〈改稿版〉第1話 手紙
上河市のダンツィヒ駅行き蒸電併用列車に揺られながら、私はかつての婚約者からの手紙を開く。今となっては彼女の足跡を知る術もほとんどない。それでも私は、こうして列車に揺られながら、その足跡をたどる。わずかに遺された手掛かりを頼りに、生死さえ分からない彼女を追って。
手紙に顔を向ける。紙は空気の酸化力に負けやや黄ばみ、染み込んでいた薔薇の香水の匂いは消え去って久しい。けれども記憶が、記憶に付き纏う五感が鮮やかに蘇る。まるで幻覚でも押し付けられたかのように。
──リア様からのお手紙です、どうぞお受け取りを。
婚約破棄の騒動の後、一夜明けたる明日の、その夕暮れ時。赤い陽射しの差し込むは、まるで血が手紙に染み込むかの如くだった。もともとは艶やかな良い香りの薔薇の匂いが、体に入り込んで、その薔薇の荊棘をば刺したるかのように痛みを惹起させて。
「……っ」
胃が痛む、何十年も昔に刺さった荊棘が未だにその古傷を抉り続ける。あるいは、刃物で体中を切り刻まれてぐちゃぐちゃにされたかのよう。
痛い、痛い痛い痛い……。
奥歯を噛み締めて堪えようとして、けれども堪えきれそうにもない痛みが波打ちながら押し寄せる。酸を何度もびちゃ、びちゃと掛けられて、肌を溶かされて、凄く痛くて。溶ける肌が荒れて、血が出て、その血に毒が混じり込んで、からだじゅうに疼痛をあぶれさせて。酸で焼けただれた全身が、限界を超えた痛みにショートしている。
胃の中が溢れかえりそうになる。自覚した途端に胃の下へと周りこんだ毒が、無理矢理胃を押し上げてくる。
「っ! っ、はっ、はっ、はっ……」
深呼吸……だめ、いきが、入ってこなくて。呼吸、浅い、酸素足りなくて視界が滲んで。涙が出そうになるのをかろうじてこらえて、無理矢理咳き込んで。
「はっわ、はぅ、うぅ……は、はあーっ、はぁ……」
座っているシートの背もたれに背中を無理やり、勢い良く押し付ける。息が瞬発的に抜けて、新鮮な空気が肺にほんの僅かに入ってくる。酸素が入ってきて、肺が落ち着いて。それでようやく、呼吸が整う。
赤色の陽射しが、手元にある手紙を紅く染める。太陽が沈む、その最後の紅い残光が血の色に見えた。いや、あるいは口紅の色だろうか? 血なら吐き出した血の涙、口紅なら剥がれ落ちた愛情。どうしたって、どれにしたって、全部、それは婚約破棄を宣言した自分の責任で。それでも、それなのにまた身勝手に、婚約者の足跡を追って、こうやって旅に出ていて。仮に彼女が生きていたなら、迷惑でしかないだろう。もしも死んで……いや、三途の川を渡って、まるで溶けるかのように消えてしまっていたのなら、たぶん、無駄なことだろう。そう、分かっているのに、でもこうして蒸電併用列車に揺られて足跡を追って。たぶん、僕は馬鹿なんだろうな、と思う。
胸の中に潜む 黒い薔薇 がまた体に毒を流していく。先ほどとは違う、だんだんと全身に回っていく極遅効性の毒。少しずつ針で突かれているのかのような、あるいはからだじゅうを締め付けているのかのような、そんな鈍くてどうしようもない痛みばかりが散らばっていく。
けれども、そんな鈍い痛みには随分と長い間お世話になっている。もう、慣れきってしまった。
折り畳まれた手紙の、その間に指を差し込む。紙の縁に人差し指を沿わせ畳み目に爪を差し込み、すーっ、と折り目の方へと指を動かす。少しずつ、少しずつ、丁寧に丁寧に。人差し指が手紙の折り目に当たる、開いていてしまった手紙にそっと視線を遣る。
【拝啓、私のもと婚約者様へ】
そんな文字列が目に突き刺さった、いや体中にかもしれない。
「っ! っ、はあ、うあ……」
い、痛、痛い痛いッ!
