切れ目
最高気温がその年一番を記録した、その日。
サマージャンボ宝くじを求める長い列は、隣の銀行とそのまた隣のコンビニの前まで伸びていた。歩道の半分を埋める客に、通りがかる人や自転車が、やや迷惑そうにすれ違う。人との距離が近付くとなお暑く感じるのは不思議だ。
めいめい、日傘や帽子で身を守りつつ、つらそうな姿ながらも列を抜ける者がいないのは、その先にある対価を夢見ての我慢なのだろう。そう、夢を買うのだ。
それにしても、時間がかかっている。
居心地の悪い中だと、余計に時間がゆっくりと感じるものだ。
どうも、今日は、時間のかかる客が多いようだ。列の前の方ならば、客と店員のやりとりが聞こえるだろう。友達に頼まれた数を忘れてまごついたり、財布がバッグの中で行方不明になっていたり。列の中ほどに来ると聞こえないが…
その、列の中ほどで、ひとりの若者が振り返った。
すぐ後ろに並んでいたのは、同じくらいの年恰好の者。
「すいません。ちょっと、場所、取っといてください」
振り返った若者は言うと、持っていた大きなリュックを自分のいた場所に置き、列を離れて後ろの方に歩き始めてしまった。
言われた方はかなり慌てた様子だったが、それを引き留めることまではしなかった。
すぐに列が前進した。躊躇しながらも、見知らぬ人のリュックを持ち、進んだ。
やがて順番が、次の次で自分の番になるところまで来た。
するとあの人が戻ってきた。
「ありがとう!」
当然のように前に立ち、「これ、お礼ね」
冷たい缶コーヒーを渡すと、くるりと前に向き直った。
待った方は片手に缶コーヒー、もう片手に相手のリュックを持つ形になる。声を掛けられないのか、そのまま佇んでいた。
すぐに、前に立った人の番が来た。財布はリュックではなく、ショートパンツのポケットに入っていたようだ。雑な仕草で金を払い、代わりのようにくじを財布に押し込み、振り返った。
「あれ、それ自分のリュックだよね?」
狙ったようなタイミングで、そう言った。
そんな出会いを経て付き合うようになる事もあるらしい。
宝くじ売り場にほど近いアパートに住むUのところに、Iはその日、次の日とやって来た。
ひとりで暮らすUは、他に約束があるわけでもなく、特に断る理由も意思もなく、まるで操られているかのように、Iを受け入れたのだった。
三日目にIは、
「後輩に奢る約束をしたんだけれど、銀行のカードを忘れちゃって」
と言い、いくらかの金を借りていった。
次の日には、
「カードをなくしたようだ」
その次の次の日は、
「カードは見付かったけれど、バイトの給料が遅れている」
そんな具合で、少しづつ金を借りていった。
次に来たときには、理由も言わずに「金貸して」と言った。
やがて、無言でUの財布を開けるようになった。
その日、IがUの家に来たときはまだ昼間であった。Uは仕事でいない。合鍵で上がり込んだIは、食べ物を漁り、シャワーを浴び、そして眠ってしまった。
気が付いたのは、Uの声が聞こえたからだ。
目を覚ましたのに、辺りが暗い。声のする方を見ると、微かに何かが動くのがわかった。
すると突然、小さな灯りが点いた。青白い光が天井まで届いているかと思うと、それがIに向けられた。眩しくて目を細めると、またUの声がした。
「話があるんだけど」
「それより、電気つけたら?」
「電気は止められたみたい」
「はあ?」
懐中電灯は座卓の真ん中に立てられた。天井が白く丸く照らされる。その灯りで、あまり広くはない部屋の中も、うっすらとものが見えるようになった。
「電気代、Iが持って行っちゃったから」
そんな一言でも、Uの口調はIを責めるふうではない。「お金は渡せない」だとか「持って行かないで」だとか、そんなことは一度も言ったことがないのだ。
「それで、話なんだけど」
ついに来たか、とIは思いつつ、体を起こした。
電気が止まったとなれば、いくら言いなりだったUでも、さすがに考えを変えるだろう、と。
だが続いた言葉は違った。
「Iはお金を持って行くとき、『貸して』って言ったよね」
「まあね。…でも今すぐ返すなんて無理だよ、今日は持ち合わせがない」
いつもないのだが、わざと慌てたように言ってみる。
「わかってる。だから借りていくんでしょう。すぐには返さなくてもいいよ」
