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習作集  作者: 若宮 澪
習作1 婚約破棄とSF(改稿後)
8/8

〈改稿版〉第2話 少女

 いつの間にやら風景は蒸気と工場に満ちた蒸気都市(スチームパンク)から、排気ガスと蛍光灯(ネオンサイン)に満ちた情報都市(サイバーパンク)のそれへと変わっていた。戻った自分の席の窓は、ギラつく蛍光色(ネオンライト)の光が張り付いて離れない。そんな虚飾(フェイク)に満たされた風景に、私はただぼんやりと視線を遣った。

 公国連合首府であるレヴァーテ市を起点とし、ファビウス選公領(クゥルファスト)のダンツィヒ駅を第一終着駅(ターミナル)、ブルームシュタット駅を最終着駅(エンドターミナル)とする[(マドンナ)百合(リーリエ)]線、それが今私の乗っている鉄道だ。旧くは馬車の道として発達し、周囲は田園風景が広がっていた。かつて彼女(リア)とファビウス選公領へ赴いた時にも、長閑な田畑が連なっていたものだ。あの時にはすでに鉄道も通っていたが、その隣で馬車を必死に走らせる人もいて。それを見て、なんだか不思議と面白く思えて、彼女(リア)と一緒に笑ったものだ。

 けれども、そんな風景は今となっては昔の話。もはや田園風景など東部の辺境地帯にわずかに見られる程度のものと成り果て、平野部には蒸気都市(スチームパンク)と、わずかな情報都市(サイバーパンク)が広がっている。都市と都市の間に広がるのは大河川や山岳など、人の手には余るような自然だけ。それにしたって近年は、太陽光電池板(パネル)だったり研究施設だったりを設けようとする動きに負けてだんだんと消えつつある。


 「白百合、か……」


 ふと、そんな声が口から漏れていた。白百合、この鉄道路線の名前または白い百合の花のこと。純愛、潔癖を花言葉としている。

 昔からこの道は「(マドンナ)百合(リーリエ)の道」と呼ばれていた。公国連合が未だ連合国家では無かった頃、同格の公国同士が戦争を繰り返し国土を疲弊させていた時代から。


 ───白百合って、本来は白百合(ヴァイスリーリエ)と言うのが普通ですよね? でも、ここの人たちは処女の百合(マドンナリーリエ)と呼ぶんです。なぜだと思いますか?


 手紙を懐にしまっていると、ふとそんな彼女(リア)の言葉が思い浮かんだ。婚約破棄どころか貴族たちの白眼視さえまだ(ほとん)ど無かった頃の、ファビウス選公領(クゥルファスト)への旅路の最中。未だ令息ではなく、ただの少年であった頃合い。確かちょうど、彼女(リア)があの機械(ゆめ)の設計を終えた頃だっただろうか。

 その(ことほぎ)と、その(そひ)として辺境視察をばとて、その時分には目新しくあった蒸気鉄道(スチームレール)に乗りて、両親も(とも)にしての視察旅に()でいた。思へばこれが、僕にとって最後の純真なる少年時代(ノスタルヂア)であった。機械(ゆめ)がその歯車を以て運命(わかれ)の旋律を奏で始める、その前の最後の若き日々(ノスタルヂア)

 貴族の視察旅と云へども、両親も彼女(リア)の両親も僕たち二人に気を遣い(たも)うか、離れた席にその身体を預けていた。だから、僕たちは二人、外の(よう)なる風光(けしき)を眺望しながらその談笑に花を咲かす。


 ───かつて公国同士が争っていた頃、友好関係を維持するためにレヴァーテ市はファビウス選公国に少女を一人貢いだのだそうです。もともとは娼婦の娘として生まれ、その美貌故に娼館の娘たちから嫉妬を買い、半ば奴隷のような扱いを受けていたのだとか。


 突然何の話、と聞こうとした。けれど、彼女(リア)の眼の遠く昔を想うを観て、その表情の(あで)やかなるに魅せられて、言葉を出すことだに能わなかった。まるで機械(ゆめ)に向かい合う刻に見せ賜ふ、純真なる心そのままの、そんな表情。


 ───そんな少女を、けれども選公の公太子は歓迎したのだそうです。実は、その公太子は娼館に赴くのが好きな好色(イロモノ)だったそうで、自由都市だったレヴァーテの娼館にもこっそり行ったことがあった。そこでその少女と出会い、いつかは自分のものにしたいからそれまで純潔を保っていて、と告げていたのだそうです。持っていた白百合を、少女に渡しながら。


 ふふ、と。彼女(リア)(あで)やかなる微笑みを浮かべる。けれども僕は、なんだか酷い話だと(おも)えた。ただでさえ虐められていて、お金もなくて、娼館という場から逃げることもできなくて。そんな状態で、身勝手な男に純潔を守れと言われて。それって、あんまりにも不条理じゃないか、と。

 その男の身勝手は、然れどもどこか、あの時分の社会というものを体現していた。いや、それ故に僕は、反発していたのかも知れない。堅苦しくて不条理で抑圧的で、斯様な貴族社会といふものは、僕にとってはどうしようもなく受け容れ難きものであったから。

 そんな僕の表情を観て、彼女(リア)はふっ、と少し違った微笑みを浮かべる。


 ───虐められて、場所にも縛られて。そんな少女にとっては、けれどもそんな地獄でも生まれ育った場所で、そこに生きるしかなくて、愛情を向けてくれる人だって一人もいない。でも、その少女はそれでも娼館のために尽くしていた。だって、その場所こそが親なんですから。


 逃げ出せばいいのにと思わないこともないですけれど、と彼女(リア)は云う。けれどもその表情には、同情の念をこそが浮かんでいた。その表情が、僕には誰にも愛情を向ける愛の女神(ミネルヴァ)の如く、慈愛を注ぐ少女の表情に(おも)えた。


 ───そんな中、一人の貴族の少年が自分を拾ってくれると言った。どれだけ頑張っても誰にも認められず、ただ僻まれて、嫉妬されて。それでもそこを捨てられない自分を認めてくれた、居場所を作ってくれると言ってくれた。それは、彼女にとっては救いに他ならなかったんじゃないかって、私はそう思います。


