第六章
「時間は確かだ」という言葉がある。
でも本当にそうだろうか。掻き乱そうにも手段を知らないだけで、もし分かってしまったら大変なのではないだろうか。
歴史は誰かの思い通りに作り変えられ、いつしか収集がつかなくなる。
そうしたらどうなるのだろう。
そんなどうしようもないことを考えて、時々眠れないほど怖くなる。
◆
「北原さ、あの日なんかあったでしょ」
唐突に切り出したのは前席の西山翔だった。鈍いと思っていたから驚いた。
「なんでそう思うの?」
先日の事故で私の高校は異例の休校措置を取った。事故のあった芒原駅を登校に利用する生徒が多いためだ。
今日になってやっと措置が解かれ、久々に登校できた私達は普段通り授業を受けていたはずだった。それがどうしてこんな話になったのか。
「あの日はいろいろな電車が止まってたから、多くの人が遅れて来たんだ。一限の前には休校が発表されたから、間に合わずに最後まで来なかった人もいる。
僕はぎりぎりで間に合って教室にいた。だから誰が最後まで来なかったか知ってる。その中に北原がいた」
翔とは幼馴染で、一緒の高校に入れた時は素直に嬉しかった。
子供の頃から純粋な性格をしていた記憶があるのでもっと勘が鈍い奴だと思っていたのに、今日のこの鋭さは何なのか。
「おかしいと思ったんだ。毎朝北原は僕より十五分早い電車に乗る。でも、僕が学校に着いた時は後ろの席には誰も座ってなかった。朝、岸良駅を出る電車で学校に間に合うのは、『芝旗線・碕枷行』の二本しかない。早い方には乗ってなかったはず。でも、遅い方にも乗ってなかった」
「どうして分かるの?」
自分が遅い方の電車に乗って来たのだから早い電車には乗っていないと考えるのは当然として、なぜ遅い方の電車にも乗っていないと分かったのか。
「三号車に乗ってたから。北原はいつも三号車でしょ?」
そうだっただろうか。いつもホームのエスカレーターの近くから乗り込んでいるのであまりピンと来ない。しかし思い返してみれば、確かにあそこは三号車かもしれない。
「……なんで知ってるの?」
何となく恐る恐る尋ねる。まさか毎日見ていたのではあるまい。
「偶々見てただけだよ、偶々。……嫌だなあ、そんなに怖がらないでよ。別に毎日監視してるわけじゃないって。単に遅刻するのが珍しかったっていうのもあるし」
確かに中学時代から無遅刻無欠席は私の自慢の一つだった。
翔の言葉に胸を撫で下ろしかけたものの、監視という言葉が引っかかる。毎日ではなくとも、偶には誰かを監視するのだろうか。こいつは。
爽やかに見えていた笑顔の裏が怖い。
幼馴染に対する認識を改めつつ、例の体験について思い返す。
あの非現実的な体験は、それまで平和に暮らしてきた私にとって、白い半紙に垂れた一滴の墨汁のようにどこか不吉なものに思えた。
その一点さえ隠し通せば何事もなかったように過ごすことができるような気がして、他言を躊躇ってはいた。しかし絶対に隠し通さなければならない理由が特にある訳でもなく、聞かれた質問には素直に回答する。
「巻き込まれたの。事故に」
「やっぱり、そうだったんだね」
「うん」
食いついて来た翔にあらましを語った。
「そんな事があったのか。……良かった。北原が犠牲者一名にならなくて」
「一応、ありがとう。心配してくれて」
「いや別に。それは何でもないよ」
案外素っ気なく返された。
普段は鈍い奴が妙に鋭いことを言うものだから、胸がざわついてしまった。
会話を打ち切るとやっと授業の内容が耳に入ってきた。
「……えぇと、どこまで読んだんだっけ。ああここか。そうそうこの頃はね、自分の子だとか人の子だとか、僕らにとってあんまり関係無かったんだよ。隣近所の人たちは、今よりも協力し合って、近所の子を自分の子供みたいに叱ったものだったよ。ーーーまあ、今の世代の君たちにはちょっと想像がつかないかも知れないねえ」
