猫は風雲急を告げる。
次の日とその次の日、由紀はアパートの自室に引きこもっていた。ジュンも風邪だと言っていたが、由紀もどうやらうつされたらしい。それと、どっと気が抜けて抵抗力が低下したのとが重なったのだろう。主に夜間のバイトでもあるし、知らず知らずの内に疲れも溜まっていたのかも知れない。体温計は三十七度台をウロウロしていたし、和美達からも心配するメールが何件か入っていたが、適当に返事を返すのがやっとだった。
三日目になって、ようやく動けるようになったので、外に出てみることにした。とりあえず、この二日ばかりはほとんど何も食べていなかったので、コンビニで食料を調達する必要もあった。
そうだ、ジュンはどうしているだろう?
由紀はふと、そう思った。大家のおばさんは親切な人らしいから、面倒は見て貰っているかも知れないが、ジュンの性格からして調子の悪いのを黙っている可能性もある。
事務所を覗いてみるか・・・。
由紀はまだフラフラする足取りのまま、バイト先の事務所に向かった。
案の定、事務所にジュンは居た。
「・・ジュン、風邪大丈夫なの?」
由紀の問いかけにジュンはへへ、と笑って見せた。
「うん。大したコトは無かったみたい。一昨日は休んだけど。・・それより、ユキさんの方が具合悪そうだけど、いいの?」
心配そうにジュンが由紀の顔を覗き込む。
「・・そうね、まだフラつくの。トシかなぁ、直りの悪いの。ま、とりあえず今日はジュンの大丈夫そうな顔が見れたから。」
中を見渡したが、今日はミキさんもカマ太郎の居なかった。
「・・今日って一人?」
「うん。後は加護さんだけ。」
誰か他に居ればジュンを任せて帰ろうか、とも思ったが一人で放っておくのもどうか、と思う。由紀がとうしようか、と考えていると、奥で加護が誰かと電話をしている声が聞こえた。
加護はコードレスの受話器を持ったまま、由紀たちの方に歩いてきた。その表情は何時に無く厳しかった。
「・・・そうねぇ・・・ま、想像は付くと思いますがね。ウチらも仲間ウチじゃぁ本名なんぞでお互いを呼ぶことなぞ、せんのですわ・・。ハンドルネームって言うか、まぁ渾名とでもいいますか・・だもんで、その人がウチに関係あるか、と言われててもねぇ・・よう、分からんのですわ。」
加護は受話器を片手に持ったまま、走り書きをしたメモ用紙を由紀とジュンに“見ろ”という仕草をした。
“ヤバイ、ミキさんがケーサツに捕まった!ケーサツが確認をとるためにココに来る!ユキさん頼む、ジュンを連れてスグに逃げてくれ!!”
“ついにこの時がきたか・・”由紀はギョッとして唾を飲んだ。ヤバイ橋だと頭では分かっていても、バイトを続けるうちにこれが当たり前の世界になっていた。だが、やはり一つ間違えば、こうゆう事態になるのだ。
「・・・写真を見れば分かるかって?ま、そりゃぁねぇ・・。でも化粧とか服装が違ってたり、写真の写り加減もあるしねぇ・・。えっ?ここの場所?そうねぇ・・。」
慌ててジュンの荷物を抱え込む由紀に、加護は片手で拝むような格好をした。
“ジュンを頼む”
そういう風に見えた。
由紀は加護の方を向いて、無言のまま大きく一つ頷くと、ジュンの手を取り、事務所を飛び出した。
「・・・はぁはぁ・・。とりあえず、ここまで来れば・・。」
由紀は自分が風邪を引いている事なぞすっかり忘れてジュンとともに走った。だが、風邪のせいで由紀の肺活量は確実に落ちていた。そのために、脚を止めた後の疲労感はただ事では無かった。
ジュンもへたり込み、下を向いたまま肩で大きく息をしていた。
「・・ミキさんの事なら・・大丈夫よ。きっと。うまく・・切り抜けるに・・ジュン・・?・・ジュン・・?どうしたの・・?」
ジュンの様子が変だった。単なる疲れや風邪のせいではない。片方のお腹を抱えたまま、うずくまっている。
「・・・・・。」
口が微かに動き、何か言いたそうだが、痛みのせいなのか声が出ていないのだ。
“これは・・・”
由紀は青ざめた。自分にも数年前に同じ症状が出て緊急入院したことがある。思い違いでなければ、これは盲腸だと、直感した。
「ジュン!頑張って!すぐに病院に連れていってあげるから!それまでの辛抱よ!」
外はめっきり暗くなってはいるものの、まだそんなに遅い時間じゃない。タクシーも近くに居るハズ。由紀はジュンを背負うと、自分の風邪の事なぞ完全に忘れて再び走り始めた。
「あっ!居た!タクシーっ!」
暗闇に光る行灯へ向かって、由紀は思いっきり手を振った。
「どちら・・・って急病かい?そりゃいかん!分かった、市民病院ならすぐ近くだ。飛ばすからよ。しっかり捕まってなよ。」
タクシーの運転手はそれこそ全速力で病院に向かってくれたので、それから十分足らずでジュンを病院に搬送することができた。
病院に着くと、ベテランの看護婦はジュンの様子を一目見て盲腸を悟った。
「一寸待っててね。先生に連絡を取るから。」
バダバタと出て行ったかと思うと、その看護婦は意外にすぐ戻ってきた。
「いいわ。何とかなる。当直の先生がやれるそうだから。」
大病院の当直で外科医、となればまず院長クラスや外科医部長が居る筈はない。おそらくはインターンだろう。だが、贅沢は言ってられない。
「・・・お願いします。」
由紀は頭を下げて、ベットに乗せられるジュンを見送った。
日曜日の夜という事もあり、病院も待合室は電気も消えて薄暗く、時折看護婦が足早に通り過ぎる他には誰も姿を現さなかった。由紀は一人でポツリと、長椅子に腰掛けて下を向いていた。さっきの看護婦からは“とりあえず痛み止め打ってから、検査して手術だから、時間かかるわよ”と言われていた。だが、ジュンの“大家のおばさん”に連絡を取りたくても、それはジュンしか知らないのだから、結局はジュンの意識が回復して喋れるようになるのを待つしかないのだ。
“ま、どーせ家に戻っても、待ってるヤツが居るでなし・・。”
由紀はそのままじっと待つことにした。