小説 椿説弓張月 為朝弓勢問答の巻
この作品は、2020年4月から私自身のブログに掲載していた曲亭馬琴作「椿説弓張月」の原典の脚色現代語訳小説化作品を、より小説化して書き直したものです。
まるで原典を読んでいるかのように読める講談調の語り口は馬琴ならではですので、それをできるだけ崩さず、現代でも意味が通じるように訳し、小説として脚色してあります。
一昔前まで、有名だった鎮西八郎の物語、色々な人が訳したり、物語化したものですが、最近は誰も書かないので、やってみました。お楽しみいただければ幸いです。
ちなみに下記のブログを書き直したものです。気になる人は読んでみてください。
https://shousetukaiun.hatenablog.com/entry/2020/04/18/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E5%85%AB%E9%83%8E%E6%BA%90%E7%82%BA%E6%9C%9D%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4
後に鎮西八郎として知られる我らが英雄、源八郎為朝は、清和天皇より七世の皇孫、八幡太郎義家が嫡孫、六条判官為義が八男として生まれ出ず。
仁平元年(1151年)齢十三にして身の丈七尺、狼の如き鋭き目と猿のようなる長く頑丈な腕を持ち、弓を弾いては天下に並ぶものなき若武者と呼ばれておった。
生来より、智勇に秀で、多くの兄たちを凌ぐ胆力を見せつけていた。だから父の為義も内心にて、我が子ながら末頼もしい奴、と目をかけていたのだった。
時は、鳥羽天皇が御年二十と一年にして、皇位を一の宮、顕仁王の君に譲位なされ、御身は上皇として政をご覧になっておられた世のことである。
その保延五年(1139年)五月は十八日に、鳥羽上皇の寵姫、美人中の美人と伝えられ、後の世に玉藻の前のモデルとも、九尾の狐に化けたともいわれる、藤原得子。院号は美福門院。その美福門院が御腹にて皇子が誕生なされる。
鳥羽上皇はこの皇子を大いに大いに愛で賜ひ、まだ三歳というに、強いて先帝である崇徳天皇、これ顕仁王のそのお人のこと、を退け、天子の座にお据えになられてしまった。
先帝、つまり崇徳天皇は心ならずも、皇位を退かれ、密かに父である鳥羽上皇をお恨みあそばされていた。この君が崇徳上皇として世に知られている人物であり、当時の人々は、もう一人の上皇という意味で、慣例により「新院」とお呼び申し上げていた。
すなわち、この時、御位にお着きになったばかりの3歳の天子の他に、お二人の上皇がいらっしゃったこととなる。
何と言っても、鳥羽上皇の権勢が並び無き世であったがために、御位を去ったばかりの新院、崇徳上皇の御方へ、参上する人々も、ただただ少なくなるばかりだった。
しかし、そんな中でも公卿では宇治左大臣頼長、少納言信西入道、武家では六条判官為義、この人がわれらが英雄 為朝の父親だ、などが、傷心の新院をお見舞い申し上げていたという。
ある日、少納言信西が新院である崇徳上皇の下に参上し、韓非子についてご講義を進呈申し上げる折に、為義朝臣もその聴聞のために若殿の八郎を連れて参内していたのである。
その参内の時、崇徳上皇が少納言信西に
「故実の真実を問うというのも良いが、今の世に強弓と呼ばれるような弓の名人と言えばだれであろうか、信西答えよ」
とお尋ねになった。
信西は
「昔から有名なのは吉備臣盾人宿祢。今なら安芸守平清盛、兵庫頭源頼政の二人でありましょう」
と申し上げた。
すると宮殿の階段から冷ややかな笑い声が聞えて来た。
このあざ笑う声に信西入道は怒って、声を震わせる。
「上皇へご進講中の、この時、この場で大声で笑うとは、不敬であるぞ。誰が笑っておるのだ」
控えていた為義は、落ち着いた声で
「お許しあれ、あれは私の八男、まだ小童の為朝と申すものです。貴殿がなさる韓非子の講義が為になると存じ、ぜひとも聞かせようとて、召し連れてまいりました。」
と皆に説明をする。
だが、その小童に過ぎない為朝が、大胆にも、信西に自分の思っている通りのことを言い返す。
「頼政はただ紫宸殿の上に現れたる鳥を化け物と見間違えて射殺しただけよ。清盛にいたっては内裏で怪鳥を打ち落とすと言って、落としてみたら大鼠だったではないか。鼠なら猫でも獲る。鳥なら猟師でも射られるではないか。そのような者どもを強弓と呼ぶとは噴飯ものよ。
それに比べて、わが父為義は十四の時に勅を賜り十七騎で幾千の軍勢を打ち破ったぞ。
もし、今の世に弓矢をとって、百万の強敵を退ける者がいるとしたら、その為義の子である、この為朝のほかに居ようはずがない」
