論理と感情の適合、そして百合
論理を限界本性とする事柄はともかく、その奥に言葉だけでは説明しきれない感覚的本性が座している事柄は一体どのように〈知る〉ことができようか。私の見る赤と他人の認識する赤が同じだと証明することはできない。赤は『情熱的な印象を起こす色』であるという補助を付け加えても、他人は私にとっての青に情熱的な印象を受けているかもしれない。そしてそれを赤だと信じているかもしれない。間違っているのはどちらか、はたまた一方が正しいなどという規定はありえないのか。
私は二十年生きてきて一度も恋愛感情を抱いたことがない。とはいうものの、それは本当だろうか。恋とは明らかに感覚的様態である。その認識を人々はどのように共有できているというのだろう? 恋の認識が人によってすれ違っているとしたら。実のところ、誰が恋をしていて、誰が恋をしていないのだろうか。さしあたり、私は一般的に〈靄の中で〉共有されている恋愛的平叙文に該当していそうな情念を抱いたことはない。
──というより、情念全般をあまり感じたことがない。
恐らく物心ついた頃からだった。目に映るもの全て線と記号だった。どんなに複雑そうな事情や理屈も、私の視界に入ればボロボロと論理分解されてしまう。苅り尽くされた論理の奥に稀に視える情念という鉱物の光を浴びることはあっても、それはすぐに詮無い暗がりに押し戻されてしまう。
論理は全て感情の使徒であるという本質を知ることができる能力が、かの論理に縛られ感情に遠視的になってしまう性質に由来するとは、皮肉にもほどがある。
『あの、前々から上下さんのこといいなって思ってて……良かったら俺と付き合ってくれませんか』
『断る』
断ったが、高校の頃、同じ学年の男子から告白された。上下というのは私の名前である。その相手には何の興味もなかった。ただ、絡んだことのない者から告白されたことによって、私は器量はいいのだとわかった。幼い頃から見飽きている自分の顔など、私のような理屈脳にとっては美醜の判断がし難いものだったのだ。見る限り部品も輪郭も整っているのは幾何学的に理解していたので、その男子という契機によって答え合わせができた感覚である。
『巡、せっかくこんなに成績いいんだからもっと上の学校行けるんじゃない?』
『めんどくさい』
巡というのも私の名前である。母は私の頭脳に──もっとも賢さにも多様な種類があるが、私は勉強方面にも強いのだ──漠然とした期待を抱いていた。具体的な希望ではなく、せっかく頭がいいのだから何か成せるんじゃないかという、単なるもったいなさがりである。そんな希望に応えて強引に目標を探す気はない。私は平凡な高校、大学へ進んだ。
それは期せずして、私にとり紀元前と西暦を分つよりも大きなパラダイムシフトを引き起こすことになるのであった。
大学で二年生に上がり少しした頃。校内の廊下を歩いていると、おむすびころりんよろしく、目の前を五円玉が車輪のように走って行くのが見えた。それを追う間抜けな声と足音が後ろから迫る。
「待てー、逃げるな私の五円~」
たかが五円なんて、とは思わなかった。重要なのは金額ではない。四二五円の買い物をしたとき、二五円分の小銭を持っていれば、七五円分もの鬱陶しいお釣りを受け取るはめにならずに済む。
まあ、もうすぐ私を追い抜く後ろの彼女がそこまで考えているのかは定かではないが。
「っ……とと」
その彼女が私の肩に衝突した。
「あはは、ご、ごめんなさい……」
彼女は黒髪に金メッシュを施し、チャラそうな服装に身を包んでいた。全体的に中性的な雰囲気だ。整った顔に申し訳なさげな笑みを浮かべて謝ると、再びおむすびを追いに行く。
「…………」
外見的特徴という皮相をかき分けた一瞬後には、見たこともないほどの光耀が解き放たれた。それはいつもの暗がりへと戻らない。間欠泉のように噴き出る情念は思考を麻痺させる。こんな感覚は生まれて初めてだ。
小説や漫画を鑑賞したときのような『内容を了解する→感受性に出会わせる→刺激される→すぐに冷める』という過程と違い、最後の工程は永遠にやってこない。三番目の工程にいつまででも立ち止まっていられる。いや、立ち止まるどころかどんどん三番目へ沈んでいく。
ふと、真横から何となく見覚えのある女に見つめられているのに気付いた。もしその女が、空中に浮く超能力が使える半透明の魔女でないなら、それは窓に映った私自身であるはずだ。この、二十年間見たこともない、戸惑いに戸惑った表情を赤く変色させている、さながら恋する乙女のような女が。
恋? …………なるほど、これがかの。確かに諸作品で見かける恋愛についての叙述に擦り合うように思える。
