内面/情景描写のバランス-3(擬古調の実験2)
[抜粋1]
擬古調の実験から改稿した部分です。現代口語体の部分との接続まで含めて見ていただきたいので、前後文脈をすべて抜粋しています。
【拝啓、私のもと婚約者様へ】
息が詰まる、手が震える。
何度見返したって、何度読み返したって消えはしない。背中に動悸が走る、吐き気を催す気持ち悪さが全身を駆け回り、胃を刺激して。はあ、ともう一度深く息をついて、それで何とか落ち着こうとする。いや、落ち着いてはいる、さっきよりは随分と。ああそうだよ、落ち着いている。だって、さっきの痛さなんかよりもずっとマシなんだから。全身を締め付けられるような痛みよりも、針で刺されたかのような痛みよりもずっとマシ。第一、そもそもなんで僕なんかが苦しんでいるんだって話だ。
だって、婚約破棄を申し出たのも、それから貴族制を壊すために狂奔したのも、全部私だ。だから、私が苦しんでいい道理なんてどこにもない。誰かを傷つけた僕に、傷つけているのを知っていてもなお暴走機関車のように止まらない僕に、そんな資格はない。ほんと、どの口で苦しんでいるんだろう。
───大丈夫、だってあなたはこんなにも強いんですから。
ふと、そんな声が蘇った。
婚約破棄する前夜。私が最後に、まともに彼女と話した日の夜のひととき。つい先刻まで琴の如き繊細なる歌声を空へと溶かしたる彼女は、その瞳をそっと私へと向ける。自分の罪悪感、自己嫌悪──そういったものから逃れたく覚て、本当はもっと彼女の歌声を空虚に満たされた心の杯に注いでいたかった。いつどんな時に聞いても、彼女の歌声は僕の中にある黒い薔薇を打ち消して温かな気持ちにしてくれたから。こっそりお忍びでストリート風の服を買ったときも、道端で二人で歌を歌ったときも、貴族社会に打ちのめされそうなときも、貴族の令息たちから悪意を向けられたときも。
もちろん彼女は、私が婚約破棄しようとしていることなど知る由もなく、けれども私が何かに悩んでいることに勘づいたのか、歌うをやめ、元首宮殿のバルコニーの手すりに手弱女なる体を預け、私に言葉をそっと手渡す。
───私のことを、ちゃんと見てくれたのですから。誰かのことを思って、心の底から尽くしてくれるほどに強いのですから。だから、少しは頼っても良いんですよ?
未だ満天なる星空を見るに能う、そんな旧い時分だった。今では見られなくなった星光が彼女の美しい銀髪を穏やかに照らす。まるで空に溶けていきそうな、そんな淡い雪の銀色の長髪。海辺の白砂のごとく透き通った砂糖色の肌と、高貴な顔立ち。意志の強そうな射干玉の瞳と、それに相反するようで共存する優しさ。
その姿は、私の脳裏に刻み込まれている。いくら年月が経とうとも、決して忘れないように刻み込んでいる。
───まあ、そう言って頼ってくれる御方ではないのも知っていますけど。
そう言って微笑む彼女の瞳に曇りは無くて。本心から僕のことを信頼していて。その嘘偽りなきを知りたるが故に、僕は目を背けた。直視できなかったのだ、自分が明日彼女にする仕打ちを。
そんな私を、けれども彼女はしっかりと見返していて。それすら耐えるに能わずして、その場を離れたきに限りなしとさえ覚て。でも、それは僕の最後の意地が許さなくて。だから、その場で沈黙が流れた。
───もしも私の夢が叶ったなら、私の好きなこの世界は、もっと優しくなるのでしょうか?
そう云ひたる彼女は、何処までも純真で、無垢にして。守りたいものはそこに、確かにあった。けれども、いやだから、なのだろうか。
どうしようもなく、痛かった。
彼女に今の景色を見せたら一体どう思うのだろうか? 貴族と市民が分け隔てなく手を取り合う、そんな理想の社会を目指していた彼女は、私が壊したこの世界を見てどんな恨み言を告げるだろうか?
