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一夜明けた翌朝。
まだ日が昇ってからさほど時間も経っていないが、すでに一人と一匹は活動を開始しようとしていた。
朝露に濡れた葉が日の光でキラキラと輝き、薄っすらと辺りを覆う霧が徐々に晴れていく。そんな清々しい朝のはずなのに、一人と一匹の間に漂う空気は何とも言えない微妙なものだ。
人間がこちらのことを、ちらちらと見てくる。
まだ傷が癒えたわけではないし、体力も戻っていない。口にしたものと言えば水だけだ。かといって、動けるか、と言われたらそういうわけではない。しょうがなく横たわりボーっとしていた狐だが、こうも視線を感じると落ち着かない。
目があえばそらし、視線を余所へ向けるとまたこちらを窺うように見てくる。
お腹が減ってるなら昨日取ってきた物でも食べてればいいじゃん。私の分とかホント気にしなくていいから。まぁ食べることができたら、の話だけど。
そんな気持ちを込めて木の実を男に向けて転がす。例のどんな効果があるかわかない奴だ。
だが、男は不思議そうな顔を浮かべ、木の実と狐を交互に見比べる。
何その顔。お腹が減っているわけじゃないの?
ほかに思い当たる理由もないし、考えるだけ無駄と判断した狐はその体を丸め男のことを意識の外に追いやった。
そんな狐の様子に男は諦めの混じった溜息を一つこぼし、その足を森へ向けた。狐から渡された木の実を持って。
狐と男が意思の疎通ができるまで、双方の思い違いが解消されることはない。
「これと...同じのを採ってこい...てことだよな?」
男は手の中の木の実を一瞥する。
大きさは直径3~4センチくらい。茶色の殻に包まれていて割と固い。ドングリを大きくしたようなやつだ。
「これが本当に食べられるのかねぇ。しっかし...昨日は散々だったなぁ」
あれは酷い地獄だった。今でも鮮明に覚えているあの痛み。二度と味わいたくない。男は昨夜のことを思い出しながらお腹をさする。腹痛と止まらない下痢で本気で死ぬかと思ったのだ。
「それ加えて、あの狐。あんなもの食わせやがって。後で同じ物拾ってきて飯に混ぜ込んでやろうか」
飯に混ぜ込む、というのは流石に冗談だが、そう思っても仕方がないほど昨日は不幸の連続だったのだ。それに昨日渡された物がどんな物だったかなんてはっきりと覚えていないし、あんまり変な物を入れてもしあの狐が死んでしまったらこの世界で生き残ることはほぼ不可能になることぐらいわかってる。
せっかく巡り合えた言語的な意味を除いた話の分かるやつ。それを仕返しで失うのはとてつもなく勿体無いことだ。
「とにかく、今は生き残ることを考えますか」
男は木の実を弄りつつ食料集めに専念することにした。
男がここを離れてしばらくした頃。狐はなんとか立ち上がろうとしていた。
いつ襲われてもおかしくないこの場所でいつまでも横たわっているわけにはいかない。一刻も早く動けるようになり、あの人間と別れてしまいたい。
と、そういった理由でもなんでもなく。
ただ単に寝返りを打とうとしているだけだ。
ずっと同じ体勢でいるのは人間も狐も同じらしくどうにも辛かったのだ。まるで言うことを聞かない己の四肢を無理やり動かし何とか寝そべることができた。猫で言う箱座り、犬で言うところ伏せの体勢。
あぁぁ、楽~~~。
これで何か飲み物でもあったらなぁ。などと呑気に考えながら心地の良い日差しと、そよ風に吹かれながらこの時を満喫していた。
正直、信頼しているわけではない。人間が踏み入れる場所ではないところに、ふらりと現れ、異国の言語を使い、常識というものをこれっぽっちも知らない。そんな奴、怪しさ満点である。
下手にかかわらないほうがいい。
そんなことを思う狐だが、最大の障壁である意思の疎通を前に、大きなため息をついた。
何往復かして役に立ちそうな木の実や植物を集めてきた。ひと段落ついて、休憩しようと狐のいる場所に戻ってきた男の目に飛び込んできたのは木の下で昼寝をかます一匹の狐の姿。
木漏れ日が銀の毛並みに反射しキラキラと輝いている。つい昨日まで血や土埃にまみれ、見る影もなかったのだがその面影はすっかりとなくなってしまっていた。
一見すると神秘的なその姿、触れれば壊れてしまいそうなその情景に、男は黒い笑顔を浮かべながらゆっくりと近づき一言。
「ほ~ら寝坊助さん。おっはようございま~す」
そう言いながら男はスヤスヤと寝息を立てている狐の鼻先に木の実を持っていき、指先ですり潰した。
人間が何回か戻ってきていたことには気づいていた。のんびりとした昼の陽気にあてられて、うつらうつらしていたところに人間が近づいてきたと思ったら強烈な刺激臭。
狐は飛び起き男から距離をとる。
やっぱりこいつ危険じゃないか!少し信用していたらやっぱりこれだ!