 外を眺める彼女(リア)は、そんな声を空へと溶かしゆく。聴いていると不思議と落ち着くような、長閑な自然のような、あるいは琴をそっとやさしく指で弾いているかのような声色を、昼の眩しい陽射しが降り注ぐ田園地帯へと溶かしゆく。


 ───けれども少女が選公国へと赴く最中、当の選公がレヴァーテを攻めることを決意した。旅を続けていた少女は軍に捕らえられ、そこで純潔を散らすか、あるいは死を、と迫られてしまった。


 陽射しが降り注ぐ田園地帯の、その小麦色。人が開拓した遥かなる(いにしえ)より変わらぬその風光(けしき)が、今という言葉(ことのは)の意味する時間感覚を曖昧にする。田畑の向こう側、馬車に乗った少女が槍を掲げる兵士に囲まれ、その場で降ろされる。そして、純潔を散らすか、あるいは死かと迫られる。

 その少女の表情は、けれども決意に満ちたそれ。


 ───少女は死を選び、肢体は切り刻まれてどこかへと消えてしまった。けれども白百合だけはその場に残っていて、駆けつけた公太子はその白百合だけを持ち帰った。これが、この道を(マドンナ)百合(リーリエ)と呼ぶ(いわ)れなのだそうです。


 少女が、白百合の純潔を保つために死を選んだ場所。旅の途中で、救われるはずだったその行き道で、死なざるを得なかった場所。白百合を遺した場所、悲劇の場所。

 言葉は、いくらでも頭に浮かぶに能う。けれどもそのどれもが相応しくない。どれだけ重ねても、それを表現することはできない。感情の波は言葉を置き去りにする。だからこそ人は、ただ一言「(マドンナ)百合(リーリエ)の道」とその道を(うた)う。

 そして彼女(リア)は、そっと息を吸う。


 ───"Frühling, Frühling, Frühling, wer dich liebt wie ich."


 ファビウス選公国の、低地地方の訛りを交えながら、そう歌う。そっと口ずさむように、ここにいない誰かへと語りかけるように、あるいは空へと溶かしていくように。空の蒼色に歌声の色が混じって、ひどく澄み渡った、だからこそ悲哀を感じる色に変わる。

 ……春よ春、そう春よ、汝を愛したるに我以上の者はなし。

 告白のようでそうではない。無き友か、あるいは亡き妻か。そんな、思い出へと語りかけるかのよう。


 ───"Frühling, Frühling, Frühling, voll Glück erwart' ich dich!"


 まだ成長しきっていない喉をそっと上げて。力を込めずに、けれども想いはそこに込めて。決して力強い声ではない、けれども芯が見えるような、そんな歌声。

 蝶が田園を飛ぶ。田畑の小麦の中ひっそりと、けれども凛と咲きたる白百合に止まり、羽をそこで休める。

 ……春よ春、そう春よ、幸せを抱きて我、汝を待たん。


 情報都市(サイバーパンク)が写っているはずの視界に、懐かしい田畑の風光が覆い被さる。ギラつく蛍光色(ネオンサイン)が太陽の優しい陽光に、居並ぶ会社勤めの人達(サラリーマン)が田畑を耕す農民たちに見える。蝶が飛び、それを見る農民たちが払い除けたり、あるいは癒やされたり。


 ───"Oh schein in mein Stübchen recht bald nur hinein,"


 植え始めの小麦が、大地に根を張る。戸を開けて、蝶を人が招き入れる。春を招き入れようと、子供たちがわっきゃと騒ぎながら。それを見た農民たちが、手伝えーっ、と叫びながらも田畑を耕す手は止めない。

 ……汝、疾く我の家に入り来たれ!


 いつの間にやら、記憶の中の歌声に少年の声が混じりゆく。僕の声だと気づくのに、時間がかかった。かつて、彼女(リア)とともに口ずさんだ歌。記憶の中の声は純真なそれで、けれどもそれとも違う声を聴覚が捉える。


 ───"Mein Schatz hat schon Sehnsucht nach dir!"


 情報都市(サイバーパンク)の風景がだんだんと、かつての風光(けしき)に重なっていく。彼女(リア)の声も少年の声も遠のいて、記憶の中で歌っている少年の声と同じ、けれどもどうしようもなくくたびれてしまった声がそれに取って代わる。

 ……契りたる(おなご)や汝を待つに。


 黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)の毒の棘が、不意に胸を刺した。鋭い、けれども鈍くて痛い、そんな感覚が胸を締め上げていく。だんだんと、少しずつ、ぎゅうっと締められていく。まるで真綿で無理やり締められているみたいに、少しずつ、でも確実に締め上げてきて。すう、っと息を吸う。腹の底へと溜まるように、ゆっくりと、そう深呼吸する。そして、はあ、と一つため息をついた。

 喉に手を当てる、ほとんど目立たない喉仏が僅かに上がっていた。歌う時の癖、女性のような裏声で歌ってしまうから。いつの間にやら、私も歌っていたらしい。それに気づいていなかったというのも不思議な話だけど、けれども私は歌っていた。そして、それに気づいたが故に、その歌声は止まった。

 別に歌いたかったわけでもなければ、思い出に浸りたかったわけでもない。第一、僕なんかが思い出に浸っていいわけがない。過去に浸って甘い夢を見て、現実から目を逸らしてひたすら逃避を繰り返して逃げ回って目を背けて背中を向けて周りの声を無視して全部一人で背負わないといけないのに婚約破棄という名前と貴族という仮面で責任を放り投げて、過去を捨て未来に生きよと告げて、周りを扇動して。そんな自分こそが過去に浸っているなんて、そんなの。

 けれども浸ってしか生きられないのも事実で。ああそうだよ、だってどうしようもないじゃないか。僕はこんなにも弱くて脆くて馬鹿で愚かで。こんな子供でいてはいけないって知っていてもどうしようもなくて、せめて他人には迷惑をかけないようにって思って堪えて堪えて堪えて、結局こうやって最後には婚約者の足跡を追うなんて言って逃げ出して。誰かに言うべきだった? そんなはずがないさ、そうだよだってこんなこと言ったら裏切りなんだから。でも言わなかった結果がこれなわけで、結局堪えられずに逃げ出したわけで。でもだって、ならもうこらえるしかなくて。でも弱くて、ひたすら罪悪感とか決断の重さとか、そういうのから逃げ出すしかなくて。

