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習作集  作者: 若宮 澪
習作1 婚約破棄とSF
5/8

婚約破棄させられたので、身勝手なお貴族様に恨み言をつらつら書き連ねてやろうと思います(β-2)

第二話〈蒸気〉


 長旅で疲れているのか、つい先程まで言葉を交わしていた少女は、今はすやすやと寝息を立てていた。季節は初春、列車内の空調は暖房から送風へと切り替わっている。けれども今日はやや冷え込んでいて、どうにも肌寒い。

 少女が風邪を引いても困るなと思い、私の来ていたジャケットを被せる。ふぁさっ、という軽やかで気持ちの良い服擦れの音がする。どこか彼女と似ている少女の寝顔を見て、なんだか安心してしまった。そういえば、幼い頃は彼女の膝に頭を預けていたか? 成長していくにつれて膝に預けることは減ったが、代わりに二人揃って隣で居眠りすることは増えていった。

 微睡んで、意識が落ちていって。段々と視界が昏く、けれども穏やかに閉じていく。そんな時に交わした言葉は、何も考えていないが故に純粋なもので。けれども、いやだからこそ記憶には残っていない。あるいは、言葉を交わしたということさえも幻想(ゆめ)だったのか? ……いや、たぶん真実だ。たとえ他の人から見たら事実でないのだとしても、それは、二人の間では真実だった。

  先に目が覚めるのはいつも彼女の方。俺が目を開いた時、そこに映るのは銀色の髪と、どこか恥ずかしげで、けれども嬉しそうな表情を浮かべた少女だった。起きるまで待っていたのか、まるで鈴を鳴らしているかのように綺麗な歌声を空に溶かしながら。けれども俺が目覚めると、その歌声を奏でるのをやめてしまって。どこか名残惜しく感じながらも、けれども目覚めてしまったからには仕方ない、そんな感じで。そして、彼女は俺にこう告げる。

 ───おかえり、と。

 その純真で、偽りのない笑顔がどうしようもなく好きだった。彼女の溶けてしまいそうな純真で無垢な歌声に違わない、まるで少女が初めて楽器で音色を奏でた時のような笑顔。だからこそ、その笑顔を裏切った俺を、私はどうしても許せない。いや、誰も許しはしないだろう。

 それに、そもそも許しなんてものを望んではいけない。そんな大層なものを望むには、私の手はあまりにも穢れすぎている。その穢れた手で、一体私はどれだけのものを穢してきたのだろうか?


 彼女の夢を穢した。

 貴族社会を、国を穢した。

 人の生きる世界を穢した。


 寧ろ、穢さなかったものを探すほうが難しい。

 あーあ、一体俺は何をしているんだか。彼女のことを想っていたと偽って、令嬢様との約束だと欺瞞して。それで、辿り着いた末路がこれ、か。


 ───言っておくけれど、私は今でも君のしたことを許してはいないよ。


 そう言って私を見送った彼は、今は静かに墓場で眠っているだろうか? 令嬢様の─彼の妹の希死念慮(ニヒリズム)に形を与え、その死を利用して、自らを欺いて。挙句の果てに、子供の癇癪でこの世界を狂わせた私を、それでも友人だと言い張ったあのお人好しは。


 ───けれども、私は君の友人だから。


 細胞置換技術(リバースエイジング)でも治療できない「貴族病」に冒されながら、彼は病床でそう言い切った。つい先日、国会(ザ・ロード)で共和憲法が可決された直後の頃だ。もはや名目だけの特権階級になっていた貴族が公式にその特権を失った日、国を思い私と戦った彼は息を引き取った。

 不意に、ガタン、という音が鳴り、少しだけ席が揺れる。窓の外に目を遣ると、列車の速度が落ち始めていた。つい先程まではまるで駆け抜けるかのように流れていた景色が、段々と一つの静止していく。

 蒸気都市(スチームパンク)に特有の鈍い光と無機質な鉄と、あとは鉄錆が組み合わさった風景。そんな都市を、彼は決して望みはしなかった。


 ───私は、少なくとも民生委員会のヴァーツラフ・フォン・ホルシュタイン委員長は、このような施策を認めないよ。確かに君の言う通り、この工業技術も、通信技術も素晴らしい。交通機関の整備の施策についても完璧だ、誰もこれより優れた代案を挙げられはしまい。けれども、()()()()()()()。君の眼には、国民も貴族も映っていない。君が見ているのは、()()()()()()()()()()


 そう告げるヴァーツラフは、いつの間にやら私の最大の敵手になっていて。けれども私的には、何度も私に語りかけ、寄り添ってくれた。見せかけではなく、本物の慈しみを向けて。哀れみでも、嘲りでもない。それこそ、まるで子を諭す父のように。

 けれども政治とはそんな友情には無関係に進んでいく。結局、私とヴァーツラフの権力闘争は私に軍配が上がり、彼は失意の中で故郷の屋敷に帰り、そしてそこで「貴族病」を発症した。貴族社会を守る最後の砦となっていた彼が表舞台に立てなくなったことで私の施策に反対する者はいなくなり、貴族社会の破壊は不可逆なものと化した。


 定期的に、私は彼の屋敷に赴いた。


 そのたびにヴァーツラフは嬉しそうな表情を浮かべ、私と言葉を交わした。けれどもその奥底にあったのは、失意だった。かつて私と権力闘争をしていた、自信に満ちあふれた男はそこにはいなかった。

 貴族病に冒され、ただ貴族社会が崩壊していくのを眺めるしか無かった彼の心境は、いったいどんなものだったのだろうか? そうさせた私が言える口ではない、けれどもどうしても考えてしまう。いや、私がそうさせたから、かもしれない。


 胸を荒らすように、黒い何かがふつふつと湧き上がってくる。けれどもそれを抑える気にはならなくて。呑まれそうになるのだけは避けながら、黒いそのナニカが広がっていくのを傍観した。

 まるで、穢れた雨だ。

 大地に雨が染み込んでいくかのように、そしてそこから植物が自然と生えてくるかのように。私の中に染み込んだ黒い何かから、自己嫌悪と自己否定の感情が湧き上がってくる。


 私のせいだ、というのは分かっている。

 救いを求めるのも、間違っている。

 共感も、同情もして良い立場ではない。


 けれどもそれを止められない自分が何処かにいるのも分かっていて。だから、俺は俺が嫌いだ。自己嫌悪というぬるま湯につかって、勝手に絶望して、勝手に傷ついて。そんな私が、どうしようもなく嫌いだ。

 どうして、こんな俺を彼女は愛してくれたのだろうか? こんなにどうしようもなく歪みきって、誰のためにもならない子供の癇癪を国に押し付けて。挙句の果てに国を、国民を壊した私なんかを、どうして彼女は愛してくれたのだろうか?

