表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
習作集  作者: 若宮 澪
習作1 婚約破棄とSF
4/8

婚約破棄させられたので、身勝手なお貴族様に恨み言をつらつら書き連ねてやろうと思います(β-1)

第一話〈手紙〉


 今となっては見かけることも稀になった旅客用の旧式列車に揺られながら、私はその手紙を読んでいた。夕暮れ時を告げるかのような朱色の陽光が、その手紙の透明な白色を紅く染める。


 【拝啓、私のもと婚約者様へ】


 その文言を、果たして私は幾度見たのだろうか? けれども見るたびごとに心の奥底が薔薇の棘に突き刺される。痛みも苦しみも、決して癒えはしない。頭の中で、甲高い悲鳴のような音が鳴り響く。まるで管楽器(トランペット)を爪で引っかいたかのような、どうしようもなく不快で、全身がたまらなく気持ち悪くなるような。

 いつの間にやら、手紙を持つ手が震えていた。胸の奥が痛んで、動悸が止まらない。呼吸が浅い、息を全身で吸い込む。はあ、と肺の底から息を吐く。気分を落ち着ける、視線を手紙に戻す。


 【このような形であなたに手紙を送らなければならないこと、心から謝罪させていただきます。何せ私の袖の涙を乾かす間もなかったものでして。もしも事前にお伝えいただければ、ことわりを通したうえでお諌めの手紙を送りましたのに。】


 彼女は、冷静に手紙を書いたつもりだったのだろうか?

 この手紙の書き出しを読むたびに、そう思う。辛うじて令嬢の手紙の体裁を保ってこそいるが、行間から怒りと哀しみとを感じる。


 ───それも、仕方ないことだ。

 直接頬を張りに飛んできてもおかしくない、とすら考えていただけに、当時は拍子抜けした。いや、安心したというべきだろうか?

 そして、安堵したと気づいた瞬間にこれでもかというほど気分が悪くなった。


 「うっ……」


 思い返すだけで、胃の中を全部ぶち撒けたい気持ちになる。自分勝手で独り善がりで、それでいて情けなくて甘えてばかりの私自身が、本当にどうしようもなく気持ち悪い。

 胃の中がぎりぎりと痛む、まるで薔薇の棘をそこらかしこに刺されたかのよう。胸も詰まって苦しい、何かどす黒いものが体をのみ込もうとしているかのように。


 熱い、痛い、辛い、苦しい。

 何度、いったい何度これを繰り返しているのだろう。どす黒い何かが体を焼き払うかのような熱さに変わって、胸や胃を焼き払って、溶かして、灰を食らい尽くして。身体の中にある血管も、細胞も、それに意識も、ありとあらゆるものが不調を訴えてくる。

 落ち着いて深呼吸、すうと息を吸おうとして肺が詰まる。ゲホゲホと咳込み、それにつられて胃の中が出てきそうになる。胃酸が気管まで上がってきて、そこを溶かす。熱くて痛くて、耐えられそうにもない。

 もう一度深呼吸を……だめだ息がちゃんと吸えない、浅い呼吸が体に堪える。節々が痛くて仕方ない、どうやっても無理だ……っ!


 急いで車両の中の化粧室(レストルーム)に駆け込む、周りの奇異の視線を一瞬だけ感じたが、それどころではない。口元を押さえながら、慣れない体を動かしてドアをこじ開ける。

 便器の蓋を上げて、ドアを閉めて、そして耐えていたソレを吐き出した。口の中に酸味と痛みと、気持ち悪い感覚とが広がって、そしてそれらが消えていく。けれども体中に広がった黒い何かは、決して出ていきはしない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もかもがめちゃくちゃで。

 つん、と鼻を突く匂いが鼻腔の中に広がる。その感覚に誘われて、喉の奥に手を突っ込む。喉に爪が当たって痛い、喉の中に異物が入り込む感覚がどうしようもなく気持ち悪い。少し指を動かす、肺がむせ返るように空気を送り出し、胃がそれにつられて中の物をもう一度食道から胃へと逆流させる。嘔吐感がまたやってきて、手を引っこ抜く。

 また、胃からソレが出てくる、吐き出される、飛び散る。全身から力が抜けそうになるのを必死に堪えながら、中にあるものを全部吐き出す。意識が飛びそうになる、視界がぐらついて耳鳴りも酷い。それでもようやく気分が落ち着いてきて、吐き気も収まってくる。ふう、とようやく深呼吸できるようになり、大きく息を吸ったあと流水レバーを引いた。


 「……汚い」


 あはは、と。たぶん、力なく笑った。あーあ、いったい誰のせいでこうなったと思ってるんだか。こんな事態を引き起こしたのは、全部の責任を取ると言ったのは、そして彼女に傷を負わせたのは、さて誰だろうか。


 「全部、俺のせいだろ?」


 久しぶりに、自分自身のことを俺、と呼んだ。

 あの日から─彼女から何もかもを奪ってから、久しく私という一人称で自分のことを誤魔化し続けてきた。いや、誤魔化してさえいない。


 ()()()()()()


 自分は冷徹で非情な貴族だと、そういう仮面をかぶって、それを演じ続けてきた。だから、こうして吐く資格も、感情のままに化粧室(レストルーム)に駆け込む資格も、本当はありはしない。()()()()()()()

 これまで私は、何人傷つけてきたのだろうか。あるいは、サイン一つで何人を死刑台に送った? 声一つで何人を不幸に、紙一枚で何人を犯罪者にしてきた?