 あーあ、なんでこんなにも僕って、弱いんだろう。なんで、どうして強く在れないんだろう。強くなきゃいけないのに、結局心のなかでは彼女(リア)を頼って、婚約破棄なんていう自己責任極まりないことに責任転嫁して。ホント、どうしようもなく身勝手だ。分かってる、分かってるよ、そうやってなんで弱いんだろうって自己憐憫に浸って逃げることが一番駄目だってことは。でも、ならどうすればよかった? どうしようもなかった、結局僕は変わることさえできないくらいに弱かったから。誰かに支えてもらわないと生きていけないくらいに、どうしようもなく弱かったから。でも支えてくれた彼女(リア)の手を離したのはまさに僕自身で、でもそれも仕方なかったことで。そうしなかったら僕も彼女(リア)も、おそらく生きていけばしなかったから。貴族社会っていう空間では、もう関係を続けられなかったから。だからどうしようもなくて、いやどうにかできたのかもしれないけれどでも馬鹿な僕には方法なんて思いつかなくて。だから、だから……っ、痛い。黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)がまた胸を締め上げる。強く、強く強く強く縛り付けてくる。胸から伸びた茎が体中を絡め取って、グチュグチュに締め付けようとしてきて。棘だらけの茎がっ、あう……痛い、体中がちいさな棘に刺されて全身が痛くて。すう、と息を吸って、肺に酸素を送り込んで、早まる鼓動を収めて。わかってる、わかってるよ僕が悪いから、私が悪いから。そうだよ、悪いのは私だから、だからごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめん……。

 ……もしもこんなことが知られたのなら、後ろ指を刺されることだろう。いやまあ、そうじゃなくても刺されても当然か。これだけ社会を変え、人を、国を変えてしまったんだから。


 深呼吸して落ち着いたのに、またどくどくと、黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)から毒が流れ出す。体内にひとつ、またひとつと毒の液を流していく。空虚な心の(グラス)に、毒が流れ込んでいく。

 胸がまたぎゅう、と締まる感覚がする。でももう、そんな軽い痛みにも苦しさにも慣れてしまった、でも痛いという事実も苦しいという事実も変わりはしない。


 いや、でも苦しんで当然なんだから。窓の外に広がる情報都市(サイバーパンク)、くたびれた会社員(サラリーマン)が酔いしれて街道に座り込む。列車から降りてきた女性とその子供が、迎えに来たらしい会社員に情の無い目線を向ける。蒸気都市(スチームパンク)情報都市(サイバーパンク)に引き裂かれた夫婦は、その愛情さえも距離に引き裂かれる。

 その距離を設けたのも、引き裂いたのも大元をたどれば私だ。いやそれだけじゃない、今見えてない不幸も、いや私が見ようとしていない不幸も、確かにそこにある。それを生んだ私こそが、直視していないだけだ。逃げて、耳をふさいで、見ないようにして。今だけじゃない、昔からずっと逃げて逃げて逃げ続けて。

 逃げて逃げて、逃げた先がこれだ。


 「はは……」


 乾いた笑いしか浮かばない。壊した世界を直視できずに、婚約者の足跡をたどると偽って、こうして首府(レヴァーテ)から逃げ出すように旅に出て、手紙を読んだだけで情けなく吐いて。そんな逃げ続けた先の自分が、なんだか無性に腹立たしくて、悲しくて、馬鹿みたいで。

 現実を直視せずに子供の癇癪を改革という大義名分で糊塗した、理想を達成するためと国民を偽って現実を壊し尽くした。ならその責任は果たさなくてはいけない。やったことの責任は最期まで、子供でも分かる論理。でも現実を壊し尽くした責任なんて、たとえ自分が死んだとしても償いきれるものではなくて、いやこれも自己欺瞞なんだろう。そうやって死ぬことから逃げて、身勝手に振る舞って、勝手に自己憐憫に浸って。彼女(リア)の求め創り上げた未来を目指す機械(ゆめ)と正反対の、まるで壊れた時計みたいに、ひたすら何かを繰り返すばかりで。ホント、最悪だ。いやそうやって分かったふりをしているほうがもっと性悪か、理解した面をして被害者面して、そんなの、そんなの……っ。


 「あの……」


 俯いた思考に、不意に若い少女の声が響いた。


 そちらの方に顔を向ける。

 視界にぎんいろが映り込む、背後の窓から入り込んだ蛍光灯(ネオンサイン)が淡く髪を照らし出す。どこか儚げな表情が、けれども少女の芯の強さを窺わせる。


 「あっ、えっと……」


 ギターを背負う背が、その重たさに負けてほんの少しだけ傾く。青いパーカーが着崩され、中の白色の服が露わになっている。

 ホットパンツの下の白くて健康的な脚が、列車の床を力付く踏みしめる。甘く垂れた濡羽色(ダークブラック)の睫毛が、少し不安げに揺れる。空色(スカイブルー)の瞳が疲れ果てた少年(老人)の姿を映し出す。


 「綺麗な髪ですね」

 「ん? ああ……、褒めていただき恐縮です」


 一瞬我を忘れていた自分を恥じながら、そう返した。自分の中で循環する熟々と腐り果てた思考を止め、目の前の少女と向かい合う。服装や顔立ちから見て、ついさっき車内でギターを弾いていたあの少女だ。

 私が視線を遣ると、目線をほんの少し泳がせた。沈黙、沈黙、沈黙。無音が流れる、私と少女の間を蒸電併用列車(バイレール)電動機(モーター)音が泳ぐ。きゅいー、という穏やかな、けれども高い女性の声のような柔らかな音。


 「続き、歌わないんですか?」


 言葉が紡がれる。私と少女の間を泳ぐ電動機(モーター)音が静転(スモルツァント)し、ただ少女の声だけが響く。まるで琴でも奏でているかのような、整った声。


 「……歌いたかった、というわけでもないですから」


 そう、言葉が勝手に紡がれていた。

 私の傍にある硝子(ガラス)窓から情報都市(サイバーパンク)蛍光(ネオンサイン)が射し込む。すっかり沈みきった太陽も星空の淡い光も押しやって、ただ人工のぎらぎらした光ばかりが車内を満たす。紫、青、白──色とりどりの、けれども深みを欠いた単調な色。それらが少女の身体を照らし、単調だった光が混じり合って、淡くて儚げな輪郭を描き出す。