あ、あたま、頭が締め付けられる、耳鳴りがする、慌てて手紙から手を離して耳を塞ぐ、深呼吸しようとしていきを、いき………すえ、いきが入ってこない、耳鳴りが、高音が、雑音がうるさい、頭全体が痛い、無理矢理鉄で締め付けられてるみたいに凄く、あぅ……、あ……。
列車に備え付けられた時計の音が、チクタクチクタクという機械的な音が、耳をふさいでいるのに頭の中に響いてくる、うるさい、うるさいうるさいうるさい……っ! 痛い、まだ締め付けてきて、あ、針が……ッ! い、痛い、無理矢理針で頭を貫かれたあと、そのままぐちゅぐちゅ頭の中をいじられているみたいに気持ち悪くて痛くて不快でどうしようもなくてっ! 深こきゅ……だめ、息が入ってッ、ッうあ、あう……。
胃が蠕動する、中身をひっくり返そうとしてくるのをかろうじて押さえて。分かってる、分かってるから、私が、僕が悪いのは分かってるから、だから止めて、お願いだから、お願いですから……。
息が、息が詰まる。ああもう、わかって、分かってるからいやわかってないのかな、わかってたらこんなに痛くないか。だって僕のせいなんだから、ならこんなに痛いはずなくて、でもこんなに痛く、い、痛い……あ、頭に薔薇の棘をたくさん捩じ込まれて、それで無理矢理いじられたみたいで、こんなに痛いなら痛いはずで、だから、だからだから、結局たぶん僕が悪くて。
胸が苦しくて、息も詰まって、いき、いきが……酸素が入ってきてない、いや痛い、痛いから苦しい。目に、壊れた都市が映り込む。灰色の無機質と蒸気と工場と、壊された人と捨てられた子供と格差と。そんなものが目に映って、直接目の奥の方までダイアモンドの針で貫かれて。
「……あ」
痛みが引いていく、いや身体が痛みに慣れてきたのか、もう限界を超えて鈍くなってしまったのか。沸騰する鍋の中でぐつぐつ煮込まれているかのような、あるいは全身に注射で毒を注入され続けているかのようなジリジリとした痛みは続くけど、でもようやくマシになる。それで気分も思考も視界も落ち着いて、だから僕は手紙の方に視線を遣る。手汗が酷くて、若干手紙の方にも滲んでいて。ハンカチで手を拭い、もう一度覚悟を決めて手紙を開く。
【拝啓、私のもと婚約者様へ】
息が詰まる、手が震える。
何度見返したって、何度読み返したって消えはしない。背中に動悸が走る、吐き気を催す気持ち悪さが全身を駆け回り、胃を刺激して。はあ、ともう一度深く息をついて、それで何とか落ち着こうとする。いや、落ち着いてはいる、さっきよりは随分と。ああそうだよ、落ち着いている。だって、さっきの痛さなんかよりもずっとマシなんだから。全身を締め付けられるような痛みよりも、針で刺されたかのような痛みよりもずっとマシ。第一、そもそもなんで僕なんかが苦しんでいるんだって話だ。
だって、婚約破棄を申し出たのも、それから貴族制を壊すために狂奔したのも、全部私だ。この国から旧い景色を追い払って蒸気で覆い隠してコンクリートで囲まれた牢獄みたいな都市を生み出してまるで機械の中身のように国を変えて、そうだよ、だから私が苦しんでいい道理なんてどこにもない。誰かを傷つけた僕に、傷つけているのを知っていてもなお暴走機関車のように止まらない僕に、そんな資格はない。ほんと、どの口で苦しんでいるんだって話だ。ほんと、どの口が。
───大丈夫、だってあなたはこんなにも強いんですから。
ふと、そんな声が蘇った。
婚約破棄する前夜。私が最後に、まともに彼女と話した日の夜のひととき。つい先刻まで琴の如き繊細なる歌声を空へと溶かしたる彼女は、その瞳をそっと私へと向ける。自分の罪悪感、自己嫌悪──そういったものから逃れたく覚て、本当はもっと彼女の歌声を空虚に満たされた心の杯に注いでいたかった。いつどんな時に聞いても、彼女の歌声は僕の中にある黒い薔薇を打ち消して温かな気持ちにしてくれたから。こっそりお忍びでストリート風の服を買ったときも、道端で二人で歌を歌ったときも、貴族社会に打ちのめされそうなときも、貴族の令息たちから悪意を向けられたときも。
もちろん彼女は、私が婚約破棄しようとしていることなど知る由もなく、けれども私が何かに悩んでいることに勘づいたのか、歌うをやめ、元首宮殿のバルコニーの手すりに手弱女なる体を預け、私に言葉をそっと手渡す。
───私のことを、ちゃんと見てくれたのですから。誰かのことを思って、心の底から尽くしてくれるほどに強いのですから。だから、少しは頼っても良いんですよ?
未だ満天なる星空を見るに能う、そんな旧い時分だった。今では見られなくなった星光が彼女の美しい銀髪を穏やかに照らす。まるで空に溶けていきそうな、そんな淡い雪の銀色の長髪。海辺の白砂のごとく透き通った砂糖色の肌と、高貴な顔立ち。意志の強そうな射干玉の瞳と、それに相反するようで共存する優しさ。
その姿は、私の脳裏に刻み込まれている。いくら年月が経とうとも、決して忘れないように刻み込んでいる。
───まあ、そう言って頼ってくれる御方ではないのも知っていますけど。
そう言って微笑む彼女の瞳に曇りは無くて。本心から僕のことを信頼していて。その嘘偽りなきを知りたるが故に、僕は目を背けた。直視できなかったのだ、自分が明日彼女にする仕打ちを。
そんな私を、けれども彼女はしっかりと見返していて。それすら耐えるに能わずして、その場を離れたきに限りなしとさえ覚て。でも、それは僕の最後の意地が許さなくて。だから、その場で沈黙が流れた。
───もしも私の夢が叶ったなら、私の好きなこの世界は、もっと優しくなるのでしょうか?
そう云ひたる彼女は、何処までも純真で、無垢にして。守りたいものはそこに、確かにあった。けれども、いやだから、なのだろうか。
どうしようもなく、痛かった。
彼女に今の景色を見せたら一体どう思うのだろうか? 貴族と市民が分け隔てなく手を取り合う、そんな理想の社会を目指していた彼女は、私が壊したこの世界を見てどんな恨み言を告げるだろうか?