 令嬢様だってそうだ、別に私ではない他の誰かでも良かっただろう。私のせいで、私が令嬢様の希死念慮に形を与えたから、令嬢様は命を絶った。何もかもを壊すために、濁りきった欲望を満たすために。


 決まっている。


 偶然、そこにいたから。

 彼女だって、もしも私との婚約がなければ、今でも平穏無事に貴族として生きていられたはずだ。令嬢様だって、私がいなければ命を絶つことも、濁った欲望に身を焼くこともなかっただろう。もしもそれを運命と呼ぶならば、どうしようもなく運命の女神というのは性格が悪い。

 ……いや、それも違うか。

 私が、運命を無下にした。運命の女神が紡いでくれた糸を、私自身が切り裂いていったんだろう。それに、少女二人と国民と国を巻き込んで、ぐちゃぐちゃにして。


 「……あーあ」


 消えたい、ここから消え去ってしまいたい。もしも私が消えて、それで全部元通りになるなら。そう、何度想ったことか。

 けれども、もう何もかもが遅すぎた。

 消えて、それで何になる? 壊した責任は、この国を荒らしたことへの謝罪は、後悔は? 私についてきた国民達を見捨てて勝手に消えて、全てから逃げ出して。それは、子供でも許されない。

 自分でしたことの責任は、最期まで。

 当たり前の事だ、文字が読めない子供でも知っている。そんな当然のことからすら逃げ出したら、そんなの子供にさえ劣る。けれどもそれすら私には言い訳に思えて。

 結局、こうして悩んで苦しみ続けて、全部先延ばしにして、全部から逃げて。私には、それしかない。でも、それは自分の身勝手で。


 どうしようもない自分は、どうしようもなく愚かだ。死ぬことからも、責任を果たすことからも、自分のしてきたことからも逃げて、逃げて、逃げ続けて。


 ───自分にはお似合いの末路だ、とでも言いたげだね


 私の瞳を覗き込んで、ヴァーツラフはそう言った。

 病床に横たわる彼が、懐から何かを差し出してくる。


 ───知りたがっていただろう、彼女の行く先を


 差し出されたそれは、かつて貴族社会で用いられていた、古い情報端末だった。そこに刻まれた文字を見た時、ナニカが胸から弾け飛んで、まるで薔薇の棘が四方八方に飛び散ったかのように体中を突き刺した。


 「ッ!」


 視界に灰色の無機質な光景が映り込む。

 そうだ、ここは彼の邸宅ではなく列車の中だ。古い情報端末を差し出されたのも、彼と会ったのも先日のこと。だから、今じゃない。分かっている、分かっていた。

 弾け飛んだ薔薇の棘が、身体の中を掻きむしっていく。身体中の細胞を切り裂いて、壊して、毒を打ち込んで。ぐちゃぐちゃにかき乱された体内を、後から灼熱が襲う。熱い、痛い、苦しい……、やめて、やめてください、嫌、嫌ッ!

 かつての記憶とぐちゃぐちゃに交じり合う。かっ開かれた胃の中に、黒い何かが入り込む。異物が、無理やり胃の中身を押し出そうとしてくる。胃の中の酸と混合したナニカが、胃を溶かして、のどを溶かして、無理やりせり上がってこようとする。沸騰しそうなソレが、嘔吐を誘う。

 せり上がったきたソレの臭いが鼻腔に入り込む、全身に力が入らない。膝が、肘が痛い。視界が歪む、頭がぐらつく。思わず涙目になり、口を慌てて防ぐ。けれども抑えきれなくて、どうしようもなくて。

 慌てて化粧室(レストルーム)に駆け込もうとして、席を立つ。そこで視界に、少女が映る。だめだ、駆け込めない……っ!

 鈍る思考の中、ポケットに手を突っ込んでいた。そこに入っている瓶を取り出して、蓋を開ける。中身の錠剤を手のひらにばら撒いて、それを口の中に入れる。せり上がってきた吐瀉物が飲み込むのを阻害してくる、がそのすき間から胃に届いた薬が溶けていく。けれども速効性はなくて、胃の中身が逆流しないようにハンカチで口元を押さえるしか無かった。


 「あーあ」


 口の中で静かにそう呟いた。

 電車の外に流れる風景が止まる、停車した。どうやら停車駅に着いたらしい。身体を席から離して立ち上がる。無機質な建物たちと鈍い光、それに錆びた壁で固定された風景が眼に映る。

 その風景を見て、私はどこか親近感を覚えた。


◆◆◆


 鉄道の長旅も終わり、私は蒸気都市と化した上河(オーバーフリュッセ)市の中心へと足を進める。駅に降り立ち、列車の発着場と駅構内とを仕切る改札を抜けた先に、蒸気と散乱光に満たされた街を見る。

 鼻腔に蒸気都市(スチームパンク)特有の鼻を突く臭いが入り込み、体内へと絡みついていく。嘔吐感とは違う独特な気持ち悪さが体全体へと広がり、気持ち悪いはずなのにどこか高揚感が、まるで珍味でも食べた時のような気分が齎される。それに共鳴するかのように、胸の中に潜む黒いナニカがドクン、と跳ねる。体中に黒いナニカが広がっていって、不快なはずなのに、同時にそれを心地よく思ってしまう。

 それを自覚した途端、黒いナニカが胃へとへばりついて、胃の中身を全部ひっくり返させようとしてくる。痛さとは違う、まるで悪い媚薬でも飲んでしまったかのような気分。全部吐き出して、それで気持ちよくなれそうな。