 「そう、ですか……」

 「それに、歌詞も覚えていませんから」


 少女の曖昧な受け答え。それに対して私は、ほんの少しだけ強めにそう返していた。自分の口調の思わぬ強さに、私こそが驚く。

 時計の針の音が聞こえる、チクタクチクタクと。その針の音は、けれどもまだやはり壊れたままのように聞こえる。同じ刻を繰り返す、そんな哀しげな、無意味な時計。


 「ファビウス選公国の民謡、でしたっけ?」

 「たぶん、ですが。私も、特段この歌について知ってるわけではありませんから」


 列車が隧道(トンネル)の中に入る、それと同時に減速していく。入り込んでいた光は一気に減退し、代わりに隧道(トンネル)内部の間接照明が暖色で車内を照らす。光が少女を通り過ぎては、また別の光が少女に映る。


 「また(ウェン・ディア)白百合が・ヴァイセン・マドンヌリーリエ咲いたら・ヴィダー・ブルィーン


 少女が、そう声を出す。

 また白百合が咲いたら、それがあの民謡の名前だ。公太子が白百合を見て再会を願う、そんな気持ちを謳った民謡の、そのタイトル。


 「哀しいけど、でも美しい。そんな民謡ですよね」

 「……そうですね」


 くすっ、と少女が笑う。目を瞑って、甘く垂れた濡羽色(ダークブラック)の上下の睫毛が重なる。瞼の内側に吸い込まれる空色(スカイブルー)刹那性の幻惑感(リップクリーム)に彩られた唇が穏やかに結ばれる。

 その表情が彼女──リアに重なる。琴の音のような声を上げながら、くすっと笑う彼女に。そっと僕に語りかけて、歌を歌って、声を空へと溶かして、そんな彼女に。


 ───"Er sagt: Ich brauch' Sonne um glücklich zu sein,"


 不意に、彼女の声が聞こえる。

 陽が穏やかに顔を照らし、儚げなのに芯のある強さを持つ、そんな二律背反(アンビバレンス)を映し出す。白雪のような銀色(シルバースノウ)の髪がふわっ、と揺れる。喉に細い手を当てて、目を閉じて。

 隧道(トンネル)の間接照明が少女を照らし、喉から手を離した彼女はそっと前にその手をかざす。僅かに開かれた目が光を反射して、彼女の儚さを象徴するかのように薄く輝く。

 ……陽なくんば満たされぬ。

 幸せを追い求める白百合の少女が、雲により陽を隠され、入ってしまった暗い隧道(トンネル)の暗闇に囲まれる。陽を失った少女が、彼女に、少女に重なる。不意に光を喪い暗闇に満たされた少女は、それでも覚悟を決めて前を向く。


 ───"dann wünsche dir alles von mir."


 祈るように、願うように。

 前に出した手をそっと胸に当て、白百合の少女を眺める彼女は歌声を奏でる。天に願いをかけて、白百合の少女は血を流してそっとその肢体を横たえる。少女は祈りを捧げ、彼女は願う。それを映すように、隧道(トンネル)を脱した列車はまた情報都市(サイバーパンク)からの光をその車内に受け容れて、陽の代わりにその淡い光で少女を照らす。雲がまた晴れ、陽が彼女を照らす。

 ……天よ叶え(たま)へ。


 「なんだ、覚えているじゃないですか」


 声が不意に止んで、少女がそう言った。

 いつの間にやら陽は消えて、いたはずの白百合の少女はまたどこかへと旅立つ。自分の喉に右手の人差し指と中指を当ててみる、ほんの僅かに揺れていた。それでようやく、自分がまた歌っていたのだということに気がつく。

 きゅいーッ、という停車音が鳴る。情報都市(サイバーパンク)の光が穏やかに車内へと入り込んで、少女を照らす。10代後半の、現実を知って、それでも若さ故の自信を湛える、そんな若々しい顔と身体。私がどこかへと置き忘れてしまったそれを、少女は全く意識せずに纏う。


 《現在停車中の駅はフロールム、フロールム。[(グリューン)]線に乗り換えの方は三番、[花街道ブリューメンシュトラッサー]線に乗り換えの方は五番出口の方へとお進みください》


 列車に備え付けの拡声装置(スピーカー)から、そんなアナウンスが聞こえる。扉の開く音、他の列車が駅のホームへと滑り込む音、雑踏、話し声。静寂に満たされた車内に再びそんな活気(アニマート)が溢れかえる。階段を駆け降りて閉まりゆく扉へと駆け込もうとし結局負ける者、人の波に押し流されて降りるつもりもないこの駅で一度降りてしまう者。

 駅の構内の間接照明が車内を照らす、備え付けの照明はまだつかない。夜間第二時刻(ツヴァイアベンド)までは数分ある、定刻に従う照明たちはその時を待ち望むかのように、一様に車外からの光を浴びる。


 「綺麗な、歌声ですね」


 少女はそう言って、私の目を覗く。

 その目の純真さが、また彼女(リア)のものと重なる。どことなく似た風貌と声が、僕の感覚を曖昧にしていく。目の前にいるのは彼女なのか、それとも少女なのか。理性では違うと分かっていても、どうしても少女が彼女と別人のようには思えない。

 いや、私が重ねてしまっているのだろう。少女と彼女は良く似ていて、だから重ねてしまう。


 壊れた時計の音が、またチクタクと頭の中で響く。未来へと手を伸ばす彼女(リア)機械(ゆめ)とはまるで真逆の、ひたすら停滞する音楽(サウンド)

 同じ時刻を反復する時計の針は、それゆえに過ぎ去って戻りはしない過去を現在の前に引きずり出す。現実という時間をかき乱しながら。


 「……昔、そんなことも言われたかもしれません」


 隣、よろしいですか? そう聞かれた僕は、構いませんよと返してそっと視線を外した。いまだに駅に停車を続ける車両、その窓から射し込む寒色系の蛍光(ネオンライト)がほんのりと少女を包み込む。


 ──やっぱり、歌ってる時の貴方(あなた)が一番落ち着きます


 席に座った彼女がそう、のんびりと云う。陽も翳りて、暗い車内を外光の照らすに至る頃合い。瓦斯(ガス)灯が町中を彩りて、暖色光で夜闇を追い払う。暖かな光の包み込みたる彼女は、どこか浮き世離れの美しさを湛える。

