九歳
城を出て生活するようになり2年目。
後輩も入り、学校生活に馴染んできた。
「……で、ラペール様はどうですの?」
学友との距離感も大分掴めてきたが故にのぼる話題。
「え?」
学園内にある庭の木陰で涼みながらの女子トーク。
「だから、婚約者様などいらっしゃらないのですか?」
ラペールは、ウンデキンベル国の隣国、ラフトゥ国にある、ジャルダン学園という寄宿学校でお世話になっている。
ここラフトゥ国は、独自の技術により風を操り、発展を遂げる大国家であり、各地から優秀な人材が集まっていた。
ラペールが気が合って一緒にいるのは、この国の第一王女であるエマと、公爵アントロ家の三女グレースだ。
先程から興味津々に、身を乗り出して恋バナの主導権を握っているのは、グレース。
物おじしない天真爛漫な性格で、何でもストレートに包み隠さず表現するので、それが苦手な学友たちは、彼女には近寄らない。
だが、ラペールはそんな彼女が好ましかった。自分の感情や意見をはっきり言えるグレースに少し憧れてもいる。
少しでもその勇気を分けてくれないかしら、と話したら「自分自身の問題ですわよ」とハッキリ返されたほどに。
ゆるゆるふわふわな外見からは到底想像もつかない性格。
一方のエマは、というと、何でもそつなくこなす事ができる才女であり、物事を断片的に見るのではなく、様々な角度から見て総合的に評価するのが得意な王女だった。
女にしておくのがもったいない、と、ラフトゥ国の国王に言われたらしい。この国は王位を継ぐのに性別や生まれた順など関係ないという風習があるので、野心のある身内はいろいろ蹴落としあっていて大変らしいの、と、あっけらかんと言ってのけた。
勉学については、ヤマを張ると必ずそこが出題されるので、毎回考査の度にお世話になっている。
そんな自分のことを鼻にもかけず、周りの意見に流されるでもなく、同じ時間を過ごしてくれているのだから、ラペールはとても嬉しかった。
ジャルダン学園へ入ることも初めは気が乗らなかったし、むしろ入学してしばらくは城とは全く違う生活に馴染めなかった。
けれど、この二人と一緒に過ごす時間が増えてきて、自分とは違う意見を持つ学友と交流をもつことが楽しくなってきていた。
そんな中、自然な流れで恋の話題になったのだ。
ラペールもそろそろ九歳になる。
ウンデキンベル国から便りが届き、それに心躍らせていることは、この二人には秘密だ。
彼のことは、誰にも言わずこっそりそっと胸に温めている。
時々それを大事に取り出して、嬉しくなったり苦しくなったりを繰り返す。
「婚約者?おりませんわ」
にっこり笑顔で「これ以上踏み込んでこないで」と牽制するものの、それが無駄なことはここでおしゃべりを楽しむ皆が知っている。
「そうなんですか?てっきりお相手がいるものと」
エマは爽やかな香りのする紅茶に口をつけ、黙って様子を伺っている。
「あら。どうして?」
動揺する気持ちを表に出さぬよう、逆に聞き返す。
「だって刺繍してるじゃない」
「……」
ラペールは両手を合わせ、針を刺してしまった指をこっそり摩る。
誰にも知られぬよう、部屋でこっそり刺しているのだが、観察力の鋭い彼女はいつそれを見たのか。
「どなたに渡すのかしら?」
「……」
有無を言わせぬ物言いは、何処から自信がきているのか。それが女の勘と表現するしていいのかは甚だ疑問ではあるが……。
指をスカートの裾で隠し、ラペールは自分の気持ちをどこまで口にしていいものか躊躇う。
確かに閉鎖された環境で楽しい話題といえば、恋愛の話だったり、趣味の話になってしまうのは分かる。
年齢も年齢故に、周りにはまだ社交界デビューもしていない学友しかいないが、婚約者やそれに似た状態の男性がいる令嬢は多い。
エマやグレースも言わずもがな、だ。
なのに、自分は名前も何もかも知らない人が好きだと、どうして言えよう。彼の名前も幼かった自分が付けたもので、本当ではない。
ラペールは刺繍をし終わってからその事実に気が付いた。
このイニシャルは本当の彼のじゃない。
薄水色の瞳の糸で刺したハンカチーフ。
自分のイニシャルを贈るなんて勇気はない。
だって恋人同士ではないから。
「渡して差し上げたら?」
エマはすまし顔でさらりと言う。
「わたしが殿方なら嬉しいわ」
***
「……」
ラペールはエスコートされるままアトリエへ足を踏み入れた。
「どうぞ」
覗いたりしてみたことは幾度もあったが、しっかり入ってみるのは初めてだ。
立ち止まって見回してしまう。
「匂いが気になりますか?」
なかなか嗅いだことのない匂いだが、ラペールは知っている。
これはシリウスの匂い。
「油絵具の匂いは独特ですので」
指先から、髪から、首筋から、胸元から時折くすぐるように鼻腔に届く香り。
準備された椅子に軽く腰掛けると、絵師は王女の元から離れ、真っ直ぐピンと張られたキャンバスの前に立つ。
「何か……ポーズした方がいい?」
今まで何度も描かれてきたが、こうして向かい合わせで鉛筆を握られるのは始めてだった。
「楽な姿勢で大丈夫ですよ」
緊張しない方が間違っている。
「なによ。これでも集中して講義受けてるのよ」
「そういう意味ではなかったのですが……。やはり長時間ともなると疲れてしまうので、楽な姿勢で」
シリウスは鉛筆を持ちながら笑う。
あの瞳で見つめられるのね。
貴方の横顔ならこんなに真っ直ぐ見つめる事ができるのに。
ラペールはキャンバスを見るように真っ直ぐ置かれていた椅子の位置を、そっと、そっと静かに移動させる。
