十一歳
「なんで寝ている姿を描いたの?」
ラペールは彼の姿を見るなり、そう責めた。
責められると思っていなかった絵師は、何のことだか分からず狼狽える。
今の立場的には王女であるラペールの方が上であるのは至極当然で、この場では「申し訳ありませんでした」と答えるのが正解なのだろう。
「なんであんな所」
「無防備で可愛かったからですが」
「っっ」
王女はあっけらかんと言ってのける絵師に言葉を続けられない。
シリウスの絵のスタイルとして、対象物そのものと向き合って描くことを得意としていた。
描くものに嘘はつけない。
だから、ここウンデキンベル国国王に気に入られ、呼ばれるようになったのだ。
きっかけはここにいるラペール王女五歳の肖像画。
支持していた絵師が急死し、幸か不幸かお声が掛かったという訳だ。
こういうことは気まぐれにあったし、何度も呼ばれることも、ないこともなかった。
そういえば、なぜだろう。
シリウスの頭の中に、そういえば何故一年前に寝顔を選んだのか、と巡らせる。
言われてから自身に問う。
子どもの寝顔なんてこの王女以外でも数えきれない程描いてきたし、責められるべき内容ではない。裸体を描いた訳でもあるまいし。
モチーフとしてはありふれている。
むしろ、無防備なその姿は見る人の心を温める。
ラペール王女は五日後に十一歳になる。
月に一度の帰省が、誕生月にはシリウスの登城と被る……というか、合わせている。
十歳の少女に可愛い、と表現するのが間違いとは思わない。
むしろ、五歳の頃から見続けている今も、ずっと可愛い。
大声で泣き叫ぶ顔も花のように綻ぶ笑顔も、限られた期間の中ではあるが、子ども特有の表情がころころ変わる様を眺めてきた。
そんな人の機微を敏感に察知する自分が彼女の気持ちに鈍感な筈がない。
自分より圧倒的に年上の絵師に、淡い恋心を抱くのは、近くに恋愛対象となる男性がいなかったからだろう。
そう思っていたが、何年経っても想いが変わることなく、むしろ艶が出てきてさえもいる。
刺繍のハンカチーフを貰った時は素直に嬉しかった。
と、アトリエでこれから呼びに行く肖像画のモデルの事を考えていた時だった。
嫌味のない靴の音を響かせ、ラペールはアトリエに踏み込んで、お久しぶりの挨拶もなく、顔を確認した途端、あの言葉を言い放ったのだ。
おそらく、ずっと言おう言おうと思っていたのだろう。
それを思うと、まだまだ可愛いなぁ、と自然と口元が緩んでしまう。
シリウスの「可愛い」という返答に顔を真っ赤に染め、「もうっっ」と身を翻しアトリエを後にしてしまったラペールの背を、絵師は姿がなくなっても尚、ぼんやり見つめる。
「またアトリエに呼ばなきゃいけないじゃん」
ボソッとした呟きは誰に聞こえるでもなく、消えていく。
王女に一方的に責められたシリウスは、手近に触れるスケッチブックを手に取った。
今まで何冊描いてきただろう。
もう何冊目だか分からないそれをパラパラと捲る。
と、一枚の絵で手が止まった。
それは、あの日の一枚の絵。
想像で描いたのではなく、見たまま肌で感じたままを思い出して描いた。
今でも鮮明にあの時の事を思い出せる。
まだ肉付きの良くない背に手を回すと、おずおずと右腕に手を乗せてくれた王女。
ヒールを履いていてくれたので、背丈のバランスはなんとか大丈夫だった。
緊張しているのが手に取るように分かってしまうシリウスは、逆に冷静になることができ、カウントと共に足を踏み出す。
素直に言ってしまえば、あの時間はシリウス自身もとても楽しんでいた。
だから、忘れぬように描いたのだ。
顎から首筋のライン。
ドレスの首元からうっすら覗く鎖骨のライン。
華奢な肩。
いく先を真っ直ぐに見つめる真剣な瞳。
シリウスの心臓は思い出しただけで動悸する。
この時の姿を肖像画として仕上げても素晴らしかった。
だが、絵師はそれをしなかった。
あの姿は自分のものだと。
自分だけのものだ……と。
「……」
シリウスは、見つけたくなかった自分の中の気持ちを探り当ててしまった。
独占欲。
あの。
あの時の自分でないと……リードしている自分でないと見れなかったラペールの姿。
あの姿は自分だけのものだと。
独占欲……。
そんな単純なものか?