 言い出したらきりが無い、それくらいには悪行を重ねてきた身だ。それにもかかわらずこうして吐く日々も珍しくなかったあたり、私は徹頭徹尾子供でしか無かったのだろう。所詮は子供が大人の役割演技(ロールプレイ)をしてきただけ、まあ欠けた自分にはふさわしいのかもしれないが。


 はあ、と。一つ、また溜息をついた。


 つい先程までそこにあった吐瀉物は綺麗に何処かへと消えていて、それと同時にどす黒い何かが胸の中へとしまい込まれていくのを感じた。


◆◆◆


 駆け込んだ化粧室(レストルーム)から戻り、改めて古びた手紙を手に取る。もう数十年も昔のものだが、そこに書かれた文字も紙質も新しいままのように思える。そして、そこに込められた感情も。

 たぶん、そう思えるだけなのだろうということは分かっている。数十年も経てば紙は劣化するし、文字だって消えて読みにくくなって当然だ。けれども込められた感情は、そんな時間経過を全て無に帰す。


 「いや、違うか」


 嗤った、自分を。

 たまらなく惨めで、傲慢で、そして子供を自分を嘲笑った。彼女と婚約破棄した時から何も変わっていない自分を嘲笑った。

 乾いた笑い声が、声にもならずに口の中に広がる。細胞置換技術(リバースエイジング)で若いままで固定されたはずの喉にも身体にも、なぜだか老いを感じた。胸の中で蠢く黒い何かが、不気味に身体中に広がっていく。吐き捨てたいくらい醜くて、誰にも観られたくないくらい歪で、嗅ぎたくないほどに異臭にまみれたそれが、けれどもどうしようもなく私の中へと同化していく。


 覚悟を決めて手紙へと向き合おうとする、が黒い何かがまた胃へと襲いかかろうとしているのを感じ取って、つい視線をそらしてしまった。


 「……ちっ」


 思わず自分に舌打ちをこぼす。勇気も覚悟もない自分が、どうしようもなく腹立たしかった。


 ───大丈夫、だってあなたはこんなにも強いんですから。


 ふと、そんな声が蘇った。

 婚約破棄する前夜。私が最後に、まともに彼女と話した日だ。つい先程までは空に向かって綺麗な歌声(メロディー)を奏でていた彼女が、じっと私を見つめる。自分の罪悪感、自己嫌悪─そういったものから逃れたくて、本当はもっと彼女の歌声(メロディー)を聞いていたかった。いつどんな時に聞いても、彼女の歌声(ソプラノ)は俺の中にある黒い何かを打ち消して温かな気持ちにしてくれたから。こっそりお忍びでストリート風の服を買ったときも、道端で二人で歌を歌ったときも、貴族社会に打ちのめされそうなときも、貴族の令息たちから悪意を向けられたときも。

 もちろん彼女は、私が婚約破棄しようとしていることなど知る由もなくて。けれども私が何かに悩んでいることに勘づいたのか、歌うのをやめ、元首宮殿(パラッツォ)のバルコニーの手すりに腰掛け、彼女は私にそう告げた。


 ───私のことを、ちゃんと見てくれたのですから。誰かのことを思って、心の底から尽くしてくれるほどに強いのですから。だから、少しは頼っても良いんですよ?


 その頃はまだ夜の満天の星空を元首宮殿(パラッツォ)から眺めることも出来て、今では見られなくなった自然な光が彼女の美しい銀髪を穏やかに照らしていた。まるで空に溶けていきそうな、そんな淡い雪のような銀色(シルバースノウ)。そして、白く透き通った肌と、高貴な顔立ち。意志の強そうな黒い瞳と、それに相反するようで共存する優しさ。

 その姿は、私の脳裏に刻み込まれている。いくら年月が経とうとも、決して忘れないように刻み込んでいる。


 ───まあ、そう言って頼ってくれる御方ではないのも知っていますけど。


 そう言って微笑む彼女の瞳に曇りは無くて。本心から俺のことを信頼していて。そこに嘘偽りがないと知っているからこそ、俺は目を背けた。直視できなかったのだ、自分が明日彼女にする仕打ちを。

 そんな私を、けれども彼女はしっかりと見返していて。それが耐えられなくて、その場を離れたいとさえ思った。でも、それは俺の最後の意地が許さなくて。だから、その場で沈黙が流れた。


 ───もしも私の夢が叶ったなら、私の好きなこの世界は、もっと優しくなるのでしょうか?


 そう告げた彼女に、今の景色を見せたら一体どう思うのだろうか? 貴族と市民が分け隔てなく手を取り合う、そんな理想の社会を目指していた彼女は、私が壊したこの世界を見てどんな恨み言を告げるだろうか?


 彼女の姿を思い浮かべて、この場にいる想像をしてみようとする。けれども、どこまでいってもどこか貴族らしかったその姿と外の風景があんまりにも似合わなくて、結局そんな思考ごと霧散してしまった。


 ……財力と教育、そして大きな権利と権限を与えられる代わりに、それを国のために使うのが貴族であるという。であるのならば、今のこの国に貴族という概念はほとんど残っていないだろう。

 はあ、とため息をついて列車の外を覗き見る。広がっているのは古来からの田園風景ではなく、鉄筋コンクリートとガラスに彩られた都市だ。それに、夕方の赤い光を丸ごと打ち消すかのように光り輝くネオンサインと、人工灯と、そしてそれに酔いしれた人々と。そんな街を分断するかのように敷かれたこの鉄道は、しかしもともとは田園を走っていた。


 ここ数十年の間に、この国は大きく変わった。


 もともとこの国の科学技術は諸外国と比べても遜色ないほどには高かった。だが精密機械工業と電気電子工学の飛躍的発達(ブレイクスルー)、いわゆる産業革命は既存の社会や環境を丸ごと塗り替えていった。