「………………!」
自覚すると一層皮膚の下で血が暴れる。駄目だ。じっとしていられない。
『あはは、ご、ごめんなさい……』
あれからあの顔が忘れられない。見たことのない娘だったけど、一年生だろうか。
もう、ほんとに駄目だ。布団の中でじたばたするなんてベタなことするくらいには。感性とはなんと気まぐれな仕組みでできてるんだ。この私がまさか一目惚れなんていう衝動的な事態に見舞われるとは。
さて、通常、人を好きになればその相手と交際したいと志向するはず。だがそれにあたり不安なのは、彼女とは女同士であること、すでに相手がいるかもしれないこと。そもそも赤の他人な彼女にどう接触して告白しろというんだ。
「以前あなたと一瞬会った、二年生の上下巡っていいます。単刀直入に言うと、私と付き合ってくれませんか」
あまりに単刀を直入れし過ぎた。いや、一応ひとけのない場所に呼んでのことだが。
直入れに踏み切ったのは、告白に際する必然的きっかけなど別にいらないと思い至ったからだ。一目惚れしたから告白する、他に余計な筋を入れる必要はない。
「…………お、おぉ……」
案の定金メッシュの彼女は戸惑っている。しかしそれも束の間で、すぐに残念な返事をよこした。
「……ごめんなさい、付き合うことはできません」
「女同士だからですか?」
「えー……と……」
その僅かな躊躇いが決定的となった。
「はい、その……私ノンケなので」
「嘘ですね」
「え」
私は共感性が鈍いので人の心理を読むのは苦手だが、論理的な不自然にはすぐ気付く。
「異性愛者だからという簡単な断り文句があるのに促されてもすぐに出さなかった。ということは、あなたは女を好きになれはするんですよね」
まさか異性愛者であろうという最大の懸念がこんなに簡単に消え去るとは。ただ、同時に、それにもかかわらずごめんなさいされたという新たな問題が生じた。私が好みでないのか、すでに付き合ってる人がいるのか……。
彼女はばつが悪そうに頭をかいた。
「はい、すいません嘘ついちゃいました。ぶっちゃけビアンです、はい。ただ……」
「ただ?」
「…………」
妙に間が空く。
やっと空気を振動させた言葉は私の心をも振動させた。
「私の中には怪物がいるんですよね。私と付き合った人は必ずこの怪物に襲われます」
「……? それは……どういう意味……?」
「とにかく、私に近づくと危険ってことです。私なんかと交際するなんて考えは捨てた方がいいです。それでは」
意味わからないことを言うだけ言って彼女は去ろうとする。私はその背中に声を投げた。
「待って! せめて名前ぐらい教えてください」
そんな漫画みたいな戯言で諦められると思うか。今後も接近を続けるためには少しでも彼女の情報は持っておきたい。
「……一年の霧野凛です。この名前を聞いたら全力で避けてください。あなたのためです」
今度こそ彼女は去って行った。
生憎私の貧弱な感受性では恐怖という感情が喚起されることなどほとんどない。ましてあんな、煙に巻くような馬鹿馬鹿しい言い分に怯えるなどありえない。
私はちょくちょく彼女へ絡むようになった。
「霧野さん、よ、よかったら一緒にお昼を……」
「ごめんなさい」
が、霧野は全くの脈なしだ。わざわざ講義の日程を合わせて(サボって)帰宅のタイミングを彼女に合わせてみてもご覧の通り。
「帰り何線? 総武本線なら私と──」
「すいません、私内房線なので」
そう言いつつこっそり総武本線に乗るのを見た。嘘をついてまで一緒に居たくないということか。
だんだん自分がストーカーのように思えてみた。恋愛とは不合理なものだ。折良く特定の相手と互いに好きになれる確率などごく低いように思える。
またある日、新たな手法か、霧野は妙な言動で私を拒んだ。
「上下さん……」
しばらく間を置いてから彼女は続けた。
「んーと…………。しつこいようですが私は──」
なぜかいちいち焦れったく間を空ける。
「何?」
「やっぱり上下さんとは付き合えないですよ。…………めっちゃ好みから外れてますし」
その言葉はまるで鈍器のような質量を持っていた。
「──……てことでさよなら!」
言い終えるといきなり霧野は颯爽と去って行く。なんなんだ。
「……」
教室に一人取り残された私は、ふと、教室に一人取り残されてはいないことに気がついた。もしかしたら。……今の彼女のしゃべりは明らかにおかしかった。いちいち長い間を挟んで。まるで誰かに監視されてて、暗号として別の言い分を隠したかのような……。
もしそうだとしたらこの場には一体何者が? 前に言ってた彼女の内なる怪物が具現化でもしたか?