 蜜柑(オレンジ)色の車内灯(ランプ)は、未だ照らない。車外の外光が翳も光も生み出して、故にその陰翳こそが彼女を美しく照らす。銀雪色(シルバースノウ)の髪が対照的な暖色に照らされて、透け通る。儚げな、然れども芯の通りたるその姿に、心が惹き込まれゆく。


 ───お疲れなのでしょう、特に最近は。


 貴族という固定概念(スノビズム)に満たされた貴族令息たちから、恰度(ちょうど)心ない言葉を言われ始めた時分。軽蔑、異端視、傲慢、排斥──斯かる視線の槍は、けれども僕の心に傷を負わすに能わない。その芯に、彼女(リア)こそが坐したりしがその所以(ゆえん)だった。然れども槍の痛みを感じるも事実で。

 公国連合(ライヒ)大公(カイザー)、その跡取たる第一公子殿下はその急先鋒だった。否、精確には第一公子殿下を取り囲みたる重鎮の貴族令息たち。彼等こそが僕を、いや、リアを警戒していた。彼女(リア)機械(ゆめ)を、彼等は恐れた。僕は、あくまでも当てつけに過ぎない。


 ───少しは頼ってくださいよ、まったく。


 そう云う彼女(リア)には、けれども何度と無く助けられてきた。厭味、軽い嫌がらせ、陰口、面と向かわない罵倒。そんなものを目の当たりにして、けれども僕は、彼女(リア)の歌声と癒し故に強く在れた。唯だ其れだけで、壊れずとも痛む僕の心は自ずと癒ゆに足りたから。


 ぷしゅ、っと抜けた音が車内に満ちて、灯が点く。

 暖色の瓦斯(ガス)灯が芯のある彼女の美しい躰を照らし出して、寒色の間接照明が儚さを湛える少女の銀色の髪を透かす。蒸気列車(スチームレール)非動力扉(マニュアルドア)を閉める駅手が声を上げ車内に人の声を轟かせ、蒸電併用列車(バイレール)自動扉(オートドア)が列車の動力を得て、車内を静粛なままに保ちながら外界との通路を遮断する。つい先程まで聞こえていたはずの外の雑踏が消滅し、代わりに蒸電併用列車(バイレール)発電機(モーター)音が車内に響く。


 「なんだか、ぼーっとしてましたね」


 声が聞こえる、視線を遣ると少女が隣の席に腰掛けていた。銀雪色(シルバースノウ)の長髪を一本結びにしていたのを、優しい手つきで解きながら。背負っていた弦楽器(ギター)を、いつの間にやら健康的な白い肢に挟んで。

 発車鈴(ラウンチベル)がリンリン、と二度鳴く。窓の外では、ぎりぎりで列車に乗れなかった男性が哀しい背中をこちらに向けて、久方ぶりに会ったらしい男女が抱擁(ハグ)をする。酒を浴びるように飲んでふらふらになった妙齢の女性が駅構内の硬い樹脂(プラスチック)製の灰色座席に倒れ込むように座り、隣に座っていた幼い子供がぎょっとした顔を向ける。そんな駅構内の日常を、白色のやや古びた間接照明が照らし出す。穏やかに、長閑に、そっと照らし出す。


 きゅいー、という可愛らしい音が鳴り響き、一瞬遅れて蒸電併用列車(バイレール)が加速を始める。窓の外の風景が後方へと流れ始め、それを構内の人達が見送っていく。ふっ、とほんの少しだけ息を吐く。

 いつもより、ほんの少しだけ優しく吐いた気がする。なんだか、少しだけ心が温まって、凍りきった心の奥底がほんの僅かにせよ溶けたような気がしたから。


 「……もしかして、貴族の方ですか?」


 髪を解き終えた少女が、そう言った。

 束ねられていた銀雪色(シルバースノウ)の髪はふわりと座席へと落ち、手によってかき分けられた前髪が少女の端正な顔立ちを露わにする。やはり彼女(リア)にどこか似た面持ちだった。甘く垂れた濡羽色(ダークブラック)の睫毛も、溶けていくかのような空色(スカイブルー)の瞳も、幼げなあどけなさと大人びた艶めかしさを同時に持つ輪郭も。


 「ええ、まあ。こんな時世ですから、元貴族と名乗るのが正しいですが」


 視線をそっと逸らして、私はそう言った。

 貴族、という階級はもう、名実ともに崩壊した存在だ。先日の国会議事堂(ライヒスターク)で、私が行なった宣言によって。もっとも、そんな宣言をしなくたって事実上崩壊して久しい存在ではあったけれど。


 駅を離れた蒸電併用列車(バイレール)が、その車輪を二本の鉄製軌道(レール)に噛ませながら路線を走る。電動機(モーター)が車両上部の受電装置(パンタグラフ)から電気を受け取り、それを運動へと変換していく。窓の外では情報都市(サイバーパンク)に特有の全面ガラス張りの高層建築物(ビル)が立ち並び、そこらじゅうに取り付けられた大画面(スクリーン)に広告が映り込む。そのすぐ側では蛍光灯(ネオンサイン)とギラつく照明とで照らされる路地が街中を駆け巡り、照明装飾(イルミネーション)と整理灯、そして小型運送車両(タクシー)大型運送車両(バス)がケバケバしい光を放ちながら大通りを埋め尽くす。

 そしてそんな町中に、ひときわ高い塔が見える。


 ───そう、電波塔だ。やがて貴族たちは、たかが電波を発する塔のために数千万、いや数億(マルク)を払うようになる。私が保証しよう。


 ふと、そんな言葉を思い起こす。

 彼女(リア)とは対照的な、淀んだ水ばかりを与えられながら育ったスミレのような深菫色ミスト・ヴァイオレットの瞳。何処までも闇を飲み込んでいくかのような、濁り果てた夜闇色(ダーティー・ブラック)の髪。そして、常に何かを演じ続けるが故にどうしようもなく端正で、どこまでも引きずり込んでいくような、破滅の女(ファム・ファタール)の美しい顔立ち。