「……」
そして、それが合図になったのか、王女の視線が絵師から逸れた瞬間、彼がラペールの姿を捉えた。
「……」
シリウスのほうを見なくても肌で感じる。
顔の輪郭をなぞる瞳。
一本一本の髪の毛の流れを追う瞳。
瞳の奥まで探ろうとしている水色の瞳。
首筋から肩に流れるラインに、呼吸のリズムまで。
まだ誰にも暴かれていない、暴かれるには早すぎるそのドレスの内部。
そこから覗く小さなくるぶしに、お行儀良く揃えられたつま先。
「……」
キャンバスの上を鉛筆が走る音。
痛い程に身体を叩く心臓の音。
呼吸の仕方を忘れてしまう程の……
「……」
「……そう言えば」
どれ程の時間が経過したのか。
もしかしたら、まだ全く時計の針は動いていないのかもしれない。
シリウスは手を動かしたまま一人言の様に話し始める。
「先日……あの……。覚えてますかね」
口を開いたまではいいものの、会って会話をするのは一年振りなので、自分に見覚えがあっても相手が忘れている可能性は大いにある。ということに気付いてシリウスは言い淀んでしまう。
「なあに?」
貴方とのことなら何でも覚えている。
姫は視線はそのままに、一点を見つめたまま言葉を促す。
「あの……。前に雪の国……セフィド国の話をしたこと、覚えていますか?」
「ええ」
ラペールが夢の国へ行ってしまっている間に絵師が突然消えてしまった、あの八歳になった年。
ぼんやりと聞いていた気がする。
「ウンデキンベル国を出てから、もう一度その土地に足を運んでみました」
「……」
「途中、アッシャムス国に寄り道しましたが……」
「アッシャムスに?」
「はい」
表情は見えていないが、苦笑いをしたような表情。
王女が驚くのも無理はない。
アッシャムス国は、通年を通して暑い国で、一方のセフィドはその真逆だからだ。
何故そんな国を行き来したのか。
「ふと、木から採れる天然ゴムのことを思い出しまして……」
「ゴム?」
「はい。お互い気候も真逆の国同士ですから、なかなか国交もなく、どうしようかと思ったのですが」
「?」
ラペールはまだ会話の行き着く先が読めずに、ただひたすらに言葉に耳を傾けながら頭を回転させる。
「滑りにくい靴を……と」
「?」
「王女様が呟かれた言葉がどうしても気になってしまいまして、ゴムの事を思い出したのです。弾性素材で寒さにも強い。滑り止めに適しているのでは、と」
「……」
「そうしましたら、そこから交易が始まりましてね。セフィドのは機械産業の発展、技術を、アッシャムス国は天然素材ゴムや自然の実りを」
「……まあ」
王女の感嘆の声。
そこまで一気に話続け、シリウスはようやく口を閉じた。
「貴方、外交のようなこともしているの?」
「まさか」
外交だなんて、そんな大それた事など恐れ多い。
しかし、シリウスがその、王女の呟いたたった一言で頭を巡らせ、お陰で繋がりのなかった国同士が結びついたのだから、外交をしたと言ってもおかしくはない。
ただの一介の絵師。
それだけ。
「シリウス、貴方……」
一体、誰なの?と、途中で言葉を止めてみた。
しかし、その正体をそのまま暴いてみたくなる。
「わたしはとうの昔に故郷も名も捨てました」
しかし、先手を打ったのはやはり彼の方で。
「わたしの名前は、昔に王女様がつけてくださったシリウスという名だけです」
気付けば絵師の筆は止まり、ラペールも彼の方に視線を向けている。
「そう」
聞かれたくないということね。
「なら……」
ラペールはずっと動かないようにしていたその身を少しだけ動かす。
「お礼に受け取ってくれる?」
「お礼?」
「そう。いつもとても魅力的な絵を描いてくれるから」
王女は静かに椅子から立ち上がり、鉛筆を握った状態のシリウスに近付く。
貴方がシリウスとその名を名乗り続けるのであれば……。
誰にも気付かれないように。
こっそりポケットに仕舞い込んでいた。
渡すつもりはなかったもの。
「これを」
ラペールはそう言って刺繍入りのハンカチーフを差し出す。
シリウスは驚いた状態で、出されたものを凝視している。
「受け取ってくれないの?」
ラペールは途端に自信がなくなる。
やっぱり迷惑だったかしら。
手の平に乗せられたままのハンカチーフが、行き場を失ってしまう。
「よろしいのですか?」
「……」
「わたしが頂いても」
おずおずとラペールの小さな手の平に乗せられた、真っ白なハンカチーフを手に取る。
「もちろん。シリウスの為に刺したの」
綺麗に折り畳まれたハンカチーフをひっくり返し、反対をみてみると、そこにはシリウスのイニシャル。
彼はそれとラペールを交互に見遣る。
「あまりよく見ないで。下手くそだから」
ラペールは恥ずかしそうに両手で顔を覆う。
「いいえ」
「……」
シリウスの少し冷たい指が、顔を覆った王女の両手を包み込み、赤く染まった顔を露にしてしまう。
「とても嬉しいです」
そのたった一言で。
ラペールはこの上ない喜びを感じていた。
***
今年の王女の肖像画は、ラペールが城に滞在している間には出来上がらなかった。
ただ、翌月。
王宮へ帰ってきたラペールは完成した絵を見て、そこから視線を外してしまう。
知っている人にしか分からないほど、微かに描かれているそれは……。
王女の視線は描いている人物から逸らされ、太もも辺りで軽く合わせた小さな自分の両手が、あの白いハンカチーフを隠し持っている姿だった。
彼はこれをどんな気持ちで描いたのか。
ラペールにとっては、非常に難解な問題だった。