 その影響はもちろん社会規範や道徳、それに社会システムにも変革を強制した。伝統的な支配体制だった貴族制(アリストクラシー)能力制(メリトクラシー)へと取って代わられ、かつてはお見合いの会場として栄えた旅館は、今となっては風俗バーとしてわずかに残る程度。街中では声高に自由が叫ばれ、親が結婚相手を決める時代など遠の昔のものと言わんばかりに自由恋愛が盛んとなっている。


 「……良いこと、だったんだろうか?」


 窓から目線を外し、もう一度勇気を出して手紙へと目を遣る。先ほどの嘔吐のせいで視界がぼやけて仕方ないので、外部入力端子を使って視覚補正を行った。多重に見えていた手紙の文字がすっきりと一つの形へと縮退していく。

 ここでまた逃げたらさっきと、それに昔と何も変わらない。私はなんのためにこうして列車に乗っているのだ、と気合を入れ覚悟を決めて、手紙と向かい合う。胸の中にある黒い何かが、また胸を切り裂いて喉元へと迫ってくるのを感じる。


 【それにしても、なぜ事前に話していただけなかったのでしょうか? あなたは前に、私に向かって相談しろと笑いかけてくださいました。悩んでいることがあれば、私が隠していてもそれを察し、問いかけてくださいました。なぜ、同じことを私にさせていただけないのでしょうか? ……私が、頼りなかったのでしょうか? それとも、本当は疎ましかったのですか?】


 急いで書いたのか、あるいはわざとなのか。たぶん彼女の性格からして、思ったことをそのまま書き散らしたあと、慌てて体裁を整えたといったところだろう。荒れた文字を書いた跡が、数十年を経ても尚残り続けている。

 ……やはり、私はどうしようもなく子供、なんだろうな。

 ふっ、と息を強く吐く。笑い飛ばそうとして少し失敗してしまった。数十年の前のことを覚え続けていて、それに囚われ続けている。この手紙をずっと大切に持ち続けていたのも、彼女とあれから一度も正面切って顔を合わせなかったのも。

 なぜだか目頭が熱くなる、泣きたい気持ちなんだろうなと思ったがあいにく涙は枯れ果てて久しい。いや、細胞置換技術(リバースエイジング)のおかげで体はあの頃と全く変わっていないのだから、枯れ果てたのは気持ちなのかもしれない。

 チクタク、と。聞こえるはずもない古時計の音が、なぜだか聞こえた気がした。頭の中で音が何度も反響する。壊されてもう時を刻むことの出来ないそれが、同じ刻を示しながら虚しく音を鳴らしている。名目上の年齢と精神的な疲弊ばかりが積み重なっていくのに精神的には年を取った自覚がない、寧ろあの時からずっと同じ刻を繰り返しているかのような気さえしている。


 いや本当に、止まっているんだろう。


 ……俺が本当に愛していたのは、たぶん彼女だけだ。彼女が、俺をみてくれたから。俺のことを肯定してくれたから、だからあの頃は俺は俺でいられた。そんな彼女を突き放して仮面を被って、だからこそ俺という一人の人間の時間は、私という仮面も巻き添えにそこで止まった。

 振り返ってくれた時の、純真無垢な笑顔が好きだった。俺の前でだけ見せてくれる、本心からの笑みがすごく綺麗で、まるで太陽みたいだと思った。いや、そんなありきたりな言葉じゃ言い表せない。天使とも聖母とも違う、それこそ神々しささえ俺には感じられた。

 俺のことを撫でてくれた時の優しい手が好きだった。殆ど歳も変わらないのに、ほんの数ヶ月先に生まれたからという理由だけで、まるで保護者のように振る舞う彼女のその優しさに、俺は一体何度救われたんだろうか?

 俺が何かを教えた時に見せる、彼女の嬉しそうな表情が好きだった。自分の知らないことを知れて楽しいという、曇りのない表情が好きだった。自分の知らないことを教えてくれてありがとうと言った時の、その晴れやかな彼女の表情が今でも忘れられない。

 音楽を奏でる彼女の指の動きが好きだった。繊細なのにどこか豪快で、それでいて優しげな音楽の音色も、はたまたその時に見せる穏やかな表情も、胸の奥底に焼き付いている。思い出すたびに胸が張り裂けそうになるくらい、本当にそれくらいに彼女が好きだった。


 ……そんな彼女を裏切ったのは、他でもない私だったのだが。

 思い返すたびに辛くなる、彼女の表情に曇りがなかったからこそ本当に胸が苦しくて、痛い。涙が溢れかえりそうになるのに、けれども頬は濡れることもない。数十年前に枯れ果てた涙は、その感覚だけを遺してふわりと何処かへと消え去ってしまった。

 仕方なかった、こうする他なかったと分かっていても、それ以外に方法がなかったと頭で理解していても、それでも辛くて苦しくて逃げ出したくなる。心を凍らせても、凍らせたそばから溶け落ちて、心を貫いて、むちゃくちゃに切り裂いて、そして痛みだけを遺していく。なんどあれから魘されただろうか、なんど逃げ出したいと思っただろうか。


 「……身勝手、だな」


 今になっても、自分のことばかりだ。

 あーあ、とつい口に出してしまう。少年期の若々しいはずの声が、なぜだか老いた老人の汚いそれに聞こえた。


 「今だって、結局彼女のことを考えられてないじゃないか」


 彼女のことを思って、と何度言い訳しただろうか?

 こうする以外に彼女を救えないと、何度言い訳しただろうか?

 そう言い訳して何度─自分を騙してきたのだろうか?


