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第86話 一ヶ月ぶりの

 ……その後、ゲルと別れることになった俺は、答えのない思考にぐるぐると脳内を翻弄されつつ、その足でとぼとぼと屋敷まで帰宅した。

 さっそく出迎えに来てくれたホルンが、いつもより少しだけ俺の帰りが遅れた件について心配したような素振りを見せる。が、なかなかうまく起きた出来事を説明してやることができず……。


「しぐま?」

「ちょっと、忙しいから」


 受験勉強をていのいい言い訳にすると、彼女をその場へ置いて一度自室へ籠ることを選んだ。

 手だけ動かしてはあまり頭に入らないようなノートの書き取り作業のなか、どうしても頭のなかの片隅にはゲルの言葉が何度もリフレインする。


〝この気持ちをホルンに譲るのだけは、絶対の絶対に嫌なんす〟


 ……これは、俺のせい……と、言えばいいのかもよく分からないしそれは正直不服だが、実際にゲルがここまで執着するきっかけの一つには、俺はなってしまっているのだろう。


 決闘。


 その言葉が意味するものについては「まだ詳細は決まっていないんすけど」とゲルは解答を持ち合わせていないようだったが、懸念を抱える俺の胸の内は、どうにも恐ろしさでざわついてしまう。

 悪いことが起こる気がしてならない。


「シグマちゃぁ〜ん? ご飯よ〜?」

「あ、はい……!」


 階下から、まるで母親のように夕食時を呼びかけてくれるオリヴィアさんの穏やかな声にハッとして、俺はつい回してしまっていたペンをことりと置いた。

 どたどたと駆け下りて食卓につく。


 テーブルに広げられる夕食は、普段より少しだけ豪勢な感じだ。


 良妻賢母を自負するオリヴィアさんは、不定期の魔物退治を科せられるようになっても、毎日変わらずタフに家事炊事を行う。


 それはひとえにダァリン(シグルドさん)への愛があるため。


 正直、ホルンが取引を交わし、契約を結んだいまとなってはもうその心配はないのかもしれないが、俺の屋敷での生活の始まりは『襲撃の危険からの保護』というご厚意だったはずだ。なのに、いまでもこうして親切に優しくもてなしてくれるオリヴィアさんの心意気に頭が上がらなくなる。

 申し訳ないなと肩身狭く思ってしまう反面、その母のような慈しみにはどうしても甘えてしまいたくなるものがあったり。


「シグマちゃんは、お疲れのご様子ね」

「しぐま、本当に大丈夫ですか?」

「……え? あ、ああ、大丈夫だよ」


 ひょっとして、今日の夕食が少し豪勢なのはホルンの働きかけだったのだろうか?

 歳の離れた姉妹に一緒になって似たような顔で心配されてしまい、一拍遅れて俺は笑顔を取り繕う。

 ダメだダメだ、俺が心配をかけてどうする!