 吐いちゃえ、吐いちゃえ、と黒いナニカが胃で囀る。それにつられて胃が蠕動し、酸味がせり上がってくる。焼けるような痛さと痛みを不意に感じ、慌ててソレをせり戻そうとする。気持ち悪い、はずなのにその痛みも熱さもどこか心地よくて。


 強引に咳き込む、それで無理やり胃の中身を戻した。


 逃げるように目を開くと、今度は散乱光の青色が、単色にも関わらず辺りを圧倒するような極彩色に見えて、視界をぐらつかせた。秋入りたてのどこか冷たい肌が、気温とは別の……、そう、空気感のせいで生暖かくなる。まるで、冬場に暖かな湯船に浸かった時に感じるような、独特な肌感覚が全身を包みこんで、離してくれない。

 工場で鳴り響いているはずの機械の音が、駅の中にまで響きわたる。規則正しくて、だからこそあまりにも無機質な灰色の音階が、ただただ命令に従って流れ続ける。鉄と蒸気とか織り成すその音色(サウンド)は、決して人の奏でる個性的な音色(メロディー)とは調和しない。それぞれ身勝手に鳴り響き、不協和音でも鳴らしているかのような気持ち悪さがする。


 「なんだか、凄いところですね」


 背丈もさして変わらない少女の声が、隣から不意に聞こえた。街に似合わないような、綺麗な声色。意外に思えて、そちらに視線を遣る。

 銀髪の儚げな少女が、そこに立っていた。


 「これ、返しておかないとと思って」

 「ん、ああ。持っていて構わなかったんだが……」


 私が少女に掛けたジャケットを、返しに来たらしい。律儀というかなんというか、面倒だろうに。大半の人なら運が良かったと思って自分のものにしてしまうか、あるいは律儀でも駅員に渡しておしまいだろう。それを、わざわざ直接返しに来るなんて。


 「ありがとう」


 列車で会った時のように、少女は重そうなギターを背中に負っていて。だからというか、姿勢が若干前屈みだ。

 差し出されたジャケットを受け取る。


 そういえば、少女も上河(オーバーフリュッセ)が目的地だったか。

 列車の終着地点はここだ。だから駅員も起こしてくれるだろうし寝過ごす可能性は無かった、でも声掛けくらいはしておくべきだったか。せっかく俺のことを心配してくれて、なんなら会話さえしたのに、ずいぶんと不躾なことをしてしまった。


 「済まないね、起こすべきだったんだろうが……」

 「いえいえ! 終着駅ですし、それは全然」


 両手を振って、少女がそんなことないと全身で告げる。その姿が健気で、なんだか気分が安らぐ。とは言っても、礼儀に反することをしてしまったのは事実で。

 少女は気にしていないのだろうが、申し訳なく感じてしまった。


 「それにしても、ここは変わりませんね」

 「……そうかな?」


 ここ数十年間のうちに、上河市は時代の濁流に飲み込まれていった。幼い頃に彼女─リアと旅行したときは、街には活気があふれていて。街中を商人たちが歩き回り、あるいは沢山の特産品がそこら中に並べられていた。

 港には数十もの船が並び、そこで食材が下ろされたそばから商人たちがそれを買い上げていく。税関職員たちは商人組合から帳簿を受け取り、あるいは現場で不正が行われていないか調査し、関税を徴収する。負けじとばかりに商人たちはあれこれ言葉を並べて、税金を安く済ませようとする。

 傍から見たら喧嘩一歩手前の口論がそこらじゅうで起こっていて、けれどもそれは日常茶飯事な交渉の一幕だった。辺り一帯で人の声が鳴り響き、朝から晩までずいぶんと騒がしい、活気のあふれた街。

 それが、私が最初に来た時の上河市だった。


 「蒸気がぼわぼわ出てて、情報端末も通信範囲外。機械の音も煩いし、なんだか変な匂いもする。それに、なんだか空気感が停滞しているというか……」

 「独特な言い回しだね」

 「その、友達に電子小説を書いている子がいて……。その子の影響です、たぶん」


 そう言って少女は、そっと目を逸らした。ほんの少しだけ動いた首が服の襟に当たって、ほんの僅かに柔らかな音を鳴らす。

 恥ずかしがっている、というよりかは隠した感じか。たぶん本当は自分で書いてるんだろうな、となんとなく察する。ただ、貴族ならともかく相手は一般人だ。隠そうとしてる物事が国家の一大事だとか、あるいは先端研究だとか、そういうわけじゃない。習い性で身体などの動きから感情を読んでしまうが、ここでは悪い癖になる。


 なんだか、嫌になる。

 隠したがっていることを察してしまうのも、こんな習い性も。貴族に生まれたことを恨んでも仕方ないことは分かっている。が、もしも貴族として生まれなければ、もう少し楽に生きれただろうか? リアや令嬢様を、誰かをこんなにも巻き込まずに済んだだろうか? 生きているだけで、誰かに迷惑をかけたりせずに済んだだろうか?

 いや、ただの傲慢だな。人間誰しも、生きていれば迷惑をかけるものだ。けれども迷惑をあまりかけない人もいれば、どうしようもなく迷惑をかけてしまう人もいる。私は、多分後者なのだろうな。だから、生きているだけでたくさんの人に迷惑をかけて、自分の子供の癇癪に巻き込んで。あーあ、嫌だ。


 生きてて辛いなんて、言葉に出していい立場じゃない。それにそんなことで辛いなどと言っていたら、私のサイン一つで生活を破壊されてきた人々はどうなる? 恵まれた私ごときが、言っていいことじゃない。

 分かっている、分かっているからこそ、自分がどうしようもなく嫌だ。こんな感情、消してしまいたい。もしも自分の精神だけを傷つけられるなら、誰かが傷つけてくれるなら。


 「えっと……どうかしましたか?」

 「いえ、なんでも」


 無機質な音色(サウンド)が鳴り響く、機械の規則正しい音が私の声と調和していく。喉から出しているはずの私の声は、なぜだか人の個性的な音色(メロディー)とは全く異なる異質なそれに聞こえた。

