婚約破棄させられたので、身勝手なお貴族様に恨み言をつらつら書き連ねてやろうと思います(β-3)
第三話〈音色〉(書き途中)
─この結晶を持ってみて
確か、出会って1週間くらいした頃だっただろうか? その頃の彼女はまだまだ子供と言った感じで、けれどもどこか大人びた雰囲気があった。ただその頃には私ももちろん幼い子供で、確か七歳だったか八歳だったかだから、俺から見て大人だったというだけかもしれない。
─うん、それでリアの方に向けて……あー、ちょっと動くね
その頃はまだどちらも子供だったから、敬語なんて使わなくて。別に口調が変わったからといって余所余所しくなったとかそんなわけではないが、俺にまで敬語を使うようになって淋しく思った記憶がほんのりある。
─よし、じゃあそのままでいてね。行くよ!
そう告げて、彼女はあー、と高い声を出した。いい声だなあと思ったのもつかの間、結晶を持っていた手にピリッ、と刺激が走った。その時はまるで静電気みたいだ、と思った。
そして実際のところ、静電気と似たものだった。
─その結晶ね、光に当てながらリアが高い声を出すと、ピリッ、って電気が流れるの
当時の俺は電気が何かなんて知らなくて、そこから彼女に説明してもらったものだ。幼い彼女の説明はすごくたどたどしかったと思う、けれどもその時の俺はそんなこと気にならなかった。彼女が初めて見せた、生き生きとした表情に魅了されてしまっていたから。
今からもう数十年も昔の話、まだ電球もなかった時代。光を灯すのに蝋燭を使っていたような、そんな最後の数年間。彼女が電球を開発したのは、私に結晶を持たせてからちょうど三年した頃だった。
こつこつ、と階段を降り、扉の鍵を開ける。目の前いっぱいに広がっているのは、音子式演算装置─フォノ・カルキュレイターと呼ばれる演算装置だ。
ガラスによって閉鎖された空間、とはいってもほぼ一室分のスペースのそれには、拡声機と可変配列録音盤、そして演算処理装置と可変色電球が並ぶ。今のコンピューターよりも遥かに煩雑だが、それでも一時期は旧情報網の情報端末として全国の貴族に広がった。
─足し算も引き算も、かけ算もわり算も間違えやすい。だから、間違えないように計算してくれるものがあったら良くない?
コンピューターって何、と聞いた時の彼女の返しがそれだった。電球を作った理由が、明かりを照らすためだけじゃないと聞いて。それで、何でかと聞いたら「コンピューターを作りたいから」と返してくれた。でもコンピューターも分からなかった俺は、彼女にそれが何かも聞いたのだ。
彼女は俺と出会う一年以上前から、他の子ならばようやく一人遊びができるようになる頃から、コンピューターの作り方を考えていたらしい。たぶん、天才とはそういうものなんだろう。
音子式演算装置の入力端子部分に、ヴァーツラフから貰った彼女の情報端末を繋ぐ。そして、電源を入れた。
ややあって、ガラスに囲まれた部分にある可変式録音盤が動き出す。録音盤に刻まれた溝に、拡声機と接続されたダイアモンド針が接する。針が接したことを電流の変化で検知した録音盤が動き出す、溝の形の変化に沿ってダイヤモンド針が上下へと振動し、それが小さな音を奏でる。その音が拡声機に入り、大きくなってガラスの中の空間に満ちる。
─音と光が垂直に交われば、結晶は電流を流すわけです。そしてその電流は右ネジ方向に正弦曲線型の振動を起こして……
彼女は、一度話に熱が入ると自分の世界に入ってしまう悪癖があった。いつの間にか、人と話していたことを忘れてしまうというか、そんな感じの。
そんな彼女の独り言に、俺は頷いたり、あるいは彼女の思考を補助するために少しズレたことを言ってみたり。傍から見たらそれは会話というよりも単語の言い合いに近かったかもしれないけれど、俺からしたらそれはれっきとした会話だった。
ガラス空間内にたくさん置かれた電球が白色の光を放つ。拡声機を球面状に取り囲むように置かれた処理単位の中の共鳴結晶が、途中途中に置かれた電球の光を吸収し、拡声機の放つ音に反応して、電流を生み出す。
結晶が生み出す電流は正弦曲線型と呼ばれる。つまり、ある一定時間内の電流の大きさの変化が、ずっと繰り返されるわけだ。そしてその一定時間─周期は、音の高さが上がるごとに短くなる。
─おそらく結晶の幅だと思います。たとえばこの結晶はドの音階、この結晶はミの少し下の音階でしか電流を流しません。……いや、流してはいる? 電位が一定にならないのかな?
