八歳
ラペールは逸る気持ちを止められないでいた。
早く。
早く。
寄宿学校での生活にも慣れ、月に一度は城へ顔を見せに帰ってきていた。
今日は、王宮にシリウスがいる。
気持ちばかりが焦っても、揺られている馬車の速さは変わらない。
ラペールは毎日、学友たちと講義を受け、合間におしゃべりをしたり、図書室で本を読んだりして過ごしていた。まだ一年目だというのに上下関係も厳しく、身分の差など関係なしに上級生のお世話をすることもあった。王女でありながらも、ちやほやされたりなどと言うことはなく、身内には口にしていないが、それ以上に思い悩むことの方が多かった。
恐らく両親が望む形とは若干異なる状態で、勉強以外でも様々なことを学んでいた。
そうして親元を離れた場所で一生懸命生活を送るラペールの元へ、一通の知らせが届いたのは、いつ頃のことか。
八歳になる誕生日月にシリウスが登城してくる……と。
封書にはその日付も記載され、姫は脈打つ鼓動を胸に感じ、その日がやってくるのを心待ちにしていた。
あれは半年前の寄宿学校へと向かう馬車の中のことだった。
王女はシリウスが話していた街の話を思い出していた。
広場を過ぎた先の方で馬車を止めてもらい、声のする方へ足を向ける。
歌姫の歌。
どこの国とも知れぬ言葉の歌のようで、その魅力に一瞬で虜になった。
ここで彼も同じものを聴いていたとなると、それだけで嬉しくなってしまったのを覚えている。
今となってはウンデキンベル国に帰ってきた、と懐かしさを感じるメロディになってもいるし、出発する時には力をもらえる気がしている。
そういえば、シリウスは歌姫を守る騎士もいる、と言葉をこぼしていたが、王女はそんな人影を見たことがなかった。
魔法遣いなら毎回目にしているのだが……。
街を抜け、城がさらに大きく見える。
もうすぐ会える。
***
ラペールは城についてもまだ、逸る気持ちを隠さずにいた。
帰ってきて早々、両親にはしっかり挨拶も済ませたし、王宮には月に一度は顔を出している。
けれど、彼に会えるのは年に一度だけ。
「シリウス?」
庭の片隅。
秘密の空間。
彼はそこにいた。
何故か初めからいてくれる気がしていたラペールは、心が踊った。
「お久しぶりです。王女様」
片膝を折り腰を落とし、差し出されたラペールの手に口付ける。
「少し……凛とされましたね」
「凛と?」
「はい」
言葉の意味を問われたシリウスは、その胸の内を口に出そうとはしなかった。
「どうしてここにいるの?」
「王女様がこちらにいらっしゃる気がしたので」
予想が当たりました、と楽しそうに笑う絵師につられてらラペールも素直に笑う。
促されるまま彼の横に座り、一呼吸置いた。
「わたし、歌姫の歌を聴いたわ」
そこに、貴方に教えてもらったからよ、という言葉を隠して。
何を話そうかしら……、と。
会えると分かってから、たくさん考えて想像してきたものが、パッと頭から溢れ落ちていく。
「そうですか」
話したいことも聞きたいことも山ほどある。
寄宿学校に通い始めてからできた友だち。
上級生は大人びていて、その上品な振る舞いを身に付けたいと思っていること。
薬草学の先生の宿題が多くて授業のある日が憂鬱なこと。
息抜きに刺繍をしていたら、いい気分転換になっていること。
「騎士さまなんて、いなかったけれど……」
頭の中でいろいろ考えながら、先程話題にした話の続きを話す。
「ナイトというのは比喩、ですから」
そんな些細な呟きまで覚えているのか、と、シリウスは、自分の話を夢中になって聞いてくれていた去年の王女の姿を思い出す。
「?」
姫はそれが何のことだか見当もつかない、といった表情のまま首を傾げ、絵師を見上げる。
「でも、とても魅力的な歌だったわ」
「そうですね」
去年まではまだ丸みの強かった頬が、僅かに引き締まり、大きかった瞳の魅力がさらに増している。
しかし今は、少し微睡むような瞼。
目を閉じると首が少し垂れ下がり、何かに気付いて瞼が開くと、首がピンっと正される。
「馬車に揺られてお疲れのことでしょう」
時折右側に感じるラペールの温もりが、ビクッと強ばる。
「絵を描く為にじっとしているのも疲れるんですよ」
なんでも知ってます。というような、その目に見つめられてしまい、王女はぐっ、と、息を詰める。
「ねむくないもん」
子どもっぽく反論する口調に、シリウスが「ふふ」と笑うのがラペールにも分かった。
シリウスに会ってからずっと薔薇色に染まっていた頬が、ボッと真っ赤に染まる。
「だから、アトリエに行く前に、シリウスの話を聞かせてちょうだい」
眠気覚ましにね。
と、澄ましたように背を伸ばすその姿は愛らしい。
ここでまた笑ってしまうのがバレたら、目の前の幼い姫はどんな顔を見せてくれるのだろうか。
