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狭い路地の奥。広場から延びるその道は瓦礫の道と化していた。
倒壊した建物や爆発の余波で生じた白煙が周囲を覆っている。
ぼやける視界に収まるところを知らないひどい耳鳴りが続く。
銀の狐は悲鳴を上げる身体に鞭打って、瓦礫からぬけだした。
未だに酷い耳鳴りがしているが気にしている場合ではない。この煙に紛れて脱出しなければ今度こそハチの巣にされてしまう。
砲弾が発射される直前、ギリギリのところで路地に転がり込んだ狐は、何とか直撃を回避するができた。しかし襲い掛かる熱と爆風は防げず、そのまま吹き飛ばされ壁に激突してようやく止まったのだ。崩れた建物の瓦礫まで降ってきたのは不幸としか言いようがない。
銀の狐はふらふらしながらも立ち上がり、外壁に向かって魔法を放つ。
過去突破を許したこののない壁に、いとも容易く狐が通れるサイズの穴が開いた。
吹き抜ける冷たい夜風が白煙を押し流していく。
(―――...)
ふと城の方を向いた銀の狐だが、人の声が聞こえ、慌てて煙に紛れるように夜の森へ走り去っていった。
__________
銀の狐は知らない気配を感じて目を覚ました。どれくらい時間が経ったかはわからないけれど少しは寝ることができたようだ。
この辺りに住む魔獣の気配はそれほど強くないものが多い。そして、力のないものがわざわざ近づいてくるのは、余程腹が空いているか、気配を察知できないほどの低級な輩のどちらかだ。
ただ、これは平時のことであり、現状から考えられる最悪の事態は、この垂れ流されていた濃厚な血のにおいを嗅ぎつけてきたそこそこ強力な魔獣がやってくることだ。
まだ体を起こすほどの体力は回復しきれていない。こんな状態で襲われたら反撃するどころか、まな板の鯉でしかなくなる。
そんなことを考えているうちに、知らない気配は着々と距離を詰めてくる。
ただ、その速度は攻撃の意思が感じられるほどの素早いものではなく、こちらの様子を窺っているような感じだ。もし、こちらを捕食しようとしている魔獣なのであれば、この行動はかなり不可解なものであり、断定はできないが、その線はかなり薄まった。
で、あれば、自身のテリトリーに銀の狐という、侵入者を感知した低級の魔獣である可能性が高くなる。
一番考えたくないのは、人間がここまで追ってきたことだが、それは現実的にあり得ない。
何せ、狐の足で半日走り通したのだ。さすがに人間が追いつくには早すぎる。それに加え、銀の狐からすれば低級の魔獣ばかりであるが、人間にしてみれば、相手取るのをためらうレベルであり、そんな中、集団でもなく一人で森をさまようのはリスクが高すぎる。
何を思ったのか、ふと気配の歩みが止まった。もうすでに足音が聞こえる距離に入っていたにもかかわらず、この行動は謎だ。これで気配を消したつもりなら、お粗末にも程がある。
「~~~~、~~~~~~~~」
その大きな耳が、気配の主である音を拾ってきた。
まさかここにきて、一番当たってほしくなかった予想が当たるとは思いもしなかった。何を言っているのかはわからないが、少なくとも、人間ではあるらしい。
その人間は、再び歩き出し、今や、茂みを挟んだすぐそばまで来ていた。
このまま、この人間に殺される?断固拒否する!
銀の毛並みを持つ大きな狐は、残りの体力を振り絞るようにして立ち上がろうとするが、両足をばたつかせるだけで、起き上がることは叶わなかった。その代わりに牙をむき出し、毛を逆立て、最大限の威嚇をする。
茂みをかき分けて出てきた人間は、その狐の惨状をみて驚き、手にしていた牙を握りしめながら、何かと葛藤するような表情をした。そして、覚悟を決めたのかその牙を今一度強く握りしめた後、そっと狐の前方に放ってよこした。
えっ...!なんで...
