笑わない妻を笑わせたくて、夫が五年間すべり続けています。(妻は毎日、心の中で爆笑しています)
夫が、また、すべった。
夕食の席だった。向かいに座るアルトハイム公爵ロイは、真剣な顔でナプキンを折っていた。白鳥を作るつもりらしい。長い首をすっと立てる。その瞬間、首がぽきりと折れた。白鳥は力なく傾いて、私のスープの皿に頭から落ちた。
誰も何も言わなかった。壁際の侍女たちが、揃って天井を見た。
ロイが私の口元を見ている。五年間、この人が見るのはいつも口元だけだ。
「……お上手です」
私が言うと、ロイの肩が音もなく落ちた。
(白鳥が、スープに、頭を垂れた)
(やめて。礼儀正しすぎる。いま私の皿の中で、白鳥が謝っている)
(日記の第47日の白鳥も、こうだった。五年経っても首が折れる。一貫している。そこだけは信頼できる)
この白鳥は、結婚して四十七日目に初めて挑戦して以来、ロイの宿敵だった。意地になった彼は、年に何度も挑んだ。そして五年間、一度も成功していない。
私は五年間、一度も笑っていない。
生まれつき、顔の筋肉が気持ちについてこない体質なのだ。嬉しくても悲しくても顔は動かないし、笑い声も出ない。涙だけは出る。医者は「病名はありません」と言った。
ただし心の中では、毎日、死ぬほど笑っている。
「失礼します」
私は立ち上がって、お手洗いへ向かった。背中でロイの低い声が聞こえた。
「……また、席を立たれた」
違うんです旦那様。耐えられなかったのは、笑いのほうです。
扉を閉めて、タオルに顔を押し当てた。声の出ない爆笑が、肩から全部逃げていく。鏡を見ると、顔だけは、驚くほど無表情だった。
お手洗いには、洗面台の下に、いつも新しいタオルが三枚用意されている。マーサの仕事だ。三枚で足りない日は、私がひとりで困る。
そして居間に戻ると、ロイが待っている。顔を上げて、私の顔を、また口元から順に確かめる。笑いの痕跡を探しているのだ。見つからない。彼の視線が、がっかりした犬のように下がる。
(その目をやめて。笑ってしまう。さっき逃がしたのに、また戻ってくる)
五年前の見合いの日を、私はよく覚えている。
アルトハイム公爵ロイは、領民と家臣に「氷の公爵」と呼ばれる人だった。背が高くて、目が鋭くて、笑った顔を見た者がいない。そういう人の前で、私は先に言っておくことにした。
「私は笑えません。結婚しても、旦那様を喜ばせる顔ができません。それでもよろしいですか」
断られると思っていた。体質のせいで縁談が流れたのは、それが三度目だった。
ロイは少し黙って、真面目な顔で言った。
「それなら、私が笑わせる」
その場で結婚が決まった。後から聞いたところでは、侍従長が三日寝込んだらしい。
初夜、ロイは寝室の真ん中で直立していた。
「リディア。私は君を笑わせる。必ずだ。これは任務だ」
新婚の夜に、任務と言った。
「よろしくお願いします」
私は真顔で頭を下げた。
(宣言の時点で、もう面白い)
その夜、私は日記帳を開いた。表紙に「業務日誌」と書いた。理由は自分でも分からない。たぶん、この人が任務と言ったからだ。
第1日。夫が任務を宣言した。すでに面白い。
それから毎晩、一行ずつ書いた。最後に必ず「本日のお手洗い 〇回」と添えて。
ロイは、私が毎晩何かを書いているのを知っていた。表紙の「業務日誌」の字も見たはずだ。けれど、中を開いたことは一度もない。私の仕事の不満が書かれていると思っているらしかった。怖くて見られない、と、いつだったか酔った勢いで漏らしていた。
一年目の夏、ロイは庭師に化けた。
「新任のガーデナー、ヒゲです」
そう名乗って庭に現れた夫は、鼻の下に黒々とした付け髭をつけていた。ヒゲです、は名前なのか役職なのか。氷の公爵が、真顔で、薔薇の剪定ばさみを持っている。