処理単位の結晶は、特定の音階でしか電流を流さない。だから、この結晶は特定の音に「共鳴」した時に電流を流すので共鳴結晶と呼ばれる。そして、この流す、流さないの性質を上手く利用して作られたのがこのフォノ・カルキュレイターだった。
─……なんだか、感慨深いというか。実感がわかないんですよね
初号機が完成した時の彼女の感想がこれだった。
初号機ができたのは簡易的な四則演算のみ、けれどもすでに彼女の脳内には次の構想があったのだと思う。フォノ・カルキュレイターが貴族たちの前で紹介されたときにはすでに、次の構想を提示していたのだから。
─つまり、この機械仕掛け一つだけで紡績から布、時計の部品の生産まで、しかも数時間で全て可能、ということか?
電気は、当時としては馴染みのない概念だった。それにも関わらず貴族たちは即座にその概念を了解し、フォノ・カルキュレイターの仕組みを理解した。だからこそ、初号機に関しては「貴族の遊戯」の範疇を出ないと見られていた。
簡易的な四則演算ならば、歯車式のものが当時からあった。そっちのほうが仕組みとしても簡易で、調整もしやすい。だからこそ、いくら計算速度が速かろうとも、やたら複雑なフォノ・カルキュレイターは貴族の遊戯の範疇だと断言できた。
けれどもその報告会にて彼女が提示した可能性─完全機械制御はその範疇を大きく逸脱する。こと紡績に関しては歯車式の機械制御を試みる貴族もいはしたが、歯車の数と、何よりも条件分岐のあまりの多さを前に「事実上不可能」という結論が出ていた。さらには、それが比較的短時間で可能ともなれば。
─それだけではなく、この機械さえあれば観測機器の制御なども可能になります。それに一度加工機械を製作できれば、提示された問題点、つまりは処理単位の結晶の品質の一定化も十分可能です。
ややあって、フォノ・カルキュレイターに接続していた彼女の情報端末が点灯する。試作品の情報端末だから、今のような見やすいスクリーンではない。これは数十年前の、まだコンピューターが黎明期にあった時代の情報端末だ。
できる限り小さく収められた電球が、音子式演算装置の出力に従って点灯する。LEDなんて当時は存在しないし、精密加工技術だってコンピューターが作られる前だからそんなに発達していない。だから、彼女の情報端末の表示限界はたかだか512単位でしか無い。
この点灯する512個の超小型電球から、しかし情報端末の歴史は始まった。
「……パスコードか」
情報端末の点灯は、認証を求めていることを示している。
念の為に、ライトの点灯とそれが示す情報との対応表は疑似記憶神経に入れた。けれども、情報端末を起動して最初に求められるのは個人認証だ。
─当然、貴族なんだから隠したい情報もあるはず。そういう時に、この情報端末は便利なんです。だって、紙とは違って本人じゃないと情報を持ち帰れないんですから
どうして情報端末に認証システムを組み込んだのか、ということに対する答えがこれだった。今となっては画面ロックは当然のものだが、当時の俺はどうしてそんな機能が必要なのか分からなかった。
彼女のパスコードを思いだしながら、集音器とキーボードをそれぞれ二つ目、三つ目の入力端子に繋ぐ。今ならばキーボードだけを繋ぐのだろうが、このフォノ・カルキュレイターは音によっても入力をすることができた。そして認証に関しては、音とキーボードの二種類が必須だった。
入力キーは覚えている、私の名前だ。
けれども音に関しては彼女も教えてくれていない。
─認証が音楽な理由……? うーん、だって音楽って綺麗じゃないですか?