背筋は別にぞわっとかしなかったが、危険な怪物か何かに危害を加えられるのは不都合だ。痛いのは嫌だし、病院に通うことになるのも面倒だし。
私は足早にその場を去った。
校舎を出ながら、霧野の発言の意味を考えてみた。ついさっきのことなので記憶からかなりの精度で復元することに成功した。そして……あまりに単純な思いつきだが、一応試してみようか。
長い空白で区切られた言葉たちの頭文字を取ると……。
『上下さん』『んーと』『しつこいようですが私は』『やっぱり上下さんとは付き合えないですよ』『めっちゃ好みから外れてますし』『てことでさよなら!』
”かんしやめて”
「監視やめて?」
「全く、傷付くよ」
これは私ではなく相手さんへの暗号だったのだろうかと思い至るのと同時に、背中に何かしらの鋭い先端があてがわれるのを感じた。反射的に振り向く。
私にしては珍しく、素早く感性が出しゃばって心臓がビクリと熱くなった。そこにいたのは能面をつけただけの普通の人間だ。いや、手に包丁を持っている。これは普通じゃないというか、かなり危ないやつじゃないだろうか。
服装や声からして女だろう。能面の彼女は私を木陰へ引っ張り込んだ。
「上下巡」
名前を知られている。
「これ以上私の凛に近づくな。今回は重症で済ませてやるが、もしまだあいつへ接触するなら遠慮な──」
「千歳」
私の前方、能面女の背後から霧野がやってくる。
「いい加減にしてくれるかな。そんなことすればするほど君のこと嫌いになってっちゃうよ?」
「凛……」
霧野は戸惑う私に視線を向けた。
「すいません上下さん、この人は元カノです。ぶっちゃけ何人もと付き合ってきたビッチな私にも問題はあるんですが、この娘、私の全ての元カノに危害を加える嫉妬深い危険人物なんですよ。……だから私には近づかないでって言ったのに……」
「なんだその物言いは」
千歳と呼ばれた能面女が能面越しに霧野を恐らく睨んでいる。
「私はただあんたを好きなだけなのに……」
「だからって平気で傷害罪犯せる人と付き合い続けられるわけないでせう」
霧野は千歳の能面をはぎ取った。出て来たのは色白でどこか儚げな美少女だった。
「それに私は浮気してたわけでもない。君が傷つけてきた娘はみんな私との縁が切れた赤の他人なんだよ?」
「それでも……私は……」
か弱い乙女にしか見えない表情で涙ぐむ千歳の手から霧野は素早く包丁を奪う。
「上下さん、行きましょう」
「え……う、うん……」
包丁を丁重にバッグにしまって歩き出す霧野についていく。千歳が追って来る気配はなかった。
大学を出てしばらく歩きひとけのない小さな道に入ったところで、霧野は話を始めた。
「さて……私があなたを振ったのはさっきの能面っ娘が原因なんですが、あの娘の邪魔がなければ巡さんと付き合いたいと思ってるんです」
今、下の名前で呼ばれた……とか思っている間に霧野はぐっと顔を近づけてきた。まただ。浮かれるような夢見心地とそれを締め付ける切なさ。なんと業の深い情念だろう。そりゃ場合によっては包丁も持ち出すわな。
待て、彼女は今私と付き合いたいと言ったのか?