 仮面の下にあるぐちゃぐちゃな心を繋ぎ止めるためには、そうするしかなかった。仮面の下が剥がれ落ちれば、仮面そのものも壊れてしまう。それが分かっていたから、何度も誤魔化して、欺瞞して、そうするしかなかったと言い聞かせて。

 ……あーあ、本当に、どうしようもなく自分は身勝手だ。こうやって彼女から逃げて、心のなかで都合のいいように利用して。でも彼女がもしも私の仮面の下を知っていたなら、たぶん俺の頭をよしよしとなったのだろうな、と想像できてしまって。


 こうやって、どうしようもなく彼女に頼ってしまっている私自身が、とても醜くて、嫌いだ。


 【申し訳ありません、書いていて取り乱しているなとは思っているのです。どうか読み流してくださいますようにお願いします。けれども私も、恨み言の一つでも書きたい気分を抑えきれないのです。

  ──どうして何も言わずに、婚約破棄をなさったのですか? どうしてあの場で、私を御辱めになられたのですか?】


 「うっ……」


 気持ち悪い、胸の中にあるどす黒い何かが体の中を全部焼き払っていく。食らい尽くして、荊棘が心の中を刺して回って、酸性のなにかが胃を、体を溶かしていく。ひび割れた音が全身を駆け巡る、熱い、辛い、苦しい。


 「っ、は、はっ、はっ……ッ!」


 呼吸が浅くなる、胃の中が荒ぶっていく。

 黒い何かが、体を全部壊していく。お前のせいだと苛む声が、暴力が、四方八方を蝕んで痛い。ナイフで胃の中を切り裂かれて、胃の中身が体中を溶かして回っている。あらぶる感覚が平衡感覚を崩して、先ほどまでは明瞭だったはずの視界が一気に歪んでいく。口から何かが出そうなのを、手で必死に押さえる。もう何も残っていない胃がさらに何かを吐き出そうとして、体の中から吐き出すものを得るために蠕動する。

 暴発する胃が体を強引に突き飛ばして、シートから私を滑り落とさせる。ガタッ、と尻もちをつく。席から崩れ落ちたせいでさっきよりも吐き気を堪えにくくなるのを必死に抑える。胃が痛みを訴えて、吐け、吐けと命令してくるのを無理やりねじ伏せる。前の席に頭をぶつけて、それで姿勢を安定させる。はあ、はあと息をする。深呼吸、落ち着いて、ゆっくりと……。

 頭のくらくらするのが治まり、段々と吐き気も収まってくる。小康状態になったのを確認して、姿勢を反対にした。床に正座しながら、シートの座る部分に顔を埋める。行儀が悪い上に貴族としては片腹痛い限りではあるけれど、ここには見ている人もいない。それに、起き上がろうにも体力的にきつくて、暫くはこうしていないとダメそうだった。


 「……本当に、馬鹿だな」


 はあ、ともう一度深呼吸した。

 もう一度外部入力端子から視覚補正を行い、脳神経に癒着した移植端末(インプラント)が歪んだ視界をあるべき姿に戻していく。こういう技術の進歩の先にもしも感情の制御が可能になったら、果たして俺はそれをするのだろうか。ふと、そんなことを思った。こんな苦しい感情いらないと、投げ捨てるだろうか? 仮面の抱く感情を本物にするために、奥底の感情を丸ごと塗り替えてしまうだろうか?

 ……もしもそうなったら、私は私なのだろうか? 彼女に負わせた傷を無理やり思い出せないようにして、彼女への想いも、郷愁も全て忘れ去って。それでも、私は私なのだろうか?


 考えても無駄なことを、考えてしまう。


 そういえば、あの令嬢様も同じようなことを言っていたか? 私にとっての、俺にとっての共犯者の、あの令嬢様も。


 ───ねぇ、あなたはこの世界のこと、嫌い?


 そんなふうに語りかけてきたあの令嬢様は、彼女とは全く違う性格で、彼女よりも遥かに濁った感情をしていて、それでいて自分勝手で。まるで、私の鏡写しのようだとそう思った。楽器として壊れているのになぜだか引きつけられる音を奏でているかのような、破滅の人魚姫(セイレーン)が鳴いているかのような。


 ……立ち上がる気力も無くて、仕方ないので折りたたみ式のテーブルの上に置いてある手紙を手探りで探した。もちろんテーブルの上はシートに顔を埋めていては見えないので、右手の感覚だよりだ。そのせいでいつもなら数瞬も必要ない作業に数十秒かかる、けれどもその時間は、俺にとっては無駄ではない。時間をかけて心を落ち着ける、先ほどまでの吐き気は完全に引いた。相変わらず胸の中では黒い何かが騒いでいるけれど。


 「取れた」


 右手が紙をつかみ取った。

 頭の近くまで持っていき、手紙をさらに読み進めていく。読まなきゃいいのでは、と他の人に笑われるかもしれない。けれども私は、どうしても読みたいと思った。苦しくても辛くても吐きたくても、それでもこれは私が彼女につけた傷なのだから。私が傷つけて、その痛みから逃げるのは道理に反しているし、何よりも自分が許さない。

 バカだなあ、と令嬢様にも彼女にも笑われるな、とふと思った。もしも令嬢様なら、それこそバカにしたような表情と顔でバカだなあ、と言っただろう。もしも私が傷つけた彼女なら、頭を撫でながらバカだなあ、と微笑みを向けて言っただろう。嫌にリアルに想像できて、気分は晴れないのになんだか吹き出してしまった。


 【ごめんなさい、取り乱しています。内容も整理できていないし読みにくいと思いますが、どうか受け取ってください。貴族の令嬢としてはしたないと思われるかもしれませんが、どうしてもあなたに伝えたいとそう思って。

