内面/情景描写のバランス-2(擬古調の実験)
───大丈夫、だってあなたはこんなにも強いんですから。
ふと、そんな声が蘇る。
婚約破棄する前夜、私が最後に彼女と向き合った日。露台の手すりに手弱女な躰を預けて、彼女は旋律を奏する。その音色の純粋にして美麗なるは、常なる私の黒い何かを打ち消すに足るもので。密かに大道で服飾を買い求めたる時も、道端にて二人歌を歌いし時も、貴族令息共から悪意を向けられし時も、彼女の奏でる歌声は温かだった。
けれどもその夜に抱えたるは罪悪感と自己嫌悪、絶望だった。普段なら温かになるその歌声も、その日ばかりは心の凍えを溶かすに能わずして、空へと徒然に消えゆく。孔の空きたる杯に美酒が満たされずに虚しく零れ落ちていくが如き空虚だった。満たそうとする情は、ただ虚しく地へと堕ち、戻りはしない。それを知り、何も出来ぬが故に、私はただただ、空虚に満たされていた。
理なれど彼女は、私の婚約破棄の心持ちを知る由もなくて。けれど悩みたるに勘づきたもうか、ただ私の瞳を射抜く。気づかぬうちに歌うを止め、硬けれども微笑みを向け、私に問う。
───私のことを、ちゃんと見てくれたのですから。誰かのことを思って、心の底から尽くしてくれるほどに強いのですから。だから、少しは頼っても良いんですよ?
未だ夜の星空の満天なることを元首宮殿から眺めるに能う、そんな旧い年頃だった。今や見るに苦労するような自然の星光が、穏やかに彼女の銀髪を照らし出す。雪の降る北洋地方の、冬の早朝に見られるような淡い処女雪の銀色。古き海岸線に散りばめられた白砂のように白くて綺麗な、砂糖色の白の肌に、貴族の出自だと一目でわかるような高貴な顔立ち。意志の強そうで惹き込まれるが如き黒さを持つ、暗い深碧色の瞳と、それに相反するようで共存するかのような整った眉。
その美しくて色褪せない姿は、脳裏に刻み込まれている。幾千年を経ようが、片鱗をも忘却せぬように刻み込んでいる。
───まあ、そう言って頼ってくれる御方ではないのも知っていますけど。
そう云ひて微笑む彼女の深碧色の瞳に、寸分たりとも曇りはなく。伝わる信頼は、まさに全身全霊のもので。そこに嘘偽りの無きを知るが故に、俺は目を背く。明日私のする仕打ちを思うに、直視することだに能わなかった。
そんな俺を、然れども彼女は真正面から見返して。それにえ耐えざるにて、遂にはその場を離れたきこと限りないとさえ覚えた。されどもそれもまた、俺の最後の意地の許す所でもなくて。故に、その場に静寂なる時が刻まれる。
───もしも私の夢が叶ったのなら、私の好きなこの世界はもっと優しくなるのでしょうか?
そう告げたる彼女に、今の景色を見せたれば一体何を思わんや。貴族と市民とが分け隔てなく手を取り合う、そんな理想の社会を目指していた彼女は、私が壊したこの世界を見てどんな恨み言を告げるのだろうか。