09.手を繋いで抱きしめて
「……子供じゃないのに」
「何か言った?」
「いいえ。何も言ってません」
そう、と紫蒼の吐息のような声が背後で聞こえたと思った直後、雪勿の体が後ろに大きく傾いた。
「なんですか…?」
「んー、なんでもない」
後ろからふわりと優しく抱きすくめられる体勢で、雪勿は紫蒼に拘束された。抱擁など、学校の旧生徒会室で何度も交わしていたのだが、自分からするのと不意にされるのではまるで違う。冷静を装ってみても、中身ではなんでもないなんて嘘を言うなという心の叫びも声にできないほど動揺していた雪勿だったが、ふと目についた窓に映る自分たちの姿にハッと我に帰った。
いけない、公衆の面前で何をやっているんだ自分たちは、と。
「し、紫蒼…!離れてくださいっ!」
「ええっ。今日の貴女はつれない…」
「今日のって…誤解を生むようなこと言わないでくださいよ!」
「抱きしめたことなんて何度もあったじゃない。この空間に知り合いでもいるの?」
「い、いませんけど…」
「じゃあいいじゃない。誰も俺たちには干渉しないだろう?」
「それでもだめなんですー!」
なんだろう、今日の紫蒼はいつもと様子が違う。肌に触れてくることが元々多い人ではあったが、なんというか、いつもよりも子供っぽく見えるように思えた。雪勿は違和感を拭いされないまま、だが紫蒼の夜に咲く花のような儚くも美しい容姿を目の前にはどうすることも出来ずに、ただその身をあずけた。
「眠くはないかい?目的の駅まではまだ時間がある。ゆっくり眠れるよ」
「……じゃあ少しだけ…眠ってもいいですか?」
「もちろん」
「悪霊は…」
「心配ないよ。こう人が多いところにはそうそう現れない」
そうなのかと雪勿が体の力を抜くと、視界が塞がれた。
「不安に思うことは無いよ。俺が貴女を何者からも守るから。安心しておやすみ」
「…はい」
両親に紫蒼のことをなんて説明すれば一番自然だろうか。連絡もぜずにいきなり帰ったら、きっと驚かれる。雪勿は二人のその顔が見たくて、あえて何も言わずにここまで来た。
まぶたを覆う紫蒼の手に自分の手を重ね、雪勿はゆっくりと眠りに落ちていった。
新幹線を降りると、寒さがより一層増して感じた。雲行きが怪しく、駅構内の巨大な液晶テレビの天気予報では、夜から雪となっていた。繋いだ手から伝わる紫蒼の体温が、手袋よりもありがたい。
こっちですと紫蒼の手を引いて、雪勿は街の中心街とは逆の方向へ向かって歩き出した。駅から離れるにつれ喧騒が消えていく。十分も歩けば辺りには雪勿と紫蒼の足音のみが聞こえるような、閑散とした住宅地に出た。
雪勿の低いヒールのブーツが地を叩く音の少し後ろで、紫蒼の革靴の硬い足音が付いてくる。車がめったに通らない広い道路に出ても、それは変わらなかった。
「あの、紫蒼。どうしてずっとわたしの後ろを歩いているんですか」
「え?あ、ああ、そうだね。ごめんね、ちょっとぼうっとしてた」
紫蒼はそう言うと雪勿の隣に並んで歩き出した。手は繋いだままだ。今は何も問題無いが、家に着くまでこの状態では少々面倒なことになりそうだ。
違いますお父さん、わたし達はそういう関係ではありません。彼は友達です。この人ちょっとスキンシップ激しいだけで、恋人とかそういうのでは決して…。
心の中で弁明を暗唱しながら、雪勿はこの手を離したくないという思いを押し殺した。紫蒼の仕事を邪魔しないという約束を破りたくはない。
「雪勿雪勿」
つんと腕を引かれ足を止めると、紫蒼がうどんと書かれたのぼりを指さした。
「お腹空かない?」
「いいですね。温かいのが食べたいです」
新幹線の中ではずっと寝ていたため、思えば朝ご飯から何も食べていない。醤油だしのいい匂いに誘われるように、ふたりはうどん屋ののれんをくぐった。
気前のいい主人は、ふたりを笑顔で出迎えると奥の座敷の席に案内した。メニュー表は見開き1ページの中に全て収まる程度の量で、雪勿は一番上に書かれた煮込みうどんを頼んだ。
「煮込みうどんね。兄ちゃんは?」
「いえ。俺は大丈夫です」
「そうかい」