彼女の姿を思い浮かべて、この場にいる想像をしてみようとする。けれども、どこまでいってもどこか貴族らしかったその姿と外の風景があんまりにも似合わなくて、結局そんな思考ごと霧散してしまった。
ぶうぉーん、というどこか気の抜けた、高いとも低いとも言えない音が聞こえる。電気線の通っていない区画に入ったのだろう、蒸電併用列車に特有の蒸気機関が唸りを上げて、蒸気を大気へと吐き出していく。線路が軋み、甲高い不快音が鳴り響く。耳鳴りとそれが重なって、集中力が途切れていく。
窓の外では、蒸気機関が作り出した蒸気が街を覆い隠す。その濁り切った空の下、草臥れた人々が空を見上げ、まともに体を洗えずに穢れた肢体を地面へと投げ出している。
◆◆◆
[抜粋2]
完全新規の部分です。[抜粋1]と同様、現代口語体部分との接続まで含めてみてほしいので前後の文脈まで含めて抜粋しています。
いつの間にやら風景は蒸気と工場に満ちた蒸気都市から、排気ガスと蛍光灯に満ちた情報都市のそれへと変わっていた。戻った自分の席の窓は、ギラつく蛍光色の光が張り付いて離れない。そんな虚飾に満たされた風景に、ただぼんやりと私は視線を遣った。
公国連合首府であるレヴァーテ市を起点としファビウス選公領に至る[白百合]線、それが今私の乗っている鉄道だ。旧くは馬車の道として発達し、周囲は田園風景が広がっていた。かつて彼女とファビウス選公領へ赴いた時にも、長閑な田畑が連なっていたものだ。あの時にはすでに鉄道も通っていたが、その隣で馬車を必死に走らせる人もいて。それを見て、なんだか不思議と面白く思えて、彼女と一緒に笑ったものだ。
けれども、そんな風景は今となっては昔の話。もはや田園風景など東部の辺境地帯にわずかに見られる程度のものと成り果て、平野部には蒸気都市と、わずかな情報都市が広がっている。都市と都市の間に広がるのは大河川や山岳など、人の手には余るような自然だけ。それにしたって近年は、太陽光電池板だったり研究施設だったりを設けようとする動きに負けてだんだんと消えつつある。
「白百合、か……」
ふと、そんな声が口から漏れていた。白百合、この鉄道路線の名前または白い百合の花のこと。純愛、潔癖を花言葉としている。
昔からこの道は「白百合の道」と呼ばれていた。公国連合が未だ連合国家では無かった頃、同格の公国同士が戦争を繰り返し国土を疲弊させていた時代から。
───白百合って、本来は白百合と言うのが普通ですよね? でも、ここの人たちは処女の百合と呼ぶんです。なぜだと思いますか?
手紙を懐にしまっていると、ふとそんな彼女の言葉が思い浮かんだ。婚約破棄どころか貴族たちの白眼視さえまだ殆ど無かった頃の、ファビウス選公領への旅路の最中。未だ令息ではなく、ただの少年であった頃合い。
その時分には目新しくあった蒸気鉄道に乗り、両親も倶にしての視察旅だったか。けれど私の両親も彼女の両親も僕たち二人に気を遣い賜うか、離れた席にその身体を預けていた。だから、僕たちは二人、外の艶なる風光を眺望しながらその談笑に花を咲かす。
───かつて公国同士が争っていた頃、友好関係を維持するためにレヴァーテ市はファビウス選公国に少女を一人貢いだのだそうです。もともとは娼婦の娘として生まれ、その美貌故に娼館の娘たちから嫉妬を買い、半ば奴隷のような扱いを受けていたのだとか。
突然何の話、と聞こうとした。けれど、彼女の眼の遠く昔を想うを観て、その表情の艷やかなるに魅せられて、言葉を出すことだに能わなかった。
───そんな少女を、けれども選公の公太子は歓迎したのだそうです。実は、その公太子は娼館に赴くのが好きな好色だったそうで、自由都市だったレヴァーテの娼館にもこっそり行ったことがあった。そこでその少女と出会い、いつかは自分のものにしたいからそれまで純潔を保っていて、と告げていたのだそうです。持っていた白百合を、少女に渡しながら。
ふふ、と。彼女は艶やかなる微笑みを浮かべる。けれども僕は、なんだか酷い話だと覚えた。ただでさえ虐められていて、お金もなくて、娼館という場から逃げることもできなくて。そんな状態で、身勝手な男に純潔を守れと言われて。それって、あんまりにも不条理じゃないか、と。
そんな僕の表情を観て、彼女はふっ、と少し違った微笑みを浮かべる。
───虐められて、場所にも縛られて。そんな少女にとっては、けれどもそんな地獄でも生まれ育った場所で、そこに生きるしかなくて、愛情を向けてくれる人だって一人もいない。でも、その少女はそれでも娼館のために尽くしていた。だって、その場所こそが親なんですから。
逃げ出せばいいのにと思わないこともないですけれど、と彼女は云う。けれどもその表情には、同情の念をこそが浮かんでいた。その表情が、僕には誰にも愛情を向ける愛の女神の如く、慈愛を注ぐ少女の表情に覚えた。
───そんな中、一人の貴族の少年が自分を拾ってくれると言った。どれだけ頑張っても誰にも認められず、ただ僻まれて、嫉妬されて。それでもそこを捨てられない自分を認めてくれた、居場所を作ってくれると言ってくれた。それは、彼女にとっては救いに他ならなかったんじゃないかって、私はそう思います。
