猫は住処に落ち着いた。
それから、二時間程も経っただろうか。
何者かが由紀の前に立った。どうやら術衣を着ているらしい。おそらくは執刀をしてくれた担当医だろう、由紀は下を向いた顔を上げようとはしなかった。何しろジュンの事を聞かれても答えようがないのだ。
「・・・手術、無事に終わりましたよ。間もなく目も覚めると思います。」
医師が丁寧に声を掛けた。
「・・・そうですか・・有難うございます・・・。」
由紀はまだ下を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。だが、医師は由紀の前から立ち去ろうとはせず、しばらく何も言わずに立っていた。
“コイツ・・何をしてるんだ?早く行けよ!”
由紀が焦りを感じだした時、その医師はやっと口を開いた。
「・・・ジュンを、未来の僕の妹を助けてくれて有難う。感謝するよ。」
何処かで聞き覚えのある高音だった。その声に思い当たるフシを感じ、“まさか!”と由紀は顔を上げて、医師の顔を見た。
「げっ!!お、・・・お前っ!カマ太・・」
「ちょっ、ちょっ、ちょっい待ち!ここではそれは禁句!一応、ここでは僕は表の顔があるんだからさ。」
由紀の想像通り、声の主はシマだった。シマは慌てて由紀の口を塞ぐマネをした。
「おっ、お前、医者だったのかよ!」
由紀は思わず席から立ち上がり、小声でシマに迫った。
「それに何だよ、その“未来の妹”ってのは?親戚にしても微妙に遠いスタンスだぞ?」
「まぁまぁ、・・落ち着いてさ。まず座ってよ。順序立てて話すからさ。」
シマは由紀をなだめ、椅子に座るよう促すと、自分もその横に腰掛けた。
「・・ジュンからはどの程度聞いてる?つまり、身の上話をさ。・・・そうか、よほどユキさんを信頼したんだな、ジュンは。・・そこまで話したのか・・。」
シマは大きなため息を一つ、ついた。
「ユキさんはジュンを助けてくれたんだし、ジュンもユキさんを信頼している。僕もユキさんは信頼できる人だと思うから、思い切って打ち明けるんだけど・・・ここからの話は決して口外禁止、という事で聞いて欲しい。いいかな?」
シマの真面目な顔、というのを由紀は初めて見たと、シマの問いかけに軽く頷きながら、そう思った。
「・・ジュンの母親は元はとてもいい人だったんだ。でもね、いい人過ぎたのかも知れない。きっとね。・・結婚した時に色々あってらしくてさ、親戚付き合いをシャットアウトされてたんだよ。その後結局、離婚することになっても周りは冷たかった。僕の母親、つまりジュンから見れば叔母に当たるんだが・・だけが、こっそりと連絡をしていたらしい。お金を送ったりてしね。」
待合室は空調も切られていて、段々と底冷えがしてくるようだった。
「・・・ジュンの母親が変わってしまった理由だけど・・どういう経緯でそうなったのかは知らない。母も知らないと言っていた。だが、事情はどうあれ、ジュンの母親は・・コレに手を出してしまったんだ。」
そういうと、シマは自分の左手の肘の内側に、注射器を当てるマネをしてみせた。・・つまり麻薬、という意味だと由紀は悟った。
「・・アレは習慣性が強いからね。一度使うと二度と逃げられない。恐ろしい毒さ。そして身体だけでなく、終いには人格さえも食い尽くされてしまうんだ。・・彼女はついに自分の娘さえも、傷つけてしまったんだ。ジュンは何も言わなかったかもしれないが、肩口には包丁の切り跡が微かにだけど残ってるはずだ。・・そしてジュンが逃げ出してから、彼女は自分の仕出かした事の大きさに気づいたんだ。そして泣きながら僕の母のところに電話をしてきたんだ。“自分はもうダメだ、娘を頼む”って。それで僕の母が大慌てでジュンを探しだして、自分のアパートに保護したんだ。偶然なんかじゃぁない。僕の母は・・“大家のおばさん”は必死にジュンを探し出したんだ。・・・ジュンの母親は今、警察病院に居る。薬を抜くことと、己の罪を償うために。だけど彼女の前科は決して消えない。このままではジュンは一生涯、前科者の子供というレッテルを貼られる。それを避けるために、あえて、僕の母はジュンに自分の素性を隠して住まわせているんだ。やがて時期を見て、ジュンにきちんと話をしたうえで、正式に我が家で引き取るためにね。・・けど、事情を知らないジュンがバイトをする、って言いだした。そこでお目付け役として、僕があの事務所に出入りするとこになったのさ。・・・大体、分かってくれたかな・・?」