彼女の姿を思い浮かべて、この場にいる想像をしてみようとする。けれども、どこまでいってもどこか貴族らしかったその姿と外の風景があんまりにも似合わなくて、結局そんな思考ごと霧散してしまった。
ぶうぉーん、というどこか気の抜けた、高いとも低いとも言えない音が聞こえる。電気線の通っていない区画に入ったのだろう、蒸電併用列車に特有の蒸気機関が唸りを上げて、蒸気を大気へと吐き出していく。線路が軋み、甲高い不快音が鳴り響く。耳鳴りとそれが重なって、集中力が途切れていく。
窓の外では、蒸気機関が作り出した蒸気が街を覆い隠す。その濁り切った空の下、草臥れた人々が空を見上げ、まともに体を洗えずに穢れた肢体を地面へと投げ出している。
そっと、手紙から視線を離す。
もともとこの列車は公国連合首府のレヴァーテ市と辺境のファビウス選公領を繋ぐ貴族列車だった。けれども、貴族制も名実ともに崩壊した今ではちょっとした高級車両と成り果てた。とはいえ貴族列車時代の名残も残っていて、長めのテーブルと座り心地の良いシート、それに赤色の絨毯と金で縁取られた窓帷、あるいは装飾照灯が、列車内を虚飾と絢爛で満たしている。目がギラつくようなそれは、私が何処までも嫌悪し続けたそれだった。
……そんなものに揺られながら婚約者の足跡をたどるとか、やっぱり皮肉というかなんというか。
フッ、と息を吐く。どうしようもない馬鹿らしさに呆れ、自己矛盾にため息をつき、行為の虚無に諦めの念を抱く。いずれこうなるだろうと分かっていたのに突っ走った馬鹿者だ、彼女が望んでいなかったのを知りながら貴族社会に復讐した馬鹿者だ。逃げ出すにも目的が必要な弱者だ、偽りの仮面に身を預けた弱者だ。そんな自分の情けなさが、どうしようもないくらいに憎たらしい。
【このような形であなたに手紙を送らなければならないこと、心から謝罪させていただきます。何せ私の袖の涙を乾かす間もなかったものでして。もしも事前にお伝えいただければ、ことわりを通したうえでお諌めの手紙を送りましたのに。】
手紙の、達筆なのにどこか荒れた筆跡が、彼女のその時の感情を露わにする。怒りと、それとは違う何か。親しいものから裏切られたのに、その理由さえ分からずに困惑し、やり場のない怒りと激情を抱え、けれどもそれを他人に差し向けてよいのかどうかさえ分からない。沸々と沸き起こる激情は、結局は昇華されることなく自分自身へと染み渡る。そんなことが分かってしまうから、いや、こうなると分かっていたのに、それでも僕は婚約破棄をした。しかも、最悪の場で、これ以上にない裏切りをして。
けれども、彼女はそんなことをされても、僕を信じていた、信じていてくれた。本当に、こっちが苦しくなるくらい、純粋に僕のことを慕っていてくれた。こんな、惨めな僕のことを。
……未だに、本当はどうにかする方法があったんじゃないかって思い続けている。けれども何度考えたって、何度思い返してみたって、結局私はあの場で婚約破棄するしか無かったと気付いてしまう。
───貴族令息なのに、どーして令嬢みたいに学問してるんだ? 政治とか経済とか、あと弁論術とか、そういうのの方が大事だろ?
言われ慣れてきたこと、ずっと言われ続けたこと。けれども僕にとっては、彼女と一緒に研究して、発明して、夢を追いかける方が生に合っていた。それを辛い、と感じたことはなかったし、周りの雰囲気だって彼女と一緒にいる間は気にならなかった。寧ろ、今に見返してやる、と思って奮起していたかもしれない。
でも、それが駄目だった。いや、たぶん僕たちは甘え過ぎていたんだ、貴族制の自由加減に。白眼視こそされども排斥もせず、そういうものとして受け入れてくれた貴族社会に、僕たちはどうしようもなく甘えていた。甘えて、二人だけの夢を周りを見ずに追いかけ続けていた。それに薄々気がついていたのに、けれども致命的な瞬間まで見過ごしていた。
……いや、これは私の責任か。
少なくとも彼女に責はない。貴族社会の中で働く力学を見極めるのは、本来は令息である私の方だったのだから。それを怠り、研究と学問に専念する令嬢とともに一緒に歩もうとした、そのツケが回ってきただけの話だった。でも、当時の僕が薄々気がついていたとしても、手のうちようがなかった。だって、まだ年端もいかないただの少年だったから。
婚約破棄して貴族社会の荒波に揉まれて初めて、自分が貴族令息で男の貴族なのだということを自覚した。あまりにも大切なものを手放さざるを得なくなって、初めて私はスタートラインに立つことになった。
そして、ただそれを呪った。
こんなの、ただの逆恨みだろう。だって悪いのは僕なんだから、むしろ貴族社会のあの厳格ながらもどこか自由な雰囲気がなければ、私は僕では居られなかったのだろうから。それなのに私は、貴族社会を壊すために奔走した。本当に、どうしようもなく愚かで未熟だった。子どもの癇癪と何も変わらない、いやそのものか。そんなもので、私は貴族社会を壊した。
【それにしても、なぜ事前に話していただけなかったのでしょうか? あなたは前に、私に向かって相談しろと笑いかけてくださいました。悩んでいることがあれば、私が隠していてもそれを察し、問いかけてくださいました。なぜ、同じことを私にさせていただけないのでしょうか? ……私が、頼りなかったのでしょうか? それとも、本当は疎ましかったのですか?】
胸がぎゅう、と強引に縛り付けられる。胸の中にある黒い薔薇の毒が、締め付けられて全身へと溢れ返る。痛い、でもそれもたぶん、罰だから。彼女を、リラを守りきれなかった罰だから。婚約者として当然のことができなかった罰だから、だから……。
痛くて苦しい、でもどこか焼け爛れるような激情が、けれどもその激しさを昇華できずに体へと沈積していく。体が重いって、たぶんこういうことなんだろう。重たさに引きつられて、なぜだか涙があふれそうになる。けれどもその涙が溢れることはない、ずいぶんと昔に枯れ果てたそれは、ただ虚しく感覚だけを残して消えていく。