  ──返信、お待ちしております。 リア=フォン=シュタウベルクより】


 雑然とした音の連なりが、感情の揺らぎを底へと落としていく。彼女との楽しさも嬉しさも、全てがどす黒いナニカへと落ちていく。頭の中で重低音が鳴り響いて、あらゆるものが重力に引かれて落ちていく。本当に落ちているわけではない、けれどもそんなイメージが頭から離れない。

 ……結局、私はこの手紙に返信できなかった。

 怖かった、何と書けばいいか分からなかった。彼女の方から直接話しかけてくれるのを待っていた、というのは言い訳だろう。この時の私は、もしも彼女が直接で会いにきてくれたらちゃんと事情を話そうと決めていたが、仮に本当に会いに来てくれたとしてちゃんと話したかどうか。たぶん、お得意の役割演技(ロールプレイ)で誤魔化してしまったと思う。

 狂気になったふりをして、彼女が本心から嫌いなふりをして、そうやって彼女を遠ざけてしまったんじゃないだろうか。彼女が私の役割演技(ロールプレイ)に気づいて、俺の本心をあぶり出してくれるのを期待して、そんなふうにしてしまうのではないか?


 結局彼女は私に直接は会いに来なかったし、私は婚約破棄の後からは積極的に彼女を避けるように行動していたから、どうなったのかなんて想像することしか出来ない。婚約破棄の直後に新たな婚約が決まり、そしてそこから情報の奔流に押し流されているうちに、気がついたら彼女は消えていた。意識して彼女のことを聞かないようにしていたのも、周りが私に気を遣って聞こえないところで噂話していたのも災いして、どうしていなくなったのかさえその頃は知らなかった。


 ───ホント、馬鹿みたいだね。


 軽蔑するように、それでいて思いやるように令嬢様は私に何度そう告げただろうか? 少なくともあの令嬢様は婚約破棄の事情を知っていて、その上で私との婚約に応じていた。そんなことは令嬢様は一言も言わなかったけれど、その事実はいつの間にか私と相手の共通認識になっていた。だからこそ、令嬢様は私に馬鹿だねと幾度となく言ってきたのだろう。

 もっとも、「まともに婚約者に相談もせずに決めたのが馬鹿だね」という意味なのか「自分の婚約もまともに維持できないくらい馬鹿で可哀想だね」という意味なのか、はたまた別の意味があるのかはそれこそ最期まで理解できなかったが。


 ふっ、と息を吐き出す。今度は上手く笑えたような気がする、まあ浮かべたのは嘲笑に近いそれなんだろうが。まあ、どうでも良いか。


 いつの間にやら時は進んでいて、先程まで確かに存在感があった夕日の紅い陽光は完全に消え去っていた。シートに埋めた顔を上げて、ちらりと向かいの窓を眺める。気づかないうちにネオンライトの灯る街中も通り過ぎてしまっていたのか、窓越しに見える辺り一帯は煙たい工業地帯になっている。この辺りはどうやら蒸気機関がまだ生きていて、周囲の発展に置いていかれたかのような古めかしい街並みが広がっていた。


 目的の街はここと同じような「蒸気都市(スチームパンク)」─急速な社会の発達を前についていけず、中途半端な工業化だけが進んだ街だ。疑似記憶神経(パラメモリ)を起動して、目的の駅が何処かもう一度確認する。大丈夫、記憶通りだ。念の為に疑似記憶神経(パラメモリ)に保存していたが、まだボケてはいないらしい。わざわざ老境の友人を訪ね、なかば強引に聞き出した情報だ。それで忘れたとなれば、失礼なんてものではあるまい。


 にしても、こうして置いていかれた都市を見ていると、まるで自分の鏡写しのように思えてしまう。そういえば、ここはかつて工業化の最先端を行く都市だったか? だとしたら、当時は多くの人々がここに住んでいたのだろう。けれども急激な社会の変革は一瞬の栄華を洗い流して、都市を寂れさせていった。今となっては低賃金の労働者が寿命を削りながら働く蒸気都市と成り果てた。

 その姿は、まるで私自身のようだ。

 かつては国の実権を掌握し国家の変革を進めたが、今となっては変革についていけずにこうして古い(えにし)を辿っている。令嬢様がこの落ちぶれた姿を見たら、さぞかし笑い転げてくれるだろう。ざまあみろ、とでも言って軽蔑しながらも、どこか自分自身を傷つけるかのように。


 そんな事を考えていると、不意に窓の光が遮られる。


 「あの……大丈夫ですか?」


 痩せた銀髪の少女が、私の顔を覗き込みながらそう告げた。

 腰まで届く長い銀髪が、蒸気都市(スチームパンク)に特有の鈍い人工灯の散乱光に照らされて、薄く輝く。どこか儚げなその少女の表情が、彼女─リアに重なって見えた。


 「あっ、うん……大丈夫だよ」


 シートに頭を載せていたのが悪かったんだろうな、とどこか回転の鈍い頭が思考する。それはそうか、ここは鉄道で、つまりは公共の場。よほどのことがなかったら話しかけられることはないが、一線を越えたら話しかけてくる人も出てきて当然。

 迷惑をかけてしまった、と少し申し訳ない気持ちになる。別に心配されるほどのことでもないし、第一こちらは、体は若いとはいえ歳を食っている。心配してくれてうれしい気持ちもあるが、それ以上に声をかけさせてしまったことを申し訳なく思う気持ちのほうが強い。