 少女の方に目線を合わせる。綺麗な銀色の髪と端正な顔立ちが目に映り込む、ちゃんと人と触れ合ってきたことがわかるような。そして、私とは全く違うような。


 「それよりも、君も死者の館(エリュズニル)へ行くんだよね?」

 「あっ、はい」


 こくり、と少女が頷く。

 おそらく何度か来たことがあるのだろうし、ここの治安も知っているとは思う。それに、立ち回りも知っているはずだ。だから心配することはないのだろうが……。


 「折角ですし、一緒に行きませんか?」

 「よろしければ、是非」


 よろしくお願いします、といった意味なのか。少女が軽く会釈しようとして、ギターの重さにやられて想像以上に前のめりになってしまう。倒れ込んできたその身体を、慌てて支えた。

 年頃の少女にしては少し軽い、小柄な事も踏まえたら妥当なのだろうが少し心配になる。研究に没頭するあまり食事を抜いて、ぶっ倒れた彼女を思い出す。食事を食べたら眠くなるだの、食べている時間が無駄だの言って、四六時中紙と向き合っていた。


 ───いいですか、食事なんてエネルギーが取れればいいんです! でしたら、それこそ砂糖入りの飲み物で十分ではありませんか!


 そう言ってまた機械の設計に戻る彼女に、最後は俺も呆れてしまって。仕方なく、専属のメイドと一緒になって、屋敷から連れ出してきた彼女の父親に叱ってもらったものだ。もっとも、その彼女の父親もまた研究に没頭して食事を抜く癖があったから、彼女には強く言えていなかったのだが。


 私の父に聞いたところ、彼女の一家は研究の血が流れているそうで。古代の大帝国の時代から、男女問わず研究に優れた者が生まれやすいらしい。この国の貴族家門は得てして学問や実学に優れたものが多いが、彼女の一家はその中でも特別なのだそうだ。

 ただ、その一方で価値基準が若干おかしいところもある。それに、やたらと物忘れがひどかったり、あるいは些細なことが出来なかったり。彼女だと、鍵の閉め忘れが多かったか? いつもは年長の者のように振る舞うのにそういうところが抜けていて危なっかしくて。だから、私は彼女の隣にいることが多かった。


 少女とともに、街中の街道(ストリート)を歩いていく。石造の住宅とコンクリート製の工場の壁が入り乱れた街並み。かつては商店がならんだ道は、いまや酔った人々が横たわる一夜限りのベッドに成り果てた。

 体の穢れを落としていないのだろう女性が、住宅の壁に体を預けて死んだように眠っている。それを横目に、歳に似合わないほど疲れてやつれ果てた少年たちが、(ドブ)を探してのろのろと走り回る。弱々しい、けれどもなぜだかどこかすごく人間らしい、靴の音が鳴り響く。まるで枯れ果てた喉でそれでも必死に歌い続けるかのような環境音(メロディー)、ここで必死に生きているのだと告げているかのようだ。

 掃除していない鶏小屋のような異臭がそこらかしこから漂っていて、それを隠すかのようにそこら中に防臭剤が置かれている。

 ややあって少年たちが溝を見つけたらしい。裸足になったあと、その中に体を沈めて鉄くずを探す。ぼちゃっ、という音とともに汚水が飛び散る。そのすぐ近くに流れている用水路で、中年男性が靴磨きをしてお金を得ている。


 靴を磨いてもらっているのは、この俗っぽい街にふさわしくないほど清潔感のある人々。羽織(コート)を纏いながら、何人組かになってそこらかしこを回っている。鳴らす服擦れの音は、どこかこの街の機械音と調和する。

 あれは、資本家だろうか? 商人組合が解散したあと、大半の商人は港湾市や別の都市へと移り商機を求めたが、中には激動の時代の波に上手く乗って富を荒稼ぎしたものもいる。

 そういった者たちは「資本家」と呼ばれて、ありあまる金を投資に回し、さらなる金を作り出していった。


 「なあそこの子供たち、もっと稼ぎたくはないか?」


 ドブさらいをしていた少年たちに、彼らはそう語りかける。その言葉を聞いて彼らは、とたんに顔を輝かせる。

 資本家たちは基本的には労働者を日雇いするが、ちゃんと賃金は出す。お金もなく定住地もない浮浪者の息子や娘にとっては、そのお金こそが生きる糧となる。


 「どんだけ出してくれんの?」

 「君たちの働き方次第だね、前に働いたことは?」

 「情報屋のじいさんのところでちょっとだけ。おれ、筋が良いんだってさ!」

 「そうかいそうかい、なら取り敢えず腕前を見せてくれたまえ。こっちに来なさい、体を清めなくてはね」


 優しそうにそう語りかける資本家たち、けれどもその脳内では目まぐるしい勢いで計算がされている。おそらく今も、どれだけの賃金を出すべきか、どの程度相手が仕事のできるタイプなのか考えているはずだ。

 けれどもその計算を阻むように、女性が数人。


 「ねえあなたたち、ちょっとうちらと遊んでかない?」


 無駄に布の面積が少ない服を着て、資本家にそう誘う女性たち。見たくもない風景なのでそっと目を逸らした、おそらく体の快楽に興味があると目敏く悟ったのだろう。

 そういえば、先ほどの女性たちの中には年端もいかない少女が混じっていた。痩せていて、放っておいたら死んでしまいそうなそんな子が。

 あれはおそらく、そういう客層を狙っていたのだろう。人というのは、男性であれ女性であれ自分よりも弱そうで、自分が支えなければ死んでしまうような、そんなか弱いものにはとんでもなく弱い。庇護欲を誘われて、ついつい面倒を見てしまう。

 そうやってご飯を食べさせたり、あるいはお金を恵んでやったり。けれども恵んでもらったお金は、少女の雇い主の懐へと消えていく。そして、自分の力で助けた少女が段々と大人びていって美しい女性に育った時、助けた者はどう思うか?


