第100話(完) 春を待つ。
しばらくして。
「まったくもう! あなたったら無鉄砲がすぎるわ!」
オリヴィアさんがいつものぷりぷりと怒る様子でラーズグリーズのことを叱りつけた。
ぽかすかぽかすかと威力のない拳を向けられるラーズグリーズはうんざりした様子ながら、甘んじてその連打を受け入れている。
懐かしさに思わずこぼれた微笑が、彼女の表情にしてはかなり新鮮に感じた。
「巻き込んで悪かったなブリュンヒルデ。打算はあったが、成功したのは迅速に動いてくれた二人のおかげだ」
ラーズグリーズは夫妻に目を向ける。彼らがあの瞬間、すぐに行動に移していなければ、きっとあの竜は屋敷の結界を抜け出して日本全土を震撼させていたことだろう。
巨獣のように自力でスリップする術を持たない通常の魔物は、暴れるか隠れるかするしかなく、突如として縄張りを飛び出た力のある大型魔物はより前者を選びやすい。
巨獣よりも実害があった可能性がある。
「これからどうなるの?」
「さあ。スクルドが裁判に掛けられる間、代理で誰かが総司令の座につくだろうが、それも長くは持つまい。私も嫌疑に掛けられていくだろうな」
「いっそのこと、こちらへ来る?」
「やめておけ。私は期待に応えられない」
足の不自由なラーズグリーズは首を振る。オリヴィアさんはもの悲しそうな表情を浮かべるが、ラーズグリーズはそれに構わずに次にゲルへ目を向けた。
「そこの男と、触れ合ったのは本当か?」
「手を、握ってもらったっす。うちを助け出してもらうときに」
ゲルが神妙に答えると、ラーズグリーズは頷いて一言「そうか」と返した。
そして、とんでもないことを言う。
「よかったな」
「……ン? 『よかったな』? よかったなってどういうことだ?」
「ゲルがお前のことを好いているのは知っていたのでな。本望だろう」
「おい待て待て」
ラーズグリーズの冗談に半笑いで言葉を返す。ラーズグリーズはそっち側なのかよ。やめてほしい。
「まあ、正直なところ――」
ラーズグリーズは、改めて俺たちの顔を順に一瞥しながらこう言った。
「あえて、よくやったと言わせてもらうよ」
それは賞賛の言葉だった。
「私はゲルに謝らなければいけない。スクルドを蹴落とすがためとは言え、お前の積年の思いを利用した」
「……うちだってラズ姉様のこと利用したっすから、それはお互い様っすよ」
「うむ。しかし、お前は承知の上だったかもしれないが……。もはや天穹陸にその居場所はない。今回の決闘の結果を持ち帰れば、待ち受けるのは処分だっただろう」
……処分。その言葉の重みを考える。
生まれついてのコンプレックスに歪められただけのゲルの人生の末路が、それでいいのか。それしかないはずだったのか。
「故に、〝掟破り〟になってくれて私は嬉しく思う」
それはラーズグリーズの餞別の言葉のようだった。
「これは以前にもホルンに掛けた言葉だが――。どうせ先の展望がないのならば、少しでもいまを多く生き永らえるために、日々噛み締めるように人の世を生きて欲しいのだ」
それはラーズグリーズの消極的な願い。
いまある決まりは変えられない。定められた運命はきっと変わらない。だからこそ高望みすることはなく、与えられた時間の限りを大切に過ごして欲しい……。
思えばラーズグリーズは、以前からそういう考えの持ち主だ。
いじめられている妹の平穏や幸せを祈るけれど、そこに直接干渉しようとは一切しない。
だけれど、全く愛がないというわけでもない。
あの集団のなかで、誰よりも妹のことを気にかけていた姉なのは事実なのであり、オリヴィアさんとはまたベクトルの違う慈愛の精神の在り方。
川の流れに攫われる小石を最後まで見つめ続けるような心の有り様――。
「私はお前にも幸せになってもらいたいよ、ゲル」
「うっす! うちはホルンと違っていつまで生きられるかは分からないっすけど、ここには好きな人がいるっすからね!」
「ホルンには恨まれてしまうかもしれないな、私は」
ゲル……!! とホルンが静かな怒りを向けている。他人事のようにそう語るラーズグリーズが、少々、修羅場に立たされる俺にとってムカつくところだった。
「ホルン」
「……はい」
次に、ラーズグリーズはホルンに目を向けた。
まるで今生の別れの挨拶かのように、ラーズグリーズは丁寧に一人一人へ向き直っていた。
「お前は、短期間で随分と強くなったな。この一ヶ月間、私も資料を通して見てきたが、スクルドの与えるいやらしい苦難を見事乗り越えてきたお前の実力を疑うものはいない」
「……! ありがとう、ございます……!」
「惜しむらくは、現体制が末妹であるお前の価値を正しく認めてはくれないことだけだった」
スクルドもレギンレイヴもいなくなったいま、ラーズグリーズが代わりとなってホルンのこれまでの働きを讃える。
竜の出現によるトラブルで図らずも宙ぶらりんになってしまっていたが、ラーズグリーズのこの言葉でようやく取り戻される〝報われた実感〟に、ホルンは堪らず涙ぐんでいた。
「ホルン。お前は若くして、誰よりも強かなワルキューレだ」
「――っ」
途端に、ホルンは泣き崩れてしまう。
約一ヶ月の長期に渡って続いたストレスフルな試練の数々から、ようやく解放されることになる喜び。
余計なバイアスもかからない、ラーズグリーズから送られる正当な実力の評価が、ホルンの飢えていた心を温かく満たす。
これまで、誰にも認められることがなかった。
だからこそホルンは、涙を我慢できない。
