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一周回って興奮から目覚めた男は、おぼろげな記憶を頼りに現環境で生き残るために行動していた。
人が生きていくために最低限必要なものはなんだろうか。答えは単純に水である。これは、誰しもが答えることができ、当然この男も知っている。そしてこの問題は目の前の小川で解決である。
水場を確保できたのは大きなアドバンテージであり、ひとまずの問題は片付いた。
当然、源流から離れれば離れるほど危険度は上がっていくため大事をとるならば、ろ過、煮沸したほうが安全ではある。
勿論生水を飲む以上、数日の間下痢になることは覚悟しておかなければならないが。
では次に何が必要か。火?食料?安全な場所?
火を起こすにも技術、条件がある。湿っていない木材、材質、体力などなど。そして知識として知っているのと、実行出来るかは全くの別物である。もし、火おこしをやってみようとしてもその根気のいる作業、消費する力たるや、想像を絶するものがある。
そしてこの男、子供の時そのつらさを、身を持って体験している。
「あんな思いは二度とごめんだ…」
思い出す火おこしの記憶。ひたすら粘ってみたものの終ぞ火はつかなかった。
しかし、生存戦略の一つとして欠かせないことであり、結局火を起こすことに変わりはない。
それが今か後かの違いである。
溜息をつきながらも森の中へと足を進める。
水に次いで必要なものは風雨をしのげる安全な場所。最低条件としては、水場から少し離れた場所で、日光を遮るものがあること。
さらに言えば平らで、水はけがよく周囲の見通しがいい場所が望ましい。しかし、そんな理想的なものがそう易々見つかるわけがないので最低限雨風が凌げる場所を探さなければならない。
「こうして歩いていると、かなり幻想的な森だよな」
独り言の多さには、自身も自覚しているが、この森を歩いていて感嘆の声を漏らさない人はいないと思う。
背が高く、幹の太い木々から漏れる木漏れ日、その光が指す先にある青々とした下生え。小川周辺の岩々はすっかり苔むし、人という存在が、今まで一切立ち入ってこなかったことを示しているかのよう。
巨木はやがて寿命を迎え、病に侵された木々と共に自身の体を横たわらせ、ゆっくりと土にかえっていく。
折り重なった極太の倒木が朽ち果て、それを苗床に上から小さな芽が芽吹いている。この森はずっとこの命のサイクルを繰り返してきたのだ。
時折遠くから聞こえる何かの声。
そう、まさに。
「まさに、ファンタジー」
男は、自分の置かれている状況をすっかり忘れ、このファンタジーな風景に心奪われ、気の向くまま散策を続けていった。
日差しは着実に傾いていった。
「しっかし...まぁ...なんというか...ひどいな」
散策に区切りをつけ今まで拾い集めてきたものを前に、つい唸ってしまう。
なんの植物かわからないが、つる植物であることは確かな物。なんの動物のものわからないが、やたらと鋭い牙。そしてやはり、なんの植物かは知らないし、食べることができるか、どうかですらわからない木の実、2,3種類。見てくれはおいしそうな木苺に似た何か。派手な色をしたキノコ。絶対にやばい傘の部分が二段になっているキノコ。キノコの上に小さなキノコ、なキノコ。
「碌なもの集まらなかったな」
男は仮拠点として決めた場所で、周辺から集めたものを前にそうつぶやく。
この仮拠点、小川から比較的近くにあり、倒木の中身が朽ち果てており、皮の部分が残ってトンネルのようになっている。かがんで中に入ることができるほどこの倒木は太く大きかった。雨風から身を守るには十分だ。
「風雨を凌げる場所は見つけた。後は当面の食糧なのだが…」
そう言いながら、自らが集めてきたものを見る。木の実2,3種類、キノコ、キノコ、キノコにキノコ。あと、木苺に似た物。
木苺はともかくとして、せめて木の実だけでも食べられるかどうか判別できればよかったのだが、その結果は、まだわかっていない。今一つ目のパッチテストをしているところである。
パッチテストと聞くとアルコールについて思い浮かべる人が多いと思うが、これは、ほかのことにも適用可能だ。食べられるものかどうか判断するうえで、まず初めにこのパッチテストを行う。方法は簡単。その植物の汁を皮膚の弱いところに少し塗るだけ。当然この結果のみで食べられるかどうか判断をするわけではないが、口にして良い物か、悪い物かぐらいなら判別できる。
簡易的な判断の一つとして、動物が食すかどうかといったものもあるが、今回は遭遇することができなかった。
そしてまかり間違ってもキノコに手を出してはいけない。
「うん、キノコは捨ててこよう。あまりにも物珍しいものだから、つい集めてみたけど絶対いらないよな」
ゲームなどで、あらゆるものを集めたくなる気持ちはわかるが、この場合完全なる悪手だ。何を考えて全く役に立たないキノコなど集めてきたのか。自分でも何をしたいのかわからない。
ふと、森側から風が吹いてきた。
「ん、何のにおいだ?これ」
時は夕方になりかけ、日もだいぶ傾いてきた。心なしか空気も冷え、少し冷たく感じる風の中に、少しばかりの異臭を感じた。風向きが変わったのだ。
僅かとは言え、さすがに気になるので風上に足を向ける。小川がある方向とは、反対側の森の奥。
「こっち側はそこまで深く探索してなかったな。」
川から離れすぎると、戻ってくることが不可能になる可能性があるため、ある程度のところで引き返していた。
進むにつれて異臭は強くなっていく。
数十分は歩いただろうか、その臭いの正体がはっきりする。
「これは、血…か」
ある所を境に、異臭が血生臭さだと気づいた。認識した途端、歩みが止まった。
ここが少なくとも自分の知っている世界ではないことは、先の探索で確認済みだ。この先にいるのが果たして何なのか。ただの動物の死体?それともおぞましい何か、か。想像はいくらでもできる。
そして、いろいろなことが頭に浮かぶにつれ、次第に恐怖に染まっていく。
「落ち着け。何が出てこようともこの先にいる何かは手負い、もしくは死体だ。貴重な食料になるかもしれないんだ」
現状、これといった食料を入手していないため、彼はこのチャンスを逃すわけにはいかない。この先食料が手に入る保証もない。
探索で拾った牙を固く握りしめ、知らず知らずのうちに震えていた膝を手で押さえる。
「よし…行くか」
覚悟を決め、いまだ震えている足を踏み出す。においは着実に強くなっていった。
ついにたどり着いたのは大きな木。その手前の茂みから漂っている。そして、動物の荒い息づかいが聞こえてきた。