 ───ヴァルトルーデ・フォン・ヴェールヌイ、以後婚約者として宜しく。


 東部辺境地帯の辺境伯が一つであるヴェールヌイ辺境伯の娘、ヴァルトルーデ・フォン・ヴェールヌイ辺境伯令嬢。それが、私の二番目にして最後の婚約者。


 目線を窓の外に遣る、相変わらずの夜闇を追い払う蛍光灯(ネオンサイン)が、情報都市(サイバーパンク)を不夜城と化さしめる。けれど、それでも夜闇は残る。どれだけ照らされても、いや照らされたが故にむしろ、昏さばかりが表に出てくるような、そんな場所もある。

 私がはじめて会った時の、令嬢様に対する印象がそれだった。

 どこまでも惹かれゆき、闇へと引きずり込むような、そんな魔性の女性。仮面を被り、使い分け、必要なら人を切り捨てる冷酷も持ち合わせるような、そんな感じの。けれどもその冷酷を感じ取ったのは、決して令嬢様自身がそんな雰囲気(オーラ)を放っていたからではない。寧ろ令嬢様は、隠すことに長けていた。ただ私が奥底に潜む闇を感じ取るのが得意だった、それだけの話だ。


 ……だって、どうしようもなく僕と令嬢様が似ていたから。


 そんなわけだからどうしてもヴァルトルーデ辺境伯令嬢のことを愛称で呼ぶことができなくて、私はずっと、私の二番目の婚約者のことを令嬢様(フロイライン)と呼んでいた。失礼だと分かっていても、どうしてもそう呼んでしまっていた。


 「電波塔を、見ているんですか?」


 不意にそんな声が聞こえた。優しくて穏やかな少女の声、凍りつくような令嬢様の声色とは全く違うそれ。どこか彼女(リア)と重なるような、そんなふんわりとして包み込むような声色。

 どこか上擦っていた心が、まるで水でも滴り落ちるかのような波紋となり、やがて止まる水の如く平静を取り戻す。

 けれども、いやだからだろうか? 時計の針の音が、壊れたまま同じ時刻を告げ続ける。水を定期的に揺らしては、またもとに戻す。チクタク、チクタク、と音ばかりを哀しげに鳴らしながら。彼女(リア)機械(ゆめ)のかき鳴らす活発な音とは真逆な、ひたすらに哀しいだけの音。


 「昔のことを、思い出すから」


 ぼんやりと、そう答えていた。ひどく寂しくて、ひどく孤独な声色で。

 意識したわけでもない、ただ言葉だけが先に出ていた。何か別のことを言うべきだろうか、とふと思ったけれど、でも少し考えたところでその答えがもっとも相応しいようにも思えて。それに、少女はどこか納得したかのように頷く。別に、論理的な答えを求めていたわけではないのだろう。だから、私は口を噤んで窓の外を眺めた。

 そういえば、令嬢様も彼女(リア)と同じで音楽が好きだったか? もっとも彼女(リア)が好きだったのは穏やかで優しげな曲だったのに対して、令嬢様ときたら、「月光」や「魔笛」といった冷たくて、あるいは凍える旋律を好んでいた。けれどもそういう曲の方が貴族令息たちと話が合うようで、私以外の令息たちと話す時にはそんなどこまでも冷たい曲で盛り上がっていたもので。そう、令嬢様(フロイライン)仮面(ヴェール)は、まさに「貴族」だった。


 ───リア様との婚約破棄を、無駄にしたくないのだろう? なら、私と組めば良い。あんたの欲しいもの、全部くれてやるよ。


 そう、私の耳元で令嬢様は囁く。破滅の、すべてを壊す破滅の囁きを、私にする。リアと追いかけた夢の果て、婚約破棄してもなお残る機械(夢の欠片)を前にして、令嬢様は私にそう告げた。

 今の私なら、令嬢様の黒い薔薇の球根を受け取らなかっただろうか? 黒い喪服のような服装(ドレス)を纏い、どこまでも冷たく凍えた、濁った深菫色ミスト・ヴァイオレットの瞳を向けた令嬢様の、そんな甘くて魅惑的な破滅の囁きを、断ったのだろうか? いや、そんなわけないか。婚約破棄して壊れ果てた時計の針は、同じ時刻ばかりをチクタク、チクタクと虚しく指し続けているんだから。あの時から、私の時間は止まってしまったのだから。だから、私は同じ決断をし続ける。婚約破棄という仮面(ヴェール)でたかが子供の癇癪を隠して、必要という名で貴族社会を壊して。たとえ結果がこれだと分かっていたとしても、これ以外にどうなりようもないと分かっていたとしても、それでも私はその決断を何度でも繰り返すだろう。ああ、どうしようもなく愚かで馬鹿だよ、本当にどうしようもないくらいに。

 令嬢様の鋭利な氷刃が、僕のことを貫いてくれればよかったのにって、そう、何度思っただろうか。何度も何度も、ずっと、いつでも、ふと思った時に、何回だって、何度だって、だから……。

 破滅へ誘う令嬢様(ファム・ファタール)の氷刃は、けれども結局は令嬢様自身を貫いた。そして、抱える黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)ごと彼岸の彼方へと運んでいった。その氷刃が僕を刺して、令嬢様が生き残ればよかったのにって、いやでもそう思ったって何も変わらないか、でも、でもだけれど。もし、もしも令嬢様が生き残って私が消えてしまえば。それなら、ここまで国が壊れることもなかっただろうに。それなのに、生き残ってはいけない私が生き残って、令嬢様は消えた。そして私は、中に誰もいない形骸的残響(ゴースト)に絆された。中身を注いでいた令嬢様(ファム・ファタール)は消え失せて、ただ形骸化してしまった残骸が、残響(わたし)だけが、虚しく幽霊(ゴースト)みたいに都市幻想(サイバーパンク)を唱え続ける。市民達に、ただ盲目的に、改革という都市幻想(ファンタジー)を押し付ける。そして中身のない残響(ゴースト)が貴族社会にひしめき合う固定概念(スノッブ)と漂う皮肉の人生(クロエ)を壊し続ける。誰のためでもない、彼女(リア)のためでもない、令嬢様(フロイライン)のためでもない、自分自身のためですらない。壊れた時計が虚しく、無意味に音を鳴らすように、同じ刻をのみ示し続けるように、針の残響(わたし)が、何もかもを壊して。そして、そのざまがこれだ。生死さえ分からないかつての婚約者の足跡を追うと自分を騙して、いや騙してさえいないか。もう、それにすがるしかないから、自分から離した手を情けなくもう一度取りたいからって、ただそれだけか。たかがそれだけのために、僕という残響(ゴースト)蒸電併用列車(バイレール)の窓の景色に透かす。ほんと、どうしようもなく阿呆で、皮肉だ。だってそうじゃないか、結局自分が悪いのに情けなく相手にまた手を取ってほしいと、しかも生きているかもわからない他人に頼むなんて。いや手を取ってほしいわけでさえない、そこにいてほしい、ただそれだけでいいから、否定されたって構わないから。でも、だから……。


