表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

古い写真。

 例えば写真を見たとき。しかも、それがずっと遠いところだったり、時代を超えるほど過去のものだったり、まず実際に見ることができないものの場合。僕はそれに憧れのような、妙な現実感というか、実在感のような感覚を抱く。多くの人も多分、そうだろう。

 そうした「なにか」を表現する為に筆をとれば画家に。ペンをとれば小説家に。それまでに積み重ねた印象を、感情を、生み出した幻想を世界へ表現していくものだと、僕は思っている。


 そしてそんな想いこそが、幻想を描き出す原動力になるのだろう。

 それは多分、才能だ。




 秋から冬に移り変わる時期。夏に育まれた緑が赤く染まり、枯れ落ちていく季節。雨の賑やかさが遠ざかり、静寂の乾きが一日ごとに夜を染める季節。蒸した暑さが、乾いた寒さへと移り変わる季節。

「……あぁ」

 山中の温泉旅館。いかにも長い歴史を感じさせる木造建築であり、客室は多くないものの、それぞれの客室から各部屋専用の温泉浴場までの直通廊下があることでちょっと有名だ。豊富な湧出量のために掛け流し温泉を24時間いつでも楽しむ事ができるし、誰にも邪魔されない環境というのは効率化が進んだ昨今の社会では、それだけで貴重なものだ。

 そのひとつ。温泉直通廊下の壁に掛けられた写真を前に、ため息をつく男性がいた。やや痩せており、身長は平均程度か。生真面目そうな黒髪は短めに揃えられ、特別美形ではないが整った顔立ちである。服装は下をジーンズ、上はシャツに青いチェック模様のパーカーを重ねている。湯上りだろうか。やや寒そうな格好にも関わらず、廊下のひやりとした空気を気にかけていないようだ。

 それよりもむしろ、彼の目と意識は壁に掛かった写真に集中していた。魂を抜き取られたかのように、額に収められた白黒の旅館とその周囲の風景を見つめている。


 旅館がある。今のそれより随分小さい。

 森がある。駐車場にあたる場所には、今も残る一本松が堂々とたたずんでいる。周囲はまだ砂利道で、まるっこい古い車が1台止まっている。

 少し下ったところには小さな公園がある。鉄棒に、ブランコ。すべり台。子供が3人遊び、保護者と思しき姿も2人分見える。


――風が吹き抜ける。

 旅館から、森を見下ろす。初夏のにおいだ。一本松のところにブンブンと音を立てながら外国の車がゆっくり入ってきて、砂利広場の隅に駐車した。

 一本松広場の先から森の木々を隔てて、子供たちの楽しそうな声が聞こえた。あそこには確か公園があったはずだ。木造のこぢんまりした旅館にはもったいないくらいしっかりしたすべり台とブランコがあるのだが、おそらく旅館の主が奮発したんだろう。子供にも親にも好評そうだ。

 こんな良い日には、散歩でもしてみよう。あの車も気になるし……おそらく、新しいものだろう――


「ちょっと?」

 呆けたように写真を眺める彼に、訝しげに声を掛ける女性がいる。身長は彼の肩より少し高い程度で、やや長い黒髪を後ろでひとつに結んでいる。色白で涼やかな目元。彼と比べるなら、彼女は明らかに美形のたぐいである。白地に青で模様が描かれた浴衣に身を包み、風呂道具を詰めた桶を手にして、やや寒そうに身を縮こまらせていた。

「……」

 彼は何も言わず、ぼんやりと彼女を見る。今のその姿と、写真から引き出した古い景色とを同時に見るような、あいまいな視線だ。

「……どうしたの? おいっ」

 苦笑をにじませながら、彼女は人差し指と中指とをそろえて軽く握り、彼の肩をつつく。つん、と押され、彼はようやく現実へと焦点をあわせる。

「いや…別に。昔って、こんなんだったんかな、って」

 彼は壁の額縁へ視線を流しながら言う。額の下には撮影日時が書かれており、およそ70年前のものであることがわかる。

「どんなん?」

 彼女は桶を抱くように両手を組み、彼に問いかける。彼は時に、こういった写真や絵、文章などで想像力が強く掻き立てられるということを、彼女は知っていた。

「いや、うーん……におい、っていうか。空気、っていうか。感情、っていうか」

 歯切れの悪い言葉をいくつか零し、やがて彼は黙ってしまった。いつものことである。

「……そっか。ま、とりあえず私は温泉入ってくるね。どうだった?温泉は」

「ぅあ、おん。ちょっと熱いけど良かったよ。眺めもいいし」

 打ち切りの言葉に、彼は感想を述べる。それからいくつか無難なやりとりをして、浴場へ向かう彼女を見送った。


 二人は交際しているわけでも、特殊な関係でもない。ただ創作という共通の趣味を持つ仲間であり、気があった友人であり、たまたまそれが男女だっただけ、とでも言えそうなやや奇妙な間柄であり、この温泉旅行も彼女が提案したものだ。もはや同性の友人のように、お互いを扱ってすらいる。


(……まただ。やっぱり、書けない)

 客室に戻った彼は持ち込んだラップトップPCをテーブルに広げ、小説執筆用のソフトを立ち上げたものの、先ほど写真を見て感じたものを、どうしても文章に打ち込むことができない。明確に風を、空気のにおいを、子供たちの声を感じたのに、それをかたちにすることができない。表現ができない。どんな一文字をも、打ち込むことができずにいた。

(「どんなん?」)

 彼の感じたものを尋ねるとき、彼女はいつもそう言う。そしてまっすぐな瞳で、その風景を、空間を、見通そうとするように見つめてくる。それは彼女なりに理解しようという意思の現れのように感じていたし、事実その通りである。誰よりもありがたく、同時に苦痛であった。


 彼は、己が感じたものを何一つ生み出せずにいたからだ。


「ああ、くそっ」

 絵の練習をしたこともある。半年やって一向に進歩が見られなかった。自分なりの描き方を理解できなかったのである。ひどく恥ずかしく惨めな気持ちばかりが先行してしまい、それきり描いていない。

 文は、書けるものと書けないものとがあり、前者はひどく難産で、後者は今のような状態だ。こちらは続けているものの、今温泉を堪能しているであろう良き友人をはじめ、どうしても周囲に気を遣わせてしまっているという自覚がある。

「……やっぱり無いよ、センスなんて」

 一人ごちて、やっと少し書きかけた文をすべて消してしまう。まるで、自分の感性を殺すかのように。そうこうするうち、写真から得たものは鮮度を失い、色を失い、輪郭さえぼやけ、やがて後付けの幻影めいたものへと変わってしまっていた。

「ハァ……」

 彼女の瞳の色を思い出す。あの瞳にいつか答えることができるのだろうか――ふとそんなことを考えて。

「……できるわけ、無いよな」

 彼は無感情に小さく呟き、畳に背中から寝転んだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