「わ、・・・わかったけどさ・・。」
由紀は頭の中が混乱していた。
「・・そんな事情があったんなら、もっと早くに言ってよ。そしたらあたしも、もっとジュンのために色々としてあげたのにさ。」
とりあえずシマに反撃する材料はこれくらいしかなかった。強気を保たないと、泣き出してしまいそうだった。
「ごめん。・・実はさ、この前無理やり呼び出したのは、この件だったんだ。ジュンに知られずにユキさんを引っ張り出すにはアレしかなかったんだ。申し訳ない。正直言うとね、今の僕はインターンの仕事で夜勤の当直が多いんだ。だから、事務所に顔を出す機会が減っちゃっててね・・で、事情を話して僕の代わりにジュンを見守ってくれるよう、頼みたかったんだ。」
「・・・・。」
何も言えなかった。由紀はそれを、ムゲに蹴って帰ってしまったからだ。
“・・くそっ・・泣きそうじゃんかよっ!こんなヤツに涙なんか、見せてたまるものか・・”
由紀は一息入れて、話題を変えた。
「そ、そうそう、大変なのよ!ミキさんが警察に捕まったの。で、警察が事務所に来るって言い出したもんで、加護さんがあたしとジュンを逃がしてくれたの。」
「えっ!ミキさんがっ!」
シマも驚いていた。が、ふぅ、と息をつくと再び冷静な顔に戻った。
「・・・そうか。じゃぁ、あの事務所もしばらく・・てゆうか、もうダメだな。何か考えないと・・。ま、ミキさんの事は心配はいらないと思うよ。搾られかもだろうけど、すぐに釈放されるさ。」
シマは別に由美を慰めるために楽観的に言っているのではなさそうだった。
「どうしてさ?それこそ、裁判とかにならないの?」
「なる筈ないさ。大体、罪に問えないもの。」
「・・・意味、分かんないわよ。」
「だからさ、売春の禁止ってのは“男”が“女”を金で買ってはいけないっていう法律だろ?」
「・・・えっ?・・・ってまさか・・・。」
唖然とする由紀にシマは当然そうに答えた。
「あれっ?知らなかったの?ミキさんは“男”だよ?」
それで合点がいった。何故ミキさんが出会い系サイトなぞで相手を探していたのか。相手が特殊な趣味の持ち主でなければいけなかったからなのだ。そういえば加護の運営するサイトの一つにソレ専門のサイトがあった。“こんなモノ、どうするのだろう”と不思議だったが、ミキさんが使っていたのだ。
「ど、どうしてお前がそれを知ってるんだよ?」
「どうして・・・って言われても・・。」
シマはやや困惑した表情を浮かべた。
「・・喉仏が出てただろ?・・確かに事務所もあんまり明るくなかったから、見難かったかもしらないし、僕は外科医だから眼に付いたのもしれないけどさ。」
“何て、こった・・・”
何も知らなかったのは、自分だけだった。多分、ジュンも加護さんも知っていたに違いない。今思えばジュン達の言葉の端々にそれらしい気遣いがあった。
「まぁ、いいじゃないか。だからこそ助かったとも言えるし。こーゆーのを“ゲイは身を助ける”っていうのかな?はははは・・。」
“こ、このオヤジめ・・・”
由紀はシマの顔をムスッとして睨んだ。
「はは・・スベった、かな?」
「やかましい。さっきの話を聞いて、例え一瞬でもお前の事を見直そうとした自分の愚かさに腹が立っただけだ!」
フン!と横を向いて黙ったまま座り込む由紀の近くを誰かが通りかかった。若い女性のようだった。
「・・あれ?・・そこに居るのって・・由紀じゃない?」
由紀はまた、慌てて顔をあげ、声のする方を探した。・・それは、よりによって友達の真紀だった。
「まっ、真紀じゃない!どうしたのさ、こんな所で!」
「ウチの親が胆石で緊急入院でさぁ~・・今日明日は泊まりなのよ。」
呆れた顔をして真紀が答える。そして、由紀の隣に座っているシマを見つけて、“おや”という表情をした。どうみても唯のつきそいと医者という関係の雰囲気ではない。シマも真紀の不思議そうな顔に気が付いたらしい。
「・・やぁ、お友達?真紀さんってゆうの?親御さん大変だね。」
シマがあの人懐っこい顔を見せた。けど、それは時と場合によるのだ、と由紀はシマを思い切り蹴りたくなった。
“馬鹿やろうっ!このシュチュエーションでお前がそんな口を聞いたら、真紀がどう思うのか分かるだろうがよっ!”