 資本家は、男性だ。

 貴族社会に役割の差はあれど男女格差はほとんどないが、商人社会は全くの別。男社会であるがゆえに、資本家となる者の大半は男だった。しかも、金さえあれば何でもできると思っている者が多い。


 自らが「育てた」女性の雇い主に多額の金を支払い、成長した子を引き取る。雇い主は多額の金が入り、しかも歳を重ねて使えなくなった女性を売り飛ばせるから万々歳、というわけだ。

 いつぞやにヴァーツラフが教えてくれた話だと、「憐憫商法」というそうだ。ちなみに、雇い主はわざと雇った少女に食事を与えずにやせ細らせているのだとか。

 酷い話だと、そう思った。けれども助けたくとも、私には何もできない。むしろ、そんな話を拡大再生産することに手を貸してしまっていた。


 ほら、やっぱり私に不幸ぶる資格なんてないじゃないか。こんなの、ただの自業自得だ。子供の癇癪でこんなことをして、国を壊して、社会を壊して。

 本当に、嫌だ。頭の中では知っていた、分かっていた。現地で何度となく見た光景だ、ヴァーツラフに何度も警告されたことだ。「国」という共同体を破壊した結果がこれだ、私のサインが産んだ事態だ。分かっている、分かってる、分かっている……っ!


 胸の中の黒い何かが、また騒ぎ出す。

 唐突に頭が締め付けられるようにいたくなって、胃がずき、っと痛む。胸から黒いそれが張り裂けて出てくる、食道を伝って全身に広がる。押し広げられた血管の中に遅延毒でも仕込まれたかのように、全身に力が入らなくなる。まずい、と察したのかいつの間に何やらポケットの中の薬を取り出して口の中に放り込んでいた。


 ……あーあ、何してるんだか。


 できるだけ使わない、と決めていた薬だ。ヴァーツラフにも警告された、その薬は「貴族病」を引き起こすと。心因性の強烈な胃の痛みや、全身に広がる不快感に対して効果のある()()()

 本来ならば使うべきでない、そう分かっている。けれどもこれから来るであろう吐き気に耐えられる気がしなくて、無意識に口に含んでしまった。瓶の中に視線を遣ると、まだまだ残ってはいる。けれどもこれを使い切ろうものなら、おそらく故郷の屋敷には帰れまい。


 なんだか、ぼんやりとした不安を覚える。


 機械の規則正しい音が、都市の心臓を拍動させる。四方八方に立ち並ぶ工場が、街道の壁に見える。そして街道の先は、蒸気機関の作り出す水蒸気によって伺うことができない。空に立ち上った蒸気は青色の光を散乱させて、地上への光を届かなくさせている。


 「そういえば、この街って女性や子供が多いですよね」


 ふと、少女がそう話しかけてきた。

 何でなのか知ってたりします、と尋ねてくる。純粋な疑問、みたいだ。邪な感情だったりがあるわけでもない。


 「男性は都市圏に出稼ぎに行くからね、必然的にここは女性労働者が多くなる」


 蒸気都市(スチームパンク)の特徴の一つだ。

 いわゆる肉体労働が必要になるような機会は、ここではそんなにない。重量物を運ぶ作業だとかはもちろん細々と存在しているのだが、ガタの来た工場だろうが住居だろうが、この町を経営する資本家たちはギリギリまで修理しない。というか、下手に修理するよりも壊して新しいものを買った方が安上がりだ。

 その方針のために、いわゆる土方の仕事はこの町中に殆ど存在しない。さらに、たとえここでそういった仕事を取ろうとも、給料は資本家たちの制御下にあるから安くなってしまう。


 となれば情報化の進んだ都市圏で、日々移り変わる建物を修理したり、あるいはゴミの収集だったりをしたほうが、賃金は高くなる。資本家たちに安月給を強いられることもなければ、仕事だって多い。

 結果として、蒸気都市の男性は大半が都市圏へと出稼ぎに行ってしまうわけだ。そして、それを加速したのが……。


 「っと、着きましたね」

 「なんだか、ここだけ場違い感がある……ありますよね?」


 隣接する工場からはもくもくと蒸気が立ち上り、疲れ果てた女性と子供に管理職の女性が鞭を打っている。引っ叩く音や悲鳴が、機械の鳴らす規則正しい無機質な音色(サウンド)によってかき消されていく。不気味に調和したその旋律(メロディー)が、都市の心臓の拍動を作り出す。ここで作り出されたお金は、この国の中枢都市、世界市場へと巡り、最後はまたこの都市へと還ってくる。そしてまた、不協和音の調和を作り出す。

 そんな痛ましい情景を隣に置きながら、全面ガラス張りの高層ビルがそこに建っていた。


 正確には、ビル群。

 かつては商人組合本部や税関職員詰所が置かれていた建物が、何度も改装されたものだ。中心部の、ビル群の中でも群を抜いて高いのが「上河電子公司(O E C)」と呼ばれる企業のもの。資本家たちの本拠地がここで、周囲を取り囲んでいるやや高めのビル群もその系列に属している。

 上河電子公司は上河市のみならず旧ファビウス・クゥルファスト、つまりはファビウス選公領の電気関連の事業を独占する官民合弁企業だ。彼らはかつて貴族の握っていた統治権を購入したり、あるいは事業を移譲してもらったりして、第二の貴族(ナイト)と呼ばれたりしている。


 産業革命が始まってから、殆どの辺境貴族たちはその統治体制を上手く維持できなかった。急速な工業化による物価の大幅な下落と、さらには日進月歩の勢いで進む精密加工技術、そして機会制御技術の発達。工業製品の流入はそれまでの支払いシステムを見る見るうちに破壊し、辺境貴族たちは借金を作った。そして支払い不履行を理由に統治権を手放していき、今となっては資本家たちに統治権限を奪われてしまった。


 それを加速したのが、私達中央貴族だった。

 いや、それも違うか。


 初めに構想したのは彼女─リアだった。彼女の思い描いた理想郷は、けれども令嬢様や私によって汚されていって。それを防ごうとしたヴァーツラフたちも今はいない。そして、穢すべく旗を振ったのが他でもない私だった。


 こつこつ、と。

 コンクリート舗装された道を、少女とともに歩いていく。私の鳴らす靴の音が、なぜだか少女の鳴らすそれと釣り合っている気がしなくて。けれども浮いているのは私の音ではなくて、少女の音だった。

