野良猫にだって事情はある
「もしもジュンが答えてもいい、と思うんだったら、でいいんだけど。教えてくれない?」
「・・何?」
「こんな事聞くのはルール違反だって重々承知しているんだけど、どうしても聞きたいの。・・ジュンって小学生でしょ?・・どうして、こんな事しているの?」
「あぁ、そういうコト?」
ジュンは意外なほど、明るく答えた。
「もっと、早くに聞いてくるかってと思ってたケド。・・いいよ、教えてあげる。でも、その代わりにユキさんの事も教えてくれる?」
「えっ?あたし?いや、別にいいけど・・でも、あたしはそんな大した理由とか、ないよ?それでもいい?」
ひょっとして怒られるか泣かれるか、と半分覚悟していただけに、由紀としてはやや拍子抜けだった。
「うん。いいよ。ジュンには色んな人の話って、面白いの。ここに居ると学校じゃ、絶対に聞けない話が聞けるのも楽しみの一つだから。・・あのね・・」
ジュンの話は由紀の想像を超える壮絶なものだった。
ジュンは元々母子家庭で育ったらしい。兄弟はいなく、自分と母親の二人で暮らしていた。また、親戚も居るという話を聞いたことがないそうだ。ジュンが今よりも更に幼い頃は母親も優しい人だったらしい。しかし、1年程前から様子がおかしくなり、次第にジュンに辛く当たり始めた。更に半年程経ってからは食事の支度もしなくなり、仕事にも行かなくなったので、ジュンは心配して“体調が悪いのか?”というような事を尋ねた処、何を思ったのか母親が突然暴れだして包丁まで振り回しだしたと言う。ジュンは身の危険を感じ、慌てて玄関にあったランドセルだけを抱えて家を飛び出したのだそうだ。その後、途方に暮れていたジュンを今住んでいるアパートの“大家のおばさん”が偶然見つけ、自分の経営するアパートに連れてきたそうだ。
大家のおばさんはジュンの住む部屋の家賃はもとより、学費や食事の支度も引き受けてやる、と言ってくれたらしい。しかしジュンはそれを良しとせず、バイトでお金を稼ぐ道を選んだ。と、いっても正規のバイトでは小学生なぞ雇ってくれる筈もなく、また何かの拍子で母親と顔を合わせる事になるのだけは避けたい、という思いから年齢と時間を問われず、且つ顔を出す必要のない今のバイトに決めた、という事情だそうだ。
「・・・そう・・ゴメンね。ヘンなコト聞いちゃって。」
「ううん、いいの。ユキさんも優しい人だから心配してくれてるんだって、ジュン思うから。」
ジュンは大きく、顔を横に振った。
「・・ご飯とかは?コンビニとかで買うの?」
「うん、そうする事もあるケド、いつもは自分で作ってる。お母さんはずっと働いてたから、ジュンは昔からご飯を手伝ってたし。家事で困ることはないよ。」
ここ最近、お茶すらコンビニに頼る自分からすれば遥かにジュンの方が偉いに違いない。由紀は少し恥かしくなった。
ガチャリ、と玄関でドアの開く音がした。
「よぉ、元気ィ?」
それまでの、しんみりとした空気をまるで無視したかのように“カマ太郎”シマが入ってきたのだ。
「どーしたのさ?そんな、葬式帰りみたいなカオしてさ。さぁさぁ、今日も張り気ってくぞぉ!」
何をどう、張り切るのか知らないが、カマ太郎だけはいつも元気だ。コイツだけは何でココに居るのか、ジュンに聞いても良く知らないらしい。
「・・やれやれ、今日はサッパリだわ・・。」
カマ太郎に続いてミキさんも入ってきた。
ミキさんはドカっと椅子に身体を預けると、誰に言うでもなしに小声で呟いた。
「・・菊花賞もダメだったし・・。」
ため息をつくミキさんに、由紀は思わず合いの手を入れた。
「サツキモンブランですよね?ダービー二着だったし、追い切りもイイって評判だったから、あたしも行くかなと思ったんですけどね・・。」
「あら、アンタ競馬やるの?」
ミキさんが“へぇ、意外”という表情をした。これまで由紀には見せた事のない顔だった。
「えぇ、まぁ・・元カレがハマってたんで多少、その影響を・・。」
ここでは自分を飾る必要がないのかも知れない。由紀は思った。
「何言ってんのさ。それだけ専門用語が出ればリッパなモンよ。・・まぁ騎手が浜川に乗り代わるって聞いた時にはヤな予感してたんだけどね。で、アンタも買ったの?」
「いえ、今回は・・直前の単勝オッズが三.五倍位だったですよね?元カレが言うには“単勝が三倍超えるレースは絶対荒れるから人気馬には手をだすな”だそうなんです。と、いうわけで・・。」
「手控えた、と。賢いわ、それ。いいわねぇ、そういう彼氏が私も欲しいわ。・・アタシもそれ位に割り切れればいいんだケドねぇ・・。競馬場に行ってさ、カンの冴える日とそうでない日があるのよ。でも冴えない日で今日はスルなと分かっていても、・・買わないと何んかソンした気分になっちゃうのよねぇ・・。」
ミキさんはそう言ってまた一つ大きなため息をつくと、タバコを手にベランダに出て行った。
「ミキさん、ユキさんのコト、気に入ったみたい。」
ジュンが小声で囁いた。
「え?どうして?」
由紀が聞き返すとジュンは由紀の耳に両手を当て、更に小声で言った。
「だってミキさんがあんなにイッパイ一度に喋るの、ジュン初めて聞いたの。気に入った証拠だよ、多分。」
あれで喋った方であるとするならば、四六時中喋り放しの自分の仲間達なんぞ、ミキさんの眼からみればきっと、異次元の生物に映るに違いなかろう。
隣ではカマ太郎が例によって受話器を耳に当てようとしていた。
「げっ!やべっ!」
由紀は慌ててポケットから耳栓を取り出した。ジュンではないが、最近はあの“オンナ声”を聞くと、どうしても吹き出してしまいそうになるのだ。慣れてきたのかも知れない。それに“笑うな”と言われた時ほど単純な事でも大笑いをしそうになるものだ。
ジュンはすでに椅子から降りて声を殺して笑う準備をしていた。