ラーズグリーズは諭すように言葉をかける。
「……故に、今度はお前が姉を憐んでやれ。お前は立派で、十分成熟している。スクルドを原因とする、現在のワルキューレたちは甘ったれた奴らばかりなのだ。そんな奴らのわがままに振り回され、艱難辛苦を味わい続けたお前のほうが遥かに大人で賢い」
「そう、でしょうか。そう、かもしれないけれど……」
気の迷いを感じさせるような言葉をホルンは放つ。
俺は彼女の背を優しくさすり続けた。まだホルンはあまりピンと来ていない様子だが、ラーズグリーズの言葉は真実だと俺も思う。
カーラも、ゲルも、ベイタも、レギンレイヴも、スクルドでさえも、ホルンより遥かに短慮で甘ったれていたところのある残念な奴ばかりだった。
そんな奴らに絶え続けたお前は本当にすごいんだよ、と何度も声に出して言ってやりたい。
「っちぇ。うちがアホみたいじゃないっすか」
「ゲルお前、俺はお前の本当の胸の内に同情しているからいまは許してやってるけど、これまでホルンにしてきたことは普通に許されないことなんだからな! ここにいる気ならそれはそれとして反省しろよ!?」
釘を刺しておく。「おにーさんに嫌われるのはいやっす!!!」と泣き言みたいにゲルが一転してほざくから、ひとまずはそれで良しとしておくことにした。
ホルンが許すかどうかは先々の話で、許さなくても、それは当然のことだと俺は思う。
あくまで、今回の件は譲歩なのだと明確にする。
「さて、そろそろ帰らなければ怪しまれる。最後になるが――」
ラーズグリーズとの別れの時が訪れてしまう。
全員を一瞥して回ったラーズグリーズは、最後に締めくくるようにこう口にした。
「スクルドのことは、ひとまず私に任せろ。貴女たちのご多幸を祈る」
そうして、こちらの返答を待たずに。
ラーズグリーズはそんな言葉を残すと、すぐさまゲートの先に消えていってしまった。
あとに残された俺たちは、ようやく長かった日々が一旦の幕切れを迎えたことを痛感した。
雪の降る冬はまだまだ続くようだった。
――――――
――――
――
五日後。
あれから、特に音沙汰もなく普段通りの日常を続けられている。
俺の手で〝掟破り〟にされてしまったゲルは、あの後、気力を使い果たしたようにぶっ倒れ、魔力枯渇による昏睡状態に陥ってしまった。
スクルドたちの迎えが来ることも、いまのところなかった。
元より、魔力の回復には長期の時間がかかる。
およそ回復の目処が立つ春の訪れまで、ゲルは屋敷の一室で大人しく寝かせられることになっていた。
一方。
オリヴィアさんとホルンの二人は、後々スクルドが帰ってきたときにチクチクと文句を言われることがないよう、可能な範囲での魔物退治を継続している。
俺も受験期を抜け、結果待ちの期間に入ったことで、特異課の宮内さんらと連携を取りながら魔物の出現情報をホルンたちへ横流ししていく係となった。
意外とそれで魔物退治が上手く回るあたり、スクルドやレギンレイヴが渡してくれていた事前情報などこの程度のものだったんだなという落胆もあった。
いまのほうが随分とやりやすい。
――そうして、日々が経っていくある日。
「二度目の受験結果が出たみたいだ」
前回と同じように、夫妻とホルンに見守られながら慎重に大学のホームページへと飛ぶ。
前回とは比にならない緊張感が漂う。
もしもここで転けてしまったら、本当に恥ずかしくて恥の上塗りだ。死ねる。
『もー! あたしが確認してあげよっか? 受験番号教えなさいよ』
「う、うるさい綾姉……。いま開くから待っててくれ」
スマホに繋がれた通話では、画面の向こうからやいのやいのと囃し立ててくる綾姉の声が聞こえていたりする。今回は彼女もリアルタイムで見守ってくれるみたいだった。
ふと、肩に添えられるホルンの手のひら。
俺はその手に自分の手を重ね、深呼吸を吐く。
ようやく決心のついた俺は、大学のホームページの、合格通知一覧のファイルを開いた。
そこで明らかとなる、大学合格の当否は――。
「っっっっっっっしゃあ!!」
「しぐま!!」
「きゃー! おめでとう〜!!」
『おー! 合格した!? よかったねえシグシグぅ!』
思わず歓喜に身を震わせて飛び上がると、すぐさま両方向からのハグを受けて右に左に体が傾いた。ホルンとオリヴィアさんの仕業だ。
喜びを共有できる人たちに囲まれながら、俺も俺自身の課題を乗り越えることができたことに、ほっと安堵の息をつく。
「これでっ、一安心できるっ……!」
深々と喜びを噛み締める。
それでも口角の持ち上がりは我慢できない。
最近は、感情表現が豊かになったことでより涙もろくなったホルンが目尻を拭う。オリヴィアさんはまるで自分ごとのように、俺をわしゃわしゃと誉めそやしてくれた。
シグルドさんは微笑んでくれた。
「おめでとうございますっ、しぐま……!!」
ホルンの言葉に、ぐわあっと胸が熱くなる。
俺は笑顔で応えた。
一度は遅れを取ってしまったが、先に待ってくれていた彼女を迎えに行くことができた。
ホルンも俺も、それぞれの課題にケリをつけて、一安心できる『日常』を見事手に入れた。
逃避行から始まった長い物語が、確かな一区切りを迎えることに強い実感を覚える。
全身を包み込む高揚感が、俺たちのこの先も続く生活を約束してくれているみたいだった。
「春になったら、俺は大学生なんだ……!」
長かった高三の冬も、これで終わることになる。
【高三の冬、戦乙女とする逃避行 完】




