第九話 退治できないわけがない。
彼の声はよく響く。
ぎゃあぎゃあと言い合いをしていたふたりの耳にもはっきりと届いた。
途端、ふたりの動きがぴたりと止まり、ほぼ同時にエドガルトを見上げた。
「だって、その痣の正体がなにかわからないの、嫌なんでしょ? だったら、それをつけた魔物を捕まえるのが一番いい」
「まっ、魔物を!?」
「大丈夫。安心してよ、君たちに捕まえろとは言わない。僕が捕まえてあげるから、案内してくれる? 闇雲に踏み込んで底なし沼に落ちたくないからね。道案内が欲しいんだ」
(命からがら生還したばかりだというのに、舞い戻れというの!?)
ツェラは内心で悪態をついたが、逆らう勇気はない。
「は、あの……それは……」
「大丈夫。そこのユリアン君にも同行してもらおう。危なくなったら彼にしがみつけばいい。そうしたら魔物は手を出してこないよ」
「し、しかし、エドガルト様の御身が危険に晒されてしまいます」
「そうです! 殿下の身にもしものことがあっては……」
優秀な魔法使いだということは知っている。
けれど、もし王子が滞在先の国で負傷するようなことになれば、国際問題に発展しかねない。ふたりは必至で止めようとした。
「寝ぼけたことを言わないでくれるかな? ツェラ、ユリアン」
エドガルトは柔和な笑みをスッと消し、底光りのする目でふたりを見た。
背筋が凍るようなその眼差しに射竦められ、ぐっと口をつぐむ。
「僕を誰だと思っているんだい? 甘く見ないでほしいな。こんなちっぽけな瘴気しか出せない魔物に僕が負ける? そんなこと日が西から上ったとしてもありえないね」
エドガルトは不愉快そうに鼻を鳴らし、腕組を組んだ。
「申し訳……ございません」
「失礼いたしました」
彼の気分を害してしまったかと、蒼白になり慌てて謝るふたりに、王子は「わかればよし!」と鷹揚に頷いた。
「で、案内してくれるよね?」
再び笑みを浮かべた笑う彼に、ユリアンとツェラは即座に頷いた。
彼がいれば魔物に殺されることはないだろうし、これ以上機嫌を損ねては大変だという打算からだ。
魔物に対する恐怖心より、エドガルトに対する恐怖心のほうが勝る。
「協力、感謝するよ。さぁ、では早速行こうか。もたもたしていたら日が暮れてしまう」
言うなりエドガルトは踵を返し、後ろに控えていた護衛に向かい、上機嫌で指示を出している。
なんでそんなに魔物退治に行くのが楽しいのか。
そもそも、なぜ一介の侍女のためにそこまでしてくれるのか。
ユリアンもツェラもわけがわからず、ただ黙ってエドガルトの姿を眺めていた。
すると、呆然とするふたりへ、護衛のひとりが近寄ってきた。
屈強な体格、それに似つかわしい厳しい顔立ち。歳は二十代後半だろうか。浅黒い肌が年齢をわからなくさせている。
男は申し訳なさそうな表情を浮かべて、ふたりの前に立った。
「すまないがよろしく頼む。エドガルト様の浮かれっぷりは気にしないでほしい。――殿下は魔物や生き物が好きでな」
彼はそう告げると、困ったものだと言わんばかりにかぶりを振った。
「いえ、どうぞお気遣いなく。殿下のお役に立てて光栄です」
上の空で返答しつつ、ツェラは理解した。
王子が魔物退治に乗り気なのは、単に趣味だからなのだと。
そして、楽しげに見えるのではなく、心底楽しんでいるのだと。
「じゃあ、行こうか!」
鼻歌でも歌い出しそうな王子の一言で、一同は森へと踏み出した。
――なにも私が行かなくても、私とユリアンの足跡をたどってくれと言えばよかったんじゃない!?
そう気がついたのはすでに工程を半分くらい過ぎたあたりだった。
今さら引き返すなんて言えない。ひとりで帰るのは怖いから。
すぐ後ろをついてくるエドガルトを恨めしく思いつつ、ツェラは涙目でため息をついた。
彼女を魔物から守るようにと繋がれたユリアンの手だけが頼りだ。
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一行は無言で森を進み、ほどなくして目的地へとたどり着いた。
地面を覆う木の葉は乱れ、泥はあがいた跡をそのままに残している。見間違いようもなかった。
地面に残った指らしき跡、ブーツが滑ったような一直線の跡。
一つひとつが先ほどのことを思い出させ、ツェラを嫌な気分にさせる。
(命を落としそうになったことだけでも充分嫌なのに、魔物も関わっていたなんて……)
「ここです」
黙りこくってしまった彼女に変わり、ユリアンが肩越しにエドガルトに告げた。
「んー。でも気配がまだ薄いなぁ。沼の奥深くに潜ってるのかな」
エドガルトは泥とも水たまりともつかぬ、濁った水面を見下ろしながら思案げに顎を撫でる。
「ね、ツェラ。ちょっと沼に足つけたりしてくれない?」
「はっ!?」
キラキラした顔で振り向きとんでもないことをのたまった。
「君の足を囮にして一本釣り! ……とかダメかな?」
困ったように小首を傾げられても、はいそうですかと頷けるわけない。
「それはちょっと……承服いたしかねます」
「えー! ……やっぱりダメかぁ」
断るとエドガルトは子どもっぽく唇を尖らせた。
そんな顔さえ様になってしまうのだから、美形というのは始末が悪い。ツェラは呑気にそんなことを考えた。
「申し訳ございません」
「一番手っ取り早いんだけどな。魔物って自分が一度狙った獲物にすごく執着するから」
「しゅ、執着?」
なんと恐ろしい! ツェラは「ひっ!」と喉の奥で悲鳴をあげ、ユリアンの腕にしがみついた。
「うん。だからね。臆病な雑魚でもホイホイ出てくるん……」
それまでにこやかに解説していたエドガルトの声が途切れた。
どうしたのだろうと思えば、彼の視線はツェラを通り越し、もっと遠くを見ている。
エドガルトの視線をたどり、後ろを振り向けば――
「ひっ! ぎゃあああああっ!!」
(見なければよかった!!)
