コロナ禍での生活その後
恐れながらも接種した二回のワクチンは、思ったほど自由な生活を保障してはくれなかった。打つまでは様々な情報に翻弄され、少なからず葛藤もあったというのに。
一回目は接種した部分、肩から腕にかけてかなりの痛みがあったが、それも一日だけで、他に何も変わった事はなかった。そして二回目。今度は少し熱が出たが、それも37度と微熱で、倦怠感が一日続いただけだった。事前に解熱鎮痛剤を用意してはいたが、熱と言ってもたいしたことがないし、頭痛がするわけでもなかったので、我慢の範囲内だと自己診断して遣り過ごした。副反応は強いほど感染しにくいという説もあるので、その程度ではどうなのだろう。
接種前は、ワクチンさえ打てば、あらゆる行動に対する免罪符を手に入れられるかのような期待感を持っていたが、打ってみてもほぼ何も変わっていない。敵もさるもので、私達の許にワクチンが届く前に、早々と変異して先回りしていたようだ。変異前のウィルスになら、もっと効き目があったのだろうか。と、今頃考えても意味がない。マスクで暑さに喘ぎながらの生活や、外出自粛も相変わらず。ただ、強いて言えば、打つ前と比べたら、外に出て人と接する際に感じる、不確かな最低限度の安心感みたいなものが少し違う。
一週間か十日に一回程度、決まって平日に、車で約二十分ほどの大型スーパーへ買い物に行く。日用品や食料品を買い求め、書店や洋服売り場を少しだけ覗き見するだけなので、駐車料金無料の二時間以内に余裕で間に合う。コロナ前は、毎回時間超過で追加料金を支払っていたのに。その他の日々は、足りない物を近くのスーパーで買い足しながら生活している。ワクチン接種後も全く同じ状態だ。
七月頃のある日、日用品売り場で品定めをしていると、近くに居た高齢女性二人が話しているのが聞こえてきた。一人が「お昼、何処で食べる?」と訊くと、もう一人が「何処でも良いよ。」と答えていた。ごくごく普通の会話で、2019年以前に戻ったのかと思うところだった。多分、ワクチン接種を終えた人達だろう。あれくらい無頓着になった方が、良いのだろうかと思ったりもした。時計を見ると丁度昼食の時間帯だったが、こちらはそれから買い物を終え、帰宅した後に昼食をとったのだった。これも全く接種前と変わっていない。
コロナ前は、買い物のついでに外でランチを済ませたり、月に何度かは少し遠いお店まで歩いて行って、目当てのお料理をいただき、また歩いて帰ってくるという楽しみもあった。しかし、飲食の場で感染する可能性が高いという情報を得て以来、外食をするのはコロナが収束してからと決めている。気にしすぎだと言う人もいるが、救急搬送に当たっている救急救命士が、テレビで語っていたことが時々頭を過る。その人は、「救急搬送される人の多くが、『自分はコロナを舐めていた』と言っていた」と話していた。やっぱりそうなのかと思ってしまう。できない辛抱まではしなくても、できる程度の我慢をすることによって、自分もしんどい思いをすることなく、そうでなくても逼迫していると言われる医療従事者の手を少しでも煩わせなくて済むなら、我慢のしがいがあるのではないか。
外食を全くしないとなると、朝は調理というほどのことはしないにしても、昼と夜の二食を毎日作らなければならない。元来食べることが好きで、作ることに関してもさほど苦にはならないのだが、毎日必ず二食作るとなると、ネタも尽きてしまいがちになる。そこで、時にはネットの動画サイトを見て、珍しいものや凝った料理に挑戦してみたりもしたものだ。ところが、それも長く続くとなると、毎日毎日作っては食べ、食べては作りという生活に倦んできた。また、夏になると暑さの為に食欲もなくなる。食欲がないと、作る気力も失せてしまうものだ。というわけで、今年の夏の昼食は、口当たりや喉越しの良い麺類の頻度が高かった。近頃は涼しい日もあるが、もうあまり食べ物の事を考えたくなくなってきている。たまには料理を生業としている人の味に触れてみることが、食生活のエッセンスとなり得るような気がする。
昨年の暮れ頃、来年はマスクとさよならできるだろうかと淡い期待を持ったが、そんなに甘いものではなかった。この分だと、まだこの先何年も、現状と同じ生活が続くのかも知れない。或いは、ニュースでは治療薬の研究が進んでいると伝えていたので、罹れば治療するという風にして、ずっと付き合っていかなければならないのかも。
コロナ禍になってから二年足らず、相変わらず我慢の毎日ではあるが、細かい部分では少しずつ変化してきている。ワクチン接種率の上昇により、行動の窮屈さが少しだけ緩和されてきた。それに、慣れもあって、自粛警察などという言葉が生まれた頃のような、細かいいざこざは少なくなってきているようだ。しかし、マスクにまつわるトラブルは、いまだに聞こえてくる。その度に不思議に思うのだが、子供がイヤイヤをするように、大の大人がマスクを嫌がるのはどうしてだろう。確かに、暑いし息苦しいし、できれば着けたくない。でも、大人としてどうしても我慢できないほどのことでもないでしょうに。どこかの市議会では、決められたマスクの着用をしていなかったとして、議員が発言させてもらえなかったというニュースをテレビで見た。実際の議場のやり取りをそのまま放送していたのだが、異常というか馬鹿馬鹿しいというか、大の大人でしかも選挙で選ばれた人が、市民の為にしている行動のようにはとても思えなかった。
新型コロナとの闘いは、日本だけでなく世界の国々にとっての試練になっている。敵は同じなのだが、国によっては偉い人が、マスク着用やワクチン接種に反対して混乱している所もある。自由の国アメリカでは、ワクチンの強制や、マスクなどあらゆる感染防止策に反対して自由に行動する人たちが、コロナ前と同じ生活をしている様子が紹介されていた。人間にとって自由であることは大切だが、命や健康と引き換えの自由となると、アメリカ人でない私にはどうも理解できない。
自分だけの問題ならば、正直なところワクチンは打ちたくなかった。多少の副反応は覚悟できるとしても、もっと危険な情報もあったから。でも、アレルギーなどで打てない人は別として、それはもう国民の義務のような側面を持ってきていて、自分でも打たないと落ち着けない気持ちにまでなっていた。それが解決策の全てではないにしても、可能性があることをひとつひとつ丁寧に試していかなければ、いつまで経っても良い結果は出ない。研究がもっと進んで、自国で製造できるようになれば、ワクチンに対する考えも変わるのだろう。