狐は姿勢を低くし、この男に対する警戒度を一気に引き上げた。
「こっちが一生懸命食材探ししてるってのに、気持ち良くお昼寝とは。そのびっくりした表情を頂いてもまだ足りないぐらいだ」
人間が何か言っているようだがそんなことは今関係ない。先の臭いで鼻はほとんど機能しない。あいつの行動一つ一つに注意しないと。
鼻が使えないというのはなかなかに致命傷だ。しかも体調は万全とは言い難く、本来の動きもできそうにない。それどころか、動けていることの方が奇跡である。それでも狐は、目の前にいる人間を葬ることぐらい出来ると考えていた。
狐の背後には大きな木の幹。逃げ場はない。
一人と一匹を包む一触即発の空気。どちらかが動けば戦いの火蓋が切って落とされるだろう。
ところが事態は意外なことで終息を迎えた。
「しっかし、マジで臭いな。ここまで辺りが臭くなるとは流石に予想外...というか流石異世界って感じだな」
男はおもむろに自らの手を自身の鼻先に持っていく。
来る!!
狐が身構え、飛び掛かるために後ろ脚に力を込めた瞬間。
「うぐっっっ!!」
男は目を見開き、まるで時間が止まったかのように硬直した。その顔は引きつっており、次第に鼻からぼたぼたと鼻血が垂れてくる。
「あれ...なんで俺...鼻血な,,,んか,,,」
男は自身の体の異常に気が付き、慌てて鼻を抑えようとするが、その目は段々と虚ろになっていき、やがて動き全体が緩慢になっていく。さらに足元もおぼつかなくなり、ふらふらと危なげなく狐の方へ向かって歩みを進める。
目の前にいる狐の存在すら気が付いていないようで、威嚇する狐を無視してその距離を詰める。
狐は慌てて横に飛び、次を警戒するが男はそんな狐の目の前を素通りし、木の幹によりかかったと思ったらズルズルと座り込んでしまった。
鼻血は依然として流れ続け、シャツからズボン、地面を赤く染め上げていく。
え...なに、こいつ...本当に...何なの...?
これを見た狐も拍子抜けだ。実は演技なのではないかと警戒しつつおっかなびっくりしながらも男を観察するが、どうやら男は本当に気を失っているみたいで鼻血の勢いも弱まりつつある。もうしばらくしたら止まるだろう。
狐は呆れたように溜息を吐き、男が枝ごと取ってきた木の実を確認する。
大きさが直径一センチにも満たないこの赤い木の実は潰すと強烈なにおいを発する。しかも、たちが悪いことに潰したすぐはそこまで酷い臭いではないのだが、しばらくすると刺激臭が強くなっていきピークを迎えた後すぐに臭気のもとが分解され無臭になるのだ。
つまりこの人間は運悪く最高の臭いを味わったわけだ。
ついてない...お気の毒様。でも、知らなかったとはいえそんな害悪な物を嗅がせてきたことの報いだね。
差し当たってできることもないし目を覚ますまで放置でいいだろう。
そう結論付けた狐は報復とばかりに、男の鼻にこれでもかと野草を詰め込んだ。
っん?