「え。いいの?」
Iは拍子抜けして訊き返した。
Uは頷いた。
「その代わりに、頼みがあるんだ」
「何? 何?」
「指をひとつ、預からせてもらいたいんだけど」
調子よく訊ねたIは、一瞬、Uの言葉を聞き違えたかと思った。
だがUは言葉を止めない。
「勿論、お金を返したら指も返すよ。それまでちゃんと冷凍保存しておくからさ」
「いや、無理でしょそんなの」
「あれ、知らないの? 今は指を切り取ったって、冷凍しておけばいつでも付け直せるんだよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。もう何年も前からできるんだよ。ネットとかテレビのニュースでずいぶん騒がれたんだけど…ほんとに知らないの? ニュースとかIは興味ないかー。でもこんな事、子供だって知ってると思うけどなー」
「あ、ああ、そういえばそんなことがあった…かな」
「でしょ。今時常識だもん。痛みの少ない切り方、ネットで調べたから任せて」
「え。そんなのあるの?」
「そりゃそうでしょ。みんな、痛いのはやだもん」
言いながら、Uは何かを座卓に置いた。ゴトリ、と重い音。
「いままで貸した分、7万3千円。薬指一本でいいよ」
「5万だよ」
「一昨日の昼間に持って行った分も入れて、7万3千円。相場では薬指レベルだって、ネットでは書いてあった」
そう言った後、Uは言い加えた。「でもIだからな。3~5万の、小指にしといてあげる。鎮痛剤を先に飲むのもいいって」
座卓には、いつの間にかグラスと錠剤が置かれている。
「さあ、飲んで」
「い、今?」
「終わったらご飯に行こう。Iの好きなもの奢るよ」
言いながらUは、座卓の上のものを手に取る。また重い音がした。
「怖いかな? Iって意外と…気がちいさ…」
「怖くないよ、こんなの」
Iはぞんざいに、薬の包みを開けた。
作業のために懐中電灯を隅に追いやったため、血がどれぐらい出たのか、Iにはわからなかった。
痛みは思ったより感じなかった。鎮痛剤を飲んだからということもあるだろうが、切り落とす場面が暗くてよく見えなかったのも幸いした気が、Iにはした。
小指のなくなった左手は、手首から先を包帯で巻かれた。不自由だが、数日で包帯は取れるとUは言っていた。
その夜は、いつにも増してIの機嫌も、金払いもよかった。
とはいえ、Uとはそろそろ潮時だろう、とIは考えていた。
そこで、思い切って、Uから10万円を借りることにした。
10万円がどの指に相当するのか知らなかったが、ひとまず切り取らせておいて、あとでこっそり取り戻して病院に行けばいい。それでおしまいにしよう、というのがIの考えだった。
そんな心中は全く見せず、IはUから10万円を借りた。
Uはなんの疑いもない様子で、差し出された右手に紙幣を載せ、左手の中指に刃物を当てた。
翌日。Uのいない平日の昼下がり、IはUの家に行った。
いつものように、簡素なUの住まいに上がり込む。
Uは、自身の見た目にも、部屋にも、金を掛けている様子はなかった。それでもIの要求のまま、現金は出てきた。だからIはここに通った。
だがそれも今日で終わり。
Iは冷蔵庫の冷凍室を開けた。
そこには、Iの指二本どころか、何もなかった。
それに、冷気が全く感じられない。
「電気が止められた」
数日前の、Uの言葉が脳裏に甦った。慌てて他の扉を開けるが、全て、空。
指はどこに行ったんだ。
辺りを見回した。
何かおかしい。
よく見ると、食器棚に何もない。Uがひとり暮らしとはいえ、幾つか食器類は入っていたはず…Iはシンクの戸棚を開けた。やはり何もない。
クローゼットや引き出し、靴入れを見ても、同じだった。カーテンもなくなっていた。
…Uの方が、先に姿を消したのだ。
指。
指は。
Iは茫然となった。
じきに、Iは気付くだろう。
Uの目的は、Iの指だったことを。17万3千円で、指二本を売ったようなものだということを。
キッチンの隅に置かれた空の瓶に『ホルマリン』というラベルがついていることを。
それに、冷凍した指があっても、今の医学では元には戻せないことを。
その日は、サマージャンボの抽選日だった。
おわり
読んで頂きありがとうございました。