プロローグ
この丘を登り始めてから、どれくらい時間が経っただろう。
足元に注意して登ってきた結果、青々と茂る草と、それらを踏み分ける自分の足しかまだ見られていない。例外に時折、頂上までの道のりを確かめたくらいだ。
だが、やはり実際には結構な距離があり、さっきの場所からちっとも進んだ気がしない。
やはり無理か、と諦めかけた時だった。
不意に視界が開け、はっとする。
眼下に広がるのは見知らぬ街の風景だった。
遮るものがないので風が強い。
飛ばされないよう、ぐっと両足を踏ん張る。
……うまくやらなきゃ。
胸の中で期待と不安がせめぎ合う。
これからこの街で暮らし始めるのだ。
地図を取り出し、目の前の景色と見比べる。
右手前に見えているのが最寄りの岸良駅で、薄紫のラインが入った電車が停車しているところだ。
その先に上岸・湾岸長島・芒原・神明と続き、最後は終点の碕枷に辿り着く。
線路のずっと遠くには海が見えるはずだが、この丘からはとてもそこまで見通せない。
せいぜい岸良と上岸の間が限界だ。
停車していた列車がゆっくりと動き出す。
ちょうど、風の向きも変わった。
雲の合間に漏れ出した光が、眼下の街を照らし始める。
もうすぐ太陽が顔を見せるだろう。
家々の窓が光を反射し、きらきらと輝く。
そんな光景に自然と胸が高鳴るのを感じた。
過剰になりがちな期待を振り払う。
それでも少しばかりの勇気まで消さないよう、「大丈夫」と繰り返し胸の中で唱えた。
私は大丈夫だ。
たとえこの街が、私達に優しくなくても。
◆
目が覚めた。
懐かしい夢を見た気がする。
目の前には毛玉があった。
合間に手を滑り込ませて突き出すと、布団から転がり落ちる。
「…さむ」
それはうつ伏せになったままボソッと呟く。
何だか哀れなので、起こしてやることにした。
「起きて。もう朝」
「んんー…」
不機嫌そうな声を漏らしつつ、それは芋虫のようにのっそりと起き上がった。
寝癖のついた髪は乱れに乱れ、陽炎のようだ。
弟とはいえ、流石に擁護しかねる。
「…ごはん」
「はいはい」
目を擦りながら立ち上がる。
徐に冷蔵庫からサンドイッチを取り出し、テーブルの上に乗せた。
「はい」
「えぇー、またか」
「ぜいたく言わないの。
作る方は大変なんだから」
嘘だった。
他のものを作れないのだ。
料理は苦手だった。
「たまには違うのがいいな」
言いつつも諦めたのか、弟は顔を洗いに洗面所へと向かった。
幼いだけあって聞き分けが良い。
「卵焼きくらいならできるけど、いる?」
「いる」
洗面所から水音に混じった返答が届いた。
仕方がない。
「ちょっと待っててー」
……程なくして歪な形の卵焼きが完成した。
「顔洗った?」
「うん」
髪型は陽炎のままだが良しとしよう。
「いただきます」
「いただきます」
この街に来て暫く経った。
ここに来てからの平穏は、その前とは比べものにならないものだった。
「ねえ、じかんはいいの?」
「え?」
時計を見ると十五分を指している。
電車の時刻にぎりぎり間に合うだろうか。
「やばいっ!」
食器を片付けて制服に着替えた。
身だしなみを整え、革靴を履く。
「いってらっしゃい」
弟は呑気にそう言った。
弟はたっぷりと時間に余裕があるが、四月から六年生の私はそうはいかない。
「行って来る。留守番してて」
「わかってる。…あ、言い忘れてた」
「えっ、何?」
聞き流したい所だが、弟はこういうときに限って大切なことを言うので、それをすると後で必ず後悔することになる。
「今日、このあと降るよ」
今朝のニュースでは一日中晴れだと言っていたが、こいつが言うんだから、きっと降るのだろう。
「きをつけてね」
「行ってきます」
忠告を耳に外へ出た。
この後何が起こるかも知らずに。