 「悪いね、声をかけさせてしまって」

 「いえ。……にしても、綺麗な髪ですね」


 私の髪に視線を遣りながら、少女がそう告げる。

 そういえば、彼女もそんな事を言っていたか。初めて会った時、「綺麗な髪ですね」と言われたのを思い出す。その時の彼女はどこか物憂いを湛えた瞳をしていた。

 少女の瞳に、不意に視線を遣った。彼女にどこか似た、憂いを湛えた翠色の瞳。けれども彼女とは違って、覚悟を決めているが故の強い意志を感じた。


 「お褒めにあずかり恐縮です」

 「……もしかして貴族の方ですか?」

 「今となっては昔の話ですよ」


 ふっ、と穏やかに笑う。仮面を被って、いつもしていたようにすればいい。正直に言えば被る必要もないのだが、貴族としての習い性が無意識のうちにそうさせる。シートと前の席に挟まっていた体を起き上げて、ちゃんとシートの上に座り直す。

 ……やはり、自分は徹頭徹尾貴族なのだな、と改めて自覚した。仮面を被ることを当然と思い、無意識のうちにそうしてしまう。それなのについ先程までは他人に迷惑をかけてしまうかもしれないことも忘れ、シートに顔を埋めていたから笑えない。こんなのがかつての貴族の領袖の姿と知られれば、さて何と言われるだろうか。

 いや、もうどうでもいいか。

 この国から貴族という存在は消えつつある。第一、そもそもとして私は貴族社会から離れた身だ。今更そんな自尊心、必要ない。


 「心配をかけてしまい申し訳ない、今のことは忘れていただけると幸いです」


 そうだと分かっているのに、口からでてきたのはそんな言葉だった。馬鹿らしい、そうだと分かっているはずなのに。こうしてまた、私は私の身勝手に誰かを巻き込む。

 嫌だな、と思った。自分のことが、とても。けれどそう思うことで安心している自分がいて、またそれも嫌に思って。自己嫌悪と黒く淀んだ安心感とが循環を作りだしていて、その循環も嫌で。


 ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 けれども取り繕うことは忘れられなくて。

 目の前の少女に悟られないように、そんな感情に蓋をした。胸の奥底にある黒い何かにその感情を丸ごと放り込んで、そのまま強引に仕舞い込んだ。

 そんな自分がどうしようもなく滑稽で、馬鹿らしい。


 「分かりました、私は何も見ていません」


 にこっ、と。少女はそう微笑んで、そしておどけたような口調でそう言った。その表情が、どこかまた彼女に重なる。

 改めて見ると、服装もどこか彼女に似ている。

 昔の彼女は───公の場では絶対に口に出さなかったが───ストリート風の砕けた活発さを持つ服装が好きだった。俺の目の前でよく着ていたのは青色のジャケットと、あとはホットパンツだったか。こっそり市井に出て買い漁ったのも懐かしい。

 目の前にいる少女も、それに似た服装だ。違うところと言えば、黒いキャップを被っていることくらいだろうか?


 そこでふと、少女が背中に背負うものに目が行く。


 大きめのギター。小柄な体躯にはやや重すぎるのか、少女は少しだけ腰を屈めている。それに、その服装。


 「失礼ながら、吟遊演奏者(ストリート)ですか?」

 「えっ、ああ……」


 少し困ったように、少女が微笑みながら頰を掻く。


 「あんまり稼げていませんが……」

 「……失礼しました」


 聞いてほしくないことを、聞いてしまったような気がした。気が遣えなくなってきているのは自覚しているが、まさか一般人を相手にやらかしてしまうとは思っても見なかった。

 いや待て、そもそも私は少女に貴族かと聞かれた時、何と言った? 何も気にすることなく貴族だと答えてしまった。それがどれだけ相手に気を遣わせるかも考えずに、あっさりと。

 ああくそっ、もう最悪だ。いや、もとからそうだということは知っていた、知っていたが……。はあ、と溜息をつきたくなってしまうのを堪える。今は少女が目の前にいる、溜息をつこうものなら誤解の温床だ。


 「いえいえ、気になさらなくても大丈夫ですよ」


 特に気にしている風でもなく、少女はそう告げた。

 その表情に偽りがないのを見て、少し安心する。別に聞いてほしくない、というわけではなかったらしい。


 「そういえば、どこに行かれるおつもりで? 今どき列車に少女が乗るなど、珍しいですが」

 「上河(オーバーフリュッセ)市に行こうと思ってまして。隣の席、座らせてもらっても?」


 どうぞ、と身振りで告げる。

 にしても上河市、か。私の目的地と一緒だ。かつては瑞穂(ミズホ)商人との交易で栄えた港町だが、今となっては隣接するリーベル港湾市にその座を奪われて廃れてしまっている。中途半端な工業化も相まって、治安の悪い蒸気都市(スチームパンク)の一つになってしまった。

 ……いや、()()()()()()()のだ。かつて貴族の領袖として国家を率いていた頃、上河の商人組合が邪魔だったからという理由で、隣に港を建設した。利益誘導と航路規制、港湾工事などのあらゆる手を尽くして、商人組合の特権と誇りをズタズタに引き裂いた。

 藁にも縋る思いで工業化を始めた彼らは、しかし時代の荒波を乗り切るにはあまりにも非力で。私たち貴族が推進した重工業化、情報化を前に体がついて行かず、かくして街は蒸気機関を主軸とした軽工業地帯と化した。それを傍観したのも、いやそれどころかそうなるように仕向けたのも、私だった。


 「……?」

 「ああ、少し物思いに耽っていてね」

 「もと貴族、ですもんね。色々と思うところがあるのも分かります、なんとなくですけどね」


 ギターをお腹に抱いて、少女がそう言った。

 その表情の中には、独特な郷愁があった。


 「良ければもう少し、聞かせてもらっても?」

 「失礼なことを言ってしまうかもしれませんよ?」

 「構わないですよ。貴族とはいえ端くれでしたし、別に階級なんてどうでも良いですしね。特に今どきは」


 少しだけ、嘘をついた。

 貴族の端くれなどではなく、貴族の領袖として国家の変革を率先して行ってきた立場だ。けれどももしそんなことを知ったら、少女は気を遣ったことしか言ってくれないだろう。そんなことで相手に気苦労をかけたくない。