 街道の壁には多数のガラス張りのビル群が立ち並ぶ。その中にまばらに建つ、石造りの古めかしい建物。その珍しい建物の、そのさらに一つがようやく視界に入ってくる。ところどころコンクリート造りだったりガラス壁が使われてたりする、ネオンライトの灯る不思議な店。

 その異様さは他のビル群と比較してみても明らかで、他は縦方向に高いものがほとんどなのに、この建物建ては水平方向に大きい。それに、建物そのものだって独特だ。そこらかしこに、歴代ファビウス選公が好んだ教会のデザインが組み込まれている。

 一時期教会の権限や政治的権利が増したことはあれども、結局この国では政治と宗教とは分断されていた。確かに山脈と大河川を越えた東側諸国では神権政治が行われているし、北西の山脈を挟んで接している隣国では国王が神から統治権を授けられたとして統治の理論を正当化している。けれどもそれは、外圧や異常なまでの格差社会が根本の原因だったりする。この国にはそのどちらもが今まではなかった、ゆえに宗教と政治は切り離されていた。

 けれどもそれは、あくまでも切り離したというだけ。国政の舞台に宗教が出張ってくることはついぞなかったものの、地方貴族個人が信仰することはもちろんあった。ファビウス選公はその中でも特に信心深く、個人として洗礼を受けたり、あくまでも個人資産の範囲で寄進したりしていたらしい。

 そんな宗教チックな雰囲気をたたえながらも、建物全体としては貴族の館、特に一昔前のゴシックを感じるものがある。どこか薄暗くて、人の深層意識に語りかけてくるかのようで、それで威圧的。けれどもそれは万人を力で従わせるというよりは、建物全体に満ちあふれた自信に皆が感服するかのよう。

 そして、そこに情報化社会の象徴ともいうべきネオンライトとガラス張りの壁。あらゆる時代が融合しあい、独特だけれども違和感のない屋敷がそこにあった。


 「着きましたね、死者の館(エリュズニル)。結構歩いた……」

 「何度か来たことが?」


 こくり、と少女が頷く。

 ギターをもう一度背負い直す。


 「楽器の修理を依頼してるんです」

 「情報商店(アクセスポイント)に?」

 「あとは親に連絡とか。私、親が田舎に住んでて」


 屋敷の中へと、何人かが入っていく。

 全員が女性───夫が出稼ぎに都市圏に行ってしまった人達だ。私も少女も、そんな女性たちの後ろに並んで情報商店の扉を開けた。


 「らっしゃい、ってカナデか。どうだ、ストリートで稼げてるのか?」


 店主席に座る中年の男性が、やさぐれた風貌に見合わない表情で少女にそう話しかける。纏っているのは、かつてはファビウス選公に仕える貴族であることを示していた職業貴族服(ジュストコール)。今となってはもはや、仮装(コスプレ)以外の用を成さないものだ。

 男性はいつもどおりといった感じで女性に何らかの番号を告げ、女性たちは女性たちで、慣れた手つきでカウンターに並んでいる情報端末を操作している。少しだけ表情を見てみると、どこか淋しそうではあるが、同時に嬉しそうだったり、あるいは落胆していたりする。十人十色、といった感じだ。


 「それなり、ってところかな。生活費くらいにはなってる」

 「そうか。……ストリートで液照(テレビ)みたいに稼げるのは、一握りだもんな」


 そう言って店主はため息をついた。

 ここは「情報商店」、つまりは「情報」をお金に変える店だ。それは何も、間諜や新聞屋だけの専売特許ではない。ましてやこの蒸気都市(スチームパンク)では。

 女性が、いつの間にやら取り出し口からお金を取り出していた。なんのことはない、夫婦の銀行口座から取り出したのだろう。その際に手数料を取られてしまうが、わざわざ鉄道でここまで往復するよりは安上がりに済む。

 また、女性たちは情報端末を起動させる際にお金を入れていた。もちろん銀行口座からお金を取り出すためでもあるが、それ以上に夫からの電子手紙をみたい、というのがあったはずだ。


 「ていうか、圏外なのに情報端末持ってきたんだな。マメというか、依存症というか」

 「ないと落ち着かないから、依存症っていうのはあながち間違ってないと思う。お酒みたいなものじゃないかな」

 「ハハハッ! そいつはあるかもな、俺も酒無しでやってけねえし!」


 店主がガハハと笑って、どこからか取り出した酒瓶の中身を口の中に流し込んだ。


 都市圏では高い無線塔から電波が常に発振されているから、情報端末で情報をあれこれやり取りすることができる。いわゆる圏内、というものだ。

 けれども蒸気都市や田舎では、無線塔がない。だから、情報端末でやりとりするのが不可能というわけだ、少なくとも普通の一般市民にとっては。けれども遠くに住む人々とあれこれやり取りしたいことだって当然ある、特に出稼ぎで夫が都市圏にいる場合などは。


 そういう時に活躍するのが、こういう情報商店だ。


 都市間は情報流管(ファイバー)で情報的には繋がれていることが多い。特に貴族社会がまだ生きていた頃には、情報流管(ファイバー)整備は半ば地方貴族の義務になっていた。旧情報網(アリストフィア)を利用するためにも必要不可欠だったし、それ以上に中央貴族と緊密な関係を維持するためにはどうしても整備する必要があったわけだ。

 ならば、その情報流管に直接情報端末を繋げば良い。もちろん無線塔を立てれば一般市民の誰もが高度電子情報網(インフォフィア)に接続できる。が、こうして情報への接続を敢えて独占することで、資本家はそこにお金の流れを作り出した。


 こうして、蒸気都市の中でも唯一情報端末に触れられる情報商店(アクセスポイント)ができあがった、というわけだ。


 「っと、そこの娘は客か?」

 「ええ、まあ」


 髪も男性にしてはかなり長く伸ばしているし、リアからも「その格好だと女の人みたい」とよく言われた。別に女の人として見られたいわけじゃないが、わざわざ訂正する気にもならない。

 それに、貴族の男として見られるのもなんだか嫌だった。彼女にそう言ったら、そんな人もいるんじゃないとすんなり流された。その頃は本当に悩んでいたから、そんなあっけんからんとした彼女の言葉にかなり救われた。結局はそれでも貴族の男として生きてしまったわけだが。