ツェラは文字通り飛び上がって、ユリアンの背に隠れた。
細い枝に似た長い触手が、黒い沼から二本伸びていた。ツェラを襲いたいが、ユリアンが怖くて手が出せない。そう言いたげに、それは近づいては離れを繰り返し、ゆらゆらと揺れている。
もしかしなくても、さっきはあんなものに足を掴まれたというのか。そう思うと、今更ながらに気持ち悪くて身震いする。
嫌悪をあらわにする彼女を嘲笑うかのように、枯れ枝に似た触手は彼女に近づく。ぼたぼたと泥を落としながら迫ってくるそれに、ツェラはユリアンの外套をぎゅっとつかむ。
やはり、彼の存在が邪魔なのか、触手は手前で動きを止めた。苛立ってでもいるのか、ぶん、と音がするほど体をしならせている。
「ユリアン、ユリアン、どうしよう……」
「落ち着け。俺の後ろに。離れるなよ」
「うん」
ツェラを背にかばい、ユリアンは腰の剣をすらりと抜いた。
(次に襲い掛かってきたら切り落とす)
ユリアンは腰を落とし、剣を正面に構えると、油断なく魔物を睨んだ。
触手ばかりだと思っていたが、よくよく見れば水面すれすれに赤く光る眼がふたつ確認できた。
炯々と光るそれと目が合う。
緊迫した空気が流れた――
「ちょっと待った、ちょっと待ったー!! ダメだよ、ユリアン。あの子を傷つけないで!」
張り詰めた空気に割って入ったのは、慌てたようなエドガルトの声。
焦ってはいるが、緊張感は全く感じられない。
「殿下!?」
「あれは繊細で貴重な生き物なんだ。こんなところでそうぐうするなんて僕はなんて運がいいんだろう……」
エドガルトはうっとりとした顔で目を細める。
「さて。捕まえようか。危ないからふたりは下がっててくれ」
エドガルトはユリアンと位置を入れ替わった。
触手をうねうねとそよがせる魔物に向かって、エドガルトは右手をかざした。
「捕縛の茨」
魔物に向けた掌のあたりが白く輝き始めるや否や、彼の掌から光がツタのように伸びた。
茨のようにスルスルと、黒い触手に絡みついてあっという間に魔物の動きを制限する。
急に身動きが取れなくなって焦ったのか、魔物は「キシャアアア!」とかすれたような声を上げ、木に似た体をよじろうとしている。
「ほら。怖くない。怖くないよ。君を傷つけたりしないから。ね? 大人しくしてくれるかな」
まるで捨て猫を手懐けるように話しかけるエドガルトの顔は真剣みを帯びており、目にも真摯な光が満ちている。
唇に小さく浮かべた好戦的な笑みが、彼の自信と強さを現わしているようだ。
「そう……そうだ。いい子だね……」
彼が語り掛けるたびに、魔物の抵抗は弱まっていく。
「我が声に従え」
呪文を唱えた途端、魔物は「ギュウ」と断末魔にしては弱々しい声を上げ、体をぐったりと弛緩させた。
シュウシュウと水が蒸発するような音を立てて萎み、最後には成人男性の掌に収まるくらいの塊と変化した。
光を放つ茨を手に収めると、エドガルトはその黒い塊を大事そうに両手で包んだ。
「あの魔物は……死んだのですか?」
恐る恐るツェラが聞くと、エドガルトは首を振った。
「いや。今は力を使い果たして眠っているよ。僕の使い魔に下ったから、もう悪さはしない。二度と君を襲ったりしないから安心していいよ。その足の痣はただの痣だ。この子には呪うなんて力はない」
命を脅かされないと判明して、心の底からホッとした。へなへなと座り込みそうになる足を叱咤する。
「ありがとうございます! ほっとしました……!」
「礼は要らない。僕もこんな珍しい魔物を使い魔にできたしね」
エドガルトはそういうと、手の中の塊をそっと撫でた。
「この魔物はね、ティミドゥス・アルボルという。名前の意味は『臆病な木』だ。名前の通り臆病でね、いつもはこういう泥の奥深くでおとなしくしている。息を潜めるように生きて、人を襲うこともほとんどない。――ねぇ。それがどうして森全体に瘴気をまき散らし、君を襲うほど凶暴になっていたんだと思う?」
掌の塊から目を上げ、そう尋ねてくるエドガルトの眼差しは強く、嘘は許さないと言っている。
ツェラはごくりと唾を呑み込んだ。