外を眺める彼女は、そんな声を空へと溶かしゆく。聴いていると不思議と落ち着くような、長閑な自然のような、あるいは琴をそっとやさしく指で弾いているかのような声色を、昼の眩しい陽射しが降り注ぐ田園地帯へと溶かしゆく。
───けれども少女が選公国へと赴く最中、当の選公がレヴァーテを攻めることを決意した。旅を続けていた少女は軍に捕らえられ、そこで純潔を散らすか、あるいは死を、と迫られてしまった。
陽射しが降り注ぐ田園地帯の、その小麦色。人が開拓した遥かなる古より変わらぬその風光が、今という言葉の意味する時間感覚を曖昧にする。田畑の向こう側、馬車に乗った少女が槍を掲げる兵士に囲まれ、その場で降ろされる。そして、純潔を散らすか、あるいは死かと迫られる。
その少女の表情は、けれども決意に満ちたそれ。
───少女は死を選び、肢体は切り刻まれてどこかへと消えてしまった。けれども白百合だけはその場に残っていて、駆けつけた公太子はその白百合だけを持ち帰った。これが、この道を白百合と呼ぶ謂れなのだそうです。
少女が、白百合の純潔を保つために死を選んだ場所。旅の途中で、救われるはずだったその行き道で、死なざるを得なかった場所。白百合を遺した場所、悲劇の場所。
言葉は、いくらでも頭に浮かぶに能う。けれどもそのどれもが相応しくない。どれだけ重ねても、それを表現することはできない。感情の波は言葉を置き去りにする。だからこそ人は、ただ一言「白百合の道」とその道を謳う。
そして彼女は、そっと息を吸う。
───"Frühling, Frühling, Frühling, wer dich liebt wie ich."
ファビウス選公国の、低地地方の訛りを交えながら、そう歌う。そっと口ずさむように、ここにいない誰かへと語りかけるように、あるいは空へと溶かしていくように。空の蒼色に歌声の色が混じって、ひどく澄み渡った、だからこそ悲哀を感じる色に変わる。
……春よ春、そう春よ、汝を愛したるに我以上の者はなし。
告白のようでそうではない。無き友か、あるいは亡き妻か。そんな、思い出へと語りかけるかのよう。
───"Frühling, Frühling, Frühling, voll Glück erwart' ich dich!"
まだ成長しきっていない喉をそっと上げて。力を込めずに、けれども想いはそこに込めて。決して力強い声ではない、けれども芯が見えるような、そんな歌声。
蝶が田園を飛ぶ。田畑の小麦の中ひっそりと、けれども凛と咲きたる白百合に止まり、羽をそこで休める。
……春よ春、そう春よ、幸せを抱きて我、汝を待たん。
情報都市が写っているはずの視界に、懐かしい田畑の風光が覆い被さる。ギラつく蛍光色が太陽の優しい陽光に、居並ぶ会社勤めの人達が田畑を耕す農民たちに見える。蝶が飛び、それを見る農民たちが払い除けたり、あるいは癒やされたり。
───"Oh schein in mein Stübchen recht bald nur hinein,"
植え始めの小麦が、大地に根を張る。戸を開けて、蝶を人が招き入れる。春を招き入れようと、子供たちがわっきゃと騒ぎながら。それを見た農民たちが、手伝えーっ、と叫びながらも田畑を耕す手は止めない。
……汝、疾く我の家に入り来たれ!
いつの間にやら、記憶の中の歌声に少年の声が混じりゆく。僕の声だと気づくのに、時間がかかった。かつて、彼女とともに口ずさんだ歌。記憶の中の声は純真なそれで、けれどもそれとも違う声を聴覚が捉える。
───"Mein Schatz hat schon Sehnsucht nach dir!"
情報都市の風景がだんだんと、かつての風光に重なっていく。彼女の声も少年の声も遠のいて、記憶の中で歌っている少年の声と同じ、けれどもどうしようもなくくたびれてしまった声がそれに取って代わる。
……契りたる妹や汝を待つに。
黒い薔薇の毒の棘が、不意に胸を刺した。はあ、と一つため息をつく。
いつの間にやら、私も歌っていたらしい。それに気づいていなかったというのも不思議な話だけど、けれども私は歌っていた。そして、それに気づいたが故に、その歌声は止まった。
別に歌いたかったわけでもなければ、思い出に浸りたかったわけでもない。第一、僕なんかが思い出に浸っていいわけがない。過去を捨て、未来に生きよと告げて、周りを扇動して。そんな自分こそが過去に浸っているなんて、そんなの。
けれども浸ってしか生きられないのも事実で。もしもこんなことが知られたのなら、後ろ指を刺されることだろう。いやまあ、そうじゃなくても刺されても当然か。これだけ社会を変え、人を、国を変えてしまったんだから。
またどくどくと、黒い薔薇から毒が流れ出す。体内にひとつ、またひとつと毒の液を流していく。
胸がぎゅう、と締まる感覚がする。もうその痛みにも苦しさにも慣れてしまった、でも痛いという事実も苦しいという事実も変わりはしない。