第4章 裁き
冬の足音が近づく頃、私の生活は完全に崩れ落ちていた。
アパートの郵便受けは督促状で埋まり、電気料金の未払い通知が赤字の文字で迫ってくる。
財布の中は空に近く、それでも私は封筒を用意して彼女に渡すことを優先した。
冷たいインスタント麺をすすりながら、「次に会える」と思うだけで心臓が打つ。
その鼓動だけが、もはや生きている証のようだった。
職場では、私は透明人間になりつつあった。
会議で意見を求められても答えが出てこない。
「もういい、他の人に回そう」
上司は苛立ちを隠そうともしない。
昼休みに同僚の笑い声が響いても、私の席だけが孤島のように沈黙していた。
「最近、飲みに行かないんですか?」
以前はそう声をかけてきた同僚も、もう話しかけてはこない。
私は自ら人間関係を切り捨て、ただ彼女の存在だけにしがみついていた。
そんな生活の中でも、彼女は淡々としていた。
封筒を受け取り、時間を確認し、必要最低限の会話しかしない。
だがある夜、彼女はわずかに首を傾げて言った。
「……そろそろやめた方がいいんじゃないですか?」
「やめる?なぜ」
「お金も、仕事も、限界でしょう。見ていて危ういです」
その言葉は冷静で、同時に突き放す響きを持っていた。
私は笑って返すしかなかった。
「限界なんてない。俺はまだ大丈夫だ」
だが胸の奥では、自分がとうに終わっていることを知っていた。
彼女との関係はますます歪んでいった。
私は「他の客とは違う」と証明したくて、彼女の言葉を逐一メモに取り、どんな些細な仕草も記憶に焼き付けた。
電車で姿を見つけると、視線を外せなくなった。
ある朝、彼女が乗っていないと分かっていても、似た後ろ姿の女性に視線を止めてしまい、その女性が怪訝そうに眉をひそめる。
周囲の視線が一斉に集まり、冷や汗が背中を濡らす。
「俺はただ見ていただけだ……」
心の中でそう言い訳するが、誰も聞いてはいない。
夜、ホテルで彼女はぽつりと呟いた。
「あなた、電車での視線……正直、私も怖いです」
私は息を呑んだ。
彼女は淡々としていたが、その言葉の奥にあるのは明確な警戒だった。
「俺は……そんなつもりじゃ」
「つもりは関係ないんです。周りがどう見てるか、ですよ」
突き刺さるような冷たさ。
それでも私はやめられなかった。彼女に恐れられている事実すら、欲望の燃料になっていた。
崩壊は加速した。
職場で居場所を失い、財布は空になり、社会から浮き上がった存在になりながらも、私は彼女を追い続けた。
周囲の視線は疑いに満ち、誰もが私を見透かしているように思えた。
電車に乗るたび、耳の奥で「痴漢」という言葉が囁かれている気がした。
そして、その朝が訪れた。
7時53分の電車。
彼女は珍しく、私の正面に立っていた。
視線が交わり、彼女の睫毛が震える。
次の瞬間、彼女は小さくホームの方へ頷いた。
私はそれを、ただの仕草だと誤解した。
次の駅で降りたとき、腕を強く掴まれた。
「警察です。署までご同行願います」
私服警官が二人、両脇を固める。
周囲の人波が避け、冷たい視線が私を包み込む。
心臓が凍りつく。
振り返ると、ホームの向こうに彼女が立っていた。
表情は何もなかった。ただ、無表情の仮面だけ。
——その瞬間、私は理解した。売られたのだ。
取調室。
机の上には分厚いファイルが積まれ、刑事が冷ややかに言う。
「痴漢行為の目撃証言、数件。買春の記録もこちらにあります」
目の前に並べられた文字と数字が、私の全てを剥ぎ取っていく。
私は言葉を失い、俯いた。
「あなた、自分で自分を追い詰めたんですよ」
刑事の声は乾いていた。
独房の布団に横たわり、鉄の匂いを吸い込みながら、私は思った。
——結局、何も得られなかった。
欲望に突き動かされ、すべてを壊し、最後に残ったのは罪と後悔だけ。
救いは最初から存在しなかったのだ。
やっとここまできました。
初めて書いたので、これだけの長さでも大変ですね...
周りの方々には尊敬しかないです。