「ご苦労様です」と私は言った。
その瞬間、風が吹いた。付け髭がふわりと浮いて、飛んで、薔薇の枝に刺さった。ロイは髭のない顔で、風の行方を見送った。
(薔薇に、髭が、咲いた)
私はお手洗いへ走った。
第211日。薔薇に髭が咲いた。来年は髭咲きの薔薇を庭の名物にしたい。
それから間もない夜のことを、今でも夢に見る。
ロイが居間でうなだれていた。「今日も駄目だったな」と、独り言のように言うのだ。氷の公爵と呼ばれる人が、暖炉の前で、膝を抱えていた。見ていられなくなって、私は思わず口を開いた。
「旦那様は、面白いです」
本当のことだった。本心だった。
ロイは顔を上げて、しばらく私の顔を見た。それから、首を振った。
「気を遣わなくていい。顔に出ていない」
怒りも失望もなかった。ただ、ひどく優しい声だった。その優しさが、胸に刺さった。
(違う。本当です。毎日、死ぬほど面白いんです)
言い返せなかった。顔が動かない妻の「面白い」は、証拠にならない。言葉を重ねるほど、気遣いに聞こえてしまう。
私は説明するのをやめた。そのかわり、日記を書き続けた。証拠のつもりで。
見せようと思った夜も、何度もある。けれど、顔の動かない妻が書いた「面白かった」は、同じ理屈で、気遣いの作文になる。この人は優しいから、きっとそう受け取る。だから、見せられなかった。
「奥様」
侍女頭のマーサだけは、気づいていた。私が髭の夜にお手洗いから戻ったとき、小声で言った。
「左の眉が上がっておられます」
「上がっていません」
「0.5ミリ」
マーサは長年の経験で、私の眉の動きが読めるのだ。肩が二度震えたら限界。左眉が上がれば大爆笑。ロイは「笑顔は口に出るもの」と信じて口元ばかり見ているから、眉の0.5ミリには、一生気づかない。
「旦那様に、お伝えしましょうか」
「いいえ」
私は首を振った。信じてもらえなかったら、あの人はもっと傷つく。
マーサは何も言わずに頷いて、それからは、お手洗いに立つ私に「奥様、右です」と合図をくれるようになった。共犯者だった。
ロイはそのたびに、私が席を立つ回数を数えていた。「今夜は二回か。昨日は三回だったな。……退屈の限界は、伸びたのか縮んだのか」。違う。それは、笑いの回数です。毎日、記録更新です。
彼は、私が退屈で席を立つのだと思っていた。退屈なら、次はもっと面白くすればいい。それが彼の、五年間の理屈だった。
二年目の秋、ロイは鳩を出そうとした。
手品だ。帽子から鳩を出す。練習は三週間。ところが本番の夕食会の直前、鳩は帽子から出た勢いで、そのままロイの頭に居座ってしまった。
その夜の客は、領地の税務官だった。
ロイは鳩を頭に乗せたまま、背筋を伸ばして席に着いた。税務官は一言も触れなかった。公爵は鳩を乗せたまま、領地の収支を語った。三時間。税務官は終始、帳簿だけを見ていた。
私は三度、お手洗いへ立った。
三度目のとき、息が「ふっ」と漏れた。笑いが限界を超えたとき、声のかわりに息だけが出ることがある。
「奥様!」
ロイが椅子を倒して駆け寄ってきた。咳だと思ったのだ。鳩を頭に乗せたまま、医者が呼ばれた。
「ただの、お咳です」
医者は鳩を見ないようにして、そう言った。
第640日。頭に鳩を乗せたまま、領地の収支を語る旦那様。鳩のほうが威厳があった。
あの夜から、領民たちは公爵を「鳩の公爵」と呼ぶようになった。氷の公爵より、ずっと親しみがこもっていた。
三年目の冬、領地でお笑い大会が開かれた。
優勝賞品の発表で、ロイは壇上から力強く言った。
「賞品は、妻の微笑みだ!」