ピアノを弾きながら、彼女は私にそう告げた。
彼女にとって、音楽の美しさとコンピューターのシステムとは表裏一体のものだった。音楽の調和がシステムを教えてくれている、と。俺には何年経っても理解できなかったが、それはもう彼女の天性の感覚なのだろう。
時々彼女は、痛いという感情を金切り声、と表現していた。本人は無意識で気づいていなかったのだろうが、おそらく彼女にとってはあらゆる感覚も仕組みも、音楽に還元できるものだったのではないか? そう、思う。
─私の情報端末の認証音楽ですか? 私の好きな曲ですよ
彼女が好きだと言っていた音楽は多い、というか人間世界で歌われるあらゆる曲が好きだと彼女自身も言っていた。貴族たちの口承でしか伝わっていない特殊な歌謡も一般市民の歌う民謡も、等しく好きなんだ、と。
でも、その中でも特に好きなものはあった。
たとえば北洋諸島の子守唄、畑を耕す時の畑唄、つまりは一般生活に密接に関わり合う音楽は特に好きだったはずだ。その中でも一番好きなのは……。
─恋って、なんだか甘酸っぱくて好きだなあって。実る恋も、失恋も悲恋も、青春って感じがします
瑞穂の古語で、年若い頃を指すそうですよ、と。青春、という言葉に聞き覚えのなかった俺に、彼女は鈴を転がすかのように軽やかで、美しくて、そして可愛らしい声でそう告げる。恋の歌というのは、儚くて、けれども激しくて、それでいて刹那的で、ごちゃまぜになった感情がそのまま言葉に出てきたかのようなものだ、と何度聞いたことだろうか。
彼女は現実主義者ではなかった。確かに音子式演算装置を、情報端末の基礎を、そして今の高度電子情報網の構想の原型を創り出したのも彼女ではあった。けれども彼女の本質は、音楽であり、そしてそれが織り成す調和だった。
そう、彼女は理想主義者だった。
喉を上げる、ほんの少しだけ力を込めて、けれども無理をしない程度に。息を吸う、そして肺から自然と息を吐く。それと同時に、胸が振動しないようにしながら、頭に響かせるイメージで声を出す。あー、という声が反響する。女性の出す、高いドの音階が響く。
彼女の声色を真似るのは苦手だが、初期型の演算装置は判定基準が甘い。中期、後期のものになってくると、本人の声色かどうかも判定されるが、初期型は音階と、あとはその流さだけだ。
「─我を待つと」
彼女の音階が、頭の中から蘇ってくる。最初の音と音階さえ思い出せれば、あとは喉と肺が勝手に音色を奏でてくれる。歌詞を書き出せと言われても無理だが、歌うことはできる。それくらいには何度も彼女と歌った曲で、だからこそ疑似記憶神経さえこういった記憶に劣る。
─我を待つと 君がぬれけむ あしひきの
何の歌、と聞いた日が懐かしい。
夏真っ只中だった。その年は酷暑があまりにも酷くて、彼女と一緒に海辺の町へと疎開していた。それが他でもないここ、上河だった。
ファビウス選公に挨拶したあと、彼女と一緒に海辺で夕陽を眺めて。そこで彼女が、口ずさむかのようにその歌を歌った。
「山のしづくに ならましものを」
本人認証が始まる。録音盤の中でも可変式ではない、純粋な記録媒体としてのレコードが、硝子の向こう側で再生されている。防音板に遮られて聞こえないけれど、たぶん彼女の音色がそこで流れている。それが電気的な信号へと変換され、俺の奏でた音色と照合されていく。
─万葉集、という瑞穂の国の詩集に収められている、恋の詩の一つです。
そう告げた彼女の横顔は、黄金色に光る夕陽に照らされてどこか幻想的で。銀色の髪が、まるで黄金色に光っているかのように感じられた。それだけじゃなくて、服も顔も、何もかもが美しい光に照らされて、溶けていってしまいそうに思えた。
波打つ砂浜で、市民たちが戯れる。上河の港は木や石材で舗装されているから砂浜もないが、少し離れたところには広大な砂浜が広がっている。基本的にはここの海は遠浅で、それを掘り下げたり、あるいは元から他よりも深かったりした所を利用したりして出来たのが上河の港だ。
市民たちの上げる声は、あるいは図太かったり、あるいは甲高かったりしたけれど、そのどれもがどうしようもなく楽しそうで。それを歓迎しているかのように波が砂浜に飛び散り、綺麗な波飛沫の音を鳴らす。天然の音色と人々の生きた声色とが重なり合って、幸せの調和が響きわたる。
─昔の女性の詠んだ歌で、あなたと寄り添いたかった、という切ない気持ちを表しているのだとか。女性に会えなくて恋人が袖を濡らしていたのを知った彼女が、その袖を濡らした涙になってあなたに寄り添いたかった、という意味だそうです
認証が終わり、情報端末の点灯が変わる。認証できたことを示す点灯、その後また演算装置が動く。端子から流れた電流に制御されて、可変配列式録音盤に残されていた記録が呼び出されていく。ややあって、また情報端末の点灯が変わる。
「……記録なし、か」
彼女の残した記録がない、と情報端末の点灯が示す。
もしも記録があればその個数が示されるはずなのだが、表示されたのはエラーコードだった。これは、該当する情報がないことを示している。どうやら、無駄足だったらしい。
「……そうか」
これは、私に彼女の足跡を追うな、という意味なのだろうか。あるいは、彼女がわざと情報を消したのだろうか。いずれにしても、彼女は何も情報を残していってくれてはいなかった。
……いや、待て。
「エラーコード?」
そういえば、なぜエラーコードなのだろうか?