現代文の担当は樋口という教師だ。
その話は相変わらず、授業とは関係のない昔語りに終始している。曰く、「昔は良かった」。とにかく何でも古くからあるものの方が良い。彼の中では最初から理屈抜きにそう決まっているのだ。
年寄りにありがちな、思考の凝り固まった懐古主義。樋口という人間に関する生徒達の総論は入学当初からそれに尽きた。
「頭かってーよな。そんな話ばっかしてどうすんだっての」
「さあ。まあ、年寄りだし」
「割と冷たいよなお前。事実だけど」
近くの席の会話が耳に入った。今日も樋口の話はあまり評判が良くないようだ。
樋口は授業中に教卓の側を一度も離れないため、何か悪事を働いてもばれる心配が少ない。そのため教室はちょっとした無法地帯と化している。
「見ろよあいつ、スマホやってるぞ」
「平気じゃない? 樋口だし」
声のした方を見やると教卓の側で携帯をいじっている生徒がいる。同時に机の中の私の携帯がブルブルと震えた。
「あ、通知来てる」
翔の呟きを聞き流しつつ起動すると、トークアプリに通知が来ていた。クラスのグループへの通知で、例の事故で死んだ生徒が実はいるだのいないだの、と言った下らない内容だった。しかし退屈している生徒が多かったのか、授業中にもかかわらず通知は次々に更新されて行き、携帯は電話の着信のように絶えずブルブルと震え続けた。
ためにならず、テストの役にも立たない、退屈な樋口の話を真面目に聞く気にはなれないが、周りの人々のように思い切りはっちゃける勇気もない。
離れた場所で静観するのが当面のスタイルであり、なんだかんだで静かに授業を聞いているのは私と翔くらいのものだった。教室全体は相変わらず喧騒に包まれている。
「うるさいっ、いつまで喋ってる!」
唐突に樋口が怒鳴った。あの人の琴線は何処にあるのかいまいち把握しづらい。
「……すいません」
クラスの中でも取り分け騒がしい数人が謝罪する。
「全く、お前らがこんなんだから今の時代はおかしいんだ! 地域の絆もご近所付き合いもないくせに、ネットはあるわ、スマホはあるわ、クソみたいなお前らは居るわ……こんな時代に、皆一体どんな希望を見出すんだかねえ」
樋口は口が悪いため、言ってはいけないようなこともさらっと口にしてしまう。これが義務教育だったら一発でアウトだろう。
「……クッソうるせえ。そんなに言うなら今すぐ昔に戻して見ろっつーの」
「無理なんでしょ。だからここで愚痴ってんじゃん」
怒りの矛先を向けられた数人が小馬鹿にするように笑う。
「……あんな奴、いつの時代にもいたんだろうな」
「まあね」
「気がついたら、自分も同じこと言うようになってんだろうなー。ああ言うの」
嫌だ嫌だ、と一人が他人事のように首を振る。
教室全体の空気は概ね彼らに同調しているようだ。
「———ちょっと今のはミスったね。敵作りすぎて心配だよ、あの爺さん」
翔が小声で囁く。……言葉に反して顔が笑っているのは一体なぜなのか。
「うるさい! 誰だ今喋ってた奴は! ……北原っ、まさかお前か!」
「いえ、僕です」
「———西山か! 全く、お前達は教師を舐めすぎだ! 向こうで立ってろ!」
「すみません……分かりました」
「……さっきはちょっと巻き込みかけてごめん」
去り際私にそう言うと、翔は教室の後ろへ向かった。
「……何あれ、樋口ひどくない?」
「西山心配してくれてんじゃん」
「もうそんな価値すらないわ、あいつ」
今のやり取りで樋口は更に敵を増やしたようだ。
哀れ樋口。
時代は変われど、いつの時代も人は一人きり。それだけは揺るがない事実のようだ。




