死ぬならやはり山がいい
仕事からアパートの自室に帰ってきた私はうがいもせず、すぐさまテレビの前に行き、電源を入れた。
映し出されたのは今朝とさほど変わらない光景。同じビル。いや、正確には六日前とさほど変わらない、か。そうか、もう一週間経とうとしているのだな。今日は土曜日の夜。事の始まりは確か日曜の夜であった。
「来るなー! 誰もおれに近寄るなー! しししし死んでやる! ひひ、ははははは! 死んでやるぞー!」
フェンスの向こう。男が振り返り、テレビカメラに向かってそう言った。
スーツを着た恐らく三十代。両手は金網をがっしりと掴み、その形を歪ませている。声が掠れている。恐らくマスコミが駆け付ける前から叫んでいたのだろう。しかし、吹く風に負けない力強さがあった。尤も、それは風前の灯火、蝋燭の最後の輝きのように思えてならないが。髪は乱れ、服も乱れ、ネクタイが風にあおられ右へ左へとはためく。
「も、もう、もう、うんざりだ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 死んでやる! 死ね! 仕事、死ね! 月曜日死ね! 死んでやる! ああああぁぁぁぁ! 死んでやる!」
破滅的であらゆるものに敵対心を剥き出しに。とにかく本気であることは間違いなさそうであった。その言動から他に窺えることは今の仕事への不満。それはしがないサラリーマンの私、いや、多くの人間の共感を呼んでいただろう。
そうなるとどこか同情的に、他人事ではないと私はその夜、ネクタイを外しながらテレビの前に座り、男を見守ることにしたのだ。
ビルの下には消防による救助マットが敷かれているが、ビルの高さからいって気休め程度にしかならないというようなことをアナウンサーが伝えた。
駆け付けた警察が「何か欲しいものはないか」「何かはあるだろ」としつこく男に訊ねると、男は最初は「ねえよ」としか答えなかったがそのしつこさに面倒だと思ったのか「じゃあピザ!」と投げやりに言った。しかし、これが最後の晩餐になるとでも頭によぎったのか、「やっぱ寿司! 特上!」と言い直した。
やがて男の要求通り、寿司が現場に持ち込まれた。
ビルの前。それを拵えた近場の寿司屋の大将は警官に桶に入った寿司を受け渡す際、どうせなら上まで、直接渡したいと少し渋っていたそうだが、カメラの前でその寿司ネタについて誇らしげに語った。
寿司桶はフェンスの下の隙間から男に渡され、男はそれをバクバク食った。その後「茶ぁ!」「ロープ!」と男は要求を口にするようになった。
男は実は政治家の息子で……実は大企業の社員で遺書に社の不正を……と、何か死んでもらっては困る事情があるのか、それとも先月にも三件ほど飛び降り自殺があり、世間のバッシング、もしくはこれが更なる呼び水になることを恐れたのかは知らないが警察側はその後も素直に男の要求を呑んだのだった。
「さて……行くか」
支度を整えた私はそう独りごちると、家を出た。
テレビを消し忘れたことに気づき、引き返そうかと思ったが、どうでも良いと思い直し、そのまま駅に向かった。
男はあのあと、簡易トイレやボディシート。ゲーム機、テレビや果ては女を要求し、その全てが通った。
無論、女は水商売の者だろうが、それを羨んだのか何人かが「おれは男の知り合いだ。説得する」とでも嘘をついたのだろう、あのビルの屋上からフェンスの向こうへ降り立っては男と同じように自分も死ぬとそう宣言し、あれこれ要求し始めた。
今もアパートの自室のテレビに映っているであろう、私が目指すあのビル。
事件発生から六日目の今、あのビルの外壁には絶壁の岩山に吊り下げるように張られたテントが並んでいる。
――死ぬなら海ではなく山だ。都会の山だ。
私はその引き寄せられる感覚がどこか心地良く、身を委ね笑った。すっからかんのリュックに入れたノコギリも腹を抱えて笑うように私の背中で揺れ動いた。