 ……少なくとも俺自身は、階級や立場なんてものはどうでも良いと思っている。けれどもそう思わない人もいれば、無意識に気を遣って苦労する人もいる。少しの嘘でその苦労を取り除けるのなら、多少の偽り言を述べてもバチは当たらないはずだ。

 少女が、少しだけ考える仕草を見せた。遠慮、というよりもただ言葉に迷っているだけ? 人差し指を頰に当てながら、口に出す言葉を考えている。

 そういえばあの令嬢様もそんな癖があったはずだ。確か、感覚で理解していることを言葉にするのに時間がかかるとか。ずいぶん昔に聞いたことだから、正しいかは分からないが。疑似記憶神経(パラメモリ)が開発されるよりも遥かに前の話だから、記憶も朧げだ。


 そんなことを考えていると、どうやら紡ぐ言葉が見つかったらしい。微笑みを湛えた表情を、少女は私に向ける。


 「親の受け売り、なのですが。昔よりも便利で快適な生活は送れるようになったし、それにみんなと繋がっている感覚もより強くなった気がします。特に高度電子情報網(インフォフィア)が普及してからは。

  まあ私は、周りよりも使い始めるのが遅かったんですけどね」


 ホットパンツのポケットから、少女が情報端末を取り出す。

 この端末一個さえあれば、遠く離れた誰かと話すことも電子手紙をやりとりすることも、それこそ共同で創作物を作ることさえできる。崩壊しつつあった貴族社会の遺した、最後の成果の一つだ。

 この情報端末の一般社会への普及により、貴族社会の持っていた最後の特権─情報の独占状態が崩れ去り、貴族制が破壊されることになる。貴族同士の権力争いの道具が、皮肉にも貴族社会にとどめを刺したわけだ。そう考えると馬鹿らしいというか、なんというか。


 「親の影響かい?」

 「まあそれもあります。こんなもので会話したって人と話していることにはなりません、って言われましたし」

 「言わんとしていることは分かるよ。情報端末越しに会話するのと、人を目の当たりにしながら会話するのとではだいぶ違うからね」


 当時は貴族社会でも同じような議論が交わされたものだ。だが結論が出る前に貴族という階級の解体が急速に進み、今となっては貴族社会そのものが崩壊してしまっている。

 まあ一般社会への普及を図ったのは私だったが。

 あの令嬢様との数十年前の約束を果たすべく、私自身が率先して貴族達を欺き、あるいは潰し、而して貴族社会の破壊を達成した。


 情報端末の普及による貴族社会の破壊、聞いた時には令嬢様の妄言だと思っていたが、実際当事者として目の当たりにすると恐怖さえ感じる。一体、あの令嬢様は何年先の世界を見ていたのだろうか?


 ───やはり、あの令嬢様の計画に乗るのは間違いだったのでは無いか?


 ここ数十年に渡って心の奥底に滞留していたそんな疑問が、不意に浮かび上がってくる。けれども何度考えたって、何度人生をやり直しって、たぶん私は令嬢様の計画に乗り続けて、そしてまた彼女を失うだろう。リアとの婚約を破棄した時に止まってしまった心の時計は、それから秒針さえ進んでいないのだから。

 心も精神も成長していないのだから、結局は同じ行動を取り続ける。同じ失敗を繰り返して、結局今ここへと辿り着く。


 「なんだか、時計の針が狂ってしまっているみたいで」


 少女が、そう告げた。

 一人物思いに耽ってしまっていて、少し聞き逃してしまった。まったく何をやっているんだか今日の俺は、いつもならしない失敗ばかりをしてしまう。理由は、まあ明らかだろうが。


 「演奏のために沢山の都市を渡り歩いていて、それで思ったんです。なんだか、みんな時計の針がチグハグだなって」

 「時計の、針?」

 「あっ、はい。時計の針です、あのチクタク動くやつ。人って過去の自分を見返した時に成長したなって感じることがあるじゃないですか、そういう時に【ああ、あの時から時計の針が動いたんだな】って感じませんか?」


 ……痛いところを、ついてくるな。

 笑みを返して、そうだねと同意する。嘘はついていない、ただ人から聞いただけだ。人がそう感じるということは頭で知っている、少なくとも私は実感したことがないが。あの刻に止まった時計の針は、まだ止まったままだ。


 「でも最近会う人たちって、なんだかそんな体験をしなくなっちゃったのかな、って。まあ私も最近の人なんですけど」

 「まあ確かに、年齢を重ねた人が言いそうなことだね」

 「ですよね……、私がおかしいのかな。ってそんな事が言いたいんじゃなくて」


 コホン、と少女が咳払いする。


 「なんだか、みんな自分を何処かに置き去りにしているみたいに感じるんです」

 「置き去り……」


 何処かに、自分を置き捨ててしまうこと。

 ……私なら、婚約破棄だろうか? 私の場合はあの刻から止まったままの時間を生きている感覚だ。置き捨てた、というよりかは周りにおいていかれたような気がしている。

 けれども、普通の人たちは置き去りにしている、と?