彼女のことを疎ましく思っていたなんて、そんなことは決してない。そんな疑いを持たせてしまったことを今でも後悔し続けている。だって、あの強く見えても優しくて繊細な彼女は、そんな疑いを抱く自分こそを憎んで、そして苦しんだだろうから。ずっと長い間、まだあどけない顔立ちの時から一緒だったから、彼女の苦しさが手に取るように分かるから。それを思うと、本当にもう、謝ることしかできない。でも、たぶん本人を目の前にしたら、そんなことできないんだろうなって、そうとも思っていて。
婚約者の足跡を追いかけてる今にしても、実際に列車に揺られている今にしても、未だに彼女と会う自分というものを想像できない。寧ろ、会えずじまいの想像ばかりができてしまう。いやその方が良いのかもしれない、だってこんな私と再会したって彼女はどうすればいいか分からないはずで、裏切った私を見て、いやこれはたぶん僕のエゴだ。本当は僕が会いたくないだけだ、だって会って拒絶されたら、二度と立ち直れないだろうから。いや、立ち直れないほうが良いか。だってこんな、こんなに弱くて馬鹿な人間なんだから。それなのにこんなに迷惑かけて、こんなに国を無茶苦茶にして。本当は、それこそ全身を少しずつ切り刻まれて、その激痛を以て償わないといけないほどの罰だ。でもそれをしてくれる人は居ない、だって全員騙されているから。いや、熱狂の名のもとに、騙されてくれなかった人を追い払い、あるいは処刑し、あるいは国政への参加権を奪ったからか? どっちにしても、もはや償えるものでもないし、罰を与えてくれる人もいない。それがどうしようもなく、私にとっては辛い。
いや、そんなことも言っちゃいけないか。だって、それは私を信じてくれた人への裏切りだから。貴族制打破のため、国家改造のため、そんな謳い文句を信じて、僕に国家宰相を任せた国民たちへの、貴族たちへの裏切りだから。でも、だからって犯した罪が許されるわけでもない。国を壊した、国民を壊した、子供の癇癪で壊された国家は今や手を付けられないほどにその自己運動を暴走させ、各地の田園を破壊し、かわりに蒸気をばらまいている。その結果招いた不幸は、全部が、その全てが私の責任だ。最後にサインして許可したのは私で、時にそれを提案したのも私だ。止められたはずの人間が止めなかった、だからこれほどまでに壊れ去った。
窓に映り込む風景、無機質な灰色の壁が流れていく。コンクリートによって四方を囲まれ、視線の先はどの方位にやってもその壁ばかり。住居である低層建築物は街に閉じ込める壁で、本来あるべき自然から人間たちを追い払い、都市を逼塞させる。たくさんある製糸工場では蒸気と生糸が絶えず生産され、女性たちがその労働の苦痛に喘ぐ。ちらほらと立ち並んでいる放電灯が、最後の残照を追い払い、碧光色の光を生産し続けている。立ち上る蒸気に乱反射して、不健康な青さが都市に散らばる。それが照らし出すのは、体を壊して寝込む女性と、それに寄り添う子どもたち。その隣では溝浚いをしていたらしい子供が、見つけた鉄くずを巡って殴り合いの喧嘩をしている。
「何と汚らしいことか」
後ろの席で、そんな声が聞こえた。おそらく男の貴族だろう、細胞置換技術に特有のどこか子供らしさを残しながらも大人じみた、そんな聞き慣れた声だったから。それに続いて、窓帷を閉める音。
「[仮面の宰相]は改革を推し進めるも、その末端を見ていなかったのか?」
どこか嘆息するように、男が言う。
さあ、と続ける、こちらも子供らしさを残す大人の声。細胞置換技術に特有の女の声が、列車の中に静かに響く。
「ただ、彼に付き従った私達はそれを改めねばならない。すくなくとも[仮面の宰相]は、なすべきをなしました。あらたな弊を改めるのは、私たちの役目です」
「随分と言うようになったな、レイラ」
「いつまでも研究に没頭しているわけにもいかなかったですからね、あの頃は。それにあなたにとっては、言うべきことを言えぬ女など不要でしょう?」
「さあ? 少なくとも俺は、昔のレイラも今のレイラも、どっちも好きだぞ?」
「おや、夜のお誘いですか?」
からから、と女性が笑う。それに釣られるかのように、男性も笑った。幸せそうな、そんな二人の声。
そんな二人の声からお裾分けしてもらったほんの僅かな幸せは、しかし胸の中にある黒い薔薇が消し去ってしまう。随分と、冷たい人間になってしまった。昔は、彼女がいた頃は、誰かの笑みを見るだけでこちらも幸せになれたというのに。
もう昔のことで、けれどもそれがつい先程のようにも、遠い昔のことのようにも、どちらにも感じられる。まるで壊れた時計の針が乱れた刻を刻んでいるかのよう。
なぜだかまた、目頭が熱くなる。泣きたい気持ちなんだろうなと思ったがあいにく涙は枯れ果てて久しい。いや、細胞置換技術のおかげで体はあの頃と全く変わっていないのだから、枯れ果てたのは気持ちなのかもしれない。
チクタク、と。備え付けの古時計の音が、頭の中で何度も反響する。けれどもその音は、本当に鳴っているものとは随分と違って聞こえるように思える。まるで壊されてもう時を刻むことの出来ないそれが、同じ刻を示しながら虚しく音を鳴らしているかなように。名目上の年齢と精神的な疲弊ばかりが積み重なっていくのに精神的には年を取った自覚がない、寧ろあの時からずっと同じ刻を繰り返しているかのような気さえしている。
いや、たぶん本当に繰り返しているだと思う。彼女と過ごした日々に取り残され、永遠の刻の牢獄に自分から閉じこもりに行って。
……僕が本当に愛していたのは、たぶん彼女だけだ。彼女が、僕をみてくれたから。僕のことを肯定してくれたから、だからあの頃は僕は僕でいられた。そんな彼女を突き放して仮面を被って、だからこそ僕という一人の人間の時間は、私という仮面も巻き添えにそこで止まった。
振り返ってくれた時の、純真無垢な笑顔が好きだった。僕の前でだけ見せてくれる、本心からの笑みがすごく綺麗で、まるで太陽みたいだと思った。いや、そんなありきたりな言葉じゃ言い表せない。天使とも聖母とも違う、それこそ神々しささえ僕には感じられた。
僕のことを撫でてくれた時の優しい手が好きだった。殆ど歳も変わらないのに、ほんの数ヶ月先に生まれたからという理由だけで、まるで保護者のように振る舞う彼女のその優しさに、僕は一体何度救われたんだろうか?
