第6話 ある日、マレロの森の中(後編)
「ヴェスタさん、もうすぐです!」
「ああ、魔物の気配がここまで感じ取れる! けど、どうしてそんな奴がマレロの森に……」
記憶ではここには20レベル程度のモンスターしか居なかった筈だ。一応配置されていた中ボスのような敵も精々40に届かない程度。
しかし、“ヘイル”の経験からすると、この気配は60レベルはある。
ヴェスタさんの反応からしても、それほど強力な魔物は今までも居なかった様だ。
そして数瞬の後、視界が開けると同時に飛び込んできた光景。
そこには血塗れで伏せるラキさんと、それを庇う様に前に立つキイ。そしてキイの目の前には、黒い毛皮に覆われ、額から小さな角が生えた熊型の魔獣が居た。
それはこの森に生息している筈のないアウトベアという魔獣だった。
アウトベアの多くは群れを作らない。子を作る時以外は大抵一匹で行動し、深く瘴気の濃い森に好んで住む、と“ヘイル”の記憶にあった。
確かに目の前のアウトベアは一匹だが、“キングダム”でアウトベアを見かけたのはもっと西の森だった。
どうしてこんな所へという疑問は残るが、今はそれを調べる術も時間も無い。
「ラキ、キイ!」
「――お父さん!」
「待ってろキイ! ……くそッ! おいそこの魔獣、てめえの相手は俺だ!」
ラキさんの姿を見たヴェスタさんは、アウトベアに向かって駆け出そうとするが、とっさに肩を掴む。
「待って下さい! 相手は凡そ60レベルはあります! ヴェスタさんじゃ勝ち目がありません!」
「ッ!」
4倍のレベル差がある相手では分が悪すぎる。何も出来ずに終わるだろう。
「……じゃあ、じゃあどうしろってんだ!」
この状況、どちらかが囮になって気を引くしかない。
今すぐ倒す事も出来るが――――今はまだ、力を知られたくない。
しかし囮を任せるには、ヴェスタさんは確実に焦りすぎている。目の前でラキさんが倒れているせいだ。
気持ちは分かるが、これではとても任せられない。
「仕方ありません、俺が囮になります。その間に二人をさっきの場所へ」
「ッ! だがそれは……」
ヴェスタさんは渋る。恐らく出会ったばかりの俺を囮にするのに引け目を感じだのだろう。
アウトベアはこちらの出現に気を取られて止まっているが、何時までも待ってはくれない。
「早く! ラキさんを助けたいんでしょうが!」
「……すまん!」
同時に駆け出す。ヴェスタさんは二人の近くへ、俺はアウトベアの横へ。
アウトベアは近くに寄ってきた方が危険だと判断したようだ。
こちら側へ体を捻ると同時に、その遠心力を利用して右腕を振り抜く。
それは酷く緩慢な動きに見えた。
こちらのAGIがアウトベアを上回っているのもあるが、何より“ヘイル”の経験がこの体にはあった。
「らぁぁああ!」
難なくその攻撃を避けると、外したせいで一瞬硬直したアウトベアの顔面を蹴り上げる。
多少加減したが、こちらに気を向かせるのには成功したようだ。
「ガァァアアア!」
先ほどの蹴りで怒り狂ったアウトベアは、もはやキイ達の事など眼中にも無い様子だった。
単独行動を好む事からも、アウトベアがプライドの高い種族だと言うことが窺える。
一度蹴っただけで容易く挑発に乗ってくれた。
大変そうに見える様にアウトベアの攻撃を去なしながら、チラリとヴェスタさんを見る。
丁度、キイと一緒にラキさんの腕を肩に回して運ぼうとしている所だった。
「ヴェスタさん! 置いてきた荷物にポーションが入っています! 使ってください!」
もしもの時を考えて事前にアイテム欄から取り出して、荷物に入れておいたのだ。
「……ありがとう!」
ヴェスタさんは一度だけこちらを向いてそう言うと、ラキさんを運ぶ。
キイは泣きそうな顔をしながら、何度もこちらを見ている。
そして彼女は、一瞬だけ足を止めた。
「死なないで……!」
そうとだけ言うと、それからは一度もこちらを振り返らなかった。
泣きそうな顔をしていたのはラキさんが心配だからだろう。
しかしそんな中でも、キイは確かに“友達”の事をも心配してくれていた。
違うなら、恐らくわざわざ足を止めてまで声を掛けてはくれなかっただろう。
「あーもう。後ろめたいなあ……」
もし力を隠したりしていなければ今すぐにこの魔獣を倒して、わざわざ運ばなくても魔法で回復させる事も出来た。
ラキさんは気絶こそすれ、致命傷ではなかった。放っておけば危ないかも知れないが、ポーションを飲んで安静にすれば一日で治るだろう。
だけど、確かに俺には今すぐに救う力があった。
その事実が心に小さな影を落とす。
「ごめんなあ……」
その謝罪はきっと、あの優しい家族に対してだった。
決して自分の心の弱さに対してではないと、そう自分に言い聞かせた。
アウトベアの攻撃は止まない。
右腕を振れば、体を後ろに反らして避ける。そこに噛み付こうとするアウトベアの顔面を足の裏で蹴って、空中で一回転して距離を取る。
こちらが着地した隙に、諦めずに飛びかかってくるアウトベア。
しかしやはり遅い。隙が出来ても、回避するには十分な時間があった。
飛びかかりを避けた際、アウトベアには仕留めれるだけの隙があったが、敢えて距離を取る。