今思えば、この微睡む絵姿も仕上げたくはなかった。
だが、意思とは反対に、筆は恐ろしいほどのってしまった。
どちらの絵を人目に晒せるか。
両天秤をかけたら、こちらの絵画になってしまっただけのこと。
本当なら、自分だけにしか見せていない姿を。
大切に仕舞っておけばよかった表情や仕草を。
今思うと、どの絵もシリウスにしか見せていないラペールの表情だった。
彼は「自分はそんな王女のありのままの姿を引き出せる」と敢えて周囲に見せびらかしていたのかもしれない。
恋愛ごとは面倒くさい。
結婚だって全て打算で動き、それが継承者争いに繋がることだってある。
逃げ出した自分には関係ない。
名を捨てたから、どんな名で呼ばれてもよかった。
けど、あの日。
僕は名前を与えられた。
それ以来、僕はずっとシリウスで。
時々会う幼い少女と会うのがとてもたのしみだった。
そうだ。
これは恋か。
シリウスは今更ながら気付く。
夢中になりすぎた。
貴女に僕は似合わない。
何もない僕だから。
頬を流れる涙を乱暴に拭って、シリウスはアトリエを後にした。
***
ラペールの部屋がノックされ、珍しく侍従からアトリエへ向かうよう、呼ばれた。
普段ならシリウスがエスコートしてくれるのに。
言い逃げしてしまったのがまずかったのかしら、と思案するも、やっぱり乙女の寝顔を描いた絵師が悪い、と結論づける。
タイミングが合わなかったのか、アメリアは側に居ない。
ラペールは一人部屋を後にした。
***
通り慣れた廊下を歩き、換気の為か開け放しになっている事も多々あるアトリエへ辿り着く。
どんな顔をすればいいかしら。
などと立ち止まり考え、今日は薄っすら隙間が開いているそこから、シリウスの姿を見ようと、気配を殺した。
「……っっ」
ただの好奇心からだった。
自分があんな態度をとった後、彼がどう過ごしているのか気になって、覗いてから後悔した。
ラペールが腰掛ける筈だったそこに、違う女性が座っている。
立っていたシリウスが、その顔を覆うように腰を屈め、顎を上げさせる仕草をすると、彼女は彼の冷たい指に身を委ねる。
「ッッ」
見たくなかった。
呼んだのはシリウスで。
来るのが分かっていた筈なのに。
まるで、見せびらかすかのように……。
「……」
ラペールは駆け出してしまいたい気持ちを必死で隠し、なるべく音を出さぬ様、その場から立ち去った。
***
「ありがとう」
ラペールが行ってしまった気配を察し、シリウスは彼女から離れた。
「いえ」
告げられた彼女は無表情のまま、スカートの裾を揃える。
「大丈夫。きっと顔は見えていないから、君だと分からないはずだよ」
シリウスは、大きく「ふう」と長い息を吐くと、協力してくれた彼女に明るく告げた。
こんな小細工をするくらいなら、お互い素直になってしまえばいいのに。
静かにアトリエを後にしたアメリアは、王女の私室へ足を運ぶ。
きっとまた泣いておられるのでしょう。
背を向けてしまったので見てはいないが、おそらく残された彼もきっと同じように。
わたしは知っている。
彼の顔が近付いてくる時に見えてしまった。
胸ポケットに潜ませているハンカチーフを。