僕が何かを教えた時に見せる、彼女の嬉しそうな表情が好きだった。自分の知らないことを知れて楽しいという、曇りのない表情が好きだった。自分の知らないことを教えてくれてありがとうと言った時の、その晴れやかな彼女の表情が今でも忘れられない。
音楽を奏でる彼女の指の動きが好きだった。繊細なのにどこか豪快で、それでいて優しげな音楽の音色も、はたまたその時に見せる穏やかな表情も、胸の奥底に焼き付いている。思い出すたびに胸が張り裂けそうになるくらい、本当にそれくらいに彼女が好きだった。
……そんな彼女を裏切ったのは、他でもない私だったのだが。
思い返すたびに辛くなる、彼女の表情に曇りがなかったからこそ本当に胸が苦しくて、痛い。涙が溢れかえりそうになるのに、けれども頬は濡れることもない。数十年前に枯れ果てた涙は、その感覚だけを遺してふわりと何処かへと消え去ってしまった。
仕方なかった、こうする他なかったと分かっていても、それ以外に方法がなかったと頭で理解していても、それでも辛くて苦しくて逃げ出したくなる。心を凍らせても、凍らせたそばから溶け落ちて、心を貫いて、むちゃくちゃに切り裂いて、そして痛みだけを遺していく。なんどあれから魘されただろうか、なんど逃げ出したいと思っただろうか。
「……身勝手、だな」
今になっても、自分のことばかりだ。
はっ、とつい口に出してしまう。少年期の若々しいはずの声が、なぜだか老いた老人の汚いそれに聞こえた。
「今だって、結局彼女のことを考えられてないじゃないか」
彼女のことを思って、と何度言い訳しただろうか?
こうする以外に彼女を救えないと、何度言い訳しただろうか?
そう言い訳して何度──自分を騙してきたのだろうか?
仮面の下にあるぐちゃぐちゃな心を繋ぎ止めるためには、そうするしかなかった。仮面の下が剥がれ落ちれば、仮面そのものも壊れてしまう。それが分かっていたから、何度も誤魔化して、欺瞞して、そうするしかなかったと言い聞かせて。
……ああ、本当に、どうしようもなく自分は身勝手だ。こうやって彼女から逃げて、心のなかで都合のいいように利用して。でも彼女がもしも私の仮面の下を知っていたなら、たぶん僕の頭をよしよしと撫でたのだろうな、と想像できてしまって。
こうやって、どうしようもなく彼女に頼ってしまっている私自身が、とても醜くて、嫌いだ。
窓の外、散乱した碧色光が街中を不健康に照らし出す。夕陽の最後の弱々しい残光が追い払われ、蒸気の曇りに遮られ、かわりに碧色の人工的な光が街を囲い込んでいる。自然はコンクリートで追放され、代わりに機械の内部のような都市空間がそこにある。
《クラウヴェル電波局より、本日の夜間第一時刻をお伝えします》
列車に備え付けられた拡声装置から、そんな声が聞こえる。かつての夜は、鐘の音とともに訪れるものだった。それが今となっては、電波塔からの音声に取って代わられた。
いや、取って代わらせた、だろうか? 鐘の音による伝達が非効率的だという資本家たちの声に従って、電波塔にその機能を引き継がせるのを認めたのは私だ。今となっては、神院の鐘の音といえば結婚式でしか鳴らないものと相場が決まっている。なんなら、それさえ古めかしいと言われる始末だ。習慣は伝統へ、そして遺物へと変わりゆく。良きものも道連れにしながら。
再び手紙に目を遣る。人差し指がいつの間にやら手紙の下端に触れ、その文章の終わりを告げるかのように、虚しく縁から離れた。
【申し訳ありません、書いていて取り乱しているなとは思っているのです。どうか読み流してくださいますようにお願いします。けれども私も、恨み言の一つでも書きたい気分を抑えきれないのです。
──どうして何も言わずに、婚約破棄をなさったのですか? どうしてあの場で、私を御辱めになられたのですか?】
「ッ、はっ、う、あゥ……」
息が詰まる、落ち着こうと胸に手を当てる。だめ、心臓が痛い、激しい鼓動が伝わる。口を開ける、いきを吸おうと……だめだ、吐き出す息が激しくて、入ってこなくて。視界がぼやける、涙がにじんで仕方ない。
「あっ……あ……」
鼻のあたりが痛い、つーんとする。変な匂いが鼻腔に満ちて、口に抜けていって。それにつられてまた涙がにじんで、けれども泣く事はできなくて。
胸が拍動する、バクバクいってるのが分かる。激しくて、あんまりにも激しくて、全身の血を無理矢理心臓が吸い込んで吐き出しているみたいで、頭とか体が冷たくて、血が回ってこなくて。それなのに無理矢理血を押し込まれて、視界も体もクラクラして。
───なんで、どうして……。
彼女の声が蘇る、その瞬間心臓の中の黒い薔薇の棘が全身に飛び散る。体の中のそこらじゅうを針で刺されて、痛くて苦しくて辛くて痛くて。
「はぅッ……!」
声が漏れ出る、咳き込む。馬鹿みたいに痛くて、思わず咳がこぼれて。慌てて懐の中の薬瓶を取り出そうと服の中に手を突っ込んで、手が震えて落とす。じゃら、という音が鳴り響く。
「ああ、あぅ……」
拾い上げようと手を伸ばす、一瞬だけ視界が黒ずんた後に肘に疼痛を感じる。視界が歪んでいて、肘置きに置いていたはずの肘が地面に触れているのが見える。さらに一瞬遅れて、人が倒れる音が聞こえる。
「んあぅ……」