会場が静まり返った。領民はみな、私の体質を知っている。ロイは自分への発破のつもりだったらしい。言ってから、自分の失言に気づいたようだった。
誰も本気で優勝を狙わなくなった。かわりに全員が、競って下手な芸をやり始めた。わざと転ぶ者。歌詞を忘れる者。ひとり、本気で飛び入りした公爵だけが、最下位だった。
結果発表。「優勝者なし」。
領民たちは公爵に向けて、盛大な拍手を送った。
「ひと笑いも取れなかった公爵様に、拍手!」
私は賞品として、壇上の椅子に座らされていた。拍手の中で、ちょっとだけ、うれしかった。
第1,050日。賞品が私だった。ちょっとうれしかった。優勝者なし、は領民のやさしさだった。
四年目の春、ロイは本を読んだ。
『笑いの学理 全三巻』。それを暗記して、夜通し講義をしてくれた。「間」の理論というものがあるらしい。笑いは、間で決まる。ロイはそれを実践するために、食卓で三分間、黙った。
三分間。
蝋燭の炎が揺れる音だけがした。侍従たちが、息を殺して立っていた。書記官のハンスが耐えられなくなって、ごほん、と咳払いをした。
その咳払いが、静けさの中で、完璧に響いた。
私はお手洗いへ駆け込んで、二日間、思い出して笑った。翌日も、その翌日も、あの咳払いが頭の中で鳴った。ハンスは何も知らず、廊下で私に深々と頭を下げた。「先日は、失礼いたしました」。やめてください。また思い出します。
第1,200日。三分間の沈黙そのものが面白かった。ハンスの咳払いが完璧だった。
その秋、ロイは熱を出した。
四日間、高熱で寝込んだ。うわごとで、全部の芸を呟いた。「鳩が……ナプキンが……ヒゲ……」。額の汗を拭いながら、私はふと気づいた。
笑いが、出ない。
いつもなら、心の中で爆笑している場面だった。でも、その夜は笑えなかった。ただ怖かった。この人がいなくなったら、どうしよう、と。
徹夜で看病した。熱が下がって、ロイが寝息を立て始めたあと、私は隣の部屋に移って、ひとりで泣いた。顔は動かないまま、涙だけが止まらなかった。
翌朝、日記に書いた。
第1,370日。今日は、笑いより先に、心配した。そういうことなのだと思う。
私は、この人が好きなのだ。
そう気づいてからは、毎日が、もっと面白くなった。同時に、少し怖くなった。
五年目の冬が来た。
その冬、ロイの様子が変わった。
前任の書記官が引退して、新しくハンスが夕食後の報告に同席するようになった。ハンスは正直で、悪気のない人だった。ある夜、ロイへの報告のついでに、何気なく言ったのだ。
「恐れながら。奥様は、芸のたびに席を立たれます。お辛いのでは」
その場にいた私は、聞こえないふりをした。
ロイは持っていた書類を、そっと机に置いた。
「……そうか」
それだけ言って、書斎へ引きこもった。
退屈ではなく、辛いのだとしたら。話は変わってしまう。五年間、妻を追いつめていたのは、自分のほうだったのか。閉じた扉の向こうで、ロイがそう考えているのが、分かるような気がした。
翌日から、芸が減った。
「任務」という言葉を、ロイは使わなくなった。夕食の席も静かになった。スープを飲む音だけがして、私の「お手洗い」の回数も、ゼロになった。笑うことが何もなかったからだ。
痩せた。口数が減った。氷の公爵に戻ったようだった。夕食のたびに、私を見ては、目をそらした。マーサが、廊下で私の袖を引いた。
「奥様。今こそ、お伝えしましょう」
「信じてもらえません」
「それでも」
私は答えられなかった。もし言ってしまったら、あの人はそれを、最後の気遣いだと受け取るかもしれない。最後の優しさだと。
(違うんです)
(拷問じゃないんです)
(ご褒美なんです。毎日、人生で一番、楽しいんです)
どれも言えなかった。言葉はまた、気遣いに聞こえるだろう。