該当する情報がないならば、0個という表示をすれば良い。実際、初期型の音子式演算装置はそういう風に表示するものが殆どだったはず。けれどもこの情報商店においてある初期型はエラーコード表示だ。
俺の記憶を頑張って蘇らせる。覚えている限りだと、エラーコードで表示するのは元首宮殿においてある試作型と、あとは俺の実家においてある一号機だけだ。そしてここにおいてあるのは、当然そのどちらでもない。
キーボードを叩いて、一旦彼女の情報にアクセスするのを止める。代わりに、私のパスワードと音声認証を実行。私の情報は旧情報網から削除されているから当然該当情報なしと出るはずだ。
情報端末の点灯を確認する。
ややあって表示されたのは、エラーコードではなく0だった。
確証はない、もしかしたら単にそういう仕様なのかもしれない。けれどももし、先ほどのエラーコードが「仕込まれた」ものなのだとしたら? 彼女が遺した情報なのだとしたら?
エラーコードと0の表示について知っているのは、試作型と一号機を使ったことのある人間に限られる。試作型に関してはあの男の妨害もあって、使ったことがあるのは彼女と私、あとは令嬢様とその兄、ヴァーツラフの四人だけのはず。一号機に関しては私の家族と彼女だけだ。
……つまり先ほどのエラーコードは、他の人に本当の情報を見られないようにするための罠だろう。普通の人ならば表示内容がわからず、そしていくら調べても何が表示されているか分からない。
もう一度、彼女の情報へとアクセスする。相変わらず表示されているのはエラーコードだ。
おそらく、何かの操作をすれば彼女の遺した本当の情報が表示されるはず。けれども、その操作が分からない。そもそもエラーコードが表示された状態でできる操作なんて……っ!?
「……キーボードで、文字入力はできたはずだ」
正確には、新しく情報を追加する操作。
エラーコードが出ていようが、情報を追加することは当然可能だ。そしてその情報を、別の人に演算装置経由で渡すことも。今でいう電子手紙の原型だ。宛先指定も当然できる。
─お返事、お待ちしております。
彼女が私に送ってきた、最後の手紙に書いてあった言葉だ。もしもそれに、言葉以上の意味があるのだとしたら? 手紙だけではなく、あらゆる媒体での返信を受け付ける、という意味だったとしたら?
普通なら、手紙には手紙で返す。それは、電子手紙が普及した今でも同じこと。手書きの手紙には手書きで返す、未だに残っている礼儀の一つだ。
けれども、別に手紙に電子手紙で返信していけないわけではない。だとすると、やることは一つだ。
もう一度、彼女ではなく俺の情報にアクセスして、電子手紙を作成する。宛先を彼女─リアに指定し、文字を打ち込んでいく。おそらく中身に何か書いてあるかどうかだけが判断内容だろう。けれども、一度文字を打ち込みだしたら止まらなくなってしまった。
─これは、私の夢なんですよ
くるり、と右脚を軸にして半回転した彼女が私にそう告げて微笑む。軽やかなステップ、けれどもそこにあるのはちゃんと、重い言葉だった。
俺とリアの、でしょ?