 「はい、置き去りです。本当はもっとゆっくりと生きていたいのに、世界がそれを許してくれないというか。あれ、なんだか厨二病っぽいこと言ってるかな? う、恥ずかしい……」

 「そんなこと、ないと思うよ」


 頰を赤らめる少女に、私はそう言った。

 本心からの言葉だ、嘘偽りのない私の感情。仮面と本体の感情が一致する稀有な事例。


 「その、えっと……」


 もう一度咳払いして、少女がまた言葉を紡ぎ出す。

 なんだかその仕草が妙に彼女─リアに似ていて、懐かしい気持ちになる。彼女が恥ずかしがるのを、そんなことないよと言ってみたり。何回かに一回は聞いてるこっちが小っ恥ずかしくなることもあって、一緒に頰を赤らめたんだったか。

 ああなんだか、温かいな。


 っと、何を一人で和んでいるんだか。


 「最近の人たちって、なんだか生き急いでいると思うんです。たとえば夢を追っかけるにしても、一生の夢というよりは青春の夢というか。まるで……大人というものが一つの終着点、みたいに捉えてるんじゃないかな、って」

 「大人が終着点、と」


 少女が、また言葉を探す。

 ……なんだか、言わんとしていることが分かる気がする。「大人」というものが一生涯変わらないもので、一度「大人」になってしまえば二度とその形を変えられない、といった感じだろうか?

 本来、大人というものは状態だ。歳を取れば変化していくし、大人になったとしても成長というものは続いていく。少なくとも、私から見ればそうだった。けれども、最近の人々はそうではない、と。


 「……子供と大人、というものの間に壁があると?」

 「んまあ、そんな感じかなあ……。いや、そもそも私も子供だから何も言えないんですが。なんて言えばいいんだろう、私もそんな自覚があるんです」

 「そうは見えないが」


 えへへ、と照れたように少女が笑う。

 そういえば、最後に一般社会へお忍びに行ったのはいつの話だろうか? たぶん、彼女と婚約破棄する前日に連れ出されたのが最後だったはずだ。となると、今日までのかれこれ数十年は、市民たちと触れ合うこともなかったわけだ。価値観が大きく変わっていても決して不思議ではない。ましてや、この激動の時代ならば。


 「親がよく言ってました、私は子供のままでいたいんじゃないのか、大人になりたくないんじゃないか、って。言われてみれば、確かにそうかもなって」


 なんだか言ってて恥ずかしいですが、と言って少女はまた、頰を掻いた。照れているというか困っているというか、あるいは本心から恥ずかしがっているか。全部だろうな、と心の何処かで思った。


 ……子供のままでいたい、か。


 私はどうだろうか?

 「子供のままだ」という自覚はある。彼女と婚約破棄した時に時計の針が止まり、令嬢様との短い婚約生活の中でこの社会をまるごとぶち壊すと二人で誓った時に針を接着剤で固定してしまったと、それくらいには自分のことを客観視出来ている。


 では、そんな時計の針の止まった状態で、ずっといたいと思っていただろうか? 今日この日に至るまで、止まった時間のままで過ごしたいと思っていただろうか?


 「分からない、な」


 私は貴族の領袖として権力を握り、そして貴族社会の在り方を破壊していった。その中心にあったのは、「こんな世界なんて嫌いだ、だから壊してやるんだ」という子供の癇癪だったと思う。その癇癪に、令嬢様との誓いで色付けをして、彼女との婚約破棄で飾り、必要と合理という言葉を以って貴族たちへと押し付けた結果が、今のこの世界だ。

 だとしたら。この世界がそんなふうに「子供」になっていったのも道理なのではないか? 子供の癇癪が創り上げた世界ならば、その世界の住人が「子供」にならないと誰が言い切れるだろうか。もしもそうならば、私は一体、どれだけの──。


 「えっと?」


 沈んでいく思考を、少女の声が現実へと引き上げる。

 そこで私はようやく、少女と会話していたことを思い出す。物思いに浸るあまり、なんだか調子が狂っているみたいだ。


 「すまない、なんだか今日は思考が沈んでいきがちでね」

 「あー、物を深く考えすぎちゃう時ってよくありますもんね」


 私も結構やっちゃうんですよ、人の話を聞いている時に自分の考えに沈んでいっちゃうことって、と。少女は微笑みながらそう言った。

 窓から入ってきた夜の人工灯が、穏やかにその表情を照らす。そこにあるのは、私とは違った純粋な穏やかさ。ぐちゃぐちゃに歪みきって、仮面なしで誰かと話すことの出来ない私とは全く違った、そんな表情。

 最後に私がそんな表情を浮かべられたのは、一体いつだっただろうか? 彼女と婚約破棄する前? それとも令嬢様が刃を自分の喉元に突きつけた時? 私はいつから純粋さを失ったのだろうか?


 「そういえば、あなたの目的地は?」


 少女が不意に、そう告げた。


 「ん、ああ話していなかったな。君と同じく上河(オーバーフリュッセ)だよ」

 「えっ、同じなんですか? ちなみに、具体的な目的地とかは?」


 あはは、と。誤魔化すように笑いながら、少女に告げる。先程までのぐちゃぐちゃの思考を脳の端へと追いやりながら、その言葉を告げる。

 ネオンライトで照らされた不夜城が、脳内に鮮明に浮かんでくる。ギラギラと光る青色のライトに、無駄に霧がかった空気感。透き通っていない大気が光を散乱させ、特有の逼塞感と高揚感を与える蒸気都市(スチームパンク)、その裏路地にあるとある店。かつては瑞穂(ミズホ)商人と上河(フリュッセ)商人が密談と賭博を楽しんだ酒場だったのを、改装してできた情報商店(アクセスポイント)

 そして、私が唯一、彼女の足跡をたどれる場所。


 「【死者の館(エリュズニル)】、というお店にね」


 ありゃ、凄い奇遇ですね、と。

 驚いたように、少女が声を上げた。


 「まったくの同じ目的地ですよ」


 そう告げた少女の顔は、どこか嬉しげだった。

 タイトルは(仮)です、全話書き終わったらちゃんとしたのを考えます。一応は四話構成の予定で、これはその一話目にあたります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