この行動に呆気にとられ、思わず威嚇が止む。
そんな狐の反応をよそに、人間は踵を返し、走り去っていった。
狐の頭の中はかなり困惑し、それと同時に言いようのない腹立たしさを感じていた。
いったいなぜ武器を手放したのか。なぜ急に走り去っていったのか。何より気に入らないのが、走り去る直前に見せたあの同情するような目つき。なぜ自分が、人間からあのような目を向けられないといけないのか、と。
人間が走り去った後に残されたのは、いつまでも漂っている血の香りと、鳴りを潜めた威嚇に代わり、腹立たしげに動く尻尾が地面をたたく音だった。
ん...!またきた...
あれからしばらくたった頃、例の人間の足音が聞こえてきた。どうやら走っているみたい。
まだまだ距離はあるが、足音から察するに一人でこちらに向かってきているのは間違いない。
銀の狐は戻ってきた人間に対して再び威嚇を行う。
これ以上近づいてくるな。
しかし人間は、多少警戒しながらも狐との距離を詰めていく。男の両袖は破り取られていて、その手には水の滴る布切れが握られていた。
それは...みず!!
思わず狐の目線が滴る水滴に釘付けになる。久しく口にしていない水分だ。今まで気にする余裕もなかったが、意識した途端、体がのどの渇きを訴え、思わず身じろぎしてしまう。
そんな狐の反応をよそに、男は狐との距離を縮めていった。
何かしたら噛み付いてやる。そんな気で威嚇していたが、気にしないとばかりに男はそばにしゃがんだ。
そして自然に伸びてきた男の手が向かった先は、血で汚れた自身の体だった。
「お前.....何があったんだ?こんなボロボロになっちまって」
何を言っているのかさっぱりだけど、その手つきはとてもやさしくて、それが懐かしくて、つい警戒心が一段下がってしまう。
男は、狐の威嚇が止み、若干力が抜けたのを確認し、その手に持つもう片方の布切れを狐の口に勢いよく押し入れた。
(!?)
突然口の中に濡れた布切れを突っ込まれた。
やっぱり仕留める気か!と鋭い目つきで見上げるが、男の態度は何一つ変わっていない。
「今は、これくらいしかやってやれないけど、許してくれよな」
男は最悪噛み付かれるかもしれないと思っていたが、その心配はなくなりほっと胸をなで下ろした。
布切れはカラカラに乾いた狐の口内を湿らしていく。
染み出してくる水分は到底足りるものではなかったけど、無いより断然ましだ。
狐は少しでも水分を絞り取ろうと、力の限りその布切れを嚙み締める。
そんな狐の様子を眺めながらも男はゆっくり、ゆっくりと狐の体全体を拭いていく。
しばらくすると布切れは、どす黒い血の色に染まった。
「これは…骨が折れそうだな」
男は立ち上がり、狐の口から布を回収しようとする。
思わず食いしばり、抵抗してしまう。
「ほら、放してくれよ。また持ってきてやるから」
男はそんな狐に優しい目を向け、ゆっくりと布を引っ張り出す。
まただ。
こいつを見ているとなぜか信頼してもいいような気になる。そんなもの信じちゃいけないはずなのに。自然と口元が緩み、口から布が出ていった。
「いい子だ。ちょっと待ってろよ」
何かを言い残し、男はまた走り去っていった。
狐の心はぐちゃぐちゃになっていた。
もう、訳が分からない。何がしたいのか全然わかんないし、あの人間を見ていると、なぜかあの人と重なってしまう。親であり、兄であるとても、大事な人。
眼前にあの人が優しい笑顔を向けながら私の頭に手を伸ばし...
だめ、だめだから...