心臓が全身から血を引き抜く、血管という血管から血を掻き集める。引き抜かれたせいで、視界がまた黒ずむ。針の鋭い痛みがまた、全身を掻き乱す。胃とか肺の薄い表皮が針に貫かれて、ぐちゃぐちゃにされて。同時に、柔らかい何かで、ヤスリみたいな何かで執拗にそこらじゅうを擦られているかのような、鈍い痛みが広がっていく。それが気持ち悪くて、吐き出しそうになって。
胃の中がぐるぐる回る、洗濯機の中みたいに胃の中身が四方八方で回転して、胃を刺激して。つんとした、酸性の匂いが喉を通って口から出る。鋭くて強い刺激臭が涙の匂いに混じって、嘔吐を誘う。
胃の中のものが喉にせり上がってくる、深呼吸……深呼吸、だめ、まだ息が詰まってて……ッ、喉に、喉に食べたものが押し上がってくる。ちいさな喉を無理やり押し広げられていくかのように、せり上がってくる。
「んうッ!?」
力の入らない腕を無理矢理動かして、強引に立ち上がる。だめだ、もうどうあがいたって耐えきれない。席に寄りかかりながら立ち上がって、ふらふらするからだを支えながら化粧室に向かう。奇異の視線を感じるけど、それどころじゃない。
涙で視界が滲む、嘔吐物はいよいよせり上がってきていて、口を両手で押さえる。頭に血が回らない、頭そのものも凄く、くらくらしていて。扉を押し開けようとして、勝手に開く。そういえば自動扉だったな、と場違いに冷静な感想を抱く。
扉が開き、化粧室のマークが見える。幸いにも空いていて、左手でこじ開けた後に飛び込んで鍵を閉めて。そのまま耐えきれずに膝をつき、便器の中に顔を放り込む。
「んっ、あぅ……」
口の中から、嘔吐物が飛び出てくる。つん、と鼻をつく匂いがする。頭の中で耳鳴りが聞こえる、滲んだ涙がひっこんで、視界が黒く染まる。
《それではここで、国会議事堂からの中継をお伝えします》
化粧室にも備え付けられた拡声装置から、電波放送の音が聞こえる、けれどもそれは耳鳴り混じりで、それなのになぜだかはっきり聞こえて。それを自覚したとたんまた頭が痛くなって、くらくらし始めて。先ほどの酸性の匂いにつられて、胃もまた蠕動し始めて。
《ここ国会議事堂では、全国議員たちが続々と貴族たちの階段を上っていきます。かつては貴族たちだけが上ることを許されたこの階段に、今はあらゆる階級の人々が登っていっていることを考えると感慨深いですね……》
頑張って抑えようと、必死に深呼吸しようと息を吸って、酸性の強い匂いがこれまでにないほど鼻腔を、喉を刺激する。便器の中に嘔吐物があることを忘れていて、けれどもそこから顔を離せもしなくて、息を止めようとしてさらに胃が蠕動する。胃の中身がもう一度喉のあたりまで上ってくる。
《[仮面の宰相]は国会議事堂での宣言後、そちらに姿を見せていないとのことですが……》
電波放送の本局放送員が、現場で中継しているらしい局員にそう尋ねる。その、どこか困惑気味の声が、どくどくと薔薇の毒を体内に流れ出させていく。胸が緩やかに締め付けられて、やすりで無理矢理削られていくかのように、じわじわとした痛みが広がる。
その毒が、喉の中に溜まる酸性の消化物の群れに最後の一撃を加えようとしてくる。それを必死にこらえようと、また息を吸ってしまって、遂には限界を超える。
《はい……。政府当局の情報によりますと、[仮面の宰相]は先日引退を表明したとのことです。しかし、このような晴れ舞台にも関わらずお越しになられないのは、一体なぜなのでしょうか? 現場の議員にお話を伺ってみたいと思います》
便器の中に吐瀉物が撒き散らされる、頭の中で耳鳴りがさらに激しくなる。頭が締め付けられる、まるで喉から血を吐いているかのように、頭全体から血が足りなくなる。冷静な思考なんてもうどこにもなくて、ただ無意識に任せて吐き散らす。毒もその吐瀉物と一緒に消えていくかのように、少しずつ体から抜けていく。
《私も理由は分からないですね、ただ[仮面の宰相]はここ数年間、体調を崩しているという話も聞きました。もしかしたら、病気のために療養しているのかもしれませんね》
壮年期の男性の声が、私の胸に突き刺さる。病気の療養、そんな大層な理由なんかじゃない。逃げ出してきた、逃げてきた、ただそれだけのことなんだ。そんな情けないこと、言えるわけがない。体調だってそうだ、結局自分のせいで、だから崩してるなんて悟られてはいけなかったのに、けれども誤魔化しきれなくて、だからそれは貴族として失格で、なのに国家宰相なんて地位について無理矢理改革を押し進めて。痛い、胸に刺さった薔薇の棘から毒をねじ込まれ、っ、いたあ、あう、痛い止めてもう、分かってる、分かってるから僕が悪いって分かってるから。お願いだから、何もかもを誤魔化してるのだって気づいてたから、それでもこうするしかなかっただけだから、だからもうやめて、お願いだからもう……痛くて、苦しいから。でも、いや違う、この痛みは仕方ないものなんだ、だってこれまでやってきたことを考えたらこのくらいの罰なんて当たり前で、だからこれは仕方ない痛みで、苦しさで。
でも、でもだって本当に痛くて。痛くて苦しくて、気持ち悪くてどうしても吐き出したくて。酸性の匂いが残る鼻腔につられて、ほぼ無意識に喉の奥に手を突っ込んでいた。
《貴族制の廃止に通貨制度の整備、それにその他多くのことを含め、彼はとても多くの功績を打ち立ててきました。体調不良も仕方ないでしょうし、今はゆっくりと休んでいただきたいですね》
違う、違う違う違う!