アウトベアも多少冷静になったようだ。流石にこちらの力を理解したらしい。
3メートル程の距離を置いて、お互いに睨み合う。
「そろそろかな……」
戦い始めて約五分ほど経った。
もう戦闘音が聞こえない位には離れただろうか。
実はヴェスタさん達とは逆の方向に誘導しながら戦っていたので、今は結構な距離がある筈だ。
ここなら大丈夫そうだ。
そう思い、“戒めの指輪”を右手の中指から外す。
瞬間、膨大な魔力が体の回りに吹き荒れる。
急に捻った蛇口の水の様に、抑えつけられられていた分が溢れ出しているのだろう。
表情の無い筈のアウトベアに、目に見える程の恐怖が浮かぶ。
視界が蜃気楼の様に揺らぎ、歪む。
発している自分でさえ感じる程の威圧感。
「まあなんだ、熊。なんでここに居るかは知らないが、お前も腹は減るよな。だから襲ったんだよな……」
アウトベアには言葉は理解出来ない。
分かってはいるが、言わずには居られなかった。
「けど、襲った相手が悪かったなあ。……選りに選って俺の“恩人”で――――こっちで初めての“友達”を襲った」
俺は、キレていた。
元の世界でも喧嘩なんかした事は無かったのに。
ラキさんを傷付けた事は許せないが、ここまで激昂しているのは何故だろう。
「――我は風の化身。天を操り、空を支配する者」
魔法詠唱。
“キングダム”ではスキル欄から魔法を使用していた。
しかしウィンドウにはスキル欄は無い。
だから“ヘイル”の記憶から魔法行使に必要な詠唱文を探し当てた。
目の前のアウトベアは動かない。
「風は嵐となって世界を咲う。無力な子羊共が嘆き、倒れ、その亡骸が朽ち果てるまで。大地が泣き、叫び、赦しを乞うまで」
“アンリヴァル”は左手の中指に着いていた。
しかし、“キャリバーン”は壊れてしまったらしい。
記憶の最後、魔王が死んで城が消滅する瞬間。“キャリバーン”は主人である“ヘイル”を守った。
その身を犠牲にして“ヘイル”を異次元に転移させた様だ。
その記憶が“アンリヴァル”から流れ込んでくる。
今まで力を使わなかったせいで、“アンリヴァル”も深い眠りにいたらしい。
アイテム欄に“キャリバーン”が無かったのはそのせいかと納得する。
“溢れ出していただけの”魔力とは比べ物にならない程の魔力の奔流。
徒でさえ“溢れ出していただけの”魔力に怯えていたアウトベアは、もはや抵抗する気力さえ失っている様に見えた。
「笑え、咲え、力を振るえ。嵐は暴力の権化。力無くば跪け! 力有らば総てを跪かせろ!」
絶対的強者。
レベル概念のあるこの世界において、俺はその立場に居た。
魔法においてのINT――知力とはつまり、魔法に対する理解度。
INTが高ければ高いほど魔法に対する理解は深くなり、それに比例して魔法の威力と詠唱速度は上昇する。
一般的な魔法使いで100程度。日頃から鍛錬を怠らず、研究を重ねた熟練の魔法使いで400程度。
それが1020。さらに“アンリヴァル”の効果でさらに半分の詠唱時間。
アウトベアは見るのも悲しくなる程に怯えていた。
しかし許す事はしない。
「――――『王の轟嵐』」
それは風系統の上級魔法。
手を前に翳すと、吹き荒び周囲を駆け廻っていた無秩序な風の激流が、アウトベアを中心に収束し襲い掛かる。
風は無数の刃と成ってその身体を無情に切り刻み、確実に命を削り取っていく。
抵抗は意味を成さない。包まれたが最後、その者の生存は絶望的になる。
抗うことの許されない程の圧倒的な攻撃速度を誇るその魔法は、瞬く間にアウトベアの体中に新たな傷を刻み続けていた。
気づけば、アウトベアは既に息絶えていた。
翳していた手を翻し、風に乗せたアウトベアを後方へ飛ばす。ヴェスタさん達がいる方向とは真逆へ。
飛ばされたアウトベアは矢のように、そして音より速く、遥か彼方へと消えていった。
「ふう……。いきなり上級魔法使ったせいか疲れたな……」
額を拭うと、そこには僅かだが汗が浮かんでいた。
体内に感じる魔力量は今使った上級魔法の100倍近くはある。
ならこの汗は、まだ自分が“ヘイル”の体に馴染んでいない証拠だろうか。
一度深呼吸をする。
周りを見渡せば、隕石でも降ったのかと思う程に荒れ果てていた。
近くに生えていた樫の木々は、根から葉まで跡形も無いくらいバラバラにされていた。20メートルほど離れた場所でようやく生き残った木が確認出来る。
一カ所集中型の魔法でこれなのだから、他の上級魔法の威力を想像すると恐ろしい。
「力を隠すのは正解か……」
一歩間違えれば、自分が守りたい人でさえ殺しかねないほどの力だ。
今回はどうしても全力でアウトベアを叩きのめしたかったが、これからは自重しなくてはならない。
「ラキさんは大丈夫かな……」
右手の中指に再び“戒めの指輪”を嵌める。
ポーションさえ飲めば大丈夫だとは思うが、万が一という場合もある。
俺も早く向かった方が良いだろう。
ぐっと足に力を込めて、地面を強く蹴る。
『探査』で最大周囲3キロ程度は完全に把握出来る。三人の位置も方角だけは割り出せた。
出せる全速力で木々の間を疾走する。
初めての戦闘は、爽快感とはかけ離れた物だった。