第七話 あっ、やっぱり危機です。
「わかった。ならこうしよう」
言うなりユリアンはツェラを抱き上げた。
「ゆ、ゆ、ユリアン!? なにをッ!」
驚く彼女を馬に乗せ、自らも飛び乗る。
「しゃべる時間がないというなら、こうするしかないだろう。このままゆっくり南へ向かいつつ、話を聞く。で、ことによっては協力してやるし、看過できないと思ったら即座に城へ引き返す。この速度でも、おまえが歩くのよりは早い。どうだ、これなら文句はないだろう?」
確かにちょうどいい落としどころだとは思うが、それではユリアンを巻き込んだままになってしまう。
「だっ、ダメよ! ユリアンは早く戻って! でないと……」
「でないと、なんだよ?」
「それは……その……」
「ここまで巻き込んでおいてだんまりはないだろ」
ツェラの煮え切らない態度に焦れたのか、頭上から舌打ちが聞こえた。
「……言ったらきっと怒るわ」
「怒るかどうかは聞いてみなければわからない。――でも、怒られるようなことをした自覚はあるんだ?」
「一応は」
「怒られるから言わない? その程度の覚悟でこんなことしてるのか、おまえは」
違う。そうじゃない。本当は――……
口をつぐみうなだれたツェラを背後から見下ろし、ユリアンは仕方ないなと言うようにため息をつき、表情を緩めた。
「どうせ、俺に迷惑がかかるとか思ってウジウジ悩んでるんだろ? なんだかわからないが、ここまで同行しちまったんだからもう手遅れだろうさ。ほら、観念して吐け」
「どうしてわかったの?」
「おまえとは長い付き合いだからな。だいたいいつも考えなしに突っ走って、途中で我に返って後悔するんだよ。ほんっとに昔から変わらない」
あはは、と笑い飛ばされて、ようやくツェラの口元にも小さな笑みが浮いた。
「そっか。お見通しかぁ」
いつも明るくて、馬鹿なことばかり言っているが、いざとなると頼もしいし器も大きい。
張っていた気が、みるみる緩んでしまう。
「そうそう、お見通しだ。だから、ほら、早く」
「――あのね……」
ツェラは今までの出来事を正直に話し始めた。
ファーナ姫の婚約解消がうまくいかなかったこと、それを受けて姫が城からこっそり逃げ出したこと、そして彼女の逃亡を手助けするために追っ手を攪乱しようと画策したこと――ファーナとの合流場所を除いて、全てを話した。
ツェラの話を聞いているうちに、ユリアンの顔はみるみる青ざめ、険しい表情になっていく。全て聞き終えた後、彼は重たい口を開いた。
「ごめん、ツェラ。俺、おまえを助けてやれない。――戻ろう」
「見逃しては、貰えない?」
やっぱり駄目だったか、と思いつつ、ツェラは食い下がってみた。
「無理だ。知ってしまった以上、俺はおまえを連れて戻らなければならない。心配するな。悪いようにはしない」
悪いようにはしない。それが彼なりの優しい嘘なのはわかっている。
新米の言うことなんて、塵ほどの影響力もないだろう。戻れば厳しい尋問が待っているに決まっている。
「ごめんね、ユリアン」
「一緒に謝ってやるよ」
子どものした悪戯でもないのに、そんなことを言うのがおかしくて、ツェラはくすくすと笑った。
「ありがとう。――でも、戻るわけにはいかないの。ごめんね!」
言うなり、ツェラは馬から飛び降りた。
「うわっ!?」
下手をすれば馬に踏まれるなり蹴られるなりしたろうが、上手いこと受け身が取れたらしい。ごろごろと数回転がって起き上がり、そのまま目の前の森へ走った。
「よせ! ツェラ!!」
焦った声が後ろから聞こえて来たが無視した。狭い木立の間に入ってしまえば、馬では入って来られないだろう。
隠れる場所も多いだろうし、なんとか逃げおおせられるかもしれない。
そう思ってのことだった。
土地勘がないことが怖かったが、捕まるよりはマシだと思ったのだ。
闇雲に森の奥を目指して走った。
街道から見た限りでは、それほど大きな森には見えなかった。だが、見るのと実際歩くのでは大違いだった。
これならうまく隠れられそうだ。どこかにいい場所はないだろうか? と走りながらあたりを見回した。
どこからか湧水がしみ出しているのか、一歩踏むごとにびしゃびしゃと泥が跳ねる。腐葉土は柔らかく彼女の体重を受け止めるが、その上に積もった濡れた落ち葉が、彼女の短靴に不快に貼り付く。
と、踏み出した足がずぶりと地面に埋もれた。
「きゃ!?」
冷たい泥が靴の隙間から入り込み、気持ち悪さに小さな悲鳴を上げた。
どうやら深くぬかるんだ場所をうっかり踏んでしまったらしい。早く足を抜かないと。
後ろ足に体重を戻して引き抜こうとしたが、上手くいかない。はずみで、踏み出した足に体重をかけてしまったところさらに深く沈みこんでしまった。
「あ……あ……」
見下ろした足は泥水に埋もれ、周りからはぷくぷくと不気味な泡が浮かんでは弾ける。
「やだ……」
もう一度、後ろ側の足に体重を戻したが、埋もれた足は引き抜けず、それどころかバランスを崩して転びそうになり、思わず自由な足まで前に出してしまった。
運悪くそこも大きくぬかるんでいて、あっという間に身動きが取れなくなった。
「なに、これ? どういうこと?」
もがけばもがくほど体が沈む。
もがかなくても、ゆっくり沈む。
――底なし沼?
