第2章 堕落の連鎖
週明け。
オフィスの空気は湿っていた。蛍光灯の下で流れる言葉は、どれも薄く乾いたノイズにしか聞こえない。タスクの締め切りが迫り、上司の指示が飛び交う。だが私の意識はどこか別の場所にあった。
——彼女の言葉、彼女の姿、彼女の香り。
その記憶は、業務の一つひとつを透過させる。文字を読んでいても、図表を眺めていても、頭の中に浮かぶのは、あの小さな部屋の光景だ。
最初は一度きりのはずだった。紙切れの衝撃に駆られて踏み込んだだけのはずだった。
だが気づけば、私は名刺の裏に書かれた文字列を何度も開いては閉じ、送信ボタンに指をかけては戻す日々を過ごしていた。
ある夜、抑えきれずにメッセージを送った。
——今週、会えますか。
既読がつくまでの一分が永遠のように長かった。
——金曜なら。19時から。
それだけの返事に、胸が一気に軽くなる。まるで赦しを得たかのような錯覚。
金曜。
私は会議を無理やり終わらせ、残業を装う同僚を横目に退勤した。財布には今月の給料の一部を現金で入れてある。通帳の残高は目減りしているが、そんなことはどうでもよかった。
彼女は再び現れた。制服を模したワンピースに、淡いリップ。表情は相変わらず事務的だが、それが逆に安堵を誘う。期待も、感情も、そこには介在しない。
——ただ、取引だけがある。
狭い部屋の中で、彼女は時計をちらりと見ながら言う。
「時間は守ってくださいね」
私は頷いた。何度も頷く。その従順さが、自分でも滑稽だった。
すべては金で測られる。延長は追加料金。触れる秒数も、抱く呼吸も、価格表の裏側に見えない数字が刻まれている。
それでも、私は依存した。むしろ、数字で管理されることが心地よかった。境界線を明確にされることで、罪悪感が薄まる。
気づけば私は、週に一度、二度と彼女に会うようになっていた。
給料はほとんどそこに消えた。クレジットカードの明細は膨らみ、口座残高はみるみる減っていく。昼食をコンビニのおにぎり一つで済ませても、彼女の前で封筒を差し出すときの高揚には代えられなかった。
職場での集中力は落ちた。簡単なメールの返信すら後回しになり、上司に小言を言われる回数が増える。
「最近、顔色悪いぞ」
同僚にそう声をかけられ、私は曖昧に笑った。
——悪いのは顔色ではない。内側だ。崩れ始めているのは、すべて。
ある夜、彼女が言った。
「あなたみたいな人、何人かいるんですよ」
それは、初めて会った日の言葉と同じ響きだった。だが今度は、私の胸に重く沈んだ。
“自分だけではない”という事実。それが分かっても、やめられなかった。むしろその競争に負けまいとするように、次の予定を急いで押さえようとした。
私は彼女の生活を何も知らない。彼女がどこに住み、どんな夢を持ち、何を目指しているのか。そんなことを考えもしなかった。ただ、彼女の一時間を買うことで、存在を手に入れた気になっていた。
メッセージが返ってくると胸が躍り、返事が遅れると不安で眠れない。
依存は徐々に深まる。水に沈む石のように、静かで確実に。
夏が近づくにつれ、私はますます仕事に身が入らなくなった。
報告書の誤字を指摘されても、「すみません」と自動的に口にするだけ。頭の中では、次に彼女に会える日付だけが点滅していた。
オフィスを出る足取りは軽い。だがその反動で、机に戻る足取りは重くなる。世界の重心が、完全に彼女に移っていた。
あるとき、財布の中が空になりかけた。
「少し待ってもらえますか」
私は彼女にそう打ち込んだ。送信の瞬間、手汗で画面が滑った。
既読がつき、数秒の間。
——無理しなくていいですよ。どうせまた来るんだから。
返事は短く、それ以上はなかった。
私は安堵と同時に、見下されているような痛みを覚えた。だが、その痛みすら心地よい刺激に変換されていく。
金曜の夜。
駅の雑踏を抜け、同じホテルの階段を上がる。
——ここが自分の居場所だ。
そう錯覚するほど、日常は彼女の部屋に収束していた。
気づけば私は、彼女のいない朝の電車が空虚にしか感じられなくなっていた。
視線を泳がせ、誰かの肩に無意識に目を奪われる。周囲の目が冷たくても、気づかないふりをした。
彼女を知ったことで、私は“正常な距離感”というものを完全に失っていた。
ある日、彼女が笑いながら言った。
「本当に、やめられないんですね」
その声は軽い揶揄のようでいて、底に冷たいものを含んでいた。
私は笑って返した。自分が笑っていることに、寒気を覚えながら。
崩壊は、もう始まっていた。
私はそれに気づきながら、止める術を持たなかった。