「いいですよ」
「本当?」
自分で振ったにも関わらず、嬉しそうに笑顔になるラペールに、絵師もつられて笑ってしまう。
「何の話がいいですかね……」
このウンデキンベル国ではなかなか見ることの少ない、雪ばかり降る国の話をしよう。
白くて冷たい雪。
優しく舞っている間はとても美しく幻想的で。
知らぬ間に音もなく地面に積もる。
積もったばかりはまだ歩きやすいが、翌日日が出て溶け始め、また凍ってくると氷が張って滑りやすい。
街を歩く人も足元ばかりみて歩き、転ぶ人が多いということ。
「すべりにくい靴とかないの?」
少し眠そうに船を漕ぎながらも、話はきちんと聞いていたらしい。
むしろ、静かにしていたので、てっきり眠ってしまったものだと思っていた。
「え?」
雪の多い国で人の出入りも少なく、貿易もそこまで盛んに行われている国ではない。
シリウスも流れるまま、足の向くまま辿り着いたので、せっかく来たのだから、と、スケッチをしてしばらく滞在していただけだ。
「だって転んだら痛いじゃない」
「……」
シリウス自身は、足元に気をつけて歩けばいいと思っていただけに、あっけらかんと言ってのけるその発言には目から鱗だった。
「……」
城の中で誰からも蝶よ花よと愛でられ続けてきたこの姫は、鳥籠の外へ羽ばたき始め、この短い間に一体どんな経験をしてきたのか。
「……」
思わず右に座る王女に視線を向けようとした時。
「……」
バランスを崩したラペールの身体が、シリウスの大きな身体に寄りかかる。
「王女様?」
小さな身体で馬車に揺られるのはとても疲れる。
馬車を急いで走らせてきたのだろうか。
まだ日はこれから高くなる時間で。
肖像画を描き始めるのは、まだもう少し時間が過ぎてからでもいい。
絵師はそっと、傍に置いていたスケッチブックを手にすると、鉛筆を握り、自分に寄りかかる少女を起こさぬ様、静かに時間を過ごした。
***
「ん……」
ラペールは起きるまで、心地の良い夢を見ていた。
「シリウス?」
眩しい光で目覚め、刺激が強すぎた王女は両目を手の甲で軽く擦った。
よく寝た。
疲れが取れた。
と、質の良い睡眠時間だったことは、全身が教えてくれた。
「シリウス?」
確かに眠る前、彼と一緒にあの場所にいた。
しかし今、彼女がいるのは自室。
「ラペール様」
王女の部屋の外で待機していたお付きの侍女が、部屋の中から聞こえてきた微かな物音に気付き、声を掛けて入ってくる。
「アメリア?」
何故?
どうして?
という疑問を隠しもせず、困惑の表情を浮かべている。
「昨日、シリウス様が眠っているラペール様を抱き抱えた状態で連れてきて下さいました」
「昨日?」
姫は首を傾げる。
「はい。疲れているようなので、そのまま眠らせてあげて下さい、と」
「それで?」
アメリアの言葉を次に次にと急かしながら、嫌な予感に胸が高鳴る。
「はい。それで、ご自身はアトリエにお籠りになられてこれを」
「シリウスは?」
ラペールは差し出された絵画に一瞬視線を向け、また侍女の顔をみる。
「お帰りになられました」
「……」
そんな予感はしていた。
約一日ベッドの上にいて、今はブランチの時間だということ。
シリウスは一週間前から滞在しており、王族の絵を描き続けていたこと。
誕生日の王女の肖像画を描くまで待っていてくれたこと。
ラペールの耳には侍女の話す言葉の数々が頭に入らず溢れていく。
今日で週末の休みが終わる王女も、また寄宿学校へ帰らなければいけない。
「……」
常に王女の傍に座し、よく知るアメリアは、伝えるべき情報を述べた後、口を噤んだ。
それは、姫気持ちを知るが故に。
ラペールは絵画を持つ侍女に、それをしっかり見せてくれるよう頼んだ。
顎を少し上へ上げ、清らで美しく。
でも内部に逞しさが見え隠れする。
凛とした立ち姿。
この一枚を、本人と向かい合わせることなく描いた絵師。
「これだけの絵を……短い時間で仕上げるなんて」
アメリアは、静かに黙って自分の肖像画を見つめるラペールに思わず声を掛ける。
「シリウス様はとても集中して描かれていたと思いますよ」
「……」
王女は小さく頷いて同意する。
しかし、そのまま動けない。
「少し」
「……」
「少しひとりにして頂いてもいい?」
まだ幼い王女が搾り出すような声で告げる。
「……」
侍女は命じられると、軽く挨拶をした後、部屋から出て行った。
「……」
ラペールは、扉が閉じる音がしてもしばらく動けず、その場に立ち尽くしていた。
「シリウス」
つぅ……と、涙が頬を伝う。
王女はその涙に気付かずに、絵師の名を呟いた。
あなたは追いかけると逃げていく。
待っていてはくれないのね。
ラペールの元には、一枚の絵だけが残された。