そんな単語が頭に浮かんだ。本で読んだことはあるが、実際に見たことはない。だから、これが本当に底なし沼なのかどうかはわからなかったが、窮地に陥っていることに変わりはない。
(助けを呼ぶわけにはいかないわよね。ユリアンに捕まっちゃうもの。自分で何とかしなくては)
すぐそこは硬い地面なのだから、なんとかなるに決まっている。
硬い地面に両手をついて体を上へ持ち上げたら何とかなりそうだ。最悪、短靴は脱げ落ちるかもしれないけれど、仕方ない。
意を決して、地面に両手をつき、腕に力を込めたものの、半ば泥と化した腐葉土はぬるぬると滑り、思うように体を支えられない。
何度試みても抜け出せないし、それどころか沈み込むばかりだ。
あがくうち、足首に何かひやりとした硬いものが触れた。
「うわ!? な、なに!?」
硬くしなやかな細いものが、彼女の足首に巻き付いた。どうやら足首に木の根が絡んでしまったらしい。
「やだ、気持ち悪っ」
振りほどこうともがくのがいけないのか、根はますます足にきつく絡みつく。
「ほ、ほどけない!?」
もがけばもがくほど拘束は強まるし、勢いをつけて抜け出そうとする反動か、ツェラを沼底に引きずり込むかのように、グイグイとしなる。
(どうしよう。このままじゃ……)
冷たい氷を当てられたように、胸がひやりと凍える。
こんなところで死ぬのかと、嫌な考えが脳裏に浮かんだ。
「ツェラ!!」
ユリアンの声が聞こえた。
「来ちゃダメ! 沼が……」
「ああ、知ってる。大丈夫だ」
ユリアンはゆるい斜面を慎重に下り、ツェラの近くまで来ると彼女に手を差し伸べた。
「掴まれ、ツェラ」
「どうして、ここがわかったの?」
「足跡をつけただけだ。驚くほどのことでもないさ。それより、早く俺の手に掴まれ」
差し出された彼の手は大きく、何よりも頼もしく見える。
おずおずと泥だらけの手を伸ばすと、待てないと言いたげなユリアンに手を掴まれた。
「待ってろ。すぐに引っ張り出してやるから」
「でも、木の根が絡みついて……」
抜けそうもないと言いかけた途端、足首の拘束が弱まり、次いでスルスルと解けた。
拘束が弱まる直前に、ぱちんと小さな衝撃が走ったので、どうやら根のどこかが折れたようだ。
「根がどうしたって? 足に絡んでるのか?」
「う、ん。絡みついてたんだけど、今、とれた」
「そうか。――じゃあ、引っ張るぞ」
言うなり、握られた手に痛いほどの力がかかる。
手に着いた泥のせいで滑りやすいが、どうにか体が抜け始める。
ズルズルと泥から抜けるたび、足に感じていたひんやりとした圧迫感が軽くなっていく。
「もう少しだから、頑張ってくれ」
「うん……ごめんね、ユリアン」
自分でも抜け出そうと力を入れているのだけれど、それがユリアンの助けになっているかは怪しい。
必死に自分を引っ張りだそうとしてくれるユリアンの姿に、泣きたくなった。
(さっき、森に駆け込もうとした私に、ユリアンは『よせ』って言ったよね。『待て』じゃなくて『よせ』って。つまり、この森が危険だということを知っていたのね)
なのに、自分は制止を振り切って飛び込み、迷惑をかけている。しかも一歩間違えれば、彼だって沼に落ちて命を失うかもしれないのだ。
(私、ユリアンに迷惑をかけ通しだわ。なのに、いつも……)
「なんで、優しいの?」
「あ……? そんなこと、今はどうでもいいだろ。話は後だ。ほら、もうすぐだっ――……うわっ!?」
「きゃあ!?」
抜けたはいいが、勢い余ってユリアンは後ろに倒れた。手をつないだままのツェラも、それに引っ張られ、ユリアンの体の上へ倒れ込む。
「よかった……!」
ユリアンは地面に寝転がったまま、ツェラを抱きしめた。泥水で背中が汚れるのも気にならない。
「あ、りがとう……」
「もうこんな危ない真似はしないでくれ。寿命が縮んだぞ」
「ごめんなさい」
「おまえが助かったから、もういい。謝るな」
そうして温かい胸の中に抱かれていると、助かったのだという実感と安堵が湧き起こってくる。
「怖かった……」
「うん。もう大丈夫だ」
恐怖を吐露する彼女を安堵させるように、ユリアンは抱きしめる腕に力を込めた。
「帰ろう、ツェラ」
「…………ん」
ふたりはゆっくりと立ち上がり、払えるだけの泥や落ち葉を払い落とした。が、それでも酷い格好だ。
「行こう」
差し出された手に、ツェラは無言で己の手を重ねた。
「手なんて繋がなくてももう逃げないわ。これ以上、あなたに迷惑かけたくないもの」
「そういうことじゃない。危ないから繋ぐんだ」
憎まれ口にそう返されて、彼女はうっすらと顔を赤らめた。
足跡を逆に辿り、街道へと戻る。
木々の間から、道が見えた時にはふたりとも安堵のため息を漏らした。
「はー! 戻れた」
明るい声で言い、ユリアンは大きく伸びをする。
「ツェラ、日が暮れないうちに行こうか」
ツェラに声をかけた途端――
「どこへ行くのかな?」
楽しげな声がかかった。
ふたりはぎくりと肩を跳ねさせて、恐る恐る声のしたほうへと目を転じた。
視線の先では、金髪の美丈夫がニコニコと微笑んでいる。
すっと細められた瞼の奥では翡翠色の瞳が輝き、彼の華やかな容貌を彩ると同時に、並々ならぬ気迫を感じさせる。
ツェラとユリアンの背を、得体の知れない寒気が這いあがった。