 「何のようだ?」

 「ここの地下にある、音子式(フォノ・)演算器(カルキュレイター)を使わせてほしくてね」


 すっ、と。店主の眼が細められた。


 「ほう、あんたは資本家の回しもんか?」

 「いえ、ただの物好きです」

 「ただの物好きにしちゃ、随分なものを知ってるじゃないか。職業は?」


 ───エリュズニル、上河市の情報商店だ。そこの地下に、彼女の行き先の手掛かりがある。

 ヴァーツラフがそう告げたのをさらに詰め寄って、ここに音子式演算器があるのを突き止めた。彼女と私が、婚約破棄前に作り上げた演算装置だ。そして旧情報網(アリストフィア)のための情報端末の一つでもある。

 そして、今ではもはや解読さえ難しい旧情報網から、情報を漁り売り飛ばすことを生業にする人々がいる。もと貴族だと言ったら厳しい顔をされるだろうから、私は偽り言を述べる。


 「情報探索者(ハッカー)ですよ」

 「はっ、やっぱり回しもんじゃねえゃか」


 そう言って、店主は鼻息を荒くした。


 「いいか、俺は資本家(あいつら)に情報を売るつもりはねぇ。手数料の八割じゃ満足できないのか、どんだけ金、金、金なんだ? 腐ってやがる!

  てめぇもだ、ドブネズミ野郎! 情報を漁って生業にしやがって」

 「……人のことは言えないのでは?」


 口に出してから後悔した、私は一体何を言っているんだと。けれども、なぜだかその瞬間だけ自制できなくて。ふう、と一息ついて思考を整理していく。

 確かに、少なくとも情報商店の店長が口にできることではないと思う。だって、やっていることは客観的に見たらたぶん一緒なのだから。いや私のほうがもっと口にしてはいけないことではある。この状況を作り上げたのは私だ。

 とは言っても、店主は私のことを情報探索者だと思っているはず。そう考えると、なんだかあまりにも不自然な反応ではないだろうか?


 「ああそうだな、そうだとも。人の事は言えねぇ、俺もそれくらいは分かってる。だがな、それでも譲れねぇもんがあるんだよ」

 「……地下の演算装置に何か?」

 「いや、そんなものは関係ねぇ。関係あるのは俺のつまらねぇ矜持(プライド)だ、他人様から見たら、くっだらねぇくれぇのな」


 はあ、とため息をついてさらに店長が酒をあおる。


 「酒が不味い」

 「……申し訳ない」

 「ったくよ、情報探索者だかなんだか知らねぇが。取り敢えずうちは資本家(あいつら)とは、手数料以上のことでは関わらねぇことにしてるんだ。どこから聞きつけたのかは知らねぇが、帰ってくんねぇか?」


 ……本心から嫌がっているのが伝わってくる。けれどもそれは、少なくとも私に向けての敵意ではない。どちらかといえば、私のは生駒にいると思われている資本家たちへの敵意だ。


 「別に、情報を売ろうというわけじゃないですよ」

 「……ほう?」


 少しだけ興味を持ったかのように、店主が私の方に視線を遣った。相変わらず、酒をあおりながら。


 「……大切な人の、情報を探してまして」

 「……」

 「どうやら、ここの音子式演算器にそのヒントが───」


 言葉を続けようとした瞬間、店主が持っていた酒瓶を私に向かって投げつけた。咄嗟の判断で、それをかわす。顔に、まだ残っていた酒瓶の中身が降りかかる。まるで氷で殴られたかのような冷たい、鋭利な痛みが走った。その直後、ガシャン、という音が鳴って、破片が辺りに飛び散る。商店全体に甲高い破砕音が鳴り響き、店内にいた女性たちはこぞって私達に視線を向ける。


 「あんた、貴族だよな?」


 先ほどの比ではない敵意を、私へと向けてくる。

 それは殺意とそう変わらないほどのもので。


 「……情報探索者ですよ?」


 取り繕うかのように、そう告げてしまった。

 けれどもそれが悪手だというのも心の何処かでわかっていて。でも、そう告げるしかなかった。


 「嘘つけ、どうして旧情報網(アリストフィア)に探している人の情報が残ってるんだ?」

 「……」


 沈黙、沈黙、沈黙。

 気まずい沈黙が流れる、まるで獅子が獲物を待ち構えているかのような雰囲気。

 机を、店主が人さし指の爪で叩く。トントンという本来軽いはずの音が、異常に重たく聞こえる。耳にこびり付いて、離れない。返事を催促するかのようなその音につられて、心臓が跳ねる。緊張ではない、恐怖だ。

 イライラが伝わってくるのに、どう受け答えようが怒りを爆発させるだろうことは明らかで。けれどもこうして沈黙し続けてもいずれ爆発するのも明らか。だから言葉を探すが、何も見つからない。……いや、「すみませんでした、失礼します」の一言で満足するだろう。けれどもそれは、譲れない一線だった。


 「……だんまりか」

 「……」


 はあ、と大きなため息。

 そのため息に、全身が強張る。恐怖が、全身を駆け巡る。怖い、かつてのトラウマが蘇る。


 ───はやく答えてよ、ボク忙しんだけど? なに、答えるつもりないなら殺しておしまいだけど? ねぇ、早くして。


 どこか少女のようにも見える、そんな少年。けれども、どこまでも貴族の中の貴族であった男。

 何度も呼びつけられて、そのたびにこんな怖い時間を味わって。あの時よりはマシだが、それでも体にこびりついた恐怖は離れない。頭は必死に回転し続けてるのに、袋小路に当たっていることを自覚しているがゆえにどうしようもない。打開のしようのなさがさらに緊張と恐怖を生む。

 心臓がはねて痛い、膝から力が抜けそうになる。貴族と相対した時には決して感じないそれを、目の前の店主から感じる。違いは一つ、自分の欲望に伴う袋小路に行き当たったか。


 ああそうか、全部俺の欲求のせいか。


 紡ぐ言葉を考えなきゃいけないのに、思考のリソースが急速に変な思考へと流れていく。これを引き起こしてるのは自分のせいだという思考が、だから自分が悪いんだという思考が頭の中を急速に埋め尽くしていく。考えなきゃいけないのに、その思考がリソースを食いつぶしていく。