狐は目の前の幻想を打ち消すように目を閉じ、顔を伏せる。
尻尾は複雑な気持ちを表しているかのようにバタバタと、しかし時折弱く動いていた。
それから男は、何度もこの場所と川を往復した。
決して大きくないサイズの布。すぐに血で汚れ、洗いに行かなければいけない。そしてその都度、狐に水を与えた。
気が付けば日が沈みかけ、周囲は薄暗くなっていた。もうしばらくすれば闇に包まれるだろう。
「もう夕方か。しばらく水は我慢してくれよ?」
そう言って男はなにやら準備を始めだした。
ここに残して自分だけ拠点に帰るという選択肢はない。野生の獣のそばにいることが、どれだけ危険なことかは重々承知の上。ましてや手負いだ。それでも、いや、だからこそ、この狐のそばで一夜を明かす決心をした。
といっても、男に今できることは、ほとんどない。
仮に火を熾そうとしても、すぐに日が沈むから中断せざる負えなくなる。それどころか狐が火を見てどんな反応をするかわかったものではない。獣にとって火とは十分脅威になりうるのだから。
「よいしょっ...と」
男は拠点においてあったものを狐のいる場所まで運び出した。どうやら留守にしていた間に漁られていたようだがベリーの類がなくなっただけで他は無事だった。
「んーー、ベリーだけ...小さい動物が来たのか?なら、まぁいいか」
一つ、昼間にパッチテストをした赤い木の実をとり、ひょいと口に入れた。異常は診られなかったし、大丈夫だろう。
「ん、すっぱい...けど、いけるな」
酸味がきつめだが味は悪くない。
食べられると判断した男は、もう一つ口に放り込み、作業を再開した。
大したものもなく、散策がてらに集めた物。一歩間違えれば生ごみに成り下がる。
そんなものが狐の周囲に集められた。
「どうだ?この中で食べられるやつはあるかな?」
男は相手が獣ということも忘れてしまったかのように食材の鑑定を狐に依頼した。
このごみの山は...なに?
なんで私の前に並べられてるの?
人間がどこからか帰ってくる度に抱えて持ってきたもの。見る限りそのほとんどは...いや全部が食料にすらならない物。
中身がスカスカで種だけの実、中には当たりがあり、そこそこの栄養価も持つが、その大半が、えぐみが強すぎたり、青臭すぎたり、渋すぎたりと実ごとに色々な負の要素が詰まった植物の実。
ここまでならまぁ何とかなる。が、問題は...
ちらり、と先ほどの物達と分けて置かれていた物に目を向ける。
なんで毒のあるやつまで拾ってきたの...
「おっ!やっぱりそいつは食べられるやつだったのか」
食べることができるものと判断して、分けて置いたものに狐が目を向けたことから、男は喜色を浮かべる。
「無駄だと思ってたサバイバル術が生きるとは、俺中々やるじゃん!」
ガッツポーズまでして見せる男だが、残念なことに無駄である。
突然喜び、何かを言っている男に呆気にとられながら、狐は、その木の実を前足で弾き飛ばした。
こんなの食べるなんて冗談じゃない。
コロコロと転がっていき、藪の中に姿を消した木の実。
その姿を目で追っていた男は、ガッツポーズしていた腕をそっと下した。
銀の狐はそんな男の様子に目もくれず、多少は奇麗になった自分の体を丸め、目を閉じる。
何か口にしたいと思わないでもないけど、現状動くことはできないし、僅かばかりの希望であるこの男がこれでは...そう思いながら人間を見てみると、その人間の表情が明らかに強張っていく。
「えっ!狐さん!狐さん!冗談ですよね!?これ食べられるはずだよね!?」
銀の狐がどうしたのかな、と思案するよりも早く、男はすごい剣幕で銀の狐に詰め寄った。相手が獣であることも忘れ、藪に消えた木の実を探し出してきて、再度狐に見せる。
「ほらほら!これだよ!?大丈夫でしょ?!大丈夫だよね!遊びでしょ!?飼い犬にやる、とってこーいみたいな!」
突然詰め寄られたと思ったら、すごい勢いで分からない言葉を捲し立てられる方はたまったものではない。
一瞬攻撃されるのかと思ったけど、それにしてはすごい慌て様。なんか毒気を抜かれて冷静になる。にしてもなんで一度捨てたやつ拾ってくるのかな。
男はいまだに木の実の安全性を信じて疑わないようだったが、ポカンとしている狐を見て、次第に自信を失っていく。
「まさか...これ食べたら不味いやつ...?」
男の顔面はみるみる蒼白になっていき、ついに自身の安全神話を打ち砕かれ、膝から崩れ落ちた。わざわざ捨てたということは、不向きどころか毒があった可能性すらある。それをすでに自分は口にしていたのだ。男の脳内を絶望が支配する。