そう告げた日は、いったい何時だっただろうか。年月が経過して、何時のことだったか忘れてしまっても、その記憶だけは残り続けている。
─嬉しいです、そう思っていてくれて
試作型の演算装置を開発している最中のことだったのだろう、そしてまだあの少年からの妨害が入る前だったのも確かだ。あの頃の俺たちは、夢を追いかけていた。
理想を抱き駆け抜ける少女と、それに共鳴して隣で追いかける少年。その頃の俺達は、だからこそ周りが見えていなかったのだと思う。けれども、どうしようもないじゃないか、とも思う。まだ子供だった俺達にとっては、駆け抜けていく先を見るのが精一杯で、周りのことを観ている暇なんてなかったんだから。
それをしろ、というのが貴族の令息で、令嬢なんだろう。
それを無意識にでも感じていたから、俺は貴族の男として生きたいとは思えなかった。だから彼女と街に出た、だから貴族らしくない服装を好んだ、だから貴族の男として見られるのを拒んだ。そして、だから足を掬われた。
いつの間にか、嗚咽を漏らしていたことに気づく。けれども涙が落ちているわけではなくて。枯れ果てた涙は流れ落ちることもなく、ただ呻くような声だけが響き続ける。
─大丈夫、大丈夫。だから、そんなに泣かないの
彼女の優しい声が、脳裏に蘇る。
鈴を転がすかのような、軽やかで綺麗な声音が鮮明に思い出される。こういう時、彼女は何を歌ったんだっけ?
手は勝手に送信していて、自分でさえ何を書いたのか覚えていない。ブレる声を必死に抑えながら、音声認証して彼女の情報にアクセスする。
エラーコードの表示が消え、代わりにファイルがふたつあることを示す表示が出る。キーボードを叩いて、一つ目のファイルを選択する。点灯形式が変わり、電子手紙形式であることが示される。送信者はつい先程の私、だからこれは目的のファイルじゃない。
一つ前に戻り、もう一つのファイルを開く。おそらく録音盤に刻んだものなのだろう、出力形式は「音声」と表示されているのに、ファイル形式が「不明」となっていた。
音声記録は、基本的には可変配列形式のファイルだ。だから、集音器を使って録音したものは電気的信号へと変換される。その電気的信号は可変配列式録音盤の、録音盤の配列として記録されるわけだ。
そしてそれを再生する場合は、録音盤の配列から情報を呼び出して、元の音声と良く似た声になるように音を重ね合わせる。それゆえ、再生される声は本物の声では決してない。
けれども、本人認証の際に用いられる録音盤だけは別だ。認証システムだけは構築したのが比較的早い段階だったのもあって、可変配列形式を用いていない。本人がレコード盤に録音したものを、そのまま取り込んで照合用の音声にしている。可変配列形式を思いつくのは、認証システムを構築した後の話だった。
おそらく彼女は認証システムをうまく弄り倒して、肉声を保存したのだろう。しかも、私以外には聞くことができないように。
拡声器を繋ぐ、同時に音量を調整。
そして、キーボードで再生を指示する。ややあって硝子で囲まれた空間内で電球が点灯し、処理単位がレコードを呼び出す信号を発生させる。
─あーあ、聞こえますか?