一仕事終え、日向ぼっこを再開しようと歩き出した足が止まった。
大きな耳を立て、鼻を高くし周囲の様子を探る。
先の一件から、今頼れるのは己の耳だけ。全方位から聞こえてくる音の中から違和感の元を聞き分ける。
何か来る!
風に揺れる木の葉の音や、鳥たちのさえずりの中、僅かだがこちらに向かってくる音を見つけた。
今ならまだ、逃げられる...!
飢えた獣であれば逃げる獲物より、倒れている男に目が向き、追ってくることはまずないとみていいだろう。
狐から見れば、ただ偶然出会った一人の人間に過ぎず、何なら町で襲ってきたのも同じ人間である。
ここで迷う道理はなかった。
っっ!!
銀の毛並みを翻し、痛む足を無理やり動かしながら音の出所から逆方向へ走り出す。
そのスピードは決して速いといえるものではない。出来るだけ離れないとすぐに追いつかれてしまうだろう。
狐がさらに力を籠めようとしたその時。逃げてきた方向から、あの人間の咆哮のような声が聞こえてきた。
「来るなら来やがれ!俺がおとなしく養分になると思うなよ!!せめてあいつが逃げるだけの時間は稼いでみせらぁ!!」
ピタリと止まった狐の足はゆっくりと、もと来たほうへ向けられる。
その言葉が分かったわけではない。それでも、気持ちは伝わる。その中に...あの人を感じた。
何でもない、人間なのに...。
獣の咆哮が轟く。
銀の狐は、声のするほうへ歩き、小走りになり、ついには、痛みも忘れて逃げたときよりも速く走っていた。
男の意識はゆっくりと浮上してきた。数回の瞬きを繰り返したが、瞳は焦点を得ずどこか虚空を見つめている。
「あれ...俺なにしてんだろ?」
現状に思考がまるっきり追い付いていない。
頭はふらふらするし鼻の奥がものすごく痛い。服や手、ズボンまでうっすらと赤黒い染みができている。
「うわぁ...気持ち悪...」
自身の惨状に軽い嫌悪感を抱いていると、ふと鼻に違和感を覚えた。
そっと手で触れてみると何か詰め物のようなものがしてある。
「なんだ...これ....」
引っ張り出してみると血で汚れた緑色の葉っぱ。それが両の鼻にぱんぱんに詰まっていた。
こんなことしてくれるやつはこの場においてこいつしかいない。
周囲を見渡してみる男だったが、肝心のその姿が見えない。
「あれ?おっかしいな...さっきまでそこに...ん?」
風で揺れる葉の音ではない、はっきりとした草の音。
「おいおい...冗談はよしてくれ...」
足音がはっきり聞こえてくるにつれ、森の闇から浮かび上がるシルエット。ずんぐりとした体形に、短く太い手足。二本足で立ち上がれば、男の身長など優に超えるだろうその姿。
「初めての相手が...クマかよ...」
武器なし防具なし、知る限りではチートもなし。やれアイテムボックスだ?やれ魔法だ?こちとら素手シャツ、ジーパンだぞ!
あぁああ!!くそっ!!
「来るなら来やがれ!俺がおとなしく養分になると思うなよ!!せめてあいつが逃げるだけの時間は稼いでみせらぁ!!」
ここにあいつがいない。つまりそれが答え。
死ぬほど逃げたい。それが男の本音。
それでも今逃げるわけにはいかない。
男の脳裏に、僅かな時間とはいえ楽しいと感じられたここ一日二日の情景が浮かぶ。
「来いよクマ公...遊んでやるよ...」
足元に落ちていた木の棒を拾い、震える足を押さえつけ両足を強く踏ん張る。
大熊は立ち上がり、前足を大きく広げ咆哮するとともに男を仕留めんと駆け出した。
ここに、男のハードコアな戦いが始まった。