そんなの功績なんかじゃない、ただの僕の……私の身勝手で、全部貴族社会を壊すためのもので、だからそんなの褒められたものじゃなくて、むしろ貶されて当然のもので。いや、言わされてるんだ、騙されてるんだ、だってそんなわけない。私がやってきて、この国を良い方向に導いたものなんて一つもなくて。そうじゃなかったら、こんなゆがんだ世界になってるはずなくて。
喉に爪が当たる、その度ごとに血が頭へと流れ込んできて、それなのに血が足りなくて、頭がクラクラして。それが歪んで壊れた、そんな世界みたいで。そんなの彼女が、彼女が望んだはずのものじゃなくて、だからこんなの認められるべきものじゃなくて……、だから……。
無意識の思考に釣られるかのように激しく、人差し指と中指を喉の奥で折り曲げて引き伸ばして。限界まで刺激された喉が遂に悲鳴を上げて、もうほぼ空っぽの胃の中身が喉まで上がってきて。その刺激臭にされるがままに、便器の中へと吐瀉物をたたきつける。それと一緒に身体の中に巡っていた心の中の黒い薔薇の毒も流れ出て。耳鳴りが一気にひどくなったあと、すぐに止んでいく。
「んゔぁう、あ、はぅ、ァう、はあ、はぁー……」
ようやく頭を便器から離せるようになって、顔を上げる。同時に便器の蓋を閉じて、洗浄レバーを引いた。中身が、吐き出された吐瀉物が、水に押し流されて消えていく。
「あはは……汚いなあ」
嗤った、嗤いながら聞こえないくらいの声でそう独りごちた。流れていく吐瀉物は、まるで自分の駄目で、醜くて、人には見せられない部分みたいだ。誰にも見られずに、どこかへと消えていく。いや、消えて行かせなければならないもの。誰にも悟られずに、それがあったことさえ露呈してはいけない。
だってそのくらいには汚くて、穢れていて、どうしようもないくらいに迷惑なものだから。
「……あーあ」
ふと、自分の懐にしまっていたリボンを取り出す。昔、彼女から──リアから貰ったものだ。随分と色がくすんでしまったけれど、でもこの色には眩しさを感じる。そう、私には到底似つかわしくないほどの眩しさを。
けれども彼女は僕にこういった。
───よく、似合っておいでですよ
体を上げる、化粧室に備えつきの洗面所で顔を洗う。その鏡に映るのは、少女にも見紛うほど童顔な少年の、一〇代後半の中性的な顔だった。
身に纏っているのは、かつて市生の都市の人々が好んでいた中性的な街道少女の服で、今となってはやや時代遅れと見なされる服装。けれども今でも着る人がいるような、少し昔風なそれ。そして首のあたりに巻かれているスカーフは、首のあたりにある細胞置換技術の施術痕を隠すためのもの。
「はは……酷い顔」
彼女が見たら、たぶん僕と同じ事を言うんだろうな、とふと思った。けれどもとても優しくて、胸に何処か沁みるような、そんな感じの口ぶりで。
童顔なのに、なぜだかどこか老いを感じる。いや、まるで人形みたい、と喩えるのが正解なんだろうな。可愛らしいし、童顔。けれども古さを感じることもある。そして何よりも、生きていない。まるで顔に死の影がつきまとっているかのよう。
「まあ、それでも良いか」
あはは、と力なく笑う。鏡越しに見たその顔は、本当に死んでいた。死んだ人間が、機械によって動いているかのよう。いや、実際それが正しいのかもしれない。今僕が生きているのかと聞かれて、はっきりそうですと答えられる自信がない。中身なんてない空虚な機械が、勝手に僕の体を動かしている、そうとさえ思えてしまう。ううん、ちがう、たぶんそうなんだろう。とっくの昔に僕は死んでいて、中身のない空虚な機械が体だけを勝手に動かしている。
でもまあ、それでもいいか。だって、どうせ私は。
鏡から目を背けて化粧室の扉を開ける。凍りついた心が、パリッ、と硬い音を鳴らす。まるで心そのものが機械になったみたい。心のなかに勝手に入ってきてくれた機械が、予め定められた運動をしているかのよう。
列車廊下の窓の外を見遣る、相変わらず蒸気にまみれた機械の中身みたいな街並みが視界に写り込む。もしも心がこんな機械だというのなら、それに従う感情もまた機械のそれなのだろうか? だとしたら、外部からの入力によって制御可能なのだろうか? もしも可能なのだとしたら、それは人の、僕の感情なのだろうか?