案の定、真紀はすんなりと誤解をしてくれたようだ。
「へぇぇぇ・・・由紀も隅におけないじゃん・・。遂にお医者さんゲットってワケね。」
「や、そ、そんなじゃなくて・・」
「いいの、いいの。だけど黙ってって、相談には乗れないわね。今から皆にSNSで報告しなきゃ。じゃ、お邪魔でしょうから、私はこれで失礼しまぁ~す。」
真紀は意気揚々と引き上げていった。
「・・おいっ!どうしてくれるんだ!誤解されただろうが!」
シマの術衣を由紀が掴んだ。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ。放してよ、苦しいって。でもさ、仕方ないじゃん。今までの事全部説明するの?できないじゃん。でしょ?」
「うるさい!後で何かあっても責任は取れるんだろうなっ?」
「分かった、分かったって。そう、凄みなさんなって。それより、一つ頼みを聞いて欲しいんだ。・・・ジュンを、預かってくれないか?」
シマは先ほどまでの真面目な顔に戻っていた。
「預かる?あたしが?」
「そう。さっきも言ったけど、僕は本業の方が忙しくてさ。もうこれ以上は中々とジュンの後見人をしてやれそうにないんだ。だからユミさんの所で預かって貰って面倒を見てやって欲しいんだ。と、言っても家事一般はそんじょそこらの若いコよりもよっぽど役に立つし、料理の腕もかなりのものらしい。僕は食べたことないけどね。けど、加護さんのところはもう多分ダメだから、ジュンはまた別のバイトを探すと思うんだ。だけど今度は日の当たる場所へ出してやりたい。もう危険なマネはさせたくないんだ。そのためにユキさんに付いてて欲しいんだ。それにジュンが夜のバイトをしているのは一人で寂しいからなんだ。つまり、話相手にもなってやって欲しいんだ。・・・あつかましいけど。」
「お前・・ホントに、あつかましいな。あたしが引き受けなきゃぁならない理由があるとでも言うのかよ?」
「いや、無いケドさ。でも、ここまで深くジュンの身の上に関与して、いきなり他人には戻れない、だろ?」
「う・・・そりゃ、見捨てるつもりは・・ナイけども・・。」
「だろ!それにジュンがユキさんの事を“自分は一人っ子だけど、ユキさんみたいなお姉ちゃんがいたらいいな”って言ってたし。頼む!ジュンのために!」
シマは両手を合わせ、拝むようなポーズをした。
「く・・・頭上げろよ。あたしは生きてんだから、仏様みたいに拝まれたかぁないよ。」
「引き受けて・・・くれる?」
シマがおそるおそる聞く。
「・・・はぁ・・仕方ないな。これも何かの縁だ、やってやるよ。・・ジュンにはお前から上手く説明しするんだろうな?それと、ちゃんとフォローだけしろよな。後は知らん、ってのはナシだぞ?」
「有難うっ!恩に着るよっ!」
シマは再び、由紀を拝んだ。
ジュンが退院したのはそれから一週間後だった。そのまま由紀の部屋に移り、身体の回復を待って一ヶ月後にジュンの元居たアパートを引き払った。
共同生活となると、部屋の模様替えもしなくてはならない。二人はああだこうだと言いながらバタバタと片付けをしていた。いや、正確には三人だった。シマも手伝いに来ていたのだ。
「・・そういえば昨日ミキさんに病院で会ったよ。」
シマが突然、思い出したように由紀に言う。
「インフルエンザだってさ。ヘバってたよ。」
「・・あの後って良かったのかなぁ?」
由紀はあれきり顔を見ていないミキさんが気がかりだった。
「あぁ、良かったみたいだよ。でも、もう街には出ないってさ。夜風がキツイからって笑ってたけど、自分のせいで皆に迷惑が掛かったって随分気にしてたから、多分そのせいだと思う。」
「・・・そう・・。」
脚を洗うのはいいとしても、他の職についてやっていけるのだうか?由紀は複雑な気分になった。どう考えてもあれはミキさんにとっては天職のような気がする。カタギの仕事が合うとは思えない。
「で、さ。その代わりに“そっち専門”のバーで働いてるんだって。ミキさん貫禄もあるし、初日から十年も居るみたいだって“ママさん”に言われたって。流石だよね。あの人はお上手が苦手だからあういうのは向いてないと思ってたけども、案外にお客のウケがいいんだって。ミキさん自慢していたよ。」
やはり・・・、と由紀は思った。こんな事でヘコむ人では無かった。なるほど、とりあえず警察に捕まる心配も夜風で冷たい思いをする事も無くなったワケだ。
「・・ねぇ、ねぇお姉ちゃん。」
台所で片付けをしていたジュンが由紀の処にやってきた。
「お姉ちゃん、タバコ止めたの?」
「えっ?・・何で?」
「だって、燃えないゴミの袋の中に吸殻入れが入ってるのが見えたもん。」
「あぁ・・アレね・・。うん、何か、もう吸おうって気にならなくなってさ・・。もともとタバコと心中する気はないしね。・・・ねっ、それよりさ、一段落ついたとこで皆で買い物に行かない?お昼にジュンご自慢のカルボナーラをご馳走してくれるって話でしょ?材料を買いにいかなくちゃ!」
外の日差しは、次の春の訪れを先取りしているかのように、眩しかった。
完