「なんですか。……紫蒼?どうしてそんな悲しい顔…」
そこまで言ってから、雪勿は小さくあっと呻いた。
「もしかして手ですか?」
そう言うと紫蒼は小さく頷いた。
細い眉を垂らしじっと見つめる彼の今の顔は、まさしく子犬だと雪勿は吹き出しそうになった。美しく紳士的なこの男の、こんな顔が見られるなんて貴重な瞬間だ。
「そんなこと言ったって、梯子を手を繋ぎながらは降りられませんよ」
「だ、だから他の方法を…」
「問題ありません。これを降りきれば地下道を進むだけなので、そこでは手を繋げます。離れるのなんて一瞬だけですよー。服も気をつけていれば汚れませんよー」
雪勿はここぞとばかりに、紫蒼をからかいながらずんずんと梯子を降りていく。どうやら本当に手を離したことが堪えているようだ。らしくない態度がダダ漏れてしまっている今の紫蒼を、雪勿はもう少しだけ見ていたいと思った。
「雪勿ー」
そんなふうに思われていることは露知らず、紫蒼は段々と見えなくなっていく雪勿の白い髪をただただじっと見下ろしていた。雪勿と分け合っていた左手の温もりを凍てつく冬の空気が容赦なく奪っていく中。
紫蒼はぐるりと辺りを見回し、そしてもう一度雪勿の姿を目に移してから、腹をくくって梯子に足をかける。雪勿に汚れ事が苦手な情けない男だとは思われたくなかった。