そう申したものであるから、信西は驚きあきれ、また不愉快になり、
「諸芸は数多の年月をかけ切磋琢磨し、ようやく極意を掴むというのが道理。
ただ無紋の狩衣を着る身分の者である蒲義子という者が八歲にして古の王である舜の師となったように、賢愚巧拙は年齢も理屈も無関係と聞くが・・・。
なぁに、この小童がそのような天才である訳がない。さてさて、いい機会だ、為朝を懲らしめてやろう」
と考えた。
信西、為朝に
「弓をよく射る者は、よく防ぐという。いまここで弓の達者にお前に向かって、矢を射させてみよう。これをよく防いでみると良い」
為朝は、畏れ入り、放言を謝り、許しを請うと思われたが、さにあらず、恐れることもなく、この信西の挑戦を受けて立った。
当時の瀧口武者というのは天子の居室がある清涼殿の警護を務める武官であり、京では兵仗、これは武器のことだ、特に弓箭、これは弓矢のこと、を帯びることは正規の武官以外には許されていない。
ただ瀧口武者のみが弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されている。
だから、武官にとっては誠に名誉の職であったし、その任命すらも、新たに天皇が即位のときに、摂関家や公家らが家人の侍の中から特に射芸に長じた者が推挙されたという。当然、選ばれた武者はいずれも弓矢の上手なのだ。
この時代の武士ならば誰もが腕を磨いて瀧口武者になりたいと思っている。そんな腕に覚えがあり、公卿衆にも知られるスター級のスターでエリート階級の者たちであったといえる。
ちなみに、有名な瀧口武者には、滝口小二郎と名乗った平将門や滝口入道と呼ばれた斎藤時頼、また長谷部信連などがいる。
というわけで、この信西が為朝に挑戦した際に為朝に矢を射かけた式成、則員は、新院の瀧口武者、当然、弓矢の名人、特に的弓の名人として知られる猛者中の猛者なのである。
であるから、誰もが
「為朝に、例え六臂、つまり六本の腕と手があろうとも、式成、則員が放つ、強く速く正確な矢を逃れる術はなかろう」
と思うのは当然だった。
そういうわけで、見るに見かねた関白の頼長公がとりなす。
「為朝は身体こそ大きいが、まだ嘴が黄色い小童ではないか。信西入道よ、大人げないぞ」
だが、だが、しかし為朝の父である為義朝臣が
「為朝も十三歳。そんなに幼いというわけでもありませぬ。もしこの大言壮語に似合う事もせずということであれば、為朝一人の恥のみならず、源家累代の武名を汚してしまうことになりかねません。
ここは何卒、御免蒙りて、彼がしたいようにさせてやって下さりませ」
と言葉を添えたのは意外だったかもしれない。
見ると、我らが英雄、為朝は、父のこの言葉に、なんと欣喜雀躍しておるではないか。
為朝が信西入道に言う。
「式成、則員と言えば、まさに強弓の名に値する無双の弓取りじゃ、彼らの矢面に立てるとは、こんな嬉しいことはない。
ただ、瀧口武者の名を背負うお二方は、わざと外すなどできぬことゆえ、その矢を捕らぬとわが命はないことであろうよ。
されば私は私の命を入道殿に預け申し上げることになるというもの。
もし私が彼らの矢を捕ったならば、入道殿は何を私に下さるのかな」
信西笑いて
「その矢を捕らば、この首を進呈いたそうぞ」
と言わずもがなの言を嘯いたのを皆が聞いた。
院の御所で兵仗を弄び、人を射殺させようと密かに楽しむ悪しき行いをしようとしているのに、些かの躊躇も見せない信西は、式成、則員に、文字通りの矢の催促をする。
「疾く疾く。小童を射殺してしまえ」
院の御前で、院の師の命令である。二人の弓の名人は二本ずつの矢を代わる代わる為朝の胸をめがけて次々に放ったのだった。
受ける為朝、目にもとまらぬ速さで立て続けに放された矢の二本を左右の手で捕らえたかと思うと、一本を着物の袖の袂で縫止させ、残る一本を口に咥え込み、おまけにその矢じりを噛み砕く。
宮中の見物人は、何が起こっているのかを確かめる間がない。
名人の矢を急所に喰らって悲鳴も上げることなく倒れたかと、恐る恐る目を開けると、先ほど言ったように為朝は無事で、矢は全て止められている。「矢止め」というものを初めてその目にした人々は自分の目が信じられない。
為朝の神技を前に皆が沈黙し、やがて時を置いて驚愕のどよめき声があがる。
信西入道は面目を失い、為義為朝親子に恨みを抱き、為朝の名は、この日を境に、世に一層高くなったのは言うまでもない。
その日の、為義為朝親子は新院よりお褒めの言葉をいただき、無事に館に帰ってきたものの、為義は、今日の出来事で、信西入道の怨みを買ったと判断し、為朝を筑紫の国に下らせて音信を断つように指示した。為朝を守るため、表むき勘当し追放したように見せかけたのである。
(鎮西源八郎為朝 為朝弓勢問答の巻 了)