 嫌だ、怖い。

 そんな原始的な感情が、体中を覆い隠していく。身体が震える、恐怖心が顕になる。手に力が入らない、視線を逸らしたいのに全く逸らせない。


 「……なあ、せめて何か言葉を紡げ」

 「……そ」

 「あ、なんて?」


 喉が震える、言葉を出すことに勇気がいる。しかも、恐怖のままに言葉を出してしまいそうになる。口に出したら言い訳にしかならない、もう一度言葉を考え直して、いやでもそんなことをしたらまた店主をイライラ───


 ───"Rock-a-bye, baby in the treetop"


 穏やかな歌詞が、不意に流れ出す。

 聞き心地の良い、少女特有のソプラノの声。優しくて、温かくて、まるで穏やかな春の日にぽかぽかと日光浴を楽しんでいるかのような。心の奥底まで溶かしてしまうかのような、そんな声。


 その声が、彼女に重なる。


 ───知ってますか? これは北洋諸島の子守唄なのだそうです。あまり外国の発音に自信はないですが。


 そう言って彼女はまた、花畑で歌い出す。

 元首宮殿、貴族たちが毎日集まる宮殿の、その花畑。春の日にそうやって花畑の近くで歌うのが好きで、彼女はよく私を連れ出した。初めは難色を示す大人の貴族もいたが、注意しても繰り返すのと、あとは彼女の美しい歌声に魅了されて、結局は許してしまう。


 "When the wind blows, the cradle will rock

 When the bough breaks, the cradle will fall

 And down will come baby, cradle and all"


 ギターを弾きながら、少女が歌う。いや、そこにいるのは少女ではなくて、健やかに子が育ってほしいと願う母親だった。健やかに育ってほしい、穏やかに眠ってほしい。そんなふうに思い、腕で子をあやしながら歌う母親がそこにいた。


 「……相変わらず、カナデは歌がうまいな」

 「あはは、まあ稼げないんですけど」


 いつの間にか、母親は少女へと戻っていて。

 そこにいるのは、まだ成人しているかも怪しい少女だった。穏やかで、どこか達観していて、そして優しい少女だった。


 「でも、好きだから」


 そう告げる少女の顔に、一切の曇りは無かった。その顔が、彼女と重なる。音楽が、研究が好きだった彼女の面影に重なる。


 「……もう一度、弾いてくれないか?」


 気づいた時には、そう口に出していた。


 「えっ、あっ、はい。それじゃあいきますね」


 すう、と息を吸う少女。

 ギターに手をやって、優しげに弾く。その瞬間にそこに現れたのは、姉のようにも思っていた彼女の姿だった。


 ───"Rock-a-bye, baby in the treetop"


 穏やかに、温かに。

 声を紡ぐ彼女が、少女(リア)へと重なる。春の陽光に照らされて花畑の前で歌っていた少女(リア)と、重なる。俺の手を引いてくれた少女(リア)の姿と、重なる。


 ───"When the wind blows, the cradle will rock"


 少女が少し、驚いた顔をする。

 俺がそう、声に出して歌っていたから。けれども直ぐにあの穏やかな表情にもどって、より一層温かみのある声を出す。春の陽光に照らされた花畑に、蝶々が飛ぶ。咲いてきた白色の、名前の知らない花に止まる。雨上がりだったのか、少しだけ葉に残っていた水滴が、風に揺られて落ちる。奏でる音色に合わせるかのように、植物たちが風に揺られる。


 ───"When the bough breaks, the cradle will fall"


 彼女がその近くに座り、空を見上げる。

 ───綺麗な青色の空、吸い込まれちゃいそう。

 あっ待って、今恥ずかしいこと言った、と。顔を赤らめて俺にそう告げて、対して俺はそんなことないよと答えながらもちょっと恥ずかしかったかも、と思ったりして。ちょっとした意趣返しとして、彼女の小さな手に俺の小さな手を被せた。


 ───"And down will come baby, cradle and all"


 曲が終わり、風景は遠のいていく。

 懐かしい風景だった、心の痛みもなく鮮明に思い出せる。疑似記憶神経(パラメモリ)の正確無比な記憶とは全く違う、それは想い出だった。幼いころの、まだただの子供でいられた頃の俺の記憶。

 けれども今の私には、その風景がどうしようもなく、遠い。今の空は蒸気とネオンサインに穢されて澄んでさえおらず、綺麗な青色でもない。私の壊したその風景たちは、もはや記憶の中にしかない。ほかならぬ私の子供の癇癪のせいで。


 「……上手いもんだな、あんた」


 不意に、店主がそう告げた。


 「すみません、お話中に」


 頭を下げる、これは間違いなく私が悪かった。けれどもなんだか無性に、歌いたくなってしまったのだ。少女にも、悪いことをしてしまった。


 「いや、良いもんが聞けた」


 はあ、と。店主がそう、息を吐いた。


 「あんたが貴族なのは分かった、それで俺は貴族が大っきらいだ。中央の、この国をぶち壊した奴らがな」


 そう言って店主は、煙草を取り出した。胸のポケットから、それと同時にマッチの箱が現れる。すっ、と取り出したマッチで火をつけて、それを煙草に移した。

 白い煙が、店内に溢れていく。その匂いは確かに良いものではなかったが、けれどもなんだか、温かい気がした。


 「だが、なんだかあんたは、それとは違う気がする」


 ふっ、と。煙草から口を外して、勢いよく吐いた。

 それと同時に、私の方へと改めて視線を遣る。そして、鍵を投げた。


 「そいつが下の階の鍵だ。曲を聴いたお礼だ、今日だけは見逃す」


 そう言って鍵を渡してくれた店主に、私はどうしようもなく申し訳ない気持ちが湧く。だって、中央貴族の領袖は私だったのだから。この国を壊したのも、店主が嫌いな中央貴族の権現も、この私なんだ。

 そう叫べたら、どれだけ楽なんだろう。

 けれども、そんな事が出来るはずもなく。だから、心からの感謝の言葉だけを告げて、その場から逃げ去るように下の階へと向かった。

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