主人が奥に引っ込んだところで、雪勿は出された茶を一口飲んだ。冷えた体を中から温めてくれる、少し苦い緑茶だった。
「もしかしてわたしが寝てる間に何か食べたんですか?」
紫蒼はうんと頷いた。
「起こしてくれてもよかったのに」
「よく眠っていたから忍びなくて。本当に熟睡してたみたいだったけれど、昨日眠れなかったのかな」
「あ…はい。今日が楽しみすぎて興奮してたせいだと思います。小学生みたいですよね」
はははと乾いた笑みを返しながら、雪勿は子供扱いしてほしくないのに自らの口でそれを言ってしまったことを嘆いた。
しかし仕方が無い。眠れなかったことは事実だったが、その本当の理由を雪勿は紫蒼には言わないほうがいいと思った。悪霊が怖くて眠れないなんてことを彼に伝えれば、きっと心配する。そしてまた後悔するのだろう。本当のことを言わなければよかったと言われることが、雪勿にはによりも怖かった。
「いいじゃない。親に会うことを嬉しく思えるなんて、素敵なことだ。雪勿は本当にご家族を大切に思っているんだね」
「はいっ」
こういう返しをサラリと言ってみせるところは紫蒼の美点だと、雪勿は思った。紫蒼は出会ってからずっと優しい言葉をかけてくれる。上辺だけものではない事がその表情から分かるから、心に響く。紡がれる言葉すらも、雪勿には好ましく思えた。
「紫蒼は少しだけお父さんに似てるんです」
「俺が?」
「はい。お父さんも紫蒼も、人を褒めることがとっても上手なんです。それと人を助けることに躊躇いがないところも似てます」
「人を、助けること…」
「あっ、紫蒼が助けているのは幽霊でしたね。でも幽霊も人間って言ってもいいでしょう?」
「あ、ああ。そうだね」
紫蒼は茶には口をつけず、両手で湯のみを持ったり離したりしていた。
「お父さん本当は医者になりたかったらしいんですけど、血が見れないくらい怖がりだったから諦めたらしいんです。それでも人の命を助けることがしたいって、医療機械を開発する道に進んで、それであれだけ大きな会社にしちゃうんですから、やっぱり凄いって心から思います。お母さんもお父さんのお仕事のお手伝いをしてるんですよ」
「へぇ、お母様も」
「はい。それで一回だけ、家にお客様が来た時があって、その人がれんじゃくの作る医療機器は安心して使えるって言っていたんです。それを聞いた時わたしもふたりみたいに、人に信頼されるお仕事がしたいって思ったんです」
一通り話し終えて顔を上げた雪勿を見つめていたのは、優しく微笑む紫蒼の黒い瞳だった。
「貴女のご両親は素敵な方なんだね」
「あ…ごめんなさい。ひとりで喋っちゃって」
「構わないよ。貴女のことをまた一つ知れたようで嬉しい」
けれど…と紫蒼は俯いた。
「そんな人たちに似ているだなんて、なんだか申し訳ないな」
その言葉を聞いた瞬間、雪勿は身を乗り出していた。
「そんなことないです!」
いきなり響いた大声に驚いた店の主人が、持ってきた煮込みうどんを落としそうになるのを紫蒼は視界の端で捉えた。
「雪勿、ここお店の中」
「あっ…」
すみませんと謝り、主人から注文した品を受け取ると、雪勿はそれに手をつける前に紫蒼に言った。
「紫蒼も同じくらい素敵な人です。あの日悪夢から助けてくれた時から、わたしの中では紫蒼は十分…」
雪勿は目の前に置かれた煮込みうどんに目を落とし、低い声で呟いた。
「わかりません。紫蒼がどうしてそんなに自分を卑下するのか。その理由がわたしには全然わかりません」
それもこれも、理由は分かっていた。紫蒼は自分のことを話したがらない。年齢さえ聞いたところではぐらかされてしまう。紫蒼は嘘を言わないが、何も教えてくれないのはもしかしたら…と一抹の不安が、光が点滅するように雪勿の中に現れては消え、そしてまた現れる。
空腹を徐々に満たしていく温かい煮込みうどんは冷えた体を中から温めてくれた。けれどもそれでは溶かされない氷塊が、まるで心の中にぽつんと存在している様に雪勿には思えた。
「雪勿…?」
段々分からなくなっていく。紫蒼の事も、自分自身のことも。このままではいけないと思った雪勿は、淡々と告げた。
「……紫蒼。ここから家までの道、手を繋ぐの…やめましょうか」