霧野は急に興奮し出す。
「だって……巡さん、今まで付き合ったことないタイプだし! なんですかその、厳かな雰囲気とそれに似合わぬ初心な態度は!! ああぁぁぁこういう人を滅茶苦茶におかs……げほっ、かはっ」
「………………」
何むせてる。
「失礼、肺に水が……とにかくですよ」
彼女は私の顎をくいっとつまむ。迫られているようで鼓動の速度が上がる。
「巡さん。あなたを遠ざけてたのは心苦しかったんですよ」
「き……霧野さん」
「じっとして」
言うと霧野は、近い顔をさらに近づける。そして私に初めてのキスを経験させた。
「────っふふ。厳粛な表情が似合う上品な顔立ちが真っ赤にとろけてますよ」
「……年上をからかわないで」
口ではそう返したが、内心心地いい痛痒さのような感覚に刺激されていた。
何かこの爆薬のような心境を落ち着けるものはないか? 私はそんなものを探し、そして見つけた。
「あ、あの……さっきの千歳とかいう人はどうしよう?」
「ああ」
霧野は依然近距離を保ったままだ。
「あの娘ねー……高三のとき付き合ったんですけど、異常に私に執着してくるんですよね。私以上に他人を好きになるなんてことはありえないとまで断言して。それはまぁ正直照れたんですけども、なんで私以外誰も好きにならないなんていう変な予断下してまで私にこだわるのか意味わからんです」
「……」
特定の一人への執着。もしかしたら私と同じで、恋愛に疎い性質を持っているのかもしれない。だったら一度好きになれた相手を手放したくないというのは理解できる。嫉妬心から傷害罪に走るのは共感できないけど……。
「ま、いくらなんでもあと数ヶ月か数年もすれば忘れてくれるでしょ。改めて……巡さん、私と付き合いましょ?」
「あ……こ、こちらこそ、よろしく、霧野さん」
またまた心がのぼせ上がり、かっこ悪くどもってしまう。
「下の名前呼びでいいですよっ」
「っ…………ええと……凛……?」
「あはは、なんでちょっと疑問形っぽいんですか」
生意気にも凛は私の頭を撫でる。
このまま円満な大団円を迎えるのは簡単だ。でもまだ決着をつけたいことがある。
翌日、苗字も知らない千歳を下の学年からなんとか探し出し、校舎裏の目立たない場所に誘った。
「私と凛は付き合うことになったよ」
正直に、下の名前呼びをも見せつけて白状した。すると千歳はまたもや包丁をスラリと抜き出した。頭痛薬みたいな感覚でそんなもの常備するな。
「わざわざそんなこと自慢してくるなんて……こいつで裂かたいの?」
彼女は刃に劣らない鋭さを表情に落とし込む。やっぱり感情的だ。多分この娘は私とは逆に、感受性が高過ぎて凛に惚れ込んでしまい、嫉妬心が人一倍動かされて元カノたちへの凶行に手を染めたりしたんだろう。
契機は正反対であろうとも私たちは同じ人物に対し同じ体験をした。
共感性を教えてくれてありがとう、千歳。
「重症で済まずもし殺しちゃったらごめんねっ!!」
彼女は刃物を真っ直ぐに向けて突進してきた。私は避けず、両手で包丁を掴んで押さえた。
当然だが、手のひらや指の皮膚に線状の切れ目が生じ、痛覚が追従し、血が肉から解き放たれて地面を汚す。
その対応がよほど意外だったのか、千歳の表情を彩る激情は茫然とした虚ろに堕ちた。
追撃を受ける覚悟、千歳の服をも汚してしまう罪悪感を抱えながらも、私は彼女を抱き寄せた。両手のひらに鋭い痛みがビシビシと走るのも構わず、きつく抱く。
「ごめんね。君の気持ち、わかるよ。私は凛以外好きになったことないから」
優れた感受性にはこういう雰囲気がよく効くとは思うが、本心からこの娘に憐憫を感じている方の私は、奸計を弄する狡猾な方の私をジト目で睨め付ける。
千歳は大人しい。やがて、カランッという音がして、彼女が包丁を取り落としたことに気付いた。手ぶらになった彼女は両手で私を抱き返してくる。
憎んだ相手に心を明け渡して感情を吐き出せば一連の因縁への執着は綺麗に晴れてくれるだろう。
千歳の嗚咽を聞きながら、私は柄にも無く感傷的な気分に耽っていた。
さて、変なことになった。
あのあと千歳とは和解して連絡先も交換したのだが、翌朝目が覚めるとLINEに十件近くもの通知が届いているではないか。
『おはようございます! 巡さんって電車通いですか? 私総武本線なんですが』
『もしよかったら駅からでも一緒に大学行きませんか?』
『あ、ていうか講義のご予定はどんな感じですか? 行き帰りを御一緒したいので時間合わせますよ!』
『まだ就寝中でしょうか?』
『あ、もし凛と二人だけで行動したいなら身を引きますけど……』
『でも私はいつでも影から二人を見守りますよ!』
『でも、巡さんさえ良ければたまには私と二人で遊んでほしいなとか思ったり……』
『すみません、朝から長々とw 通知音で起きちゃったらごめんなさい』
「……………………」
英語圏人はkawaiiとkowaiの違いを上手く聞き取れないと聞いたことがある。両者は、音だけでなく内容も紙一重なのかもしれない。
すっかり懐かれてしまったものだ。私は寝癖頭をかきながら返信の言葉を考えた……。
完