……あるいは、僕は感情を制御できるのだろうか? まるでダイヤルで気分を変えるかのように、私の中に眠っている汚い感情を全部、文字通りすっきり吹き飛ばしてしまうのだろうか? もしそうなら、それは。
そんなとりとめのない思考が、頭の中をぐるぐる回る。考えても仕方ないのにな、と思いながらもなぜだか止まらない。いつもの、いつも通りの日常だ。中身のない思考、意味のない思考。一見活動的に見えて、その実なんでもない、空虚。それが、頭の中を満たしていく。空っぽの、何もなくて枯れ果てたみたいな、そんな空虚に満たされていく。
───"もしも宙に声を溶かせるのなら"
歌声が、そんな頭の中にふと響く。空虚を満たしていくかのように、反響して捕らえて、決して離さない。凍りついて固まって、そんな心に温かく響く。機械みたいにただひたすら自己運動だけをする身体に、そっと語りかける。空虚に満たされて金属みたいに冷たくなってしまった私が、暖かみに触れて不意に一滴、また一滴と溶け出す。凍りついた川が凍える冬を抜け、春一番の風を浴びる。温まった川の氷が溶け、再び流れ出す。快晴の空、暖かみのある風が穏やかに吹く。
まるで空に溶けていくかのような歌声だ。ほんのりと高い、けれども柔らかくて聞き心地の良い包み込むかのような声。聞いたこともない曲、だけれどもなぜだか懐かしい。その歌声も、曲調も、歌い方も、なぜだか懐かしさを感じる。
声の方向を確かめる、この列車廊下の先にある車両からのものだ。歌声と一緒に、弦楽器の音も聞こえる。寂しげなFm7の和音が、ここにいない誰かへと語りかける。重なる単音が、心地よく四方へと響く。けれどもその音色はすぐに溶け消えて、単音がニ音、流れる。和音から切り離された哀しげな単音が、静かに、けれども確かに鳴り響く。
───"何色の声で染めるんだろう"
気が付けば、足が動き出していた。身体の中にある空虚な機械なんかじゃない、人の歌声が僕を勝手に、それでいて語りかけるように、突き動かす。扉の方へと歩みが重なっていく。
優しくて、儚くて。まるで溶けて消えてしまいそうな、淡くて透明な蒼色の声だ。水を入れた杯がそっとやさしく揺れているかのよう。それを支えるかのように、弦楽器の音色が穏やかに声の水の杯を揺らす。夜中の満天の星空の下で、ひとり死に別れた恋人を想いながら、酒ではなくお水の入った杯で乾杯する。星空の淡いけれど、確かにそこにある光が杯に反射する。
自然の音が、そっと耳の中に染み込んでいく。虫の鳴く音、風が草花を揺らす音、水の流れる音。それらが溶け合っていって、一つの音楽を創り上げる。心の中の空虚の杯に、歌声と音楽の水がそっと満ちていくかのよう。
───"杯を天に掲げて"
電化された地域に入って、蒸電併用列車の電動機音が響く。きゅいー、という優しくて穏やかな音色。それが、少女の歌声に重なる。弦楽器がまた別の和音を奏でる。二つの弦楽器、寂しげな雰囲気と優しげな雰囲気が重なる。和音と和音、和音と単音が重奏し、懐かしむ雰囲気を醸し出す。
扉を開く、外の光が放電灯から蛍光灯へと変わる。濁った蒸気の色が消え失せて、代わりに排気ガスのそれに変わる。低層建築物が全面硝子張りの高層建築物へと代わり、高さの揃っていない建物が四方八方に散らばる。ギラギラするような過剰な装飾灯が、外の風景を一様に照らしている。
───"今宵だけはあなたを想うよ"
けれどもその風景が、その車両の中ではただの絵画となる。夜の風景が、今となっては喪われた満天の星空の風景がそこには広がっている。
いや、もちろん目の前にあるのはただの車両だ。しかも一般車両で、回転可能な転換クロスシートでこそあれども、私がつい先程まで座っていた座席に比べたら見劣りする。けれども、そこには確かに、夜の風景が広がっている。車両の中心から聞こえる音楽が、風景そのものを変える。ここにない景色へと、心を羽ばたかせてくれる。
花が咲く、星光に照らされた桜が淡く照らし出される。桜色と星光に彩られ、儚げな、けれども芯の通った風景が映り込む。
弦楽器が一つ、単音を二回鳴り響かせる。桜が散りゆき、どこかへと消えていく。星光が蛍光灯の光へと重なる。
弦楽器が二つ、同時に和音を鳴らす。ふわっと風が流れ、風景を拭い去る。響いたAm7の和音が、温かに現実へと情景を揺り戻す。
音を奏でていた二人が、そっと顔を上げる。一人は大人っぽいけれどもあどけなさを遺した、どこか酔っているかのような女性。そしてその隣で集音器を握っている、儚げな少女。
そっと。少女が顔を上げて、目を開ける。
とろん、と甘げに垂れる濡羽色の睫毛。整って細い眉毛に、どこか不安げに見えるけども芯のある目つき、そして空色の瞳。銀髪の儚げな髪は、首元のあたりで一本へと束ねられている。
「聴いてくださり、ありがとうございました!」
ぺこり、と少女が頭を下げる。
薄い蒼色のジャケットと、太もものあたりまでを大胆に露出させるホットパンツ。そして、頭に被っているのは黒いキャップ帽。
それらが、つい先程までは絵画にしか見えなかった、町中の蛍光灯の蒼色の光によって照らし出されて、色合いとしては似ているのにどこか対照的な雰囲気を醸し出す。儚げで、なのに芯が強そうな、そんな感じの。
「今度ライブすっから、みんな聴いてやってくださーい〜」
酒瓶を開けながら、相方らしいお嬢さんがそう告げる。もう片方の手に、携帯式情報端末を握りながら。