「終わった....」
そんな男の様子を見て、今度は狐が慌てる番である。
さっきまでびっくりするくらい元気だったのに、突然顔を青くして崩れ落ちたのだ。ろくなもの集めてこなかったり、毒のある実を食べさせてこようとしたけれど、少なくとも敵ではないと思う。何せチャンスはいつでも合ったのだから。
狐は考える。何かの病気なら苦しんだりしているはずだからその線は無い。のどが渇いた?だったらもっと早く飲みに行ける。そこで狐ははたと気が付いた。目の前に積まれた食用に不向きな物たち。ひょっとしたらお腹が減っているのかもしれない。食料を探したはいいものの、たまたま、これらしか見つからなかっただけかもしれない。
そうと決まれば、あとは速い。この中から比較的ましな物を選ぶだけ。わざわざ自分のために探してくれた。せめてもの恩返しだ。
「なに...してるんだ...?」
木の実数のいくつかを吟味し始めた狐に、男は希望を見つけた。
「もしかして....!何か薬になるやつでもあるのかっ!たすかったぁぁ!」
突然、諸手を上げて喜ぶ人間。自分が拾ってきたやつなんだから自分で食べればいいのに。
そもそも狐にこれらを食べるという選択肢はない。誰が好き好んでこんなリスクを負うものか。
まぁいいや、そこまでお腹が減っているならば仕方がない。
散々迷い比較的ましだと思われるものを選び、口に加える。もちろん力加減は間違えない。
「これが...胃腸薬の代わりになるのか!いや、毒消し...か!!どっちにしろ、助かる!!あの時の自分に感謝!」
半ばひったくるようにして、狐の口から木の実を受け取った男は喜色満面でその木の実を口に入れ、咀嚼。
「うっ!これ....っ」
突如として、男は喉と口元を抑えた。その顔は真っ青になっており、尋常ではない量の汗を掻いている。
あの木の実の中で唯一知っている効果。びっくりするくらい甘い。甘すぎて吐き気を催すレベル。ほかの実の効果は知らなかったので、安パイをとった。
一度舐めたことがあったけど、もう二度と口にしたくないと思ったほど。それを丸ごと一口で逝ったのだからすごいと思う。よっぽどお腹が減っていたんだ。
「ヤバい...」
男は、川へ向かって一目散に走った。気持ち悪すぎて頭がどうにかしそうだ。
途中何度か吐きかけたが、毒で死ぬよりましだ、と堪えて走った。
川に辿り着いたときにはすでに満身創痍。フラフラとおぼつかない足取りで歩く様はまるで亡霊のようだ。
男は川の水を一心不乱に飲んだ。それこそ胃が水で一杯になるほど。勿論口も必死にゆすいだ。
「ふうぅ....何とか....うっ」
思い出すたびに吐き気が男を襲うが、何とか落ち着いた。
「これで....死ななくて...済む...」
仰向けに倒れた男は水で膨れた己の腹をさすりながら、夕闇が訪れつつある空を見上げる。
向こうの世界とは違うけど、空は同じに感じる。向こうに置いてきた大切な物、思い出せばその温かさが身に染みた。
「戻るか...」
もう、帰ることは出来ない、二度と触れることもできないかもしれない。
男は勢いよく立ち上がり、狐のもとへ向かう。
それでも。
こちらに気が付いた狐が顔を上げる。その目は何か尊敬するものを見ている気がした。
この数奇な出会いは魅力的で。
「お前は何か食べないのか?ほら、これとかどうだ?食べれられるかもしれないぞ?」
人間が木の実を持って見せてくる。まさか、それも食べる気?こいつ信じらんない。
きっと、面白くなるっ!
それにしても...なんであの毒のある実なんて持ってたんだろ?まさか、食べる気とか...だったりしないよね?ひょっとして、もう食べてたりして。なーんてさすがに無いか。
男が昼過ぎに食べた実。下剤効果があり、薬にもなるが、凄まじい腹痛が副作用で出るからもっぱら毒の実として扱われてる。その効果が出るのも遅く即効性が無いことも薬として用いられなかった理由だ。結果、どうなったかというと。
「ああああぁぁぁ!!!なんっっだこれ!!くっそ腹いっってぇぇえ!!」
男は襲い掛かる腹痛と便意に数時間格闘することとなった。
あんた....あの実...本当に食べてたのね....バカだね。
男が居るであろう草むらに向かって、狐が冷たい目を向けるのも仕方がないだろう。
ここまででプロローグのようなものです。思ったよりも時間がかかってしまいました。