三週間が過ぎたある夜、書斎の灯りが遅くまで消えなかった。
扉が少し開いていた。隙間から、中が見えた。
床一面に、折れた白鳥が積み重なっていた。ロイは机に向かって、ナプキンを一枚ずつ、折っていた。折っては、首を確かめ、首を折って、また最初から折り直した。数えると、床だけで百羽を越えていた。折れた首が、どれも同じ方向を向いて、まるで謝っているようだった。
背中が、ひどく小さかった。肩が、少し痩せていた。
(何度やっても、首が折れる。それでもやめない)
(あの人は、何を、そんなに)
私は声をかけられなかった。あれが何の練習なのか、分からなかった。分からないのに、胸がぎゅっとなった。
(あの人は、何を折っているんだろう)
その夜の日記には、何も書けなかった。
離縁の夜は、雪だった。
夕食のあと、ロイが居間の机の上に、一枚の書類を置いた。
「リディア。離縁書だ」
暖炉の火が、ぱちんと鳴った。
「君を笑わせることもできない私が、君を縛る資格はない。五年間、すまなかった。……今夜が、最後の芸だ」
私は何も言えなかった。頭の中が、真っ白だった。五年間、毎日爆笑していた私の心の声が、初めて、一言も出てこない。
ロイは机から、真っ白なナプキンを一枚取った。
ゆっくりと、折り始めた。
迷いのない手つきだった。三週間、毎晩練習した人の手だった。折って、折って、長い首を立てる。そっと、そっと、形を整える。
首は、折れなかった。
白鳥は卓上に、すっと背筋を伸ばして立っていた。完璧な白鳥だった。
「首が折れない」
ロイが小さく言った。
「……やっと、できた。百二十羽、折った」
(完璧な白鳥だった)
(だから、笑えなかった)
(お別れの芸だと、分かってしまったから)
頬に、何かが伝った。
涙だった。五年間、この人の前では一度も流さなかった涙が、顔の無表情のまま、ぽろぽろと落ちた。
「リディア……?」
ロイが凍りついた。
「泣いて……いるのか」
初めて見たのだ。彼の動揺は、芸が失敗したどの夜よりも大きかった。
「すまない。苦しかったな。私は五年間、君に拷問を強いていたんだな」
私は何度も首を振った。立ち上がって、寝室へ走って、棚から五冊の日記帳を抱えて戻った。
「業務日誌です」
机の上に、どさりと置いた。顔の動かない私の言葉は、証拠にならない。でも涙は、どんな言葉より先にこの人に届いた。いまなら、読んでもらえる。
「千八百二十五行あります」
ロイは表紙を見つめた。
「……苦情の記録だと思っていた」
「毎日、旦那様が面白かった記録です」
ロイが、震える手で第一冊を開いた。
第1日。夫が任務を宣言した。すでに面白い。
ページをめくる。第47日。白鳥が、スープに頭を垂れた。礼儀正しい白鳥だった。第211日。薔薇に髭が咲いた。第640日。頭に鳩を乗せたまま、領地の収支を語る旦那様。鳩のほうが威厳があった。
ロイの指が、止まらなくなった。
「……全部?」
「全部です。白鳥の首も、髭も、鳩も」
「ハンスの咳払いも」
「あれは笑いました。二日」
ページはまだ続いていた。一年目、二年目、三年目。ロイはときどき声を出して笑い、ときどき唇を噛み、読み進めるたびに、肩の力が抜けていった。暖炉の薪が二度、燃え尽きて足された。
ロイは日記の末尾に気づいた。
「なぜ、お手洗いの回数まで」
「笑った回数です」
「あれは、耐えられなかったのでは」
「耐えられなかったのは、笑いです」
ロイは長い間、日記に顔を埋めていた。肩が揺れていた。私は気づいた。この人も、泣いている。
「一年目の、『面白いです』は」
やっと顔を上げて、ロイが訊いた。
「本当でした。あの夜から、全部、本当です」
「気を遣わなくていい、と私は言った」
「遣っていません。数えています」