がた、っと。
膝から一瞬で力が抜けて、倒れ込んでしまった。ほんの少しだけ痛みが走るが、それ以上に温かい気持ちがよみがえる。最後に聞いたのはもう数十年前のはずなのに、直ぐに彼女の声だと分かった。
軽やかで色鮮やかで、それでいて優しくて優美で綺麗で。木琴を軽く鳴らした時のような、聞き心地のすごく良い声。鈴が転がっていくかのような、そんな声音。
─お久しぶりです
鮮明に、記憶が蘇ってくる。
ストリート風の服を買い漁った時の記憶が、花畑で一緒に歌った記憶が、砂浜で話した記憶が、共に夢を追いかけた記憶が、瞬く間に蘇ってくる。
─返信、くださらなくて悲しかったんですからね
ふふ、と笑う声が聞こえる。
声にならない声が、勝手に喉から上がる。いつの間にやら完全に倒れ込んでしまっていて、そこから立つこともできずに、頭を上げる。申し訳ない気持ちと死んでしまいたいという気持ちと後悔と悔恨と、それと同居するかのような郷愁と温かさと春の香りがごちゃまぜになって、どうしようもない。身体が震える、まるで後悔を抱えた青年が音楽を聞いた時のようなそんな感覚。
黒いナニカが胸の中で荒ぶって、けれどもそれが吐き出した毒針が全部、彼女の声音で消えていく。救いの歌声のような、そんな声色が部屋に鳴り渡る。
─私も感情の整理がまだついていないのです、だから暫くは親元の屋敷に帰省しようと考えています
そう告げる彼女は、けれどもずいぶんと落ち着いているようで。私とは違って、前に進んでいたのだと分かるそんな声色だった。
その声を聞いて、ああ、置いていかれてしまったんだなという気持ちが浮かび上がる。黒いナニカが雁字搦めにして、いや俺自身が雁字搦めにされにいって、そこで止まってしまった私とは全く違う。
「……やっぱり、リアは強いよ……」
喉から振り絞るように、そんな声が上がる。
昔からずっと、ずっと思っていたことだった。俺なんかよりもずっと、彼女は強い。俺が足踏みしている間に、彼女は先へ先へと進んでいく。そして、足踏みした俺の手を引いてくれる。昔から彼女は、そんな存在だった。
……私がいなくても、彼女は生きていける。
分かっていた、ずっとそう思ってきた。婚約破棄したあの日から、いやする前からかも知らない、それは私の奥底でずっと停留し続けている想いだ。運命の女神が運良く私と結びつけてくれただけで、彼女は俺がいなくても生きていける。
俺は、彼女とは対等ではない。どこまでも非対称で、どこまでも彼女はリアだった。俺の婚約者なんかじゃなくて、リアという一人の人間だった。
彼女は俺のことを、たぶん心の底から愛していてくれたと思う。そして、それと同じくらい俺は彼女のことを愛していた。
けれどもその愛は何処までも非対称。姉が弟に捧げる愛と、弟が姉に捧げる愛とが全く違うように、俺と彼女の間にある愛の形は全く違うものだった。
……もしも、対等であれたなら。
いつも、彼女は俺の手を引いてくれた。俺が彼女にできたことは、精々が彼女の近くで助言したり、あるいは一緒に喜んで怒って哀しんで楽しむことだけだった。彼女を支えていたなんて、口が裂けても言えない。
けれども。もしも、彼女を支えられていたなら。彼女が俺の手を引くだけでなく、俺が彼女の手を引くことができていれば。一回だけでもいい、もしも彼女の手を引かせてくれたなら。
「もしそうなら、婚約破棄なんて、しなかったのかな……」
分かっている、どの口が言っているのだという話だ。彼女との婚約を破棄したのはこの俺で、たとえどんな事情があったとしてもその事実だけは消えない。わかっている……わかっている、わかっているんだ! でも、でも……。
─だから気分が落ち着いて、するべきことも終えた時には、またいらっしゃってくださいね
彼女の声が遠くに聞こえる、懐かしい彼女の声が。
俺の手を引き続けてくれた、俺の前を駆け抜け続けていった彼女が、俺に声を向ける。けれどもその声が、あまりにも遠くて、遠すぎて……。
あの頃、俺の手を引いてくれるくらいの距離にいた彼女は、もう随分と先へ行ってしまったと、どうしようもなく自覚させられる。彼女の懐かしい声が、遠くに聞こえてしまうくらいに遠く。
……俺は、どうするべきなんだろうな。
ハハ、と乾いた声が聞こえる。俺自身の声なのに、そうだと自覚するまでずいぶんと時間がかかった。誰も手を引いてはくれない、いや手を引いてくれた誰かから目を背けて逆方向にひたすら走り続けた結果がこの末路だ。彼女の遺した夢を、構想を穢して。令嬢様の計画を妄信して、貴族社会を、国を壊して。そして今はこうして、へたり込んでいる。
あまりにも滑稽で、あまりにも馬鹿らしくて。あきれるしかなくて、だから自分を嘲笑った。
─言いたい恨み言、山ほどあるので
そんな彼女の言葉は、けれどもすごく柔らかくて。
それを最後に、音声の再生が終わった。
そして、部屋に静寂が満ちた。