 いまもっとも大変な時期なのは、生死の懸かった環境下で、実力を試されているこの二人自身なのだから。


 受験勉強は、俺一人の都合にすぎない。


 そうだ。いまでもここにいさせてもらっているのは、そうでありながらただの日常生活に戻るのはつまらないとどこか感じてしまっている俺のエゴだ。


「ご飯、今日もすごくおいしかったです。ごちそうさまでした」

「そ、そぉ?」


 一足先に平らげ、いそいそと食器をまとめると流し台へ持っていって俺は勉強の続きをしに二階へと上がる。


「………考えることが、多すぎるな……」


 ふと口からこぼれるのはぼやき。

 ここまで来て、ゲルの過去やホルンとの因縁にまで思い馳せねばならなくなるとは思いもしていなかった。

 予定している志望大学の一般選抜は二月の頭に設けられており、つまりは残り十日ほど。

 迫るタイムリミットを意識しすぎないためにもこれまで涼しい顔で過ごしてきたが、トラブルやタスクの積み重なりが確かに俺の精神を摩耗させていく。


 もちろん、綾姉との大事な約束がある手前、受験を投げ出すつもりは全くないが……。


 先のことを考えると、不安になる。

 屋敷の二階は特に冷え込みやすい。体温の低下も心の不調の一因にはなっているのだろう。


「……さみっ」


 上着を着込んで風邪だけは引かないようにしながら、数時間、ひたすらに机に向かい続けた。


 気付けばあっという間に時刻は深夜の零時を回っており、丸まっていた背中をグッと伸ばせば、体が軋むような倦怠感を覚えた。


「は、腹が減っちまった……」


 相当エネルギーを消耗している……。


 夕食、ちゃんと食べたつもりだったんだけどな。

 背もたれに深く身を預けていると、途端に自覚する空腹感。ため息をつきながら体を起き上がらせた俺は、気晴らしの散歩に出ることを画策した。


 普段、屋敷から直接ゲートを使って地元の通学路まで出る関係上、いまだにこの町の地理はあまり詳しくない。が、確かここから五分ほどの距離に見慣れたコンビニが一軒、あったはずだ。


 今日は追加の任務もないみたいで、ホルンや夫妻はゆっくり体を休ませている。

 その休息の邪魔だけは絶対にしないように、物音を立てないよう慎重に一階へ降りて玄関を開けると、俺は夜の住宅街に一人出ることにした。


 ……そのつもりだった。


「しぐま」

「っ、びっくりした。ホルン、起きてたのか」


 玄関扉を開けた矢先に後方から声を掛けられて、やましいところを見られたような気分になりながら振り向くと、薄着のホルンがこちらの様子を伺っていた。


「……どこかに行くんですか?」

「小腹が空いたから、コンビニでも行こうかなと」

「………」

「……一緒に来るか?」

「行きます」


 妙な沈黙があったから意を汲んで誘えば、二つ返事で頷いたホルンはぱたぱたと自分の部屋に帰って身だしなみを整えに行く。

 俺が散々言い聞かせたのもあり、外出する際は人間界において不自然じゃない格好をすることを心掛けてくれているからだ。


 ……なかなか一人の時間がないなぁ、と気まずい気持ちで俺はぽりぽりと頬を掻きつつ。

 まあ、ゲルとの時間はやたら気疲れするが、ホルンとの時間であれば辛いとは思わなかった。


「お待たせしました」

「うん、じゃあ行こう」


 二人で冬の深夜を散歩する。

 なかなか会話は生まれないが、やはり居心地が悪いとは思わない。

 しかし気温はマイナスまで冷え込んでいるようで、防寒着を着込んでいても身に堪えるものがあり、俺は体を縮こませて身悶えた。

 気遣うようにホルンが、すっと手を差し出してくる。


「手、繋ぎますか?」

「……なんで?」

「あっ、温かい、と、思うので……」

「いや、流石に恥ずかしいだろ」


 呆れながら指摘すると、本人も自分の言動を自覚したのか、俯いて静かに沈黙する。

 俺はやれやれと首を振って苦笑した。


「コンビニ行ったら、熱々のカップラーメン食おうぜ」

「!」


 ホルンはぴくりと反応して顔を上げる。

 思えば、もう全ての始まりの日から丸一ヶ月が経った今日だ。


「……いいですね。久々に、二人きり」


 少しだけ頬を染めて嬉しそうに微笑んだホルンが、『二人きり』であることを強調して言ってくる。

 やはり、最近は騒がしいなと彼女も思うところがあったのかもしれない。

 もちろん、その原因は一人しかいない。


「色々なことがあったから、あの頃がかなり懐かしくなるな」

「はい」


 短いようで長い一ヶ月。

 濃密な日々を過ごしてきたからこそ、積み重ねたものや関係性の変化を如実に感じられる。

 目的のコンビニの目映い照明が近付いてくると、あの日の記憶や思い出が徐々に頭のなかに浮かび上がった。

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