ロイは笑った。泣きながら、笑った。私が見た、初めての笑顔だった。
「見合いの日のことだ」
ロイが、ぽつりと言った。
「君が無表情で、私の前に座っていた。体質のことを話して、それでもいいかと訊いた。あの瞬間に、思ったんだ。この人の笑顔が見たい、と。それが五年になった」
「旦那様」
「五年間、私は、君を笑わせるために生きていた」
私は離縁書を取った。二つに裂いた。四つに裂いた。暖炉の火が、紙を飲み込んだ。
「私は、五年間、旦那様に笑わされるために生きていました」
ロイが、息を呑んだ。
「拷問ではありません。ご褒美です」
「……ご褒美」
「領民は旦那様を、鳩の公爵と呼んでいます。愛されている証拠です」
ロイの顔が、くしゃりと崩れた。私は初めて、この人の背中に手を回した。抱きしめた。
扉の向こうで、ごそごそと音がした。マーサだった。ハンカチを両手で握りしめて、廊下の壁に額を押しつけていた。
「奥様の左眉が」
と、マーサは嗚咽まじりに言った。
「一センチ、上がっております」
その夜、日記には書き足した。五冊目の、最後の行に。
第1,825日。夫が、完璧な白鳥を作った。笑えなかった。泣いた。
それから、一年が経った。
芸は封印された。ロイがそう決めた。けれど、この人は何もしなくても、毎日のようにすべった。扉に頭をぶつける。椅子の脚に小指をぶつける。会議で自分の名前を言い間違える。領民たちは、すっかり安心して、公爵をからかうようになった。
「鳩の公爵、おはようございます」
「その呼び方はやめろ」
やめない領民と、顔を赤らめる公爵。その横で、私は黙って、日記に書く。
朝食の席で、ロイがマーサに言った。
「今日は、天気がいいな」
「雨でございます、旦那様」
窓の外を見ると、土砂降りだった。
私は食後の紅茶を飲んでいた。そのとき、ふと、気づいた。
(あれ)
左の頬が、なんだかむずむずする。
あの夜のあとで診てもらった医者は、「心の栓が一度抜けたのでしょう」と言った。涙を見せたあの夜から、少しずつ、顔が動き始めていた。朝、鏡の前で、眉が勝手に動くことが増えた。マーサには、いつも先に見つかった。
「リディア」
ロイが、カップを持ち上げた。その手が滑った。
カップが、手から離れた。
ぱりん、と砕けた。
ロイが固まった。足元の紅茶の海を、無言で見下ろした。
私の喉の奥から、何かが、こみ上げた。
「……ふ」
息が漏れた。それから。
「ふ、ふふっ」
声が出た。笑い声が。小さな、掠れた、笑い声が、喉から転がり出た。
ロイが顔を上げた。
私は口元を押さえた。口の端が、片方だけ、上がっていた。
「リディア。眉が上がっている」
ロイが震える声で言った。
「いま、笑っている」
「はい」
「芸では、ない。いまのは芸ではなかった。ただ、カップを」
「はい」
ロイの目から、涙が落ちた。氷の公爵が、朝食の席で、カップの破片の中で、泣き始めた。
「六年かけて、やっと、笑わせられた」
「一日目からです」
私は言った。声が、笑っていた。
「顔が、遅れただけです」
その夜の日記には、新しい行が増えた。
第2,190日。夫がカップを割った。笑った。本日のお手洗い 0回。
もう、逃げなくていい。
私は五年間、一度も笑っていなかった。でも、毎日、心の中で笑っていた。
そして今は。
いまは、顔でも、爆笑しています。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
笑えない妻と、すべり続ける夫の話でした。
このあと、もう一本、別の短編を出します。
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