 ……あーあ、ほんと、バカだな僕って。でも、こうやって自己憐憫に浸ってる自分がもっと嫌だ。嫌いだ、どうしようもなく、本当に大っ嫌いだ。わかってる、結局どうしようもないんだって。もしも彼女(リア)が生きていて、じゃあそれでどうなる? 会っても何も変わらない、かといって会わずに帰っても何も変わらない、八方塞がりの中でただ慟哭して自己憐憫に浸って勝手に苦しんで、結局自分がただ弱いだけだって分かってて。こんな自分を、誰か嗤ってくれないかな。それなら、いやそれが一番いいかもしれない。だって僕のことを馬鹿って認めてくれるんだよ、生きてる価値なんてない、そう認めてくれるんだ。それって、本当にどうしようもなく楽なこ……っ、あ、い……いた、痛いッ! は、荊棘の針が体中にまた刺さる。黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)の茎が成長しながら体のそこらじゅうにその棘をさしていって、そこから毒を流し込んで。いきなりの痛みに、あわてて口元を両手で押さえて。


 「ちょ、えっ!? だ、大丈夫ですか?」


 少女の、いきなり口元を押さえる私を見て驚き心配する少女の、優しい氷刃が頭を真っ二つに、痛みさえ感じさせないような鋭利な切れ味で切り裂いた。いきなりのことで頭が一瞬ショートする、痛みが一瞬引いて代わりに頭の血が全身へと流れ帰っていくかのように感じる。血の気が、頭にのぼっていた血が全て一気に滴り落ちる。ざっ、と一気に。引きちぎられた頭から全ての血が一斉に流れ下るように。

 息が、肺に入る。瞬間、激痛が帰ってくる。痛い、待ってやめて、ごめんなさい、私が、僕が悪かったから、だからやめて、やめてください、お願いします、お願い、お願いだから……っ!

 口の中に舌が入り込む、唇と唇が触れたような感覚がほとばしる。強引に、頭を両手で押さえつけられて、拒否する感情さえ認めない強引な接吻(キス)(いや)らしく、負の感情を好む淫魔のように。


 「んゔっ!?」


 かつての記憶が繊細に蘇る。ドロっとしてねちっこい、自分と他人の唾液が絡み合って吐き出したくなるような舌の絡み合いも、僕の唇に合わさって形を変える、柔らかで生温くて気持ち悪い唇の感覚も、力任せに拒否したい感情も微かな意志も受け容れたくないという気持ちも、その全てを押さえつけられる強引な従順も。その胃の奥底からの気持ち悪さがすぐに喉まで迫り上がって、ぐるぐる回り続ける空っぽの胃酸が食道越しに喉まで巻き込んで、さらに上まで突き上げようとしてきて。


 「あっ、えっと水、水……っ!」


 あわてて席から立ち上がって、水を取りに行こうとする少女を視覚に捉えて。銀雪色(シルバースノウ)の髪がふわりと浮かび上がり、まるで雪でも降ったかのように視界が雪で埋まる。そんな彼女に、私は。


 「……えっ?」

 「こ……ここに、いて」


 そう、言葉が先に出ていた。

 雪を手でつかまえて、そう見えたのは彼女の髪で。雪の中で歌う彼女を、私は困惑する声でようやく判別できて。

 胃の中がぐるぐるして、喉からさらにせり上がってくる。中身のない胃は、遂には胃酸を喉まで突き上げてきていて、まるで酸で溶かされたかのような痛みが喉の少し上に起こる。熱い、痛い。そこに黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)が突き刺さって、一気に酸をびちゃ、っとかけられて。


 「あっ、えっと……そうだ、こうして……」


 温かさを、不意に頭の近くに感じた。

 黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)が、頭に乗せられた手の温かさに負けてその刺々しい茎を枯らしていく。上ってきていた酸が、茎を失ってそっと下へと落ちていく。


 ───"Wenn der Madonna Lilie wieder blüht,"


 彼女の、少女の声が聞こえる。温かで、氷を溶かしていくかのような、空虚(ニヒリズム)に愛で満たしていくような、穏やかでほんのり高くて包み込むような、そんな歌声。それが、体中の痛みを癒やしていく。まるで、春の日の太陽みたいに。


 ───"sing' ich dir mein schönstes Liebeslied."


 黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)が、また胸の奥へと帰って眠りにつく。伸ばした茎を枯らした歌声が全身に満ち溢れて、毒と傷跡の痛みを癒やしていく。少女の、彼女の歌声が、その温かみを溢れさせていく。


 「落ち着きましたか?」


 顔を上げる、そこにあったのは少女の穏やかな表情だった。そこでようやく、頭を撫でられていたのだということに気がつく。それだけじゃない、こんな恥ずかしいところを少女に見られたうえに、まだ成人しているかも怪しい少女に慰められるという、あまりにも度を越した醜態。


 「す、すみません……」


 あわてて顔を上げて、視線をそらす。

 本当に、何をやっているのだろう私は。貴族ともあろうものが、よりにもよって人前でこんな醜態を晒して。しかも、年下の少女に慰められるなんて、本当にどうしようもなく情けない。


 「ううん、私は全然」


 そっと、少女は首を振る。

 本当に全く、気にしていないといった雰囲気だった。けれども、とはいっても、やってしまったことがやってしまったことだ。本当に、申し訳ない。いや、これも自己憐憫だろうか? たぶんそうだ、だって相手は構わないといっているのに勝手に申し訳なく思っているんだから、これが自己憐憫と言わずに何というのだろうか。……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、なさい……、ごめん。

 こんな、こんな自分で本当に、本当にっ、ああもう、なんでどうして、どうして……っ!


 「……歌って、良いですよね」


 暴走していく頭に、そんな言葉が不意に走った。

 少女の、穏やかな声。その声を聞いて落ち着いて、すう、と息を吸うことができた。冷静になる、いやまあ貴族として醜態を晒してしまったことは事実ではあるけども。けれど、暴走機関車みたいな思考はようやく止まった。


 「たとえどれだけ辛くたって、響くものは響くんですから」


 ふふっ、と。少女が穏やかに笑う。

 その笑顔が、車内の白色の間接照明と窓の外の青、白、紫といった無秩序な蛍光(ネオンライト)に照らされて、儚く、けれども同時にどこかはっきりと映し出される。あどけなくて、大人っぽくはないけれど純粋で。そんな、少女にしか浮かべられないような笑顔がそこにある。人差し指を折り曲げて、唇のあたりに当てて。目を瞑って、少女は穏やかに笑う。


 「何十何百の言葉だって、歌声には敵わない。それって、なんだかロマンティックじゃないですか?」


 少女が目を開いて、そう問いかけてくる。相変わらず穏やかな表情を浮かべたまま、そっと私に問いかけてくる。まるで彼女(リア)のような、純粋で儚くて、けれども芯のあるような、そんな表情。それを、私の瞳が捉える。引き込まれるような空色(スカイブルー)の瞳が、ぱっと開かれる。甘く垂れる濡羽色(ダークブラック)の睫毛がそっと、艷やかに動く。


 「……そう、ですね」


 実際、音楽には不思議な力があるようにも思える。よく彼女(リア)が言ったものだ。


 ───あらゆるものは、音の調和なんですよ


 そんな彼女だから、僕と一緒に夢を追いかけたのだろう。

 そんな彼女だから、未来に手を伸ばしたのだろう。

 そんな彼女だから、明日の光で世界を染めたのだろう。

 そして……、そして。


 そんな彼女だから、僕は彼女(リア)の傍には居られなかったのだろう。こんな、彼女に相応しくない僕は。


 「そういえば、私のさっきのライブ、聴いてくれていましたよね?」

 「ん? ああ、本当に最後の方だけ、ですが……」


 暗くて毒まみれの思考が、少女の声で断ち切られる。

 絡みつく黒い(ブラッディ)薔薇(ローズ)が、少女の穏やかな声でまた胸の奥へとしまい込まれる。


 「どうでしたか、貴族の耳からすると」

 「……良かった、と思います。まるで、夜に咲き誇る(キルシェ・ブリューテ)を前に亡き妻へと乾杯しているみたいで」


 一瞬、きょとんとする少女。

 不快なわけでは決してない、ただ意外で驚いているだけ、といった顔だ。けれど、そんな意外に思うことはあっただろうか? 歌に込めた意味が違ったように解釈されて驚いている、とか……? いやでも、あの歌の雰囲気は確実にこれだと思う。だって、少女の思いがそれだったから。だから……。


 そんなことを考えていると、不意に少女が吹き出した。


 「あははっ、すごい……っ! ホント、さすが貴族様だ……」

 「えっと……?」

 「実は瑞穂(ミズホ)に旅行しに行った時、バンド仲間と一緒にお花見をしてたら思いついた歌詞なんです。夜に(さくら)を眺めながら、三人と果糖水(ジュース)で乾杯して」


 ここまで完璧に言い当てられるなんて、全く思っていなかったです──そう、少女は言った。

 まあ確かに、完全に言い当てることは難しい。というか、如何な貴族といえども不可能だ。……あー、もしかしたら彼女(リア)ならできるかもしれない。でも、普通の貴族には無理だ。僕も、今回のはまぐれみたいなものだったし。でも、的中させられて、しかも少女が喜んでくれたなら、それで十分だ。

 なんだか胸が温かくなる。ほんのちょっとだけ、嬉しい。


 ……あれ、というか。


 「その……水を差すようで悪いのですが、許可って取って……」

 「無かったから怒られちゃった、車掌さんに」


 えへへ、と少女は頬をかきながら微笑む。ちょっぴりいたずらっぽい表情で、なんだか昔、彼女(リア)にいたずらされた時のことを思い出した。


 「でも、久しぶりにお姉さんに会えたから」

 「お姉さん……?」


 ついさっき、ライブをしていた時の少女を思い出す。そう、聞こえた弦楽器(ギター)の音色は二つ(・・)。少女が奏でていたものと、あともう一つ。

 隣に座っていた、まるでお酒に酔っているかのような女性の──


 「あれカナデちゃん、連れでもいたの?」


 ふにゃふにゃ、とした声色が聞こえる。

 完全に酔っている声、視線を向けると酒瓶を持って歩いている20代後半の整った容姿の女性がそこにいた。黒を基調とし白色の線が走るジャケットを羽織り、その下にどこか貴族のドレスのような薄砂色(サンドブラウン)蒼海色(ピュアブルー)二色調(ツートーン)のワンピースが、女性らしいが控えめの上品な肢体を彩る。前を開けたジャケットから覗ける薄砂色(サンドブラウン)と、傍から見たらスカートのようにも見えるワンピースの下の部分の蒼海色(ピュアブルー)が、砂浜のイメージを醸し出す。


 「またお酒飲んでるんですか……? いい加減にしないと体に障りますよ、汐音(シオン)さん」


 少女──カナデはそう、女性に告げる。

 酒を仰いだあと、ぷはあ、と言って目を見開く。瑞穂(ミズホ)に特有の、麦茶色の髪がふわりと揺れる。肩のあたりまでで切りそろえられた髪が、そっと流れる。ほんの少しだけ長い前髪から、紫丁香花(ライラック)のような淡紫ライト・ヴァイオレットの瞳が露わになる。まるで、海の傍で場違いにも一人咲いてしまった美しい花のように、私には見えた。


 「まあまあ、そう言わないでよカナデちゃん!」


 にぃ、とその女性──汐音(シオン)さんは笑う。

 蒸電併用列車(バイレール)終着駅(ターミナル)であるダンツィヒ駅を目指して車輪を軋ませる。婚約者の足跡を追うための唯一の手掛かりのある、ダンツィヒ駅へと。

 どこか垢抜けていて、けれども軽快なお嬢さんの微笑み。それを前に、情報都市(サイバーパンク)の背景は蒸気